69:人外という名の人間。
焔が舞い踊り、彼女の周囲を焔獄に変貌せしめる。
「ぅう――」
とっさに腕でかばったおかげで、八千は右目のみ視力を奪われずに済んでいた。ゆえに視界内に爆焔を操り自在に発火させる能力も使用可能となっていたが、左目への閃光は右目側の視界にも影響を与えている。
うすぼんやりとした影のようなものに右目視界内の左側を浸食され、通常の視界の四割弱しか使えていない。当然増えた死角のぶんだけ相手を見失うことが多くなり、それが余計に相手が速いように認識させていた。
前回、八千がその人格と記憶を深く閉じ込められることとなった戦いの折は、森という環境を利して木々の影に身を隠し、彼女は八千を仕留めることに成功した。今回は遮蔽物こそないが、そのぶん視界を塞がれているため結局あのときと同じくらいに八千の能力の妨げとなっている。
ならばと耳でとらえようにも、しなやかな足捌きにはほとんど音が無い。そして尋常ならざる高速移動と、銃の咆哮。八千は次第に、己が獣を相手にしているような錯覚に陥りつつある。
レイン・エンフィールド。井澄のかつての朋友にして、
自分を三度にわたり殺そうとした人物。
「どうした、こちらだぞ」
わざと声をかけて八千を反応させ、気配を断って移動する。姿は焔幕の向こうに掻き消える。捕まえること叶わない、陽炎稲妻水の月。肌を焦げ付かせそうなほどの存在感を持ってレインに届かんと迫る視線も、せいぜいその影を追うので精いっぱいだった。
それは明らかに、人の限界を越えた身体駆動だった。鏡のような銀の盾を構えて、レインは直接に己を視認されぬよう気をつけながら走り回る。左右に駆け、ときには頭上を飛び越え、八千の視界の外をとった瞬間を狙い銃撃を見舞ってくる。八千は向き直って彼女に焔の矛先を向けるのだが、すぐに逃げられ、また撃たれ。これを繰り返し続けていた。
レインは焔の殺傷効果範囲から、薄皮一枚の位置を過ぎていく。八千が思考し、爆焔を生みだすまでのわずかな時間を読み、空いた場へ身を潜り込ませて死地を踏破していくのだ。恐るべき先読み、状況判断能力だ。
「ちょろちょろと――しないで!」
視線がなぞる位置に連続して発生する爆焔の間をレインは駆け抜け、彼我の距離はいよいよ五間まで迫る。
レインは円を描きながら八千の周囲を駆け続けていたのだが、その径を徐々に狭めつつあった。戦闘開始時は十間以上あった間合いを、一歩一歩追い詰めていく。
と、左腕から血が飛ぶ。
「つぅっ……」
とうとうレインの放つ弾丸が、八千をかすめはじめていた。
距離を詰められればそのぶん、短銃の命中精度も上がる。当初は焔の熱に像を歪められることと強烈な爆風で横からあおられることによりかすりもしなかった弾丸が、いまや八千の喉元にじわじわと肉薄しつつあった。
このままでは、かつてのあの時と同じことになってしまう。前回は運よく死なずには済んだが、今度は確実なとどめを刺されることだろう。なんとしてもそれは回避しなくてはならない。
死ねない。また井澄と出会えたというのに、死ぬわけにはいかない。
「う、あ、あああああああッ!」
戦闘開始からはじめて、八千のほうから大きく動く。このままここに留まるよりは逃れてでも仕切り直すほうがよいと判じてのことだった。そして行動は、結果的に八千を窮地から救う。
石畳を砕いて石の欠片を飛ばし、八千のいた位置へ弾丸が叩き込まれていた。ぞっとして、振り返りながら進めば、砕いたのはいくつもの弾丸。早撃ちなどではない、正真正銘大量の、散弾によるものだった。
特殊な弾頭により、短銃にもかかわらず散弾を撃てるようにしていたのだろう。とはいえ銃身の短さと弾丸の小ささから、有効な間合いはごくわずかのはずだ。五間以内――踏み込んできたからこそ向こうも仕留めにかかってきている。
八千は背後に猛火の壁を生みだして、わずかな時間を稼ぎながら逃げる。煉瓦倉庫の壁際を背にして、背後一八〇度を意識から切り離す。ひといき、大きく呼吸すると、首をめぐらして自分の周囲に焔を生んだ。
