50:奇食という名の馳走。
食事回。ネタ回。
四区に向けて四人で走り、時折聞こえる警笛の音に耳をすませる。定期的に鳴るあの音が止んだら、満席御礼というわけだそうだ。これも伝聞の情報なので、どこまで信じていいかわからないが。
「そういや金はあるのかい」
「あっ、そういえば」
引っ越しや生活用品を揃えることにお金を使ったこともあり、井澄はいささか手持ちが不如意であった。と、後ろを走っていた靖周が薄気味悪い笑い声をあげて注目を集め、懐からちゃらちゃらと軽快な音を立てるガマ口を取り出した。
「ふっふ、案ずるな年下ども。今日は年長者として俺が支払いをもってやる」
「とか言っとるけどそれ、昼に仕事サボって賭場で稼いだあぶく銭なんね」
「というか靖周、あぶく銭があるならまず私への借金五円とか山井への診療代のツケを払ったほうがよろしいかと」
「きょ、今日の支払いで借金チャラにしてくれよ……八千草のぶんも払ってやんよ」
「五円ぶんも食べると御思いですか」
「えっだめなの」
「……あの、八千草。そんなにおなか空いているんですか」
「い、いや、そんなに食べる腹積もりではないよ。うむ」
彼女は見かけによらず健啖家なので、ちょっと怪しい気がした。
まあ値段についても風評はいろいろで相場がわからないので、どうなるやらわからないのだが。横で心配そうに銭入れを見つめている八千草を見ると、念のために借りることを考慮にいれるのもいいかもしれないと思った。
しばし行くと、曲所の駅が見えてくる。果たしてそこに、列車の姿はあった。
ゆっくりと煙をあげて進む、小さな汽車。照り返しの少ない板金で覆われた黒き車は、童の遊ぶ玩具のような、やけにつくりが大雑把に見えるものだった。
その後ろにちょんと一両、赤煉瓦色の客車がひかれて走っている。うすく輪郭をにじませる明かりをちいさな窓より外へ投げかけながら、ふしっ、と時折車体の下に蒸気を吐いている。
「よし、乗るぜ」
「おー」
乗り気な三船兄妹の声を聞きつつあたりを見回すと、人気はない。ちょうどよかったとばかりに、簡素なホームを駆けながら車両に追いつく。横に並んでしばし早歩きしていると、がらりと扉が横に開いたので順に中へ跳び移った。車内で焚かれるストオブの温かみが身を包んで、吐く息が白さを失い車内の空気に溶ける。ちいさく低く、口風琴の音が聞こえた。
店内は、外装から受ける印象よりもなお狭く感じられた。コンパアトメントが取り払われてがらんどうとなった車内左手に、日に焼けた畳座敷の席がひとつ。それから、車両を縦長に横切るかたちで、カウンタが置かれている。
席はほとんどが埋まっており、人々のひそやかな話し声が一瞬、井澄たちの来訪によって静まった。だがすぐにまたおしゃべりは再開され、なんとなく受け入れられたような心地になる。口風琴は客の一人である老人が演奏しているようで、彼は手を止めると、歯の抜けた顔をにかっと笑みに変えて座敷席から手を振っていた。
「四名様で」
カウンタのほうから、問いに拒否と沈黙を許さないような声がした。見れば、末端の跳ねあがった奇妙な――たとえるならアルフアベットのWだろうか、そのような形のひげを蓄えた初老の男が、鉄の平皿になにか料理を盛り付けつつ問うてきた。
「あ、はい」
「奥へどうぞ」
思わず返事してしまった井澄に会釈して、男はまた料理に意識を戻す。奥、と見やれば、バアラウンジを思わせるカウンタの端と隣接した四人掛けの丸テエブルがあった。つまり座敷席一つにテエブル一つ、それからカウンタが四席。これきりで、客はいっぱいであるらしい。
