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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
終幕 絢乱劫花

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84/97

84:空蝉という名の先達。

 開始の合図というものは、存在しない。けれど両者が同時に動きだしたのは、なんらかの非局所性によるものだろうか。


 ともかくも赤火・黄土陣営と青水の戦いは、あくる日の早朝静かに開始された。


 戦艦居並ぶ海原見はらす港より、赤火の兵が進軍し、青水の荒くれたちと六層の主導権をかけて切り結ぶ。青水兵力はほぼここへ集中されており、四権候瀬川が懐刀たる〝怪神〟桜桃も前線にて剛腕を振るっていた。


 するとこれを察した赤火兵力は、寄せては返す波のごとく、無理な攻めを行わない堅実な戦略に切り替えた。押されれば退き、退かれればさらに退く。兵力温存、遠間から術式や鉄砲で相手兵を削る動きをみせはじめた。


『最初から負けの見えた戦である。だからこそ遮二無二なってここへ兵を固めたのだろう。ならば付き合ってこちらの手駒を減らすのも勿体ない――』そんな九十九の思考が透けて見えるような用兵であった。


 実際青水に対してこれはかなり効果的で、着実に兵は減らされつつある。兵を引き連れた桜桃が必死に陣形をつくって攻めた場の確保に腐心していたが、焼け石に水。司令塔となる腹心の部下を手広く配置することで臨機応変に動きをみせる赤火の軍に対して、頭となる人間が桜桃のほかに少ない青水の群は、最初の勢いを維持することすらままならなかった。


 じりじりと港から押し返され、部下を失い追い込まれていく。桜桃はそれでも単独で相手兵の間に飛び込むことで撹乱の用を成し、精いっぱい現状の維持に努めていた。


 現況を保つことに、注力し続けていた。二進も三進もいかなくなり、一進一退すら阻まれつつあったが、なおも気力で耐え忍んでいた。戦闘を繰り広げはじめた早朝よりはや数時間、正午をまわったというのに桜桃だけは些かも衰えが見えない。


 ……すると次第に、赤火兵もなにかおかしいと勘付き始める。


 遠間から削り続けるうちに、いつの間にか退きながらの戦闘ではなく追いこむ戦闘に移行していた自分たちだが――青水の人間たちの性質からすれば、追われれば最終決戦とばかりに自爆じみた突撃を仕掛けてくるのではないか?


 それがなぜ、先ほどまでの赤火のように『退きながらの戦闘』を長引かせているのか……しかし港含む居留地市街はもともと赤火の領分である、罠を仕掛けられる場所も機も与えてはいない。誘いこんだところでなにもできないはず、ではなぜ。


 惑いが進軍にわずか、躊躇と緩みを生んだ。


 その様を――遥か高みより(、、、、、、)見下ろし把握しながら、瀬川進之亟は一層一区の端に立ち尽くし、遠く海原に並ぶ戦艦、九十九がいるのであろう位置を見据えていた。


「……よく耐え、ひきつけた。あとは、乃公だいこう出でずんばというところよ」


 片手には、血にまみれた刀が一振り。


 背後には、死屍累々。


 ……一層一区、白商会の本拠地を単身で襲撃した瀬川は、彼らが戦艦へと伝令をとばす暇も与えず全員を死に至らしめた。血の雨にずぶ濡れとなった瀬川は、しかし己の血は一滴たりともかぶっていない。疲れの色すら、見えない。


 血振りをし、懐紙で刀身をぬぐった瀬川は右手で肩に担ぐように構え直し、身を翻して白商会より奪い取った空帆巾カイトに乗った。大きく翼を広げ二等辺の三角形をかたどったそれは、鋭く空を切り裂いて飛ぶ形状と見えた。


「さて、往くか」


 一層一区の高みより、空帆巾を押して躍り出る。


 迷いなく進んだ彼は空帆巾と共に一旦落下し、二層、三層と下る途中で風を捉えた。翼は噴き上げる気流を浴びて上昇をはじめ、彼を乗せたまま滑空を開始する。はるか眼下に港で争う赤火・青水の兵たちがいたが、彼らが瀬川の行動に気づくのはもう少しあとのことだった。