紅蓮の焔群は、八千の集中に伴い、青く薄く色彩を落ち着かせていく。さながら夕焼けが端から藍色に染まるように。温度を上昇させていった焔は、最後にはほとんど見えないまでに色を消し、ただそこに熱として存在した。
明るい色の焔に目が慣れ、肌も熱に焼かれることに慣れたレインは、八千の前に張り巡らされた焔の刃に気づけまい。設置が済んだところで、盾を駆使し猛火の壁を突破してきた彼女は、一直線に近づく。刃はたとえ錬金術師の作った特殊な銀の盾(でなければとっくに燃え溶けているはずだ)でも、容易く両断するだろう。
来い、と念じた。
途端にレインは、動きを止めた。八千の顔は驚愕に染まる。
「……対流が先ほどまでより激しい」
触覚が感じとった、たったそれだけで。乱れた空気の動きから、罠に勘付いて足を止めていた。まったく獣じみた勘だと、八千は恐怖した。
同時に、二段構えの策にしておいてよかったと。心から安堵した。
「ちょっと遅かった、ね――」
斬、と音がしてレインの背後に影が傾く。
上階層からの雨水を一時的に溜めておく貯水塔が、レインを迂回した焔の刃で支柱の一部を失い、中身をこぼした。振り向かずして音だけでこれを察したらしく、獣の足がうごめく。とっさに駆けだし逃げようとするが、さすがのレインももう間に合わない。八千の意図を先読みし、状況判断から安全地帯を探り出すからこそここまで回避してこれたのだ。
意図を読み切れなかった状況での広範囲爆発には、成す術もない。八千は屈みこんで、両耳を掌で塞いだ。
大量の雨水はこぼれた端から高熱の焔に注ぎ、瞬時に気体と化して爆発的な膨張を見せた。いわゆる水蒸気爆発が、あたり一帯を覆い尽くした。八千は眼前に爆焔の幕を張ったが、それでも相殺しきれずびりびりと全身が震えた。
焔が熱を奪われて、湯気と共に失せる。音がやんだあとには、一面が廃墟寸前のありさまとなっていた。砕けたギヤマンの窓、ひび割れた煉瓦にがたがたと崩れずれた石畳。
巻き込まれたのならレインの五体は引きちぎられているはずだ。正当防衛とはいえ――返り討ちにした感覚が、じくじくと胸をさいなむ。井澄に会いたいな、と思い、八千はそこから動こうとした。
瞬間に銃声に気づいて、耳鳴りのおわりと共に痛みを感じた。左の顔面に血しぶきを浴び、温かさを覚える。左肩に銃撃をかすめ、出血していた。次いで、背後の壁が崩れる。たった一発の弾丸で、分厚い煉瓦の壁を脆いビスキットのように粉砕したのだ。
「うそ――」
つぶやけば、向こうに築かれた瓦礫の山から人影が飛び出し消える。
「……まだ熱で景色が歪んでいたな」
目測を誤った己を責めるように言いながら、レインはピイスメイカーの再装填をはじめる。じゃこん、じゃこん、と弾丸が詰め込まれる音が頭上から聞こえて八千は戦慄した。瓦礫に体を縫いとめられ、うつぶせの体勢ゆえに背中側である真上は見えない。断頭台に括りつけられたような気分だった。
「どう、やって」
どうやって、水蒸気爆発に耐えたのか。
考えながら瓦礫の山を見るでもなく見て、ふと目に留まる。砕けた銀の欠片が、路面に散っていた。しかし不揃いな破片は大きさがあまりに細かく、それは爆発によってなされたものでないのは明白だった。思い至って、ぴんと繋がる。
錬金術で表面を砕けやすく、内側を硬く錬成し直し、外皮が弾け飛ぶことで衝撃を分散・吸収する形状を生みだしたのだろう。……あの一瞬でどうしてそこまでの高速思考ができるのだ、と八千は歯噛みする。
装填の音がおわる。撃鉄を下ろす音がした。
「さあ、死ね」
余分な会話は無い。ただ、幕引きをするだけだ。
冷徹な殺意に、けれど八千は目を閉じない。最後まで抗う姿勢で、彼女に相対する。たとえ背を向けていても――気持ちまで負けたくはなかった。女としての矜持のようなものを抱いて、立ち向かいつづけるのだ。
だが……いつまで経っても、死を招く銃弾は訪れない。どうしたことかと身をよじるが背中側は見えず、把握できない状況が数瞬つづいた。
