第30話 翌朝
六月二十五日、朝の四つ時(およそ午前十時)。
「――これで本当に良かったんでしょうか?」
稲荷神社を掃除していた輝斗が社に向かって話しかけた。
「犯人を突き止めることができましたけど、今回の件って解決しない方が正解だったような気がするんですよ。今さら言っても仕方がないことなんですけれど」
もし、目の前のお稲荷様が何かしらの目的を持って輝斗を江戸時代に連れてきたとしたのなら、今回の殺人事件を解決して欲しいという意図があったのかもしれないと、彼は漠然と考えていた。しかし、事件が解決したことで、稲荷神社を大切に扱ってきた女の子が不幸になってしまった。だとしたら、お稲荷様の行動はありがた迷惑になってしまったのではないか。
「神様が人間なんかにお気持ちを表明したりしませんよね……」
こう呟いて、彼は再び掃除に戻った。
(探偵ってのは人が隠していることを暴くことがあるから、決して褒められた仕事じゃない。本当にその通りだよな)
輝斗は現代時代の探偵事務所の所長の言葉を思い出した。隠しごとを暴いたせいで、強い罪悪感を覚える羽目に陥ってしまったのだ。
(必要とされているから仕事が舞い込んでくるって所長は言っていたけど、本当に必要なのかな、この商売って?)
考えれば考えるほどに自信がなくなってくる。
そんな風に悩みながら掃除をしていると、遠くから輝斗を呼ぶ声が聞こえてきた。
「輝斗さん、こんなところにいましたか」
やってきたのは琴姫であった。目を赤く腫らしている以外は普段通りの彼女に戻っている。
「お咲さん? オレに何か用?」
輝斗は手を止めて姫君の方に目線を送る。呼び方を変えようかとも思ったが、正体を隠すのが清五郎とお亀の望みだろうから「お咲」の名で呼び続けるべきだと彼は決めていた。
「親分がいらっしゃっています。輝斗さんに会いたいそうなのですぐに戻ってください」
「あの人も大変だね。昨日の夜からほとんど働きっぱなしなんじゃないかな?」
清五郎とお亀が自首をしに訪れた時、岡っ引きの藤次は激しく動揺をした。まさか子分とその妻が犯人だとは思いもよらなかったのだろう。というか、夫婦ということすらが偽物だったなんて想像すらしていなかったようだ。
それでも彼は冷静に事情聴取を実施した。その上で町奉行所の同心にきちんと正確に報告することにした。この件はできるだけ内密に済ませるようにお願いをしながらで。
輝斗はここまで知っているが、町奉行所が実際にどのような対応をしたのかまでは分かっていない。
「親分が待っているのなら行くべきだよね」
彼は掃除を中断して、湯屋の方へ歩き始めた。
お咲もその後ろからついて行く。
(やりにくいなあ……)
悪いことをしたというわけではないのだが、輝斗はお咲に対して負い目を感じていた。
「――私のことは気にしないでください」
「え?」
「輝斗さんは何も間違ったことをしていません」
まだ真っ赤なままの瞳で、彼女はしっかりと輝斗のことを見つめる。
「どんな仔細があるにせよ、おっ父さんとおっ母さんが悪いことをしたのは確かなことになりますので」
「お咲さんにそう言ってもらえて、少し心が楽になったよ」
輝斗は素直に本心を述べた。今の言葉のおかげで、胸の奥につかえていたモヤモヤが少し晴れたような気がしたのだ。
「おう、輝斗。昨日はご苦労だったな」
湯屋の一室で座っていた藤次が片手をあげる。
「お待たせしました親分。見るからに寝てなさそうですけど、お体は平気ですか?」
相手を心配しながら、輝斗も腰を下ろした。その隣にお咲も着座する。
「のんびり寝ている場合じゃねえ。昨晩からずっと走り回りっぱなしよ」
「やっぱりそうなりますよね」
「ひと息ついたから、この後は家に帰ってゆっくり休むさ。――で、ここの奉公人たちはどうしている?」
「湯屋がお休みになったから、みんなのんびりと過ごしていますよ」
藤次の指示で、神田相生町の湯は臨時休業となった。主人とその妻がいなくなったのだからまともに営業できるはずがないからだ。
二人がいなくなった理由は「上方にいる親が亡くなったから二人で葬儀に出かける」ということにした。とってつけたような微妙な言い訳ではあったが、どうやら奉公人たちは納得してくれたようである。