 みるみる近づく戦艦。半里ほど先だろうか。八隻もの巨大な戦艦はさすがに凄まじい威圧感があったが、けれど瀬川に臆するところはひとつもない。臆するところがあるとすれば、志半ばにて生を終えるその可能性について思うときだけだった。


 吹き付ける風が強く、瀬川の体を振るい落そうとする。だがその都度うまく身をかわし、重心を移動させることで空帆巾を操っていた。


 もちろん彼にこれの操縦経験はない。ただ己の体を操作することに関して、彼の右に出る者はない。それだけのことだった。


 単身での、突撃。誰一人として予想だにしなかった、する必要もないはずの、愚行としか思えない戦闘手段。だからこそ(、、、、、)相手の虚を突く。成功確率など度外視でいかにして相手の予測を上回るかだけを考えた瀬川の選択。


 彼は、これを奇策だとさえ思っていない。できるだろうと思い、すべきだろうと確信した。そのときもはや他の選択肢など存在しないのだ。敵将をいち早く討ちとり、また敵戦艦を無力化するには、このような手が相応しかろうと判断していた。


 少しずつ、戦艦との距離は縮まっていく。向こうもいよいよ瀬川の存在に気づいたらしく、砲塔がこちらを向くのを察する。だが彼は向けられる弾になど目もくれない。彼が相手するのはあくまでも人間、戦艦に乗っている人間なのだ。


 そして人間と人間の争いにおいて、どのような人間が負けるかを瀬川はよく知っている。


 力、技、それらの差などよりも、決定的に二者を分かつものがある。


 それは、相手に臆すか、否か……!


「乃公が下に屈せよ、赤火」


 片手で空帆巾をつかんだまま切っ先を向けた瀬川は、


 遥か離れた港の人々ですら動きを止めるほどに、重く貫き通す殺気を周囲に放った。



        #



 赤火と青水の戦が幕を開けた、早朝。


 五層五区まで呼び出された山井は検屍けんしを終えると、瞳孔の開ききった(、、、、、、、、)目の上に、まぶたをそっと下ろした。立ち上がると、凄惨な現場を見回す。


「死後一時間経ってないってとこかしら。この辺りの敏感な住人が気づかないように気配を消して、しかもこの二人を相手取っての犯行だとすれば、下手人は相当の手練よ」


 転がる血濡れた短刀。狭い室内で倒された机と椅子。抜きかけで落ちた仕込み杖。壁に刺さる硬貨幣――それらの間で、手首の脈を失い事切れた二人の亡骸はうずくまっていた。


 沢渡井澄と橘八千草。胸の刺し傷が原因とみられる二人の遺体は、これから激化するであろう戦の死傷者とはまた別に、火葬場へ送るべきだと山井は皆に提案した。


 身寄りもなく葬儀をあげる必要のある人間ではない、と前置きした上で、主な理由として「昨今四つ葉では大路晴代を筆頭に原因不明の病で倒れているものがある、この二人も保菌者などである可能性は否めない」と説き伏せた。医術に学のない者たちはこれを聞いてあわてふためき、遺体を家から運びだした。


 彼らを見送りながら、山井は七星の煙草に火をともして、煙を吐きながら踵を返す。


「……じゃあね、二人とも」


 戦が激化する、ならば彼女にとっての戦場もまた現れる。


 これから増える怪我人の診療のため、山井は準備を整えに自分の城へ戻った。


 午後からの居場所は、港前の居留地。おそらくは二派閥の最前線となるそこで、山井は黄土陣営としてただ患者を診る。それが彼女が己に課した、職責だった。



        #



 荼毘に付すべく運ばれてゆく二人を遠巻きに眺めて――式守一総ら監視にあたっていた人間たちは、しかし慌てることはなかった。


 井澄と八千草が死んでなどいないと、見抜いていたためである。出血はなにかの血のり。瞳孔の拡大は散瞳薬による反応に過ぎず、おそらくは脈が無いのも腋に銭入れでも挟んでおくような、古典的な手段でなされたものだと看破していた。