白黒チェックのタイルが敷き詰められた床をこつりこつりと四人で移動すると、カウンタの中から出てきた男が料理を客に届け、同時に井澄たちの入ってきた入口を閉じる。それから扉の窓に一枚、符札を張りつけると、車両全体に震えが走った。天井からさがるランタンや、ギヤマンを青く染めて花弁型に吊るした装飾硝子灯が、打ち震えてしゃんしゃんと鳴った。客がいっぱいになったので、人払いをかけたのかもしれない。
「ぎりぎりだったようであるね」
「四人分の席あいてて助かったな。山井とかいたらだれがのけ者になるか争うとこだった」
「十中八九靖周が下ろされると思いますよ」
「うん、それうちも否定できんね」
「ひどくない?」
たたん、たったん、小気味良い震動を感じながら席に着く。井澄は襟巻をほどき、靖周は羽織を、小雪路はウエストコウトを脱いでシヤンタンのキヤミソウル・ドレス姿になった。店内の幾人かが、二代目危神と気づいたかそれとも単に色香に惑ったか、彼女を見た。
見る目のある奴が少ないのか、八千草に目を留めた者は全体の三割ほどだった。いろいろな意味でいらついた。
「なにちょっと勝ち誇った顔してるんですか靖周うざい」
「いや、やっぱりよ、野郎が惹かれる部分って決まりきってるんじゃねえかな」
「総体としての均整取れたうつくしさが理解できない連中は帰ってください。よく御覧なさいよ、御宅の妹って顔は童顔でしょうが、均整取れてないでしょうが」
「その差異がイイという意見もよく聞く」
「理解しかねます」
「……なんの話をしているんだい」
靖周と言い合いをするうち、呆れた様子で八千草は腕組みした。いえ、なにも、と返しながら、井澄は溜め息をついた。彼女の小首をかしげた様が、あまりに愛らしかったもので。
「にしても、変わった店内なんね」
きょろきょろと周りを見回しながら、小雪路はテエブルに胸と両肘を置いた。言われてみればたしかに、色々な文化が入り混じった、独特の雰囲気をしていた。
まず座敷席とカウンタがある時点で和洋が入り混じっており、かと思いきや店の端にはいかにも大陸のものと見えるど派手な原色を用いた長く太いにしきへび……ではなく、龍の置物がある。その下には小成卦の八卦鏡があり、常に一定の方向を指しているのか列車が曲がるにつれて鏡面の向きが変わっていた。
また妙に車内を狭苦しく感じる原因として、頭上には棚が設置されており、大きなギヤマンの瓶や壺がいくつも並んでいる。中には、酒と見受けられる琥珀色の液体に、薬効のありそうな植物が漬け込まれていたり、まむしが沈んでいたり。
カウンタの中も、目にせわしない様子だった。とくに天井からつり下がる干した茸や野草、荒縄で縛ってある燻製肉などの食材が目につくが、調理道具も一風変わったものが多く壁にかかる。
なにに使うのかさっぱりわからない、底に大きな円形の穴があいた鍋。巨大で無骨な鉄鎚。どうしてか身の丈くらいの長さがある御箸。などが引っ掛かっていた。また金色の刃が包丁立てにささっているのが見えるが、あれは単なる装飾の色なのだろうか、それとも本物の黄金か。
気にし始めたら終わらない。気をもんでも始まらない。観察はそこまでとして、井澄は見回すのをやめた。
「どんな料理が出るのでしょうね」
「さあ。噂では献立表などはなく、その日手に入った食材で出るものが決まるとの話だけれど」
カウンタの中を見やると、ひげの男は忙しそうに動いていた。静かに素早く無駄が無い。
「……献立がないとなると、お代は?」
「それはお前、決まっているだろうよ」
「ああ。時価に決まってんだろ」
靖周は堂々と言うが、五円どころかもっと大した金額だったらどうするつもりなのだろうか。不安に駆られる井澄の肩をばしばし叩いて、左隣の小雪路が快活に笑む。