「奉公人連中を食わせていかなきゃならねえから、いつまでも店を閉めておくわけにはいかねえ。どうにかしねえとな。とりあえず、その話は後回しにして徳兵衛たちの話をするぞ」
岡っ引きが目元を軽くこすってから、煙草に火をつけた。
「此度の件は八丁堀の旦那もどう扱ったものか頭を痛めているようだ」
「善左衛門さんと長八さんは清五郎さんの父親を殺したわけだから、仇討ちの扱いですよね? 仇討ちなら天下御免のはずです」
江戸時代の法律を思い浮かべながら、輝斗が発言する。
「仇討ちなら自ら届け出なければならねえが、肝心の浦谷家は既になくなっているわけだから、どこにも届けられねえ」
「そうか、本当に仇討ちになっているのかどうか証明することができないんですね」
「こうなると無罪放免というのは難しいとのことだ。八丁堀の旦那の話では」
困り顔で藤次が煙を吐き出す。
「じゃあ、おっ父さんとおっ母さんはどうなるのでしょうか?」
身を乗り出しながらお咲が尋ねる。
「殺された二人の身元が調べられている。それ次第らしい」
「それ次第とは?」
「江州かその近辺の出自だったら、徳兵衛の話が正しかったということになる。お上からの裁きも寛大なものになるだろう」
「もし、違っていたなら?」
「話が嘘だったということで、厳しい処罰が待っているだろうな」
「そんな……」
最悪の事態を想像してしまったのか、彼女が涙ぐんでしまった。
「平気だよ、お咲さん。善左衛門さんと長八さんは江州の出だって文湧堂の人が言っているんだから」
「輝斗の言うとおりだ。だから、まかり間違っても死刑のお裁きが下されることはねえだろうよ」
彼らの言葉を聞いて安堵したのか、お咲の口元に小さな笑みが浮かんだ。
「文湧堂の主人の方は、江戸に来てからはその名の通り善人になってよく働いたようだが、長八の方は悪人のままだったようだな。お咲ちゃんを拐かして女衒に売っ払うなんて考えを起こさなければ無事に生きていられただろうに」
「お咲さんを誘拐するということを思いつかなくても、かつて悪いことをしたんだから、どこかで罰が下ったかもしれませんよ。心を入れ替えた善左衛門さんはちょっと可哀想だったかなとも思いますけど」
「文湧堂の連中には悪いが、誰が主人を殺したのかを教えるわけにはいかねえ」
「内密の話ですもんね」
「下谷の岡っ引きが無能と思われるだけだ。安いもんだぜ」
親分が自嘲めいた表情になる。
「ともあれ、文湧堂は商売を再び始めているぜ。お内儀のお朝が切り盛りしてな。主人の手腕には及ばねえだろうが、番頭の正助さんが上手いところ支えるだろ」
「お内儀さん、ご主人の死から立ち直ったんですね。良かった――」
気になっていたことなので、輝斗は安堵する。
「幼い秀松が大きくなったら店を継がせるんだろうが、それまではお内儀が前に出て頑張らなきゃならねえな」
文湧堂の面々だけでなく、関係者たちはそれぞれに日々の生活に戻っていくのだ。
式亭三馬は新たな物語を執筆しつつ自らの店を切り盛りしていく。長八が住んでいた長屋の家主は住民たちの素行に気を配り続ける。芳町の桂哉は様々な客の相手を続ける。僧侶の俊善は過去にわだかまりを残しながら念仏を唱えていく。
「めでてぇ話もある。奉公人の新平とお時が結婚するって話だ。新平が一人前になってからになるだろうから、まだしばらくはかかると思うが」
「あの二人の仲が店で認められたんですか」
「そういうこったな。文湧堂のことはさておいて、神田相生町の湯のことを話すべえ」
煙管をくわえながら藤次が言う。
「主がいなくなったからといって、お咲ちゃんをここから追い出すのは忍びねえ。幼い頃からずっと見てきているわけだしな」
「お咲さんを追い出すとか親分が言うのなら、さすがにオレも異論を唱えますよ」
「そんなことを言うわけねえだろうが。輝斗、おめえがこの神田相生町の湯の主になれ」
「はい?」
予想外なことを言われて、輝斗が間の抜けた声を出す。
「オレって湯屋のことをほとんど分かっていませんよ。木拾いすらまともにできませんし」
