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第20話 しゃも鍋屋

そば屋を出た後、輝斗と藤次の二人は長八の行きつけというしゃも鍋屋に向かった。


 お咲は、藤次が家に帰らせた。女が立ち入るような店ではないと彼は告げたのだ。


(ああ、なるほど。明らかに女性が来るような店じゃない)


 しゃも鍋屋に入って間もなく、輝斗はこう思った。


 客層が非常に悪い。すぐにでも喧嘩を始めそうな男たちばかりだ。というか、既に酔っぱらい二人が顔を近づけて怒鳴り合っていて、他の客が周囲で煽り立てている。


 そば屋の客層もあまり褒められたものではなかったが、輝斗たちは二階の座敷に上がったので特に気にはならなかった。


 すっかり怯えまくっている輝斗とは対照的に、藤次は平然としたものだ。注文を終えてから、隣席の客と雑談を始めている。


「夕方でもまだ暑いってのに、ずいぶんと客が入っているじゃねえか。どいつもこいつも、そんなに鍋を食いてえのかい?」


「世の中、変わり者が多いってこった。おめえもその一人だろ?」


 右腕に椿の花の彫り物を入れた男が薄く笑う。


「違えねえな。ただ、俺たちはそこまで鍋を食いたいわけじゃなくて、人を捜しているんだ。室町の長八って男を知らねえかい?」


「長さん? この店に通っている奴はみんな知っているだろうさ」


 早速当たり引いたので、藤次が少し前のめりになった。輝斗の方は騒々しい店内で二人の話を聞き漏らさないよう耳を傾ける。


「有名なのかい?」


 ごく自然な口調で岡っ引きが彫り物の男に尋ねた。


「そりゃあ、ホラ吹き長さんと言えば、ここらじゃ評判だぜ」


 相手は笑いながら答える。


「ホラ吹き?」


「酒が回るといつも大層なホラ話が始まるんだよ」


「どんなホラ話なのか聞かせてくれねえか」


「話はいつも同じ。その昔、長さんは武士だったって話さ。元武士がどうして鋳掛屋なんかやってるんだか、バカバカしい」


 ここで輝斗と藤次の席にお酒が届いたので、話が中断してしまった。


 話の続きを聞きたいという気持ちを抑えつつ、輝斗は杯に口を付ける。


(これは酷い……。江戸の人が大金を払ってでも下り酒を求めるわけだ)


 おそらく地廻りの酒の中でも品質が悪いものなのだろう。酸味と辛味が舌に鋭く突き刺さる。米由来の味も残ってはいるが、雑味が強くて味の均衡が全く取れていない。後味も悪く、甘味がいつまでも口の中に残る有り様だ。


 世の中には安く酔える酒を好む人間もいる。現代でも手軽に酔える安酒も人気があるわけだから、江戸でもこういった悪酒の需要もあるのだろうが、輝斗としては勘弁願いたい。


 彼が閉口していると、藤次はチロリを先ほどの椿の男に向けた。


「酒をおごるから、長さんのホラ話とやらを詳しく聞かせてくれねえか」


「ありがてえ。ご馳走になるぜ。――てえした話じゃねえ。長さんが武士だった頃、不心得者から若様を守り抜いたってホラ話さ」


「何でい? その若様を守ったって話は?」


「昔々のお話。不心得者が若様を襲ったんだとさ。若様の守る役目に就いていた長八さんの大活躍で、若様は助かった云々かんぬん。奴さんが酔ったらいつもこの話なもんだから、この店に通っている連中は誰もが覚えちまっているぜ」


