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第29話 自供

 六月二十日。


 この日、清五郎は湯屋の仕事の絡みで本町へ来ていた。


 夜になってやっと用件が終わったので、人通りがなくなった道を歩いて神田相生町へ帰ろうとしていた時だ。道ばたで眠り込んでいる男を見つけた。


 清五郎は親切心でその男を起こして介抱してあげることにした。男はひどく酔っ払っていて、起こされた後も支離滅裂なことを口走り続けていた。


 酔っ払い男と一緒に道ばたに座り込んで、バカバカしい話を聞き流していた清五郎だったが、耳を疑うような話が出てきて驚愕した。


「わしは江州浦谷家の若様を守ったんや!」


 この話を知っている者は限られている。清五郎は酔っ払いの話に相づちを打ちつつ、詳しい話を引き出そうとした。


(此奴、あの時の賊の一人か)


 清五郎はそう結論を下した。襲撃事件の詳細を正確に話せる生き残りで、奥宮家に関わりがないのは破落戸たちしかいない。


 ふつふつと怒りがわいてきたが、その気持ちは心の奥に封じた。今さら復讐したところで死者は蘇らないのだから。


 いったんは感情を抑え込んだ彼だったが、次に出てきた言葉だけは看過できなかった。


「あの時の姫様が生きていたんや」


 誰にも知られたくなかったこと。琴姫の消息を酔っ払いは気づいていたのだ。


 清五郎は慎重に姫様の話を聞き出した。


「どうして生きているって知ったんだ?」


「たまたま見かけたんや。見間違えなんかじゃない。神田の湯屋の娘として生きてやがった」


「間違いないのかい?」


「わしは若様を守る任に就いていたんやで。見違えるものか」


「そうは言うが、昔に見た赤子の顔なんて覚えていないだろう」


「配られた人相書きを穴が空くほど見ていたんやから間違いない」


(人相書きまで与えられていたのか)


 襲撃が用意周到に準備されていたということを、今更ながら実感する。


 驚く清五郎にさらなる追い打ちが続く。


「さらって女衒ぜげんに売り払えば大金になるで。町人や百姓の娘が三両(二十四万円)とか五両(四十万円)。武家の娘なら十両(八十万円)二十両(百六十万円)。だったら、交代寄合の姫様なら百両(八百万円)の値は付くやろ」


 なんと、酔っ払いは琴姫を誘拐する計画を立てていたのだ。どうやって本物のお姫様だと証明するつもりなのかは不明だが、彼は本気で考えているようであった。


「この長八様がおいしい話を善左衛門の奴に持っていったってのに、あの野郎尻込みしやがって。かつて一緒に戦った仲間同士だってのに情けない」


「善左衛門とは誰だい、長八さん?」


「神田松下町で文湧堂って地本問屋をやってる奴だ。店が傾いているってのに意地をはりやがって、こんちくしょうめ」


「善左衛門さんの他にも今の話を誰かにしたかい?」


「誰にも話してへんわ。だからお前ぇも黙っといてくれ」


 こんな恐ろしい話を平気で口にするのだから、長八は完全に我を失うくらいに酔ってしまっているようだ。


 清五郎はこれ以上の話は無用と判断した。岡っ引きの親分には申し訳ないが、人殺しをしなければならないと彼は決めていた。


「長八さん、声がかすれてきているが、ひょっとしたら喉が渇いてないか?」


「おう、水を飲みたいと思っていたところや」


「じゃあ、一緒にすぐそこの川まで行こう。長八さんは相当に酔っているから一人じゃ危ない」


「それは心強い」


 水辺まで長八を連れ出すことに成功した清五郎は、旧い敵の顔を水面に力任せに押しつけた。相手は暴れて抵抗したが、しょせんは酔っ払い。難なく窒息死させるができた。長八の死体はそのまま川に流した。


 次にやらなくてはならないのは、琴姫のことを知った善左衛門を殺すことだ。誘拐に否定的だったらしいが、口を封じるためには仕方がない。長八と仲間同士ということは奥宮家を襲撃した破落戸の一人であろうから、清五郎の良心は特に痛まなかった。


 琴姫の秘密を守るためにもう一つやることがあった。長八がどこかに彼女のことを書き残しているかもしれないから、家の中を調べなければならない。


 そこで清五郎は、近くの家の軒先にぶら下がっていた旅装束を盗んだ。それを身につけて、近江から長八を訪ねてきた旅人に扮した。


 この変装は上手くいった。すぐに長八の家を探し出すことができたのだ。清五郎は家の中をあらためて、ありとあらゆる紙を盗み出した。長八は琴姫のことを一切書き残していなかったから、これは清五郎の徒労だったわけだが。


