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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
終幕 絢乱劫花

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92/97

92:穴倉という名の巣窟。

 曲がり、うねる道はすえた臭いの水を流れに載せて続く。無言で駆ける二人は、研ぎ澄ました五感のすべてで鼠の存在を察知しようと努めていた。爪先と下駄が掻く水の中でさえそれは変わらず、指先の神経ひとつひとつまで駆使して彼の者の居場所を突き止めんとする。


 そうして周囲への警戒をつづける一方で、靖周の脳裏をめぐるいくつかの出来ごとがある。そんな思考に力を割くな、とは思うものの、物思いは止めることかなわない。


 今日という日まで、自分たちを育ててきた湊波戸浪。身近に見てきて、ついぞ異能の本質こそ知ることはなかったが、強者として君臨してきた彼。戦闘狂――と見せかけていただけとはいえ、演技を真に入りこませていた小雪路も戦闘を避けた存在。おそらくは、彼の危険性を彼女の野性が敏感に悟ったのだろう。


 はたして彼に、抗う術はあるのか。手はいくつか考えているものの、額から伝う冷や汗と、己を疑う気持ちは止められなかった。ああ、だからこそ、こんな無意味な思考ばかり浮かんでしまうのだ。


「にいちゃん」


「おう、なんだ」


 それでも島で暮らした経験から、靖周は悩み抱く思考とは分割して、周囲への警戒怠らず走り続けることができている。小雪路に話しかけられても、平然として返答を行うこともできる。


 しかし、彼女にはうろんな頭での返事だと見抜かれた。こちらを見る目には心配と焦りが浮かんでおり、靖周は軽口で返すいとまを永遠に失う。瞳の奥をのぞきこむ彼女は、彼の憂いを正確に読み取っていた。ひと息ついて、靖周は首を鳴らす。それから、彼女に気を向けた。


「……わりぃ。お前にやるっきゃねぇ、って言っときながら、俺も覚悟が足りてないみたいだ」


「戸浪んと、戦いになるってことに?」


「んにゃ。べつに恩義を強く感じてるわけじゃねーし、人間としても嫌い……っつーか人間じゃねぇのかもはや。まあとにかく、苦手だ。だから戦うことにこれといった気のブレはないんだが……あいつが強いこと、これに関しちゃよく見てきたしな。尊敬も畏怖もないが、ただ『強い』って事実がわかってる、そんな相手に挑むんだ」


「負けるの、こわがっとるんよね」


「負けるのがじゃねぇ。負けてすべてを失うことが、だ」


 横を駆ける彼女を。共に過ごしてきた仲間を。失うことが、なによりこわかった。


 それ以外で靖周が真に恐れたものなど、実のところなにひとつとしてない。勝負に負けようが敗北に逃げようが、身命賭して戦おうがからだを弄ばれようが。嫌なことではあっても、恐れるほどではなかった。けれどこの先は、戦わねば失うし戦っても失うかもしれない。


 おそろしい。水を掻き、底を蹴る足が、いまにも止まりそうだ。


「自分で自分を信じるなんざ、できねぇ。俺は、そりゃ弱くはないかもしれんが、この手で出来ることが本当に少ないと知ってる」


「じゃあ、どうしてここまで戦ってこれたん」


「言ったろ。お前がいたからだ。そして、あいつらもいたからだ。弱くても――やるっきゃなかった」


 弱い。己を信じ切れないこの心根こそが、弱さ。手にした得物をわずかな拠り所として、靖周は自分の前に立ちふさがるものへ挑んできた。思いのまま、鎌と短刀を構え直す。


 傍らで、小雪路は少し歩速を緩めてきた。吹き抜けるひうるりとした風になびく髪が、靖周の肩を撫でた。


「だったら、大丈夫なんよ」


 凛とした声音で、そう言った。微笑みさえ浮かべて、彼女はあっけらかんとしている。


 いつも通りだ。彼女が演じてきた、いつも通り。


「うちは兄ちゃんが弱いなんて思えんけど、仮に弱くたって、いままで生きてこれたんよ。今日だってきっと、生きて帰れる。みんなで帰れる」


 当たり前のように。いつも通りに、彼女は靖周へ言う。


 いや……自分自身に、言い聞かせているのだろう。言い聞かせてきた(、、、、、、、、)のだろう。彼女がいつも通りに見えるのは、そのためだ。


 自分が痛みと戦いに弱いとだれより熟知していたため、彼女は生きて帰れたことをこそ誇りにしてきたのだ。そうした生活が、積もり積もって数年。やがてそれがいつも通りの日常となることで、彼女のなかには当たり前として、現状の先を信じる精神が備わった。


