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第18話 捜査二日目

「輝斗さん、右手にすり傷ができてますけど、何かありました?」


 お咲が心配そうに声をかけた。


「ちょっと転んじゃってね――」


 輝斗は嘘で誤魔化した。彼女の父親と争ってできた傷だとは言いにくい。


 藤次の家から出た輝斗は、親分の指示通りに神田相生町の湯へ戻り、お咲と合流した。


「ごめんね。お稽古ごとを休ませちゃって」


「構いませんよ。稽古ばかりだと息が詰まってしまいますから。別に嫌いというわけではないですけど、毎日続くとうんざりすることもありますし」


(お勝さんはすっごく不機嫌そうだったけど)


 輝斗は彼女の母親の顔を思い出して少し恐くなる。かなりの教育ママ気質なので、娘が稽古を休むのが許せないのだろう。怒りの矛先が輝斗に向かって来る前に事件を解決してしまう、もしくは江戸の町に慣れてお咲に頼らなくても動けるようになる必要がありそうだ。


「で、今日はどちらへ向かうのでしょうか?」


「まずは式亭三馬先生のことを洗うようにだって。その後に長八さん探しだね」


「親分は三馬先生を疑っているのでしょうか? 長八さんの方がよっぽど怪しいと思いますけど」


「先生を疑っているのは親分じゃなくて、八丁堀の旦那みたいだよ。親分は当然ながら長八さんを疑っている」


「お上は前科者を見る目が厳しいようで……」


 かつて式亭三馬は手鎖五十日という処罰を受けている。下町の火消人足が実際に起こした喧嘩を題材にした「侠太平記向鉢巻きゃんたいへいきむこうはちまき」という本を上梓したところ、当事者たちの怒りを買って襲撃されるという事件が発生してしまった。この件で著作者の三馬は処罰を受けたのだ。


 ただし、この処罰のおかげで、皮肉にも式亭三馬の名が高まったのは事実である。


 その後、三馬は人気作家に登りつめたわけだが、幕府からしてみれば元罪人の一人だ。どうしても色眼鏡で見てしまうのだろう。


「お上の思惑はさておき、三馬先生が人殺しをしていないって証明するのは大事だと思うよ」


 輝斗はお咲に言い聞かせた。


 二人は式亭三馬の不在者証明を確認してまわったが、犯行時刻である六月二十一日の夜間に神田松下町へ行くのは不可能だと結論が出た。歌川豊国や三笑亭可楽をはじめとして、何人もの証言が出揃ったのだ。


「八丁堀の旦那が命じたことだから仕方ありませんが、ものすごく無駄なことをしてまわった気がします……」


 お咲が疲れた声で言った。


「偉い人の間違いの尻拭いってこんなに虚しいものだったんだね。だけど、頑張った甲斐があって三馬先生が無実だって堂々と言えるようになったわけだし、オレたちはこれから長八さんを捜そう」


