86:理念という名の理想。
空帆巾で風に乗りながら、瀬川は周囲に殺気を放った。
それは、思わず居留地で戦っていた者どもですら動きを止めるほど、広範囲に重く振り下ろされた威圧である。身に受けた者が背後から心の臓を握り止められたように感じるほどの、彼の殺しの意志の表れだ。
余波にすぎない威圧で、この威力なのだ。直接に対象として向けられた者など、どうなるか……当然、震え乱れて、動きは常のものではなくなる。
身動き取りづらい上空に居ながら、瀬川はこうして砲弾の嵐を掻い潜る。砲塔や高射砲による彼を狙った弾の雨を、すべて抜けていく。瀬川が対峙するのは戦艦ではなく、あくまでそれを操る人間なのだ。繰り手が狙いを誤れば、砲撃など恐るるに足らず。速度と圧を増していく気流の中で、瀬川は周囲を冷徹に見据え、薄皮一枚でかわしていった。
彼は殺気によって砲手の狙う瞬間、撃つ瞬間の拍子を寸毫狂わせ、あいた位置に空帆巾と己を滑り込ませていくに過ぎない。傍から見ていれば、瀬川がかわしているのではなく相手方がわざと外しているとしか見えないだろう。
予定調和のごとく。脚本に沿うかのごとく。
そんな、喜劇じみた恐怖の現実を、彼はこの場に生み出していく。喜劇とは、すなわちおかしみを含むということ。おかしみとは、常ならぬ、慮外の事物ということ。……笑えるものでは決してないが、笑うほかない結果だけが現実へと表れていく。有り得ざる理想を、瀬川は意志の力のみで現実へ上書きしていった。
刻一刻と九十九の喉元へ迫る。砲弾の嵐は密度を上げ、彼の抜ける隙はいよいよ薄く狭くなる。艦隊へ近づくほど濃く香る死の気配が彼を取り巻く。
向かい風の中で目を見開き、瀬川はとうとう己の正面に飛来した弾頭へ、殺気と共に刃を向けた。
「邪魔だ」
風が――、裂ける。
右手一本で振り下ろされた斬撃によって、砲弾は二つと分かたれる。背後に爆風を浴びて、彼の推進はさらに速度を増す。
……そしてごく自然に、とうとう、ひとつの戦艦の上に辿り着いた。空帆巾は穴だらけに骸じみた姿をさらし、それでも瀬川の身を、艦首に届けた。
途端にばらばらと崩れた空帆巾は海の藻屑と消える。降り立った瀬川は右手のみで肩へ刀を担ぎ、もう片方の手にも、腹の前から匕首を抜いた。相変わらずうるさい砲撃はつづいていたが、刀を抜く瞬きほどの静謐な時間だけは、瀬川にはすべてが止まって感じられた。
そうして二刀を、だらりと両脇へ下ろし。彼は雑な構えのままじろりと、睨みを利かせる。接近までに観察した様子から構造を把握し、内部への侵行を頭の中に思い描いていた。
ひとり甲板を歩きだした瀬川は、己の到来に誘われて現れる乗員たちを前に切っ先を振り上げた。向けられる銃口、槍の穂先、どれにも臆さず獅子の気迫を放射する。
「さて、斬るか」
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瀬川の単騎特攻が己の艦へ辿り着いたのを知り、九十九は歯噛みしていた。
想像していなかった、わけではない。奴は常に、九十九が論理的に思考した戦術の斜め上を直感のみ頼りに飛び越えてくる。五十路をとうに過ぎた己にしてはずいぶん子供じみた考えとは思うが、だからこそ奴が嫌いだった。
先人の定石、定理など通用しない。自己の振る舞いに自己以外の何物も付随させず、それでいて結果だけ生み落としていく。運のみで生きていると言っても過言ではないだろう。そんなものに積み重ねた労力が蹂躙されるなど、有り得てはならないことのはずだ。
「……総員退避せよ」
椅子に深く腰掛けたまま髭を撫でていた九十九は、嘆息と共に告げた。副官として横に控えていた長樂はこれを聞いて驚いた様子だったが、長い付き合い故か、問い返す愚は犯さない。すぐに意をくみ、片手をあげて配下へ告げる。