 旅装束を処分してから、神田相生町の湯に戻った清五郎は姉に全てを告げた。そして、文湧堂の善左衛門を殺した後に、琴姫のことを伏せたまま自首するつもりだと話した。


 これを聞いたお亀は涙を流して止めた。偽の父親とはいえ、そんなことをしたら琴姫が悲しむ。そして、人殺しの娘という烙印を押されてしまっては、彼女の将来に大きな禍根を残してしまう。せめて姫君が幸せな結婚をするのを見届けるまでは捕まらないで欲しいと。


 姫君を持ち出されて、清五郎の決心は揺らいだ。善左衛門を殺すことを撤回するつもりはないが、その後に逃げ切る方法を考え出すことにした。一人で全ての罪を背負う覚悟だった時は、堂々と正面から殺して自身番に身を預けるつもりであったが、人目がつかない手段を探さなくてはならない。


 全く思いつかなかったが、お亀が「じっくり考えればきっと上手くいく」と言うので、善左衛門殺害計画をいったん保留にして、眠りにつくことにした。誰かに犯行を気づかれることがあったらすぐに二人で自首をするということを姉と約束を済ませてから。


 翌二十一日の朝、清五郎は男湯の湯船に犬の糞をこっそりと放り込んだ。これで店は休みになるので、自由に行動できるようになる。


 といっても、しばらくは店の清掃の指揮を執らなくてはならないので、すぐには動けない。奉公人に指示を出しながら、どうやって善左衛門を殺そうか思案していると、近所の井戸端で人殺しがあったと灰買の与介が呼びにきた。


 急いで駆けつけると、琴姫が現場を見張っていた。倒れていた二人のうち生きていた方を縛って自身番に預け、ついでに姫君も番所へ送り出した。


 現場に一人残った清五郎は、死体の所持品を検めた。すると、懐に手紙が入っていた。幸いなことに血をそんなに浴びておらず、難なく読むことができた。


 その手紙を読んで、清五郎は衝撃を受けた。文湧堂の蔵のことが書かれていたからだ。


 死体になってしまった左官の銀三は、文湧堂の蔵に細工をして大金を盗み出した。その情報を誰かに売り飛ばすつもりだったのだ。自分自身が二度目の盗みに入ることはせずに、情報で稼ごうと思っていたようである。


 この情報は清五郎にとって僥倖であった。この蔵の情報を盗みに使うのではなく、殺しのために使うことを思いついたのだ。清五郎はこの手紙については誰にも伝えず、存在そのものを秘匿した。


 その後、井戸端での殺人事件は、縄で縛られていた輝斗が真犯人を捜し出した。そして、横浜から来たという無宿人の身柄を清五郎が預かることになった。


 居候に部屋を与えてから、清五郎は善左衛門殺しの計画を進めていった。


 まず、善左衛門を蔵の中におびき寄せるために、長八になりすまして手紙を書いた。長八の家から盗んだ手紙を使って彼の字に似せた。姫君のことをほのめかす内容を書いたのだから、善左衛門は必ず蔵に来ると確信できていた。


 手紙を書き終えた後、近所の道端で物乞いをしていた少年に清五郎は小銭を握らせた。吉原からの文使いと名乗って、文湧堂の主人に手紙を渡すことを依頼したのだ。


 そして、手紙で指定した夜の五つ(およそ午後八時)の少し前に、清五郎とお亀の二人は文湧堂の庭に忍び込んだ。


 清五郎は一人で十分だと言ったのだが、姉は手助けをどうしてもしたいと譲らなかったのだ。


 二人が庭の物陰から蔵の入り口を見張っていると、一人の巨漢が中に入っていった。善左衛門が手紙につられてやってきたのだ。


 奥宮姉弟はすぐさま計画を実行することにした。蔵の裏に隠されているハシゴを取り出しに向かう。ハシゴのことは、銀三が残した手紙に書き記されていた。


 蔵の外壁にハシゴをかけてのぼり、二階の窓に手をかけた。窓に鍵はかかっていないから、これはすぐに開けることができた。窓の中にある格子の一部は糊付けされているだけなので、簡単に外せた。糊付けされた理由は、銀三が侵入口の発覚を遅らせるためにした工作だったのだが、文湧堂の誰もが気づいていなかったので盗人の計算通りであった。もちろん、殺人を企てている清五郎とお亀にとっても好都合だった。