 かなわないなぁ、と素直に思う。いつだって失うことを危ぶみ、すれすれのところを生きてきた靖周に比べ、なんと慎ましく積み上げてきたのか。


「……そうやってお前が」


「?」


「俺の足りないところを、いつも補ってくれてたんだな」


 口にしたとき、自然と口角が上がった。背筋から全身を覆っていた悪寒が、消えている。数瞬してこれに気づくと、頭の中から悩みと憂いまでもがすっかり消え去っていた。我ながら単純な頭の出来に、肩の力が抜けて息が漏れる。


「ありがとな」


「どーってことないんよ。こっちこそ、いつもありがと」


 なにに対してかは知らないが、彼女は礼を言葉にしてそっぽを向いた。




 駆け続けた先で、反響してくる音が変わる。道の変化を察した靖周は歩幅を狭くとり、緩やかな曲がり角への接近を遅める。激しい水音が近づくのに合わせて靖周の心音もひどく大きくなっていったが、壁に跳ね返る音の渦に巻かれて、身の内の音は聞こえづらくなっていった。


 小雪路と互いに間合いを庇いあいながら、さらに奥へ足を進める。緩やかな曲面を描く道のおかげで唐突に出くわすことはないのだろうが、油断は禁物だ。刃と意識を同調させるように、靖周は身を戦闘に向けて高めていく。


 ぽかりと道が途絶えて、足下の流れに圧が増した。早まる勢いに歩みをもっていかれぬように努めながら、二人は道の果てに、辿り着いた。


 足下から先は水が流れ落ち、高さにして三間ほどの滝となっている。流れゆく先は五層の広小路ほどもあろう空間となっており、さまざまな場所から集まった水の流れが両側の壁より一挙に注いでいる。


 三町ほど先で、外の光が見えていた。もう、海へ出るのだ。


「戸浪んは……」


「あそこだ」


 靖周が、殺気を消すよう努めながら言う。指差した半町ほど先には、固まりとなった鼠がぞろぞろと凄まじい勢いで光を目指していた。とはいえ先の焔によってだいぶ数を減じてしまったのか、大きさはさほどではない。そのため、進む速度も最初に地中から現れたときよりかなり落ちていた。


 そのとき薄汚い色の中へ、輝くものを見つける。朱鳥の切っ先が、群れよりのぞいていた。


「あれなら――追いつけるっ!」


 滝の向こう、しぶき散る空中へ靖周は飛び出す。横並びで跳んだ小雪路が、彼と肩を組むように羽織をつかんだ。と同時に、一丈と数尺はありそうな長い帯を、腰よりほどいた。


 帯をたなびかせ、浮遊感が失われるとき。靖周は背後に空傘の風を開き、自分たちを前方に撃ちだした。帯が一本の線と化し、虚空に鮮烈な赤の色合いを刻んでいく。


 次いで二枚の符札で、靖周は鼠の群れの上をとった。落下しながらさらに一枚。かざして振り薙ぎ、群れが気づく前に吹き飛ばす。


「どけぇぇぇッ」


 二人の落下する力を殺すと同時に、固まり集っていた群れを弾き飛ばす。さらに、気流に載せてなげうった小雪路の帯先が、朱鳥の存在する空間へ届いた。


「〝纏え天地擦る力の流れ――〟」


 摩纏廊の術式詠唱で、帯が強く摩擦する力を得る。わずかでも八千草に触れれば、絡め取って引きずり出す。


 ところが――固まって進んでいた群れの中身は。


「――って、から、っぽ……?」


「その通り」


 湊波の声が聞こえた。絡め取ったのは朱鳥のみで、群れのなかには人影もない。吹き飛ばされる群れのうちで構築された湊波の顔が、いくつにも分かれて千切れ飛びながら告げる。