唐突に、銃声が轟く。しかし八千に向けられていない。出来得る限り視線をめぐらせば、どさりと落ちてくる影があった。通りを挟んで向こう側の、貯水塔を抱えていた建物。その上から、人が落ちてきたのだ。
「く、そ……」
次いでレインのうめく声。こちらはさすがに落ちてくることこそなかったが、どこか苦悶に耐え忍んでいるような声音であった。ちっ、と妙な響きが耳に届いたのでそちらを見れば、一匹の鼠が去っていくところである。
間をおかずして、先ほどの煉瓦街の間にあった道より、赤毛の男が走り込んできた。彼は八千に気づくとあわてて視界の外に逃れ、その所作がレインの仲間であることを物語る。
「レイン氏、無事でございますか……ああ!」
なにかを見てとった様子で、男の声が遠のく。レインが上から着地してきたのか重たい足踏みの音がして、荒い息遣いが追い付いてくる。死の気配が濃厚に香る、危うい息の乱れようだった。息を呑んだ間があって、男の声が感情的になる。
「クレアのみならず……〝頼豪阿闍梨〟、よくも」
「おち、つけ……レイモンド。ひとまず、離脱、だ……あちらの伏兵、に、気づけなんだ……我らの、負、け」
咳き込み、レインの言葉尻が遮られる。しかしそちらはどうでもいい。赤毛の男が、井澄の投げ飛ばされた路地のほうからやってきたということが問題だった。
もしや、あの男。レインの仲間ということは、井澄を倒したからこそここに来たのではないか。いやな思考は加速していく。動かない己の体がもどかしい。八千は体をばたつかせ、なんとか瓦礫から這い出ようとする。早くと急かす気持ちにおされ、とうとう自分の体を見つめ、爆焔によって脱出しようかと考え始めた。
そこで路地からもうひとり現れる。制帽に被外套、手套をはめた警官然とした男――その後ろに、井澄がゆるりと姿をあらわした。
「あ……せい、と」
「……八千!」
すかさず駆け寄ってきて、瓦礫をどかしはじめる。彼の両足は粗末な包帯が巻いてあるが、抑えきれない血が脈打つたびに染みだしている。こんなことになるまで戦っていたのか、と胸にこみ上げるものがあった。
「無事ですか、怪我は」
「う、うん。平気。でも井澄こそ」
「見た目は派手で痛みもありますが、動くには支障ないですし出血もいまは落ち着いています。なんとかなるでしょう」
言葉を切ると、離れたところに視線をやる。そちらはレインと赤毛の男の声がしていた方だった。声だけでなく、気配も消えている。井澄が現れるまでに、逃げ出したらしい。
「この場で救援を待ちます。幸いにして、レインはいなくなったようですし、相棒らしきあの男も戦闘に耐えうる状態ではないはず」
「さっきの警官の人が、助けてくれたの?」
「いえ……一時共闘にすぎませんね。それに警官でもありません」
遠い目をして、今度は道の反対側に座りこんだ彼のほうを見やる。男は硬そうな制帽を脱ぐと胸元に抱え、少しうねった頭髪を整えてから、先ほど落下してきた人物の顔に触れている。落ちていた長銃を手に取り、目を閉じさせているようだった。
すっくと立ち上がると制帽をかぶり直し、両足のかかとを揃えて井澄に向き直った。
「夜想は逝きました。大義に殉ずる死、尊くて大変結構」
「……死が結構なものですかね」
「それは人によりけりであります。さて、自分は貴様のような殺人者を眼前に置いているといまにも斬りかかってしまいそうなのでね、これにて御免仕る」
「我々はここにいればいいのですか?」
「左様。じきにあの御方が、ああ、もういらっしゃいました」
敬礼の構えを見せ、警官らしき男が井澄の向こうを見る。上半身の瓦礫がだいぶよけられたため幾分動きやすくなっていた八千は、身をよじってそちらを見た。
痩せ衰えた、老獪な鶴、というのが第一印象だった。