「どこへ向かいますか?」


「まずはもちろん長八さんの家だよ」


 二人は室町の長八宅へ向かった。


「ありゃ、今日も留守か」


 腰板障子を叩いて呼びかけても、長屋の中から返事がない。物音もしないし、誰もいないようだ。


「どうしようか、お咲さん?」


「今日は家主(大家)さんに尋ねてみましょう。あまりやりたくありませんが、岡っ引きの子分だと明かせば色々と教えてくれるかと」


 長屋の住民が何か問題を起こした場合、大家も連帯責任を負う可能性がある。だから、大家は住民の行動を事細かに目を光らせておかなければならないのだ。


「下谷の親分の子分さんですか……。神田の文湧堂さんの件は存じておりましたが、まさか長八さんが関わっているかもしれないなんて……。ええ、何でもお答えします」


 困り気味の顔で応対してくれたのは、還暦間近といった風情の男性。彼が長屋の大家だ。


「長八さんですが、あの人はここ三日くらい帰っておりません」


「三日前……。文湧堂の主人が殺される一日前ですね」


 輝斗が驚く。こうなると、長八への疑いがますます強くなってくる。


「そうなります」


「大家さんに、長八さんが行きそうなところの心当たりはありますか?」


「アタシも暇を見つけては捜しているんですけどね――」


 長八の行きつけの店などを教えてくれたので、輝斗は全てメモする。


「大家さんが長八さんを最後に見かけたのはいつ頃ですか」


「三日前の昼七つ(およそ午後四時)ですね。仕事帰りの長八さんと挨拶をしました」


「その後、長八さんがどこへ行ったか分かりませんか?」


「行きつけのしゃも鍋屋で飲み食いしていたのまでは分かっておりますが、その後はサッパリで……」


「長八さんがいなくなる前に、何か変わったことはありませんでしたか?」


「そうですね。あえて言うなら、長八さんがいなくなった夜に、ここらで見かけない大男が長八さんを訪ねてきたことくらいでしょうか」


「どんな男ですか?」


「暗かったので顔はよく見えませんでしたが、近江言葉を使っていたのは覚えています。旅装束でした。あれはたしか夜の五つ(午後八時)を過ぎていたかと」


「長八さんも近江出身だから、昔の知り合いかもしれませんね」


「江戸には江州から来た商人が大勢暮らしていますから言い切れませんが、アタシは関わりがありそうと思いました」


「ひょっとして、近江弁の男って文湧堂のご主人ですか?」


「いいえ、あの人のことは知っております。顔は見えなくとも声からして全くの別人でした」


 輝斗は少し失望した。善左衛門がわざわざ旅装束をする理由なんてないわけだから、見込み違いだったと素直に認める。


「大家さんはその旅人さんとどんな話をしましたか?」


「長八さんの家を教えて欲しいって言うから、アタシは正直に教えました。その後、旅装束の男は礼を言ってそっちの方へ歩いて行きました」


「いかにも怪しい人ですね。長八さんの家の中を調べてみても構わないでしょうか?」


「よござんす。アタシも一緒に行きましょう」


 大家と一緒に、輝斗とお咲は長八の家に向かった。


「……え? これはいったいどういうことなんでしょう?」


 腰板障子を開けた大家が絶句した。


 長八の家の中には誰もいなかったが、部屋が大きく荒らされていた。土間には調理道具が散乱していて、畳は全て跳ね上げられている。


 三人とも呆気にとられて、しばし動きが止まってしまったが、真っ先に正気に戻ったのはお咲だった。


「空き巣が忍び込んだのかもしれません。家主さんは自身番へ報せてください。私たちがここを見張っています」


「――すぐに呼んできますので、それまでお願いします」


 大家は長屋から急ぎ足で出て行った。


「お咲ちゃん、これって本当に空き巣の仕業かな?」


「私は違うと思います。高値で売れるであろう布団が残されていますし」


「……心にもないことを堂々と家主さんに言ってのけたんだ」


「一刻も早く届け出てもらいたかったので」


 お咲が平然とした顔で言ってのける。


(頭の回転が速いんだなあ)


 輝斗は心の中で舌を巻く。


「行方不明の長八さんの家が荒らされているってのは、どういうことなんだろう? お咲さんは見当が付いている?」


「分かりません。わざわざ畳を外すくらい入念に調べられているってことは、長八さんは何かを隠していたのかもしれません」


「人殺しの疑いがかかっているのは長八さんなのに、これじゃあ長八さんの方が被害者っぽいよ」


「早いところ親分にこの件を伝えたいですね」


 二人で話していると、大家が自身番を連れて戻ってきた。


 自身番と一緒に家の中を調べたが、何かがなくなっているのかどうかなんて分かるはずがない。手がかりは皆無だ。


 近所の住人に聞き込みもしたが、長八の家を荒らした犯人も、長八自身の居場所も、ようとして知れなかった。


(この事件、こんがらがり過ぎだろ。どうなっているんだ?)


 目の前の霧が一層深くなり、進むべき道がどんどん見えにくくなっていくような気になる。

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