「本艦全乗組員へ通達、至急退避せよ。そして他艦砲手各員へ通達。青水瀬川に侵行された本戦艦〝藤〟へ――十分後、集中砲火」
「……味方に、我々の艦を落とせと命ずるのですか?」
信じられない指示を聞いた、という顔で、部下の一人が長樂を見ている。九十九は重い口を開き、彼の問い返しを潰した。
「それが最小の被害で済ませる唯一の方策なのでな」
海戦用であり、空からの接敵などほぼ考慮にいれない造りだったことが仇になったか……考え込みながら、九十九は席を立つ。退避を命じた主が真っ先に席を立ったことを、咎めるような視線がいくつかあった。だがそれを制して、長樂が発言を許さぬ気配を辺りに放つ。
彼の気配が部下の言動を押しとどめる間に、九十九は懐から符札を抜き、扉へ向かう。
「十分は、私が稼ぐ。……いや、仕留めるつもりではあるがね」
かつて彼と殺し合った日を思い出し、九十九は術式〝勇叉魚神〟を発動する。足下に雨粒が跳ねるような音がして、薄く、しかし深い水の溜まり場が出現した。部下たちは九十九の言動に、さらに驚き戸惑った様子だった。
「殿は任せよ。貴様らは退け」
部屋をあとにした九十九は、もう振りかえらない。
やはり、奴とは直接に決着をつけねばならないのだ。
最初から見えていたはずの結末に嘆息しながら、瀬川が暴れ回る位置へと、いま歩みを向ける。
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甲板は――九十九が着くまでの短きいとまに赤く染めあげられていた。血の絨毯は九十九の勇叉魚神が生む足下の水たまりを浸食し、暗く死の色を滲ませていく。
血で陣を描いた中央に立ちつくす瀬川は、右手の刀を担ぎ左手の匕首は下ろした姿勢で、ゆっくりと肩越しに九十九を振りかえった。返り血にまみれた出で立ちに、見る者震わす獰猛さを纏い、衣の代わりに殺意を着る。袖を抜いてさらしを巻いた上体を露わにした瀬川は、切創溢れた肌をうごめかし筋肉を躍動させていた。
「よお……乃公御自らの出陣だ」
「自尊するなよ自惚れやくざ風情が。こんな……単身での突撃、たかがこれだけのために、貴様の配下はあの無謀な戦をおこなっていたというのかね」
「ああ。自慢の配下だ」
「貴様が一矢報いる、それだけのため、何人が血を流す」
「我が配下足り得るのはそこに納得した奴のみよ。交わした盃は血の証だ。手前らのように、利や金のみの繋がりで量るなよ」
転がる骸を蹴り飛ばし、瀬川は低く刃を構えた。
「死を覚悟せず戦場に踊る阿呆。見るに堪えんな、これが手前ら商人の限度か。人として生きることに真摯でない。流れに載せられここまで来ただけ、己が死ぬとも理解しとらぬ」
「力は死を遠ざける。金は力で、世を回すひとつの約定だ。貴様らは社会に生きていない、貴様の言う人としての生とは獣の群れが数を保とうとするに似た、さしたる理念もない生を貪るだけの姿勢に過ぎんよ」
「利を貪るだけの狗に言われとうないわ。社会だ理念だ、鬱陶しい。己を取り巻く夢に巻かれ巻かれて自己を見失っているだけだろう。現を見てみろ手前は孤独だ。戦場に赴くとのたまえど、ひとりたりともついては来るまい」
「退かせたのだ」
「それで退くのだ。それが器だ手前の限度よ。利だけで見せられる価値などない」
「黙れ。無為に血を流させ貴様のみが残る現状こそ無価値、無意味だ」
「意味など後塵拝す者どもが決めればよい」
ず、と鎌首をもたげるように瀬川の背後より迫っていた水の鞭が、彼に触れる前に切り落とされる。
触れさえすれば万物を溶かし飲みこみ海へと還す〝勇叉魚神〟――瀬川は、これをごく普通の刀でなんの異能も使わず切り落とす。放つ殺気により九十九の鞭捌きに躊躇を催させることで、挙動の鈍った瞬間を斬り伏せる。
