第16話 長八の行方
「試しで江戸の水を買おうかなと思ったんだけど、結構な値段するんだね。二百文(四千円)となるとさすがに手を出しにくいな」
式亭本舗から出た輝斗がお咲に話しかける。
「――輝斗さん、買ってどうするつもりだったのでしょうか?」
「そりゃ、自分で使うためだよ。男の肌って女性よりも水分が少ないから、化粧水で補ってあげないと」
令和時代の大学生なのだから、スキンケアくらい普通に行う。ただ、現代と違って気軽に手を出せる価格ではなかった。
「お洒落するのは構わないとして、輝斗さんの場合はまず髪をどうにかした方が……」
「月代は剃らないよ。絶対に」
「惣髪にこだわりがあるなら仕方ありませんね。江戸の水の話に戻しますが、小さい器なら四十八文(九百六十円)で売っていますよ。今日は売り切れていたみたいでしたが」
「そのくらいならお手軽だね。今度買いに来るよ」
「お洒落にそこまで興味がある人とは思いませんでした。――そうそう、式亭三馬先生には岡っ引きの子分だと明かしましたが、これからはなるべく隠しましょうか」
「そうだね。相手に警戒されちゃうと、あまり話してくれなくなっちゃうかもしれないし」
話しながら二人は南へ歩き、室町へ向かう。
「長八さんの家? そこの角から裏に入ったところにあるよ。裏木戸から四軒目さ」
通行人に教わって、二人は長八の住む長屋を尋ねた。
腰板障子を叩いて呼びかけてみるが、中から全く物音が聞こえてこない。
「留守っぽいね」
「鋳掛屋だから、まだ外を回っているのかもしれませんね」
「少し待ってみようか、お咲さん。もう日が傾いているし、そのうち戻ってくるでしょ」
長屋の前でそんな話をしていると、年配の女性が二人に話しかけてきた。
「おや、長八さんに用かい?」
「そうです。オレたちは長八さんに尋ねたいことがありまして。いつ頃帰ってくるか分かりますか?」
「そいつは分からないね。なにせ、長八さんは夜遊びが好きだから、北国に行っちゃって何日も帰ってこないとかよくある話さ。独り身だから気楽なもんだねえ」
「北国ですか。となると、次に江戸へ戻ってくるのがいつになるか見当が付かないですね」
これを聞いて、お咲が会話に割って入った。
「輝斗さん、大きな勘違いをしていますよ。きっと越前(福井県北部)とか加賀(石川県南部)とかを思い浮かべているのでしょうが、北国というのは吉原のことも指します。江戸の北の方にあるから、そういう言い回しがあります」
「江戸の言葉は本当に難解すぎる……」
輝斗が理解したのを確認してから、お咲は年配女性に顔を向ける。
「鋳掛屋の稼ぎで吉原に通うのは難しいのではないでしょうか? あそこって相当にお高いと聞きますし」
「長八さんはたまに羽振りが良いからね。博打でもやっているんじゃないかって噂だよ」
「はあ、博打に勝ったということですか」
「あれさ、吉原といえども必ずしも大金が要るってわけじゃないよ。鉄砲女郎(最下級の遊女)なら百文(二千円)出せば買えるらしいしね」
「そういうことなら、分からないでもないですが……」
教えてもらったお礼を年配女性に言って、輝斗とお咲は表通りに戻った。
「帰ってくるかどうか不明だけど、オレは長八さんの家を見張っておいた方がいいかな?」
現代で探偵事務所のアルバイトをしていた時の記憶がよみがえる。一回だけだがホテルの張り込みをした経験が、ここで役に立つかもしれない。
「――やめておきましょう。輝斗さんの姿は目立ちますから、張り込みなんかしたら自身番に報されかねません」
「この髪型が悪いのか。でも、月代なんか剃りたくないぞ……」
「張り込むかどうかは親分の考えを仰ぐとして、私たちは長八さんの行方を探りましょう。文湧堂に現れた文使いが吉原から来たと名乗っていたのだから、繋がりがあるかもしれません」
「吉原に行って長八さんを探すの?」
「あそこは下谷の親分の縄張りではないから、無茶はできません。話を聞くだけならまだしも、四郎兵衛小屋(遊郭内を取り締まる番所のこと)に引っ張るようなことになると、浅草の親分の面目を潰してしまいます」
「なかなか面倒だね」
「もっと面倒なのは、私が吉原に行くことでしょう。女が出入りするとなると通行切手をもらわなければなりませんから」
遊女が一般女性に扮装して脱走する恐れがあるので、女性の出入りには厳しいのだ。
「じゃあ、どうやって長八さんの居場所を見つけるの?」
「吉原に行っているとしたら、辻駕籠か猪牙舟を使っているかもしれません」
「ああ、なるほどね」
「長八さんが見栄を張るつもりがないのなら徒歩でしょうけど、そうなると手がかりはありませんね」
(江戸の人は日本橋から浅草まで歩くのか……。鉄道路線だと都営浅草線で五駅だよな)
輝斗なら間違いなく乗り物を利用するだろう。