濡れ羽色をした着物にインバネスをまとい、ひどく首が長い。わずかでもこれを目立たせないようにか、伸び落ちる白髪はそのままにしており肩を越える程度まで垂れていた。面立ちはかつて精悍な面構えだったころをうかがわせる力に満ちているが、緩み落ちた皮膚は齢を感じさせ、深く二重に刻まれたまぶたも半ば閉じている。けれど、瞳だけが爛々と輝いている。
「――取り込み中だったか?」
長い首をかしげて、老人は言う。四つ葉四権候のような威圧感はない、藹然とした物言いだった。けれど深いところまで何も見えない、不気味な雰囲気をも内包している。
老人の周囲に漂う暗く虚ろな空気は、どこか――人外れた、自分に似たものであると判じられた。老人はくつくつ笑って、倒れ伏す八千を見ている。
「ほぅ、橘家の血脈。日輪の担い手。やっと、取り戻したようだな」
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横浜の街を遠く見下ろす、山の頂に位置する墓地。
簡素な、名前すら彫られぬ墓石の前にたたずんでいた村上は、常のような皮肉った笑みも失い、苦い思いのみを歯ぎしりに表していた。掻きあげて後ろへ流していた髪をかきむしり、力を失って座りこむ。片膝立てた横に顔を埋め、吹きすさぶ冷たい風にあてられるままでいる。
部下を用いて敷いた包囲網を抜けられ、玉木往涯を見失ってしまった。局面の変化に合わせて彼が動きだすであろうことを予見していたからこそ、レインたちを潜むように動かし情報屋を利して先手先手にと回っていたのだが――さすがに老獪な戦術家だけはあり、往涯は包囲を抜けて情報を得る手段を持っていたらしい。
「玉木往涯……〝隠神不通〟と呼ばれた腕は鈍っていなかったようですね」
立場や血筋のみで重役が選出され形骸化の一途を辿る統合協会において、往涯は術師としての実力も十分なめずらしい人物であった。とはいえ人外は媒介無く使用できる固有能力に魔力の大半を注ぎこむため、代償でも支払わなければ大魔術などは行使できないのが常なのだが。
件としての予言能力に合わせ、村上の前で見せた式神祓い、また異名の由来である優れた隠形術。突出した部分こそないものの、一人の術師としてはかなり完成されている。だからこそ油断はしなかった。一切隙を見せず押さえこむつもりだった。けれど、外部からの手引きによるものか、往涯は協会内部より忽然と姿を消していた。
「貞次郎……私は」
眼前に眠るかつての部下に語りかけ、村上は言葉を見失う。次に出てきそうなのは、泣き言くらいしかないと気づいたからだ。
気づきというなら、気づくのが、遅すぎたのだ。
井澄を傷つけず、彼を安全に生かすため村上とレインは立ち回ってきたつもりであったが……すべては、往涯の手の上だったのかもしれないとさえ、いまは思っていた。
言語魔術師の製作。それに伴う井澄の出現。殺言権の顕現と、これを隠すための村上とレインの狂言。井澄と橘八千草の偶然の出会い。矢田野山を焼いた陽炎事件。記憶を失った橘八千草の島流し。これを追う井澄の失敗と、呉郡黒羽への師事。そして島に渡った井澄と橘八千草の今日までの日々。
なにもかも、往涯の策から出ない範囲だったのかもしれない。
もちろん全部が彼の策略で進んでいたわけではない。しかし、彼はいくつもの種をまいて、芽が出るものを待っていたのだと思われた。うちの二つが、井澄と橘八千草だったのだ。
すべては――彼の言葉でいうのなら、
世界を救うため。
『国とは先人たちの積み重ねでできた、住みよい共同体だ』
先日、列席会議の終わったあと、執務室までついてきた往涯は席につくなりこう言った。
村上としても直接に相手の行動を自分の監視下におけることは有益であったため、最近は断らないようになっていた。大抵、往涯は取り留めもないことや列席会議への愚痴をこぼし、去っていく。
だがその日は様子がちがった。
『共同体なくして易き人の生活は有り得ん。そこで我々は育まれ、楽しみ、命を生きてきた。それを子に返すことで続いていくのが人の世だが、あいにく俺は子供に恵まれなかった。そして力が在りすぎた』