「その辺りは奉公人に任せて、おめえはじっくりと学べ。徳兵衛の奴も初めは湯屋のことを全く知らなかったのに何だかんだで立派に務めたぜ。お咲ちゃんも両親の仕事を間近で見てきているわけなんだから、分からないことがあったら頼れ」
「そうは言っても……」
「お咲ちゃんを湯屋の主にするって案もあるけど、まだ白歯の娘さんを据え置くわけにはいかねえだろ」
「湯屋のあれこれを既に知っている人を連れてくるというのは?」
「そうそう都合良く見つかるわけねえだろうが」
「はあ、なら頑張ってみます……」
渋々ながら輝斗は頷いた。正直なところ不安しかないのだが、腹をくくるしかなさそうである。
「奉公人たちの中で納得いかない奴が出てくるかもしれねえが、そこは俺がきちんと説いて回る。輝斗がお咲ちゃんと結婚してくれたら、その手間が省けるんだがな」
「嫌ですよ! どうしてそんな話になるのでしょうか!」
お咲が早口で岡っ引きに食ってかかる。
「オレとしてもちょっと困るというか何というか……」
「ちょっと! 私じゃ不服だと言いたいんでしょうか?」
「だって、妹と同い年と思っていたら実は一歳下だったわけだし。あ、学齢だと同学年の早生まれか。――って、どうしてお咲さんが怒るの? おかしいでしょ」
「そんな言われ方をしたら不本意にございます!」
「納得いかないぞ……」
不毛な言い合いを始めた若い二人を呆れた目で見ながら、藤次は煙管の火皿から灰を落とした。
「夫婦になるかどうかはそちらで決めてもらうとして、ともあれ神田相生町の湯は任せたぜ」
煙管を懐に入れて彼は部屋から出て行った。
「…………」
「…………」
残された二人の間に気まずい雰囲気が残ってしまっている。
それを打破すべく、輝斗が口を開いた。
「親分に聞きそびれたんだけど、オレって岡っ引きの仕事の手伝いも続けていくんだよね?」
「おそらくはそうなると思いますよ」
赤らめた顔をそっぽ向かせたまま、お咲が答える。
「となると、やりたいことが一つあるかな」
彼はそう言って筆と大きめの紙を準備した。そして、のびのびと大きく筆を走らせる。
「よしっ」
輝斗としては自画自賛したくなる出来映えである。
「――何を書いたのでしょうか?」
お咲の方は不審そうな目で紙を覗いている。
そこには楷書で「神田相生町探偵事務所」と書かれていた。
「岡っ引きの仕事って探偵の仕事みたいだからさ、気分を出そうかなと。何だかんだで世間で必要とされる商売なんだし、堂々としていたい」
「何を言っているのかさっぱり分かりません!」
「分かってもらおうとは思ってないよ。ただオレがやりたかっただけのことだし」
「これをどうするつもりなんでしょうか?」
「どこかに飾っておきたい」
「――見る人が驚くからやめてください」
「そうかな? 風景の一部くらいに思ってもらえるんじゃない?」
二人で話していると、さっき出て行ったばかりの藤次が頭をかきながら部屋に戻ってきた。
「家に帰って寝たかったんだが、すぐそこで相談事を受けちまってな。早速で悪いが輝斗も手伝ってくれ。人殺しってわけじゃねえから、そこまで手間がかかることは……。なんだそりゃ?」
岡っ引きが不思議そうな顔で畳の上の紙を見る。
「ほら、案の定」
お咲がしたり顔で輝斗に言う。
「そんなに引っかかる言葉かな?」
「知らない言葉を読んだら、誰だって考えちゃいますから」
「うーん、難しいなぁ」
そんな二人を横目に、藤次は座り込んで煙管を取り出した。
「仲良くやっていけそうで何よりだ。じゃあ、事件の話を始めるぜ。昨日の夕方、池之端仲町(東京都台東区)で若い娘三人が歩いていると――。おい輝斗、ちゃんと聞いているか?」
「はい、大丈夫です。自称探偵事務所開業後の初仕事なんですし、パパッと解決しちゃいます」
「――使える男なのは相違ねえんだが、どうにも心配なんだよなぁ」
岡っ引きの親分は物憂げにため息をつくのであった。
これにて完結です。
ここまでお読みいただきまして誠にありがとうございます。
新作もボチボチ執筆中なので、また近いうちにお目にかかりたいと思います。
遅筆なのでいつになるのかは不明ですが……。