 嘲るよう言って、男は杯を大きく傾けた。


 すると、別の男が会話に加わってきた。


「おいおい。長さんのホラ話をするなら、決め台詞を忘れちゃいけねえぜ。『江州浦谷うらたに家に長八がいる限り、何人たりとも悪事は為せぬ』ってな」


「おっと、忘れていたぜ。どっかの芝居小屋で覚えた台詞なんだろうな」


 常連客二人が大声で笑う。


「そっちの兄ぃにも酒をおごるから教えてくれ。長八が江州浦谷家って言っていたのは本当なのかい?」


 藤次がもう一人の男にチロリを向けた。


「長さんがいつも言っていたんだから間違いねえ。お取り潰しをくらった家をわざわざ選ぶたあ、よく考えたもんだぜ。確かめようがねえもんな」


「うむ、潰れた家のことなんて調べようがねえな。で、そのホラ吹き長さんの居所を知らねえか? 俺たちは捜しているんだ」


「ちょっと前の夜にここで会ったぞ。いつも通りベロンベロンに酔って、いつも通りホラを吹いていたな」


「そいつぁ何日前の話でい?」


「何日前かって? ええと、夜に雨が降ったのは一昨日だっけか? その前の日だったから三日前だな」


廿日はつかか。長さんがここで飲み食いしていたのは、七つ(およそ午後四時)過ぎの話で違えねえか?」


「ああ、六つの鐘が鳴ってから(およそ午後六時)、フラフラになりながら店を出て行ったな」


「その後は見かけてねえか?」


「ああ、少なくとも俺はな。お前さんはどうだい?」


 椿の彫り物の男も長八を見ていないと答えた。


「そうかい、じゃあ俺たちは別のところで長八を探すぜ。色々と教えてもらって助かった」


 藤次が礼を述べたところで、注文していたしゃも鍋が届いた。


 岡っ引きの親分と子分の前にそれぞれ火鉢が置かれて、その上に小さな鍋が乗せられる。


(すき焼き?)


 褐色の液体を見て、輝斗はこう連想した。


 箸をとって肉を口に運んでみると、やはり甘辛い味付けで、現代のすき焼きと似た味だ。こちらの方が相当に濃い味ではあるが。


(生卵が欲しいけど、江戸だと卵が高いもんな。無理な相談か)


 値段も問題だが衛生面も心配だ。冷蔵庫がないわけだから、生食するとなると相当な覚悟がいる。


「どうでい、しゃも鍋の味は?」


 藤次が輝斗に尋ねる。


「美味しいです。醤油と砂糖とあとは味醂の味でしょうか。実に江戸っぽいですね」


「そいつは良かった。酒が進むかもしれねえが、まだやることがあるから控えておけ」


「はい。注意します」


 この店の酒は輝斗の口に合わないわけだから心配無用なのだが、こう返事をしておく。


「で、長八のホラ話をおめえはどう思った?」


「酔っ払うと気が大きくなって、ありもしない話をする人がいますからね。長八さんもそういう性格だったんでしょう」


「そういう輩がいるのは確かだが、そうじゃないかもしれねえ。心の中に秘めていたことが、酒を飲んだ時に出てきているとも考えられる」


「元武士って話ですか? 武士が鋳掛屋になるのは変だって、さっき話に出ましたけど?」


「武士なら剣術道場の師範とか、手習いの師匠とかをやるのが多いんだが、鋳掛屋をやっちゃいけねえって法度はあるめえ」


 藤次が杯を一気に傾けた。彼の顔はかなり赤くなっている。


「江州浦谷家の者に話を聞けたら早いんだが、そうそう容易くは見つからねえだろうな」


「その家のことをオレに教えてくれませんか?」


交代寄合こうたいよりあいの家だ。たしか七千石の大身だったはず」


 江戸時代において、一万石以上の領地を与えられた家は大名で、一万石未満の場合は旗本もしくは御家人である。大名は所領で暮らすことが許される代わりに参勤交代が義務づけられていて、旗本・御家人は江戸で暮らすよう幕府から命じられている。


 交代寄合というのは、一万石未満の旗本ながらも所領に居住することが許された家のことだ。参勤交代の義務は大名と同様に課されている。


「その家はもう残っていないんですよね?」


「ああ、若い殿様が急死しちまって、無嗣断絶でお取り潰しになった」


「末期養子は認められなかったんですか?」


「どういうわけか願い出なかったようだ。殿様が亡くなったことを隠して新たな当主を決めてから届け出ても、お上は気付いていない体で認めることが多い。浦谷家のお取り潰しには何か裏があるんじゃねえかって、当時は噂になったもんだぜ」


「お殿様がご乱心したとかあったのかもしれませんね」


「こればっかりは、いくら考えても分からねえだろ。お上に尋ねるわけにいくめえ。それよりも俺が気になっているのは、浦谷家のお取り潰しの時期だ。今から十五年前の話だからな」


 親分に言われて輝斗も気付いた。


「それって、文湧堂の旦那さんが近江から江戸に来た頃ですね」


「うむ。たまたまなのか、それとも繋がりがあるのか。地道に調べていくべえ」


「はい」


「この店で長八のことをもう少し聞き込んだら、見張りの奴に差し入れでも持って行くぞ」


 藤次は子分の一人を長八の家の前に置いたのだ。もちろん、長八が帰宅したら捕まえるためである。


 差し入れのついでに長八の家の中を藤次が調べたが、彼も手がかりを見つけられなかった。


 あと、文湧堂の蔵で見つかった手紙を大家に見てもらったところ「長八の字に似ていると」証言を得られた。


 この後、藤次たちは引き続き長八の行方を追ったのだが、残念ながら手がかりをつかめなかった。結局、最後の目撃証言はしゃも鍋屋で飲み食いしていた時で、その後の行動は全くの不明であった。

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