「かかってくれたね、三船靖周、三船小雪路」


「んなっ――」


 罠だ。


 勘付いて、靖周は足下へさらなる符札を叩きつける。多くの水の流れが注ぎ、泡立って見づらくなっていた水底より――靖周たちを取り囲む壁のごとく、鼠の群れが立ちあがる。間一髪で発動が間に合った突風は群れの根元に、穴を開けた。


「抜けろ!」


 体を滑らせ、水につかりながら小雪路と離脱する。半球の天蓋を思わせるかたちで靖周らの頭上をとった群れは、ぐずりと崩れてしぶきを散らした。飛び散る鼠の一匹一匹もまた、しぶきのようだった。


 頭からくるぶしまで濡れ鼠のようになった二人は立ち上がり、群れから距離をとって下がる。水を吸った衣服のため動きの悪くなった体に小雪路が摩纏廊の術式をかけ、水分は流し落としてくれた。


 退避、しなければ。考えて符札を取り出すが、数を増した鼠の動きは素早かった。逃げようとした先を塞がれ、たじろぐ。小雪路と背中合わせになって、靖周は歯噛みした。


「あかんよ、兄ちゃん……」


 後ろの小雪路が、声に恐れを滲ませる。湊波の声はそれとは関係なく、絶対的で変わりの無い音階で平坦に言葉を紡ぐ。


「そう、もう終極だ。狐たちでなくお前たちしか来ないというのは少々想定外だが――まあいい。殺言権と分散してくれたのなら御の字というものだ」


「……てめぇ。こっちが罠ってことは」


「当然向こうにも私はいる。自明のことをなぜわざわざ口にするのかな」


 畜生、という悔しさ示す言葉を、なんとか口にせず靖周は堪える。遍在し偏在する湊波の異能。それがどちらかの道ではなく、どちらもにいるとの予想をできなかった己を恥じた。


 ということはいまごろ、向こうも襲撃されているにちがいない。この狭く薄暗い穴倉のなかで、死に場へ追い詰められている。


「井澄の奴は」


「どうだろうか。まだ遭遇してはいないようだが。なんにしても、他人の心配をしている場合か三船靖周。己の命が風前の灯だというのに」


「ハ。簡単に殺せると思ってやがるのな」


「赤子の手をひねるがごとく簡単さ。お前たちも出会いの時分よりずいぶん成長したものだが、しかし私に比肩しうるほどの人材ではなかった」


 ぞわぞわと周囲を囲みながら、湊波が輪の径を縮め始める。さしもの空傘でも、全方位から攻め来る群れを薙ぎ払うほどの力を出そうとすれば、一度に残りの符札枚数を遣いきってしまう。背中越しに小雪路の緊張が伝わってきた。


 すでに、先ほど五枚目を遣った。有効な威力を保って扱える枚数が日に二十枚ほどである靖周にとっては、術のうち四半分を使用したことになる。この上脱出に枚数を使えば、かなりの苦戦を強いられるだろう。とくに、二人分逃げるだけの隙間を生むには、余計に符札がかさむ……。


 逃げの手について考えめぐらす靖周に人型の顔を向けながら、湊波はぼそりと囁いた。


「まったく、理解に苦しむ。私を追う必要など、お前たちにはなかっただろうに。要らぬ情にほだされたから、無用なことで危険に踏みいる」


「うるせぇ。生きてるだけじゃ、つまんねぇんだよ。あいつらがいなきゃな」


「そのためにいま命を落とそうとしているのにかい。せめて背に負った妹を斬り捨てれば、お前だけでも生き残れるというのに」


「……互いにそれは思ってるだろうよ。なあ小雪路」


 靖周はせせら笑い、背後の小雪路を肘でつつく。へんなところにでも当たったのか、うひゃいと身ぶるいの声が聞こえたが、そのあと真面目な語調で「うん」と返ってきた。湊波は、わずか人型を揺れさせた。


 小雪路の声が、靖周の背中から強く沁みとおってきた。


「……うちを斬り捨てれば、兄ちゃんだけなら、結構高い確率で生き残れると思うんよ。でもうちがそう思うってことは、兄ちゃんも自分を斬り捨ててうちの遁走だけに符札使えばいい、って考えとるはず」