 そうして火葬場へ運ばれた隙をついて、自分たちの包囲を抜けようとの浅知恵。行く先にある火葬場の主へ事前に袖の下を渡しておくことで、「焼かずに海へ捨てろ」との指示を与えていたことも存じている。となれば、先回りして海辺で待つ方が彼らを追い詰めるに易しと考えたのは当然のことだった。念のために追跡させる隊も用意はしたが、まさか死体として運ばれている二人が途中で逃げ出すことはあるまいと、高をくくっていた。


 だが、いつになっても、二人が来ることはなかった。様子がおかしいと思い、わずか彼らが不安に駆られた頃――ふいに、自分たちがなぜこんなところで(、、、、、、、、、)待伏せをしているのか(、、、、、、、、、、)と、違和感を覚えた。


 急ぎ式守らが火葬場へ向かうと、中途で追跡させた隊とぶつかった。なにをしているのかと問い質すと、彼らもまた自分たちに与えられた指示が思い出せず海へ向かう途中だったという。不可思議な記憶の抜け落ちに、式守たちはいよいよ不気味さを抱いた。


 辿り着いた火葬場、そこにはだれもいなかった。二人が焼かれた様子もなく、主も不在。どうしてこんなことになっているのかと、幻術にでもかかったような己らの不慮に言葉を失う。しかしすぐに再起し、式守は声を荒げた。


「……探せ! 島内から出ていないことは自明、必ずやどこかに潜んでいるのであります!」



       #



 ――一方その頃、入れちがいに海沿いの森へ辿り着いた井澄たちを載せて引かれる二輪車の前に、靖周と小雪路が現れていた。


「よう。うまく抜けてこれたみてぇだな」


「……ま、危ういところではありましたがね」


 声かけで危険域を抜けたと知り、井澄はむくりと身を起こす。開いていた瞳孔もだいぶおさまり始めていたが、それでも枝葉を貫く外の日差しはまぶしく感じられた。横で八千草も身を起こし、ぐきぐきと首を鳴らして二輪車から降りる。井澄も伊達眼鏡をかけ直すと、つづいて降りた。


 火葬場の主は、意外にも取り立てて驚いた様子はなかった。「ここでいいのか」とだけぶっきらぼうに問うて、はいと答えるとそのまま去っていく。どうやらこの手の偽装死は、彼にとってよくあることらしい。


「ほい、八千草ん。傘もってきといたんよ」


「ありがとう、小雪路」


 駆け寄ってきた小雪路が、アンブレイラを手渡す。さすがに愛刀を火葬場まで持参というわけにもいかなかったのだ。これを見ながら、伊達煙管をくわえた靖周はけらりと笑う。


「お前のほうは硬貨幣ちゃんと持ってんのか」


「暗器ですからね。べつに持っていてもかさばりませんし気づかれませんし」


「でもあれだな、火葬場に銭持って向かうってのは、ちょっと縁起悪いぜ」


「六文どころかこの場の人数分くらいなら楽に払える量もってますよ」


「ホント縁起でもねぇこと言うな……」


 靖周と拳を打ちあわせてから、森を抜けた先にある崖へ向かう。そこには時間を指定して港の者に小型帆船を流させる予定だ。これを用い、戦火の混乱がおさまる頃合いに外海を大きく迂回するかたちで島を抜ける手はずだった。


 すべては、そう。火葬場の主への指示(言葉)に対して、彼だけは覚えているよう〝殺言権〟を発動させたことがはじまりだ。八千草はアンブレイラ片手に井澄の横を歩き、ちらとこちらを見上げた。井澄が微笑みを返すと、黙って彼女はそっぽを向いた。


「しかし、ここまでは」


「なんとかうまく運びました」


 いくつもの策が連鎖してこその現状だった。策を潰しては次へ、潰しては次へと繰り返すなかで、わずかずつ蓄積させていったずれ(、、)


