第15話 式亭正舗
「お咲さんから話を聞いていたけど、思っていた以上に繁盛しているなあ」
式亭正舗を前にして、輝斗は感嘆の声を上げた。店の入り口には薬と化粧品の宣伝がいくつも掲げられていて、店内には何人もの客が商品を物色している。化粧品が目当てなのか、女性客の方が多い。
「三馬先生がいらっしゃればよいのですが……」
「オレたちが神田の親分の使いだって名乗っちゃって平気かな?」
「正直に名乗りましょう。単なる客が文湧堂の話を尋ねるはずがありませんし」
「そりゃそうか」
店員に用向きを伝えると、すぐに店の奥の座敷に案内をしてもらえた。
その座敷に座っている人物を見て、輝斗は驚く。
「あれ、あなたは?」
「おやおや、岡っ引きの子分さんでしたか。奇妙な縁ですね」
相手も驚いたような顔になったが、すぐに人の良さそうな笑顔で応対する。
「輝斗さん、式亭三馬先生とお知り合いだったのですか?」
「朝方に会ったばかりだよ。幸吉が喧嘩を始めそうになったところを、この人が止めてくれたんだ。――先ほどはお世話になりました」
そうなのだ。天ぷらの屋台の前で会話をした男が、実は式亭三馬だったのである。まったくもって想像の範疇外だ。
(喧嘩を止める時の口上を、自分の著作から引用していたのか)
自ら考えた台詞が現実でも通用するという自信を持っているのだろう。
お互いに挨拶を済ませてしてから、本題に入った。
「オレたちが来たのは、文湧堂の主人の話を教えてもらいたいからです。もうご存じかも知れませんが、善左衛門さんは亡くなりました」
「なんと……。行方が分からなくなっているとは伺っておりましたが……」
三馬の目が大きく見開き、彼の口からうめくような声が漏れ出した。
「して、あの方の身に何事が起こったのでしょう?」
「店の蔵の中で他界していました。何者かに殺されたと思われます」
「蔵ですか? ここから文湧堂まで帰る間に何かが起こったのではないと?」
「そうです。あの人は自分の店にこっそり帰っていたんです。で、三馬先生にお伺いしたいのは、善左衛門さんがここに来た時にどんな様子だったのかです」
「なんだか落ち着かない様子でしたね。引き札の打ち合わせをしている時も少々上の空のようで、何回か話を聞き漏らしていました。鰻の話をしていたら腹が空いてきたと言い訳をしておりましたね」
「鰻屋さんの引き札を出すんでしたね。オレも食べたくなってきたから気持ちは分からないでもないです。けど、善左衛門さんは本当に空腹で落ち着かなかったのでしょうか?」
「その時はたいして気に留めなかったのですが、今から思うと何か悩みとか抱えていたのかもしれません」
三馬から新しく得られた情報はこれくらいであった。あとは文湧堂で聞いた話の繰り返しだったので、輝斗は少し失望した。手がかりになる話が出てきてくれることを期待していたのだが。
「今のところ、善左衛門さんを最後に見たのは三馬先生になります。何か他に思い出せることがあったら、できればお伺いしたいのですが……」
「となると、アタシが最も疑わしくなりますね」
三馬が悪戯っぽく笑う。
「いえいえ、そんなつもりで言ったんじゃありません。オレは三馬先生のことは全く疑っていませんよ」
輝斗は慌てて否定した。実際に、彼のことを全く疑っていない。三馬の最期を輝斗は知らないが、殺人事件を起こして裁かれていたなら未来でも語り継がれているはずだ。
「なに、疑われても仕方ないと思いますよ。けど、アタシは殺しをできない。言わせてもらいます」
三馬が現場不在証明を話し始めた。
「文湧堂さんを見送った後、アタシは料理茶屋に向かいました。熊さん――絵師の歌川豊国先生のことです。豊国先生と噺家の三笑亭可楽師匠の三人で飲み食いをしました」
(ビッグネームが二人も出てきたぞ。化政時代の文化人同士の交流が盛んなんだろうな)
歌川豊国は教科書レベルの浮世絵師。当然輝斗も知っている。
三笑亭可楽は江戸における落語家の祖とか、三題噺の祖とか言われている人だ。この名は二十一世紀まで襲名され続けている。
この二人が式亭三馬と共謀して、口裏合わせをするとは到底思えない。
「二人とは河岸を変えながら五つ半(およそ午後九時)くらいまで一緒にいました。その後は一人で店に戻りまして、すぐに寝ました。朝になってから神田の方へ買い物に出ましたね。その店の名も出せますよ。帰りがけに天ぷらを食べているところで、輝斗さんと会いましたよね。その後は真っ直ぐ店に帰りました」
「ありがとうございます。三馬先生の事件への関与はあり得ませんね」
皆が寝静まった後に店を抜け出して殺人を行うという可能性もなくはないが、江戸の町では非常に難しい。というのも、江戸の各町の境には木戸が設置されていて、深夜は封鎖されてしまうのだ。夜間移動するとなると、木戸を開けて欲しいと木戸番に頼まなければならない。そんなことをしたら木戸番の口から移動の秘密が漏れるので、町をまたいだ犯罪をするのは厳しいのである。
輝斗は念のために神田の店と歌川豊国と三笑亭可楽の住所を聞いてから、お礼を述べて式亭本舗から出た。