刀身は当然溶かし飲まれるはずなのだが、彼は刀身をわざと血まみれにすることで『血液を溶かし飲む』わずかな間に鞭を切り払うのだ。いままた、骸に刀を突き立てて血を塗る。あの港で殺し合った日となんら変わりない。存在そのものを刃と化したような、出鱈目な圧力。じり、と九十九が半歩退いたのを見て、瀬川は笑う。
「意味などどうでもよい。乃公が手前を斬ると決めたのは、ただ手前らが臭うからよ。己さえよければそれで良いと、周囲顧みずあの島をも売り払わんとするその腐った心根が臭うからだ。そこに在るのが我慢ならん、それだけだ」
「好悪の感情のみで動く、獣の習性極まれりだな」
「ならば物事すべてが量り事か? 冗談も互いにしろや。満たされると感ずる心は重さも数も量れはせんよ。道理で心の動きを御するなどばかばかしい。原因と結果が見えたところで、本質はそこにない」
生きるとは納得を自らに刻むため巻き起こる衝動だ。衝動に理を求めるな。
言って瀬川は、切っ先を九十九に向けた――魔剣〝獅子嚇し〟。それ自体は剣客ではない九十九にはさしたる障りともならないが、けれど動きが読めないのでは水の鞭も当たるかどうか。
八又の大蛇がごとく背後に顕した己の術を油断なく奴へ向け、九十九は自らの呼吸を落ち着かせた。九十九は……正直に言って、臆している。この道理も条理も通じぬ兇客を前にして、心から恐怖し戦慄している。
理性にしたがい生きるが故。そうでない生物は慮外の者だ。おぞましい。
しかし、だからこそ、ひとは恐れた対象を克服せんがために知恵を磨いた。得物を手にし戦略を手にし、策を弄して敵を討つ。臆病さが力を手に入れるもととなった。臆病さこそが、真摯に九十九を、配下を生かしてきた。
その経験が、叫んでいる。このような慮外の異物、存在していてはならないと。即刻処分すべきだと。九十九に、叫んでいる。
「納得も、理解も。なくともよい、所詮ひとは一人ではないかね」
符札を手にしていた右手を、横薙ぎに振るう。水が空気を飲みこみ膨れ上がる音がして、直後に四散する。このしぶきも肌に触れれば溶かし尽くすというのに、瀬川は身じろぎひとつ、まばたきすらせずにこれをやり過ごす。跳ねたしぶきは、海まで撤かれた。
「そして一人ひとりが利によって薄く繋がる。……血を分けた? 命を使う? 馬鹿を言うな、人間はそんなことができるほど強い者ばかりではあるまい。騙しすかし疑い誤り、弱さがもとでいくつもの障害に出遭うのだ。しかし、それでも集い、ひとは孤独を拒む。その弱さを責めるというかね」
また、腕を真上に振り上げる。動作に合わせて――海の水をたらふく飲みこんだ勇叉魚神が、質量を増して現れた。
戦艦を壁のごとく取り囲む水鞭、およそ八十。常の十倍の物量は、高くすべてを飲みこまんばかりにその威容を瀬川に見せつけている。見上げてこの術式の真の威力を知った彼は、けれど、なんら変わりない様子で構えに微塵の揺るぎもなく。すぐに九十九へ視線を下ろすと、またも兇悪な殺気で彼の腕を震えさせた。
「己が弱さの正当化は、気が済んだか」
「……ああ。弱いことは重々承知だ。それでも……」
貴様を倒さねばならんのだよ。
決意は胸にしまい、言葉にはせず。
天頂覆う水の壁を、九十九は両腕の指揮で雪崩落とし。瀬川は両腕の刃で大気を切り刻み。
八間ほどの彼我の間合いを、水と刃が交錯した。
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遠く駆けていく鼠、その痕跡を追っていくことしばし。森の中を貫いていく獣道を井澄たちは進んでいた。先頭は、類まれなる戦への嗅覚で追跡に長ける小雪路。次に井澄、殿を靖周が務めていた。
そして背後から、井澄に声がかかる。
「なあ、井澄」