舌を、突き出す。そこにあるのは井澄や村上と同じ、銀の刺飾金。つぶやく言葉のすべてが託宣となり周囲に影響を与えかねなかった彼は、自ら楔を打つことでその力を封じ、己の予言を改ざんできる能力を探すため、言語魔術の研究に手を染めていた。
『だから、国に返そうと思うのだな』
そう、彼の欲していたことは――己の予言が示したこの国の滅びの未来を、回避することであった。
眠れる獅子と呼ばれし大国との戦乱。近い未来にそれを予言してしまった彼は、これの回避を目論んで言語魔術を研究しはじめた。一度口にした言葉は取り消せない――人間にとってはそうであるし、件という人外の妖である往涯にとってもそうだった。
だが研究は難航した。託宣を得る巫女の力をもとにした言霊扱う術、すなわち言霊術式。これに西洋の悪魔との契約術式を重複使用することで得た、悪魔との契約による言葉への干渉。
名執の〝言壊〟。睦巳の〝朽約束〟〝文解〟。
様々な術式が生まれたが、思うような結果は出なかった。往涯は追い詰められ、次善の策、次々善の策にも手をつけはじめる。それが錬金術や召喚魔術といった、西洋のその他の魔術であった。
それら直接的な金銭に関わるような研究を隠れ蓑に、彼はもうひとつ計画を進めていた。
それが、明暦の大火を引き起こしたという人外、日輪の担い手を目覚めさせることだった。
『そも、人外とはなんであると思う』
袖口に引っ込めた腕を、もう一度出す。動作の間に己の本質をはみださせたか、往涯の前腕は牛のそれに変じていた。件とは、字面通り人の頭に牛の身を持つ人外なのである。
『読んで字のごとく、人から外れた者……ではないか? 二百年の昔より残る言い伝え、それより以前の文献においても、人と比べた結果並はずれているとの見解よりも、人から外れた者という記述がじつに多い。それは、逆説的に言うならば、元々は人だったということではないか?』
彼は腕を人のそれに戻しながら言う。いや、本質は件なのだから、変えたというべきなのだろうか。
『人外はその多くが、人よりすぐれた力を持つ。俺はな、思うのだよ村上君。いま貴君が俺に抱いている恐れと同様に、昔の人々もそのすぐれた点をこそ恐れ、迫害してきたのではないか、とな。自分とちがうから、自分よりすぐれているから、人ではないと非難し己と同じ枠組みで比べられないようにしたということさ』
非難のきっかけは些細でいい。あとは流れが生まれ、彼らは自然と人から切り離されていく。その中には本当は大した能力も持たない、ただの人も多く含まれていただろう。だが妬み嫉みが彼らに降り注ぎ、居場所を奪った。
人の思いが、彼らの物理的な在り場を変えてしまい、精神的な在り様をも変質させた。
あとは、ただ周囲を呪うままに消える者、恨みつらみを爆発させる者、色々いたのだろうが、
『その中には、己にぶつけられた妬み嫉みを自己変革として本当に実現させる者もいた――人外とは、そういうものなのではないか?』
他人とはちがうと非難され、自分で変わろうと意識したとき、人は己の枠を越えることができる。過去の英傑や勇者と呼ばれる人物たちも、こうしたかたちで力を集めて人を越えた存在と成りえたのではないか。そう往涯は言う。
思いは、呪いのようなものだ。他人にかければ『のろい』となり、己の決意としてかければ『まじない』となる。両方が合わさった結果、肉体の質や保有する能力まで変化した人間――それが人外なのではないかと、往涯は推測していたのだ。
『俺たち件でいうなら、勘がよく物事を当てる連中が疎まれ弾かれた結果、かもしれんな。まあ、とにかくだ……そうであるならば、素質のありそうな人間にわざと非難や呪いを浴びせ続ければ、意図的に人外を生みだすことができんものかと、俺は考えた』
意図的な、人外の製作。
そんな目的のために、幾人が人としての営みを奪われたのだろう。
『狙いは術師の家系などを主とした。信ずるものすがるものが強く存在しているほど、最後の拠り所として異能に頼ると思ってな。結果は上々、とは言えなかったが、いくつかの例を得て結果を原因に反映し、さらに俺は試行を繰り返した。果てに片鱗を見せたのが、奴だよ』