 井澄は策を練るべくいろいろな人へ根回しをおこなっていることが式守らに筒抜けになっているのを知りながら、ずっと彼らに見せつけてきた。そうすることで、彼らに策を聞かせた。


 言葉(、、)を、聞かせた。あとは実行に移すとき殺言権により、彼らの予想からずれた位置に現状を置くよう、策の言葉を消せばいい。「海へ逃げる」との発言が消えれば、彼らの待ち伏せはなくなる。また向こうの人間たちへの指示を拾い聞くことで、その指示の言葉も殺し混乱を生んだ。


 相手に尻尾をつかんでいると思わせ、慢心させたところで、尻尾が偽物だったと明かす。常に連中が遠巻きに監視していたからこそ生まれたわずかな情報伝達の遅延、そこを制することが井澄たちの真の狙いだった。


 しかし。


 それでも。


 ……未来を読む人間(、、、、、、、)を前にしては、いかな奇策もたねが透ける。


「〝殺言権〟――湊波から聞いてはいたが、実際に発動を見るまでは俺も半信半疑だった」


 玉木往涯は、くつくつと笑みをもらしながら、四人の前に姿を見せる。鶴を思わせる首の長さ、長身痩躯にただならぬ気配をまとわせ、猛々しい顔つきと熱量溢れる目つきで井澄たちを睥睨する。


 そこに在るだけで周囲が歪む。人の常識を凌駕した異能持つ人外は、世界を歪めに現れた。


 全員が得物を構えて対峙しても小揺るぎもせず、往涯はひとり立ちつくしている。


「……やっぱり、いくら言葉を殺してもこうなりますか」


「いや? 機によっては俺の予言をお前の殺言がのみこむことも考えられたさ。ゆえに俺は託宣の機を心理術を駆使した行動予測によってしぼった……お前が殺言を用いたあとになるように、な。能力はともかく、読み合い攻め合いに関してはどうやら俺の経験が上回ったらしい」


 片手を差し出し、往涯は屈託のない笑みと共に命じる。


「そして確信したよ、亘理井澄、橘八千草。お前たちの力で世界は変えられる。俺の求める国と時代、すなわち世界を守るため。次なる予言によって歪む未来を、お前の力なら殺せる。次なる大戦に巻き込まれようと、お前の力なら勝てる。二人一揃い、矛と盾としてこの国に必要な人材だ」


 そうあることが当然だと、確信をもった顔で。世の理は己にあると、心に一片の隙もなくそう思いこんでいる。


 先を生きる男は、井澄たちのいる現在現実へ降りてきて、手を差し伸べている。彼の誘いが井澄と八千草へ向いていたことを聞いて、靖周と小雪路は理由がわからないという顔をしていた。だが説明している暇は、なさそうだ。井澄は一歩前へ出る。


「さて……前回はさわりを話すに留めたが、今日はついてきて頂けるかな」


「いやだと言えば」


「是非は問うておらんさ、お前たちは巻き込まれる運命だ。巨大なものには引力が存在する、お前たちはただ流されるのみ」


「知ったことではありませんね。なにが巨大なもの、ですか。私に、八千草になにかを強いるあなたこそが――私にとっては巨大な敵だ」


「敵。敵、ときたかね。ふ、はははは! まだそんなところで止まっているか」


「止まっている? 進むために分けたのみです。敵と味方を」


「いやいや……敵味方だの、はやく越えて来い。我々は共に歩まねばならん。世界は社会は留まらない、そんなことを言っても無視はできんよ。生物が他の生物を食い物にせねば生きていけぬ業を背負うのと同じように、人間は社会というものに与しなければならぬ業を背負っている。社会――そう社会だ。巨大な社会の存在こそが、ひとがなにより生かさねばならない至上の一個」


 ぐ、と拳を握りこんだかと思うと、往涯は親指でぱきんとなにかの硬貨幣を弾いた。上に高く飛んだそれを逆の手につかみとり、井澄たちに見せつける。どこか、異国の金貨と見えた。


