2. ハリス・スチュアート
白いブラウスにサスペンダー付きのベージュのハーフパンツを着た少年が、広い屋敷の中を足取り軽く歩いている。
柔らかな朝の日が差し込む屋敷はとても静かだ。
外からはさわやかな風が鳥の鳴き声と花の匂いを運んでくる。
ひと気のないがらんとした廊下を歩いているうちに、少年の足はだんだん速まり、ついに走り出した。
角に差し掛かったとき――
少年は角の向こうから現れた何かに思いっきりぶつかった。
跳ね返されて尻もちをつく。
「ライアンお坊ちゃま!廊下を走ってはいけませんと毎日申し上げているでしょう!」
降ってきた声の主は、見なくてもわかる。
「ハリス」
少年――ライアンがぶつかったのは執事のハリスだった。
朝早いにも関わらず黒い瞳は鋭く、執事服は皺ひとつ無く、白髪が混じり始めた黒髪はきれいに撫でつけられている。
まさに使用人の鑑だ。
「だけどこんなに広いのにゆっくり歩いてなんかいたらいつまでたっても姉さまのところに行けないじゃないか。」
差し出されたハリスの手を取って、ライアンは身軽に立ち上がる。
「しかしですな……」
ハリスが再び説教を始めようとしたとき、
「私を呼んだかしら?」
ハリスの背後から凛とした声が聞こえてきた。
「姉さま!」
「ルディア様」
ライアンはぱっと顔を輝かせ、ハリスはさっと姿勢を正す。
ライアンは黒衣のルディアに駆け寄る。
ルディアは自身の髪と同じ色をしたライアンの髪を優しく撫でた。
撫でながら、やんわりとたしなめる。
「ライアン、あまりハリスを困らせてはだめよ。」
口を尖らせてそっぽを向くライアン。ルディアはしゃがみ込んで彼の金色の目をまっすぐに覗き込む。
「それに、廊下を走るのは本当に危ないもの。ライアンが私に会うために走ってきて怪我をしたり人に怪我をさせたりしたら、私はとても悲しくなるわ。
だから、ね、お願いだから廊下は歩いてちょうだい。」
ライアンはやや不満そうな顔をしながらもルディアの目を見て頷いた。
ルディアは満足げに頷いて再びライアンの頭を撫でる。
それから傍らで畏まっているハリスを見上げて言った。
「ハリス、今日もありがとう。いつも頼りにしているわ。」
「もったいないお言葉でございます。」
ハリスは慇懃に頭を下げる。下げながら、心の中で呟いた。
――旦那様と奥様が亡くなられて、心成しかルディアお嬢様は変わられたような気がする。あまりご無理をなさらなければよいが……
そしてライアンの顔を見てこうも思う。
――ライアン様は髪や目の色こそ母君のメリサ様のそれを受け継いでいらっしゃるが、お顔立ちは幼き頃の父君ロデリアン様にまるで生き写しだ。
ハリスはこの数日、ぐるぐると同じ事ばかり考えていた。
自分がまだ少年と呼ばれる歳の頃に生まれそれからずっとお仕えしてきた主人が、自分よりも先に亡くなった。
頭ではわかっても、心はなかなか受け入れられない。
――私も年を取ったな。
時間は大事なものを増やしていく。
ハリスは自らを嘲笑うと同時に鼓舞した。
余計な考えは締め出して、今目の前にいる主人をお支えすることだけを考えるのだ。
ルディアはライアンの手を握ったまま立ち上がる。腰まである艶やかな黒髪が、朝の霞をさらりとかき混ぜた。
「今日は叔父様ご一家がいらっしゃる日だったかしら。」
見つめられるとどきりとさせられるような青い眼がハリスを見る。
「……、ええ、十五時頃にいらっしゃるご予定です。準備は万端に進めております。」
「そう、わかったわ。これからライアンが一人前になるまでオレオール家を守ってくださる方だから、くれぐれも不備のないようにしなければ。」
その姿は凛として美しい。
――もし、ルディア様が男であったなら……
ハリスはそう考えずにはいられない。
オレオール家の当主の座は、代々長男から長男へと受け継がれる。
女性や次男以降の子供が当主になることは基本的に許されない。
当主が死亡または引退したとき、たとえ彼に弟がいたとしても、息子がいる場合当主権は息子に渡る。弟に当主の座が渡るのは当主に息子がいなかったときだけだ。
さらに当主に息子も弟もいない場合のみ女きょうだいが当主の座につくことが認められるが、歴史上そのような例は未だない。
ただし亡くなった当主の息子が幼すぎて当主の任を務められないと判断されたときは、彼が当主となるに相応しい能力を身に着けるまで当主の弟が当主代理としてその権利を振るうことになる。
ルディアは優秀だ。その気になれば当主の仕事もこなせるくらいに。
はじめこそ苦労するだろうが一年も経てば立派に役目を果たすようになるだろう。
しかしルディアは女性だ。
亡き当主ロデリアンにはリガロという名の年子の弟がいる。
ゆえにライアンが一人前になるまでは彼がオレオール家を管理することになる。
代々の伝統はそう簡単に変えられるものではないし、世間の風潮というものもある。
そしてそれ以前にそれは一介の執事であるハリスがなんとかできる問題ではなかった。
ハリスにできるのはロデリアンの忘れ形見の傍について支えることだけだ。
「お祖母様はもうお目覚めかしら。」
ルディアの声にハリスは顔を上げる。
「ええ。少し前に朝食をお取りになって、庭園へ散歩にいらっしゃるとおっしゃっていましたよ。」
ハリスの答えを聞いて、ルディアは年相応の笑顔を見せた。
「私もお庭を散歩しようかしら。今日はいいお天気だし、きっと春のお花が綺麗でしょうね。」
空はルディアの瞳と同じ色に晴れ渡っている。
「ぜひいってらっしゃいませ。」
楽しそうに笑い合いながら庭園へ向かう姉弟の背を、ハリスは静かに見送った。
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ハリスは代々オレオール家に使える使用人スチュアート家の血筋です。このときはまだ、ちょっと偉めの執事といったところ。数年後に勤続50年を認められて執事総括になります。