橘、八千草。
橘家の血筋をもとに人里から隔離し、あらぬ噂によって非難の呪いを浴びせ続けた結果、本当に日輪の異能を宿してしまった人外。人外れた者。あの危うい化生は、目の前にいるこの男によって生み出された存在だったのだ。
『非難というものを生むための情報操作。および地脈による霊道の交差点に家を置くこと、山の中でも霊格が扱いやすい場であること……様々な条件を加味した結果、奴は日輪を備えてくれた。あとはこれを御する術を得んとしたわけだが、いやはやひどい邪魔が入ったものだ』
村上を見ながら、煙管に火をつける。何も答えず黙したままであることを肯定と受け取ったか、往涯は一服して話を続ける。
『橘八千草が日輪を使いこなす前にと、明暦の過ちを恐れる者どもが暗殺に向かった。結果あの力は失われた、奴の記憶と共にな。俺も大層嘆き悲しんだものだよ。けれど天運というものはあるのかな……奴の力は眠っただけで、その身に危機が迫れば再発現すると、俺たちは気づくことができた。確実なとどめを与えんと、またも刺客を送り込んだことが災いしたな』
ぎろりと見据え、往涯は笑んだ。村上は身を強張らせる。村上は自身がそれなりに有能で怜悧な部分を備えた人間であると、客観的に見てもそうであると自認し自己把握しているが、いかなる策を講じても、もうこの男には抗することかなう気がしていなかった。
だから、最後の最後と思われるこの局面で、問うてしまったのだろう。
『なぜ』
『うん?』
『なぜ、私にそんなことを話したのですか』
『貴君が俺の邪魔をしていると知っていたから――だけではないよ。ああ、それと貴君を恨んだりしているわけでもないから、そこは誤解しなくともよい』
晴れやかな笑顔を浮かべ、往涯は言う。それは優位に立っているから生まれるものではなく、常日頃から彼が湛えている奇妙な感情だ。いや、もはや感情などという外部刺激に応じて生みだされる曖昧で不安定な代物ではなく、確たる主義として彼は明るくいることを選んでいるのかもしれなかった。
『俺はな、村上君。俺もいつかは道を断たれるだろうと考えているんだ』
うまくいくことなどひとつもなかったのだ。
『なにもかもに邪魔があった。障害の無い道などどこにもなかった。そしてそれは、誰にとってもそうなのだ。成功者の影には死屍累々、邪魔が過ぎればのたれ死ぬ』
でも進むしかない。
『俺は、貴君らの意見もある程度納得できている。賛同できんから理解ということは無理だがな。ゆえに折衝案は出せず、ぶつかり合うしかないと思っている。ああ、この世は、正しい答えなどなくすべてが真理だ。納得できるかどうかだけが真実だ』
だから国の終わりを変えるべく動く。
『俺には選ぶことしかできん。やるかやらないか。提示された予言に逆らわねばあるがまま見たままの景色が訪れる。事態が悪化するかもしれないが、動くしかない。次こそはと信じて、屍を踏み越え続けるしかない』
それはある人から見れば納得できず、間違っていることだろう。
『だが人間には運も寿命もある。幸いなことだよ。俺が敗れてもまた似た人間は出てくるだろうし、それは相手にも同じことが言える。この多様性を競わせ生命力を養うために人間という種は存在しているのであり、そうある以上勝ち負けなど本質的には存在していない。人外が虐げられることさえ、勝ち負けでも優劣でもなくただそれが自然ということだ』
どちらでもいいのだ。納得さえできれば。
『笑え。絶望を吹き払う笑みを湛えろ。諦念に犯しつくされるなどおかしなことだ。俺はいま生きている、幽体でもなく現世に干渉できている。命を生きていること以上に現世で奮える力などない』
どちらでもいいのだ。この男は。
『国を救うため途中で幾多の犠牲を出さねばならず、心苦しい限りだが。かといって俺が沈んでいてなにになる。一日を謝罪に費やすのは容易いが、その一日を頑張るだけで世界は変わり、わずかでも笑顔は増えるだろう。その中で俺は俺が笑っているほうが気分が良い。だから言うのだよ、笑えと』