「金。力。地位。この島は社会の縮図だ。そこに生きる中でお前たちも悟ったろう。大きな金、大きな力、大きな地位……それらを手にした者ほど自由気ままで権力握ったか? いいや、それ以上に多くの規律と罰則に縛られていたはずだ。社会の中で大きさは重さなのだ。しかしどれだけ重要で重大であっても、だれもが歯車に過ぎない。社会を生かすための、だ」


「……個人は社会のため犠牲になれ、と」


「親しき者のためなら多かれ少なかれやっていることだろう。好ましい人間のためなら我慢ができる。泥をかぶれる。それを社会の範囲まで広げるだけの話ではないかね」


「なるほど」


 納得したような言葉を吐いたためか、靖周と小雪路に背中を突かれる。けれどそんな素振りをみせる彼らだって、おそらく内心ではわずかに納得しているはずだ。


 大事な者のためならば、自分をないがしろにしてしまう気持ち。たしかにそれは、井澄の中にもある。靖周や小雪路、八千草の中にも、あるだろう。


 だが。


「納得はできますが、認められませんね」


「何故」


「誰に何に奉仕するかは私が己の魂にて決めます」


 とっくに、相手は定まっている。


「……それに必要としたから生み出し、また危険だからと殺そうとし、再び必要として呼び戻して――三度にわたって八千草の人格を弄んだ社会なんてものを、私はいまも許せません」


 世界をいまも、恨み続けている。


「だからどうぞご勝手に。社会は好きに動けばいい。私は社会を慮るような立ち位置に行くつもりは、毛頭ありません。ただ生きる、彼女を守る。彼女になにも強いることなく、彼女を彼女とただ認め続ける。それだけです」


「……個人主義者め!」


 うれしそうに笑いながら、往涯はインバネスの下から、袂におさめた両腕を横に広げた。威圧感が増し、けれど同時に彼の気配が薄くなっていく。おそらくはこれこそが彼の戦闘態勢なのだ。四人まとまって、互いに陣形を守り合う。


 往涯ははらはらと掌から符札を地面にこぼしながら、いつの間にか広げていた扇を片手に顔を隠す。顔面が影に覆われる寸前に見えた口許は、確かな悦びを表していた。


「良いぞ、良い。軍門に下らず己が道を通すか……。貴君もまた俺の敵足りえる、人の意思を戦わせてより高みにのぼる試金石の価値を示した! 村上君かれ同様に俺の前に立ちふさがり、今の世をさらに高めるちから持つ者だった! さあ来い――」


 言って、扇を下に振るう。すわ攻撃か、と井澄たちが身構えたところ、


 異変は予想外の位置から起こった。


「――――湊波!」


 往涯の声に、地面が盛り上がる。突端を開いた一匹、その後に連なる群れ。地下を掘り進んできた鼠の大群が、瞬時に井澄たちの眼前を塞いだ。日が陰ったのではと見まごうほどに数をなして突っ込んでくる鼠に、驚きのけぞると同時。


 四人は目の前を、閉ざされてしまった。


「視界内を焼き尽くす日輪もこうなれば無意味だね」


 湊波の声がざわざわと這いまわる。


 鼠の波が覆いかぶさり、八千草と井澄たちを分かつ。いけない、と手を伸ばすがもう遅い。まとわりついた黒い影が彼女を飲みこみ、一匹の牙が八千草の首へ触れた途端、彼女の目から光が失われた。即効性の毒だ。そのまま大群で彼女を巻き、地面を波打つ鼠の群れにのせて凄まじい勢いで連れ去っていく。


「なに死ぬことはない。統合協会に拘束するまで、眠ってもらうだけさ――」


「……貴様ぁぁッ!!」


「余所見する暇はあるかね?」


 ふ、と声が湧いた。見れば、身に付けた暗殺術により気配の察知には長けているはずの井澄にまったく気取られることなく、往涯がそこに立っていた。途轍もない技量の、隠形術のなせる技か。