まず、二人は立場に向かった。立場とは辻駕籠が客を待つ場所で、現代風に言えばタクシー乗り場みたいなところだ。
駕籠かき(駕籠を担ぐ人)たちに話を聞いてみたが、長八を知る者はいなかった。
「仕方がありません。次は舟宿に向かいましょう」
舟宿は水上タクシーの待ち合い場といった場所である。
二件目の舟宿で、長八を知る人と出会えた。
「長八さん? うちのお得意様だよ」
こう答えたのは舟宿の主人だ。
「今月の初めに山谷(吉原への最寄り)まで乗せたぜ」
「月の初めですか? ここ数日の間に長八さんが来ていませんか?」
輝斗の質問に主人が首を横に振る。
「いや、来てねえ。あの人は毎月の頭に来る人だ。今月もそうだったな」
「毎月必ずですか?」
「俺が知る限りはな。長八さんがうちに来るようになってから十年近いが、ほぼお定まりだ」
「そうなんですか。オレたちは長八さんを探しているんですが、他をあたります。ありがとうございました」
輝斗とお咲は深く尋ねることをせずに、舟宿から出た。
「お咲さん、猪牙舟で毎月吉原に通うって、鋳掛屋さんの稼ぎで可能なことなの?」
「できないことはないでしょうが、猪牙舟で吉原に行くのは鉄砲女郎を買うよりも高くつきますよ。辻駕籠を使うよりは安いですけど。仮に博打で稼いでいるとしても、毎月決まった頃に吉原へ行くなんて難しいでしょうね。勝ち続けるなんてできるわけがありませんし」
「やっぱり、変な話なんだ」
「変です」
お咲が断言した。
「毎月の頭ということで、ほぼ答えが出ていますね。長八さんは毎月末に文湧堂のご主人と会っていて、その後に吉原へ向かっています。おそらく、文湧堂さんからお金をもらっていますね。何か弱みを握って脅しているのかも」
「オレも思った。お金の出所は文湧堂の善左衛門さんのはずだよ。でもそうなると、長八さんが善左衛門さんを殺すわけないよね。自ら金づるを放棄することになるんだし」
「何らかの話し合いが物別れになったのかもしれません。それが何かなのかは全く分かりませんが」
「脅される側が殺すなら分かるけど、脅す側が殺すかな? ――ともあれ、今日手に入った話は親分に伝えるよ。あとはあの人に任せよう。オレの頭だと全体像がつかめないし」
輝斗は素直に諦めた。事件の情報が集まりつつあるが、どう繋がっているのかまだ分からない。
「今日はこの辺で切り上げて、神田に戻ろうか?」
「そうですね。いつの間にか日が落ちかかっていますし」
「お咲さんに提案なんだけど、帰りがけに鰻屋さんがあったら寄っていかない? 何回も鰻の話を聞いて食べたくなったんだよね」
この発言を聞いて、元々つり目がちなお咲の瞳が、より一層つり上がった。
そして、彼女は勢いよく輝斗の足を踏みつけた。
「痛っ! いきなり何をするんだよ!」
突然の攻撃に、彼の言葉がさすがに荒くなる。
「どさくさに紛れて何を言い出すのでしょうか! 私はそんなに安い女じゃありませんよ!」
「どういうこと? 何で怒るのかサッパリ分かんないんだけど!」
「……ひょっとして、全く悪気がなかった? やだ、私ったら早とちりしたかも」
彼女がうろたえた表情になり、両の頬がどんどん紅潮していく。
その様子を見て、輝斗の頭にのぼった血が急速に下降していった。
「もう怒らないから、お咲さんが何をどう勘違いしたのか教えて」
「その、鰻屋に行こうなんて言われたから……」
「鰻屋へ行くことの何が悪いの?」
「出会茶屋のように鰻屋が使われることが多いので……。鰻は頼んでから出てくるまで長く待たされるから、その間にそういうことを……」
消え入りそうな声で答えるお咲の顔がますますもって赤くなっていく。
(そういうことか)
輝斗にも彼女が怒った理由が分かった。出会茶屋とは、現代でいうところのラブホテルだ。知らないことだったとはいえ、思い切りセクハラをしてしまったようである。
「ごめん。オレが江戸の事情に疎かったせいで――」
と、彼が謝りかけている途中だった。通りがかった職人風の男が二人に話しかけてきた。
「おいおい、天下の往来で痴話喧嘩たあ、よろしくねえなあ。見ているこっちが小っ恥ずかしくなっちまうぜ。どっちが悪いのか知らねえが、ここはひとつどっかの茶屋にでも上がってゆっくり話し合いなよ」
「オレたち、たった今仲直りしたんで大丈夫です。ありがとうございました。――行こう、お咲さん」
男に頭を下げて、二人は歩き始めた。
「お詫びに屋台の鰻をおごるよ。屋台で食べるならお咲さんも問題ないでしょ?」
「うちのおっ母さんに黙っていてくれるのなら」
「どうしてお勝さんに言ったらダメなの?」
「立ち食いなんてみっともないって説教がきっと飛んできます」
「ああ、あの人ならそう言いそう。分かった。おかみさんには内緒ってことで」
「では喜んでご馳走になります」
お咲に笑顔が戻ってきたので、輝斗は安心できたのであった。