「だが捨てらんねぇんだよ。そりゃ、もう小雪路がおっ死んで自分しか生き残ってないなら話は別だろうさ。だがまだ死んでない」


 どうにもならない状況であがくことを、互いに互いが許してくれると思っている。


 ゆえに諦めはない。目を合わせなくても意志は確かめあっている。


「俺たちはまだ、生きてる」


「もう死ぬ。まあ、元より私の生かした命だ。おわりも私が与えるのが、筋というもの、かな」


 あくまで当然のものとして湊波は会話を両断した。靖周も沈黙する。


 ――生かした、か。何様のつもりなのだ、湊波戸浪よ。靖周は心中で毒づく。彼の元にいて靖周が得られたのは、生きるための金のみだ。本当にそれだけだった。


 もちろん、生きているだけで得られるものもたくさんある。日々に愉しみがなかったわけでもない。だが……飢えるのだ。人は貪欲で強欲なのだ。ひとつ満たされれば次を求めまた次を求め、際限はない。


 靖周は小雪路と生きのびる明日を手にしたことで、彼女とよりよく生きる明日を求めだした。生きるためだけに背負ってしまった重荷を、どこかで下ろしたいと願いだした。己の幸福のため、他者に不幸を振り撒くことをよしとした。


 その、かつえに満ちた日々におわりを与えてくれたのは、あの二人だった。


 湊波ではない。生きのびるはじまりは、たしかに彼に与えられたものだが。その先をつくってくれたのは、湊波ではなかった。


 引き結んだ唇がほどけて、靖周の舌が回った。


「与えたから奪う、か」


「社会とはそういうものだ。全体をまわすべく細部まで代謝を成さなくてはならない。できないのなら死んでくれ。与えし者へ返すのだ」


 感情もなく彼は言う。


 そのとき――空虚な、顔の部品として作っただけの彼の眼窩に、靖周は闇を煮詰めたような目を見た気がした。


 どこかで覚えのあるような、つまり既視の感覚だった。そして違和感だった。湊波が湊波らしくないと思うような、差異を感じとっていた。まるで――と、たとえる言葉を用いたくなる。


 些細ではあるが、決定的な何かちがいを感じさせる湊波はつづけて語った。


「好意も厚意も社会における自己の代謝と運動を円滑に進めるための反応に過ぎない。そこに囚われすぎて、適応できないものは異物と呼ばれる」


「俺にゃ、お前らの方がよほど異物に見えるがね」


「手足に脳髄の働きが解せぬのは当然さ。お前たちはなにが必要か不必要か、なにが普通でなにが異物か判断するだけの段階にすら至っていないよ」


「判断だのって、『決めつけること』に囚われすぎだとは、己の働きに囚われすぎだとは思わねーのか」


「思いはしない。我々は、往涯様と私たちは、ひとつ社会を回す機能としてこの世に現れたのだから」


 湊波の言葉に、靖周は深く鼻から息を吸って吐くだけのような、腹のうちになにも残らない感触を覚えた。ひたすらに空虚で、そっけない。無味乾燥で、そこに在るだけ。


 奴は、人の身にあらず。また、人の心にあらず。対応しても無為な時間を送らせるのみの、現象にして機能だと自任しているのだ。


 だから(、、、)か……、靖周は、先の既視感に得心いって、両手をぶらりとからだの脇へ垂らす。小雪路がその気配を察してか、少し身じろぎした。湊波の群れも、挙動を観察しながら径にざわめきを走らせる。


 鼠の鳴き声がひくついた間隙に、靖周は言葉を挟みこんだ。


「お前――似てるんだな」


 虚ろな湊波は、群れをさざめかせ沈黙を保つ。


 靖周は頭の端で井澄の安否を思いながら、二の腕をよじらせて懐に仕込んだ符札の位置を調整する。湊波は、わずかに態勢の崩れをにおわせて、靖周の言葉を待つようだった。実際に待ったのかどうかは、もはや問題ではない。間があったことだけが重要で、真実だった。


 靖周は己の言葉を継いだ。


「お前に拾われた頃の俺に――似てるな」


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