「貴君も寝ていろ」


 空気を打ち抜いて横薙ぎに払われる扇。


 したたかに首を狙う一撃に、井澄が応じて指弾を放とうとした。間に合うか否か、寸毫の差ですべてが決しようとしたそのとき――銃声が、扇の動きを止めた。


「……大詰めだな。この島も、国も、我々も」


 離れた木陰より硝煙と共に現れたレインが、冷え込む海風に金色の髪をなびかせながら言った。瞬間的に往涯の姿が掻き消え、レインと井澄の中間距離に現れて、片手で口を押さえた。視線で制するように、レインの銃口へ扇を向けている。


「くく、お前も来たか〝錬金術師アルキエミステ〟レイン・エンフィールド。だが日輪はもう手の内に入った、本土の協会本部へ納めてしまえば最早手出しはできんぞ、いいのか」


「先日も言ったはずだ。わたしの目的は――貴様の殺害も含むと」


「ほう、楽しみだ」


『貴様の殺害も』。……ということはいまだ、レインは八千草の殺害も目論んでいるのだ。井澄は複雑な状況に歯噛みしながら、けれど状況の流れに思考を追いつかせた。いま優先してすべきことは――


「靖周、小雪路。八千草を追いますので来てください」


「え、お、おうっ」


「わ、わかったのん」


 急にあらわれたとはいえ妙なほどレインに驚いていた二人に呼びかけて、井澄は走り出す。レインはなにも語らず、こちらを見ることもなかったが、それはそれだけ往涯相手に集中しているということだ。ならば足止めにはなる……いや、レインならばきっと仕留めるだろう。


 互いの間にあるわだかまりは解けずにいるが。状況となりゆきに任せると決めて、井澄は海沿いの森を駆ける。湊波が八千草をさらって逃げた方向は、そのまま行けば居留地に突き当たるはずだった。


 よりにもよって、戦争の最前線か。



        #



「いよいよお前も進退きわまってきたようだな。優先順位の上位に俺を置いていて良いのかね」


 銃口が向いているというのにわずかたりとも臆した様子なく、往涯はレインに問いかける。木陰から身を晒した彼女は油断なくピイスメイカーの引き金に指をかけながら、あいた左手で鉄の鋳塊インゴットを取り出し、術式によって形状を曲刀に変成して切りかかる。


「構わんさ――」


 右手でリヴォルヴァを三連射し、軌道で逃げ場を塞ぐ。そして入れ替えた左半身で刀を振るい、細切れにせんと迫る。ところが刃の筋を見切っているのか、往涯は扇で正確に刀の腹を打ち、払っていく。硬質な音からして、見た目は普通だが鉄扇らしい。


 やがて互いに得物をぶつけ合い鍔迫り合いの様相を呈したところで、レインはまた右手の銃で今度は確実に急所を狙った。そのとき、はらりと符札が舞い落ち、刀にあずけた重心がぶれる。往涯がすうと薄くなり、横合いに抜けられていた。たまらず刀を横薙ぎに振るう。が、遠い。笑う往涯に、あくまで冷静にレインは叫んだ。


「――あちらも後ほど追いたてる。だが湊波の防御が外れた貴様を見逃しておく手は、ない!」


「なるほど天秤にかけたか。取捨選択は大事なことだ、努々その迷い、忘れずおくことだ。経験は朽ちぬ財産となる」


「ハ、どうかな」


「ええ、死ねば朽ちますよ」


 酷薄な科白を合図に、往涯を挟み撃つもう一人が現れる。とっさの判断かそちらを向いたが、往涯は背後のレインにも集中を切らしていない。それでいい。一対一の集中ができない程度でも、十分な援護になる。


 飛び出してきた伏兵――村上は、いつも通りの皮肉った笑みのまま薄く目を開き、低く身を屈めながらレインの錬成した短刀を突きだす。速度以上に歩幅の読め無さ、拍子の窺え無さが動作を消失させていると見える動きはやすやすと三間の間合いをまたぎ、切っ先を送り出す。