 格子を外して蔵の中に入り、梯子段を降りていくと、階下には善左衛門が扉の前に立っていた。梯子段の方に背を向けてだ。


 地本問屋の主人の背後から襲いかかった清五郎は、敵の背中に脇差しを突き刺した。しかし、一撃で仕留めることはできなかった。襲撃の直前、梯子段からの物音に気づいた善左衛門が振り返りかけたので、狙いが急所から逸れてしまったのである。


 襲われたことに気づいた善左衛門は、傷を負いながらも必死の抵抗を試みた。しかし、清五郎は武器を持つ強みを生かして、地本問屋の主人を何度も刺した。お亀も二階から降りてきて、弟の加勢に入った。


 まもなく善左衛門は床にうつ伏せ状態で倒れて動かなくなった。血が体外へ大量に流れ出てしまったからであろう。


 まだ息が残っていたので、確実に絶命させるために首の後ろに脇差しを突き立てることにした。この役目はお亀が担当した。積年の恨みを晴らすことができたからなのか、彼女の目の奥には昏い喜びの光が宿っていた。


 文湧堂の主人が琴姫のことを紙に書いているかもしれないという危惧もあったが、これについては諦めることにしていた。蔵の中にある膨大な紙を全て運び出すのは到底不可能な話であったし、店の中に忍び込むのは奉公人に見つかる恐れある。書き置きを消滅させることができる唯一の手段は蔵と店に火を放つことであったが、無関係な人々を巻き込むことを姉弟は好まなかった。書き置きが出てきたときは素直に諦めると決めていた。結果として、善左衛門は何も書き残していなかったので琴姫の秘密は守られることになったわけだが。 


 善左衛門の死を確かめた後、姉弟は一階の出入り口から外に出た。犯行発覚を少しでも遅らせるために内扉と外扉を閉めておいたが、外扉の錠は手にしていなかったので掛けられなかった。蔵の中を探せば見つけられただろうが、その時間がもったいないと思ったのだ。


 蔵の中で争った時の音が漏れたかもしれないと危惧したが、誰も様子を見に来ないので、気付かれていないと判断した。


 蔵の外壁に掛けていたハシゴを持って、清五郎とお亀の二人は庭を横切って塀を目指した。塀にハシゴをかけて姉弟は文湧堂の敷地から脱出した。犯行に使った脇差しと返り血で汚れた着物は近くの川に投げ捨てた。あらかじめ着替えは準備していたので、それを身につけて家路を急いだ。


 町木戸が閉まる前の犯行だったので、二人は何の問題もなく神田相生町の湯に戻ってくることができた。仮に何らかの事情で木戸が閉まるまでに間に合わなかった場合は、夜鷹(私娼)と妓夫ぎゅう(用心棒)の振りをして夜を明かすつもりであったが、その必要はなかった。


 湯屋に戻ってきたときの物音を琴姫に聞かれていたが、大きな問題にはならなかった。彼女がネズミの音だと勘違いしたからだ。


 一連の殺人事件について、岡っ引きの親分から捜査の指示を受けた清五郎は心を殺しながら最低限の務めを果たした。犯行のことが露見しても構わないと考えてはいたが、自分自身から罪の告白をする気は起きなかった。ひとえに琴姫の将来を考慮したことに起因する。


 だがしかし、受け入れた居候に真相が看破されてしまった。清五郎としては誤魔化そうとする考えなんて一切思わず、むしろ受け入れることで大きな安寧を得ていた。




「これでワシからの話はお終いや」


 胸の内に秘めていた話を全て話し終えた清五郎が大きく息を吐いた。


「……告白していただきましてありがとうございます」


 輝斗は低く頭を下げる。清五郎の話に圧倒されてしまっていたので、こうとしか言えなかった。


「じゃあ、町木戸が閉まる前に親分のところへ行こうか。輝斗が付き添うてや」


 清五郎がおもむろに立ち上がった。そして、襖の方に声を掛ける。


「というわけや。しばらく留守番を頼んだぞ。あと、盗み聞きは行儀が悪いさかい控えなさい」


 すると、襖が静かに開いた。襖の向こうでは廊下に座って涙を流しているお咲、いや琴姫がいた。


「――私のおっ父さんとおっ母さんは神田相生町の湯の二人だけだからね」


 こう言われて、偽の父親が少し困った顔になる。


「おっ父さんとおっ母さんが帰ってくるまで私はずっと待っているから」


「そうか……。なるたけ早う戻る」


「ありがとう、ここまで育ててくれて」


「こちらこそおおきに……」


 廊下に座っている少女に頭を下げながら、清五郎が部屋から出て行った。


 輝斗も立ち上がって彼の後を追った。


「……ごめん」


 琴姫に軽く頭を下げて謝る。


 男二人が去っていった後も彼女は一人ずっと涙を流し続けた。

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