「……なんです」
「さっきの不気味な爺さんが、お前の話に出てきた〝玉木往涯〟……湊波の野郎の上役、この国の上層、統合協会の長なんだよな」
「ええ」
うなずいて答えると、靖周はむにゃむにゃと声を出し、そいつがわからねぇとつぶやいた。
「この島の現状。国が罪人相手とはいえ、大戦の準備がため非道な実験を行おうとしてる事実。そいつをつかんでるお前が邪魔だってことで、湊波はお前の島抜けを防ごうとしてた。ここまではわかる。だがそこに、上役のやつまで来る必要が、あったのか?」
走りながら、井澄は無言で、歩調にも変化を表さないようにした。靖周は矢継ぎ早に問いを繰り出し、なおもつづける。
「しかもそいつはお前を止めにきたってぇより、なんか勧誘に来た感じだった。社会だの国だのでかいこと言ってて、お前を――お前と、八千草を使うってな物言いだった。そこに対して、お前は『社会が八千草の人格を三度も弄んだ』なんて返しをした。そして八千草は、攫われた」
前を行く小雪路の動きも変わらない。けれどどこかこちらの会話に耳を澄ましているような、そんな気配が感じられた。
最後に靖周が、決定的な問いを成す。
「なあ、やっぱりお前――昔の八千草を、知ってるんだろ。そんで八千草は、なにか生まれ持った大きな力のせいで、あの往涯って爺さん含めたなにかに巻き込まれた。今回もその延長、ってことじゃねぇのか?」
……勘の良い小雪路や洞察力に長けた山井に悟られる可能性は考えていたが、推測に長ける靖周に察せられることは、あまり考慮にいれていなかった。ふうとため息をついてから、歩調を上げつつ井澄は返す。
「そうですよ」
進行方向に、薄く黒煙があがるのが見え始める。もうじき居留地に着くと思い、井澄はそれまでに語り終えることかなうだろうか、と考えた。
そうして時間の問題からかいつまんで説明しようと、亘理井澄と八千の出会いから話すことにして、軽く後ろをかえりみようとしたとき。ぱかんと後頭部をはたかれて、振り向こうとした首が前に倒れた。
「最初から話しとけよ阿保」
「……いえ、さっきも言った通り、この国の上層の人間が関わる問題でしたし。あなたたちを巻き込まずに済むなら、それで通したかったので」
「もう十分巻き込まれとるんけど」
小雪路に言われて、ぐうの音も出ない。たしかに、覚悟が足りていなかっただけなのかもしれない。
どこまでも信じ頼り、すがる覚悟。互いがそれを良しとしているのを、信じること。
「すみません」
「謝るくれぇならすんなよな。俺たちゃすでに背中あずけあってんだ」
隣に追いついてきた靖周は横目で井澄を見上げる。と、なぜか口許の笑みを強めて、ぽんと肩を叩いた。
「でもま、いいんじゃねぇの。なんでか知らんけど、憑きものが落ちた目ぇしてんぜ、お前」
「目、ですか」
「恨みで生きるのをやめた目さ」
含蓄のあることを言い、彼は先行く小雪路に並ぶ。二人の背中が、まぶしく映る。
山井にも、ましな顔になったと言われた。裏を返すとずいぶん悪しざまに言ってくれたものだ、と思いながらも、遠慮のない言葉こそが心地よい。
気安く、離れてもなにか繋がりを感じていられる。彼らと共にあれた幸運に、井澄は感謝したかった。だからこそ、すべてを語ることとする。
「追いつくまでに、話し終えることができればいいのですが」
彼女と彼の長い物語から、井澄は話し始める。
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閉じた門扉の前、駆けまわる鼠を前にして山井は固まっていた。病人の、壁。湊波の吐いた言葉に認識が追いつかず、行動選ぶ逡巡のうちに倒れ伏した門番の方を幾度も見やる。
黒いあざを表出させ、いまにも事切れてしまいそうな彼。彼をして、壁、と?