 次いで、当たる寸前に彼の口が開き――べろりと伸び出た舌にある刺飾金が、彼の異能を発動させた。


「『刺す』」


「っははッ!!」


 笑いながらかわそうとする往涯、だが、動けない。そしてわずかだが生まれた硬直を逃すほど、村上の短刀術は甘くない。


 魔狩りを務めていた頃の彼の二つ名は〝鬼々壊々(ききかいかい)〟。鬼すら容易く壊し得るその刃術、体術は一切の異能をもたない身には在りえぬほどの力であった。いまは言語魔術の副作用によって持続力・耐久力を奪われているため長時間の戦闘には向かないものの、それでも身体強化魔術を用いたレインに並ぶという圧倒的強靭さである。


 往涯は、後ろに身を崩しながら血を噴き上げる。離れた村上は、鼻先をかすめた反撃の扇をいなして左半身、右逆手に短刀を構えた。まだ目には敵意が宿り続けている。


「ちっ……初見で対処法を見切る、か。確かに、経験ある老害は難敵ですね」


「くっくく。まさか貴君が言語魔術を身に刻んでいたとはな……! あやうく初撃で命をとられるところだ」


「……馬鹿な。〝思考錯誤エラーワード〟を用いた一撃を、防いだ……?」


「防いではおらんさ、左腕は犠牲になった。つまずこうと意識した(、、、、、、、、、、)おかげでこの程度だった、とも言えるがね」


 ぶらぶらと手首を振ってみせる往涯の腕は、たしかに血濡れていた。


「言語魔術……それも相手の認識に働きかける型。ああ異支路ことしろの研究の一端か……なるほど、異例の若さで列席会議まで取り入ることができたのは、政治的にも運用可能なこの能力のためか」


 たった一合の打ちあいで、そこまで読まれている。ぞっとしたのはレインだけではないのだろう。村上も、明らかに顔色が悪い。


「ふむ。いまの違和感、俺は攻撃回避を行う気にならなかった(、、、、、、、、、、)のだな。当然これには先の貴君の言動が絡む……刺す、か。なるほど、言動を本意でないと(、、、、、、、、、)認識させる能力だな(、、、、、、、、、)


「――……ッ」


「はははは、当たらずとも遠からずか」


 たしかに、村上の〝思考錯誤〟の効果は『発動後の自分の発言を嘘だと認識させる能力』である。これを用いることで村上は「レインが島に間に合っていれば(日輪を殺せた)」という発言を必要以上に勘繰らせ、往涯をこの島までおびき寄せた。またこれまでも政治的場面で、痛くない腹を探らせることに相手を注力させるなど、自分に有利な展開を生むべく利用していた。


 そしていま往涯への攻撃時に『刺す』の一言を嘘だと認識させることで彼に回避する気を起こさせまいとする必中の一撃を打ったはずが……結果はご覧のありさまだ。しかも、この一回のみで手の内は丸裸にされた。


 読まれている。予言ではないのだ。託宣ではないのだ。


 単なる経験の差。磨かれ続けてきた洞察力、観察力、推察力。理詰めで相手を追い詰める。知恵で異能に追いすがる。それが――むしろそれこそが、この玉木往涯という男の真に恐るべき点なのかもしれなかった。


 倒さねば、ならない。確実に。いますぐにここで。


「さてそちらに手番を与えてばかりではいかんな……気を引き締めてくるがいい」


 扇をぱんと打ち払い、閉じるとともに姿を消す。またも、空蝉。


「〝隠神不通おんしんふつう〟――玉木往涯。この俺の半生、止められるなら止めに来い」


 森の中に反響する声が、高笑いと混じって、やがてレインたちの得物とぶつかりあう金属音に掻き消された。


 日輪を倒すためにと用意し周到な準備を重ねてはきたが……数十年の歳月に耐えたこの強者をくぐりぬけるために、すべてを使いきる覚悟をせねばならないと、レインはひしひしと感じ始めていた。


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