どちらでもいいのだ。立場も、やり方も。もし村上がこの男の側に立ち、井澄を虐げ橘八千草を生むような人物であれば、この男はそれを阻止するいまの村上の側に立っていたのだろう。
いまこの男が言った通りだ。村上はこの男に挑み、井澄を守る戦いを行っているつもりだったが、彼にとっては勝ち負けなど存在しない遊戯に過ぎない。
この男には、戦わせる主義が無い。
ただ力を持て余し、目の前に遊べる課題があったから、いろいろ試しているだけだ。しくじればそれまで。未来を見過ぎた結果、現実に足を下ろすことを忘れてしまったのだろう。確定した未来を変えることだけに尽力し、世界というあまりに大きなものへ挑んでいるため、村上たちなどちいさな遊び相手にしか見えないのだ。
『大丈夫だ。必ず俺が、世界を救ってみせるよ』
いるがまま、あるがままの世界を、受け入れた上で破壊しようとしている。村上は震える手で、瞬時に懐のナイフを抜きはらい、ソファに腰掛ける往涯の首元に突きつけた。
『……私が、我々が、あなたを殺してでも止めようとしたら?』
『できるならばやればいい。ただひとつだけ教えておいてやろう。俺が今日貴君に話す場面までことづかってきたことだ。我々統合協会の計らいでこの国も戦艦保有数が上がり、徐々に〝眠れる獅子〟との戦争の準備も整いつつあるが……これに勝てども、次がある』
『次……!?』
『さらに北にある大国との戦乱だ。眠れる獅子との一戦でもそうだが、日輪がなければこの国など瞬時に吹き払われるぞ』
『あなた、自分が追い詰められたからと虚言を弄して、』
『そのように思いたければ構わない、が、たとえ虚言だったとしても事実上この国の術師の首魁である俺を殺せば数年は混乱期が続く。その間に眠れる獅子との戦争ははじまる、術師をまとめられなければこの国に勝機は無い』
まるでナイフを存在しないものと扱い、往涯は席を立つ。首筋に浅く、筋が入った。
村上はナイフを引き、しばし止まって、やりばもなく机に叩きつけた。これを見てさえ笑いながら、往涯は言う。
『世界の余地を失わせる予知などやはりつまらんな。こうなることは、わかっていた……』
やはり託宣を覆す力が欲しかったな、と子供のような物言いで、往涯はきびすを返す。その背を見つめながら――村上は、己に宿る力のことを思った。
近接格闘の名手であった自身の運動能力を代償に宿した、言語魔術。これを使うときではないかと、口の中に刺飾金を転がす。
これまで配下として動くことで、村上は往涯の予言における条件を調べ回ってきた。予言がかなうのは一日一度、それも遠い未来か近い未来かも制御できない。ただ的中率は内容を口外しない限り十割で、行いによって変化させることはできるが遠い未来であればあるほど変化させるのは困難となる。奴が眠れる獅子との大戦を予言したのは十七年前。期間が長いというのはそれだけ変化が難しい。だからこそ、いくつもの策の種をまいたのだ。
なにはともあれ、予言を口外したあとは未来変更が可能なのだ。そしていまさっき往涯は「今日貴君に話す場面までことづかってきた」と述べた。つまり、予言を口外している。
変わってくれ、と村上は願った。己に宿した言語魔術は、蝶のはばたきのごとくわずかな力しかもたないが。権謀術数の渦巻く統合協会内で、だれにも悟られることなく用いてきた力だ。
異能の名は〝思考錯誤〟。
かつて井澄を逃がすための狂言を演じた際に得た力を、解放した。
かくして状況は変わりつつある。往涯は本土を出、四つ葉に向かった。それが予言を覆す良手となったのかは、わからない。だが本来的に、運命とはそういうもののはずなのだ。
村上にとって往涯は敵ながら近くありすぎて、未来予知を普遍的にあるものと捉えがちにさせてしまっている。
「……流れ、は」
どちらに向かうかわからないのが、普通なのだ。