「沢渡井澄だけ殺してはならないというのは、難儀だね……だからここらで足止めだ。へたに前線に届き戦火に巻き込まれても困るのでね」
言いながら湊波は周囲に鼠を散らしていく。
「さて触れれば伝染る病人の壁だ。迂回路を用いても突破には時間がかかるだろう」
「待っ、」
山井が制止する暇もなく、展開していく鼠の群れがそこかしこへ散らばる。山井の脇を抜けて壁を駆けあがり、せっかく門番が守ったはずの門扉は容易く突破された。邸内へ侵入した鼠の向かう先は――
「月見里とも、長い付き合いだったな」
感慨なさげに、彼は語る。
「っ湊波ぃぃぃッ!!」
山井は黒闇天の術式〝厄廻払い〟を全力で起動し、周囲を己の黒煙で埋める。範囲内に落ちた鼠はその動きをわずかに鈍らせるが、しかしそれだけだ。侵行を止める術には、至らない。
いくら杖で打ち払おうとも、向こうの数が多すぎる。こうした相手には山井の〝煤〟の弾丸なども意味をなさない、このままでは手詰まりのまま、罹患者だけが増えてしまう。
「く、そっ! 伝令を、」
「させると思うのか?」
黒煙をぶち抜いた群れが、山井の足下に殺到する。大量に現れるものに対する根源的な恐怖から鳥肌が立ち、動きにかたさが宿ったときにはもう遅かった。ぞぶりと痛みが走り、足首から先が冷たさを覚える。状態を確認しようと視線を下げたときには、さらなる痛みと同時に脳髄まで決定的な断絶の音が聞こえた気がした。
腱を、やられた。連続して群れに噛みつかれ、足首の肉が砕かれている。急いで手ぬぐいを巻きつけ止血するが、とてもではないが歩けるような怪我ではなかった。
「あまり逆らわない方がいい。昔のよしみで黒死病は打たずおいてやるが、あまり抵抗するなら苦しい死に方をすることになる。死ぬことは確定しているがね」
「あんたはっ……!」
言っている間に、巨大な振動で大気がわなないた。音の位置を見れば、一層か二層。黒煙や火の手があがり、さらなる混乱が生まれようとしていた。
一体何が、と思う間に、上見る山井の視界を横切るものがある。次いで、爆音が山井の耳朶を打つ。砲撃か、と気づいて海上を見ると、遠く戦艦が火線を敷いているのが認められた。なにを狙っているのかと思えば、海の上を頼りなく進む空帆巾がある。まさかあれを撃とうとして、外した砲弾が山なりにこの島に当たっているのか。
同じ部分を見ていたか、湊波がぶつぶつとぼやいた。
「……もう開戦から大分経過して大勢の戦況変化もなくなったな。瀬川は常識の埒外ゆえに情報として採る必要はない、だろう……やはりここまでで十全だな。あとは殲滅戦となるのみ」
では多少数を減らしても問題あるまい、と言って、同時に這いまわる鼠の数が増す。
至るところから悲鳴が響き始める。感染の拡大。湊波は、この一帯を黒死病の呪いによって制圧するつもりらしかった。
「やめなさい湊波……! この辺りは非戦闘員ばかりよ!」
「それがなにか私の行いに関係あるかい? もともと罪人ばかりの場。加えて私の持つ大義。数え上げればきりがないほどきみの論を崩す材料が手元にあるが」
「ンなの知ったこっちゃないわよ! アタシの前でアタシが不愉快になることをするなっつってんだ!」
「道理がない、理解に苦しむ。医術持つ者を配下に置くのは有益と思って登用していたが……ずっと思っていたよ。情に流され厚意にほだされ、行動原理が読めない女だとね」
「なんでも理詰めになるのが人間と思ってんなら、お笑い種だわ」
杖先を向けながら、山井は静かに吼える。
「大義だのなんだの、自分で思い考えたことじゃない借り物の理念にすがってるようじゃ、きっとあんたはへし折られる。自分の足で立ってる奴には、勝てない!」
「勝ちだ負けだ。敵だ味方だ。ちいさな枠にとらわれ過ぎている」
「その枠を忘れたら、そこにつまずくのよ」
山井は、睨み続けた。だが対峙する湊波は、群れの鼠にすぎない。視線はぶれて、言葉もうつろにどこかへさまよった気がした。
そのまま湊波が鼠でかたどっていた顔は、ざらりと崩れて群れに戻る。相変わらず鼠は周囲を走りまわっており、こうしている間にも感染は広がっている。山井は杖を頼りに立ち上がろうとして、けれど断たれた腱の痛みがひどく門扉に背をもたせかけることとなった。横では、依然として門番が苦しみつづけている。もう、息が途切れつつあった。黒死病が、彼を縊り殺そうとしている。
「ちくしょう……畜生!!」
砲弾飛び交う空に叫んで、山井は振り下ろした杖で鼠を二匹ほど殺した。大勢に、変化などない。それでも手を止める気にはなれず、振り下ろし続ける。群れは厄の黒煙によって動きを鈍らせているためさほど強力なわけでもないが、それでも数によってわずかずつ押される。
あまり長くは、もたないかもしれない。少し先に見えてきた己の死の瞬間を思いながら、山井はなおも杖を振るい続けた。
生きるため。生かすため。