「井澄んだってお金じゃらじゃら持ち歩いとるじゃん。だいじょぶだいじょぶ」
「私の硬貨幣はどっかの国の安い銅銭が主ですよ。量はありますが大した足しにはなりません」
「しかしあまり料金についての噂は耳にしないのも確かであるね。靖周、時価というのはどこから聞いたんだい」
「聞いたっつーかそこに書いてある」
指差した方向には『お代は時価ですあしからず』とあり、その下には『Time is money, however it depends on the circumstances.』と書いてあった。
「え、それなんと書いてあるんだい」
「八千草、英吉利語は勉強していたのでは?」
「こう崩し字で書かれるとよめない」
「……また後日読み方を教えて差し上げます」
なんともしまらないまま、そわそわして料理の到来を待つこととなりそうだった。
ところがそこで、井澄たちのテエブルに隣接していたカウンタの席にいた男が、くるりと背後のこちらに向いた。
「あまり騒がれると不愉快千万。どうか心静かに料理を待ってはいかがでしょう」
「あ、どうもすみませ、……あ」
こちらを向いた顔には、見覚えがあった。
赤錆びめいた色合いの長い髪、とくに前髪は口許まで垂れて顔を覆う。柳を思わせる長身は腰かけていてもすっと伸び、赤きシャツに革のチョツキを合わせた服装がよく似合う。どこか遠くを望むような細い目をしていて、人形のそれがごとく切れ込みじみた口は、唇に色が無い。
詩神・黒衛。赤火最強の剣士にして、四天神の一角担う強者。先日の出会いからまだそれほど日を置いていないが、あの強さは井澄の目にしかと焼き付いていた。
「し、詩神……」
「そう、その名で呼ばれても僕は僕。ところでどこかでお会いしたことはあったでしょうか、あいにくと見覚えがない」
首をかしげる彼は、眠たそうにあくびをかましてカウンタに頬杖をついた。その様を見て、小雪路が目を輝かせがたっと立ち上がりかける。慌てて靖周が腕を引いて押さえた。こんなところで四天神同士の争いが起こってはたまらない。
だが黒衛のほうは一向に意にしない様子で、じいと小雪路を見やった。敵意もなく感情は無い。ただ相手がだれなのかを、見定めている。
「はてどなたでしょう。御若くか弱い女性だ」
「か弱……いや、あれでも一応あなたと同じ四天神なのですが……」
どうにも噂通り、情報に疎い人物であるらしい。
詩神。その名の由来通り、黒衛は詩作にふけって暮らし、その他にあまり興味を抱かない奇人変人の類であるという。……要は小雪路でいう戦闘への意欲を詩に向けている人間だ。先日の船舶でもパアティに出るでもなく護衛を果たすでもなく眠っていたように、一応は赤火の所属となっているもののその行動はかなり気ままである。
〝人材覇権〟と呼ばれるまでに豊富な人脈と用兵操作術を持つ九十九がなぜ扱いに困る彼を自らの葉閥に引き入れたかは、いまもってよくわかっていない。だが四天神と呼ばれた一人だけはあり、単独での戦闘力は凄まじいものがある。それだけは確かだ。
彼は一刀流とみられる剣術を修めており、極限までその技を研ぎ澄ました結果があの船室でも披露した〝雷切落し〟究極の対の先だ。その技は遠間をも断ち斬る抜刀術〝無尽流〟を操る先代危神・桧原真備と競り合うもので、また二人は剣士としての矜持のちがいか、常に犬猿の仲であったという。
細い目でじっと小雪路を見る黒衛は、次第に首をかたむけ、やがて肩に耳をつけそうな姿勢になると、跳ねあがるように頭を戻してつぶやいた。
「四天神……怪神はこんな見た目だったでしょうか」
「いえ、危神の二代目です」
「……二代目」
井澄が告げたとき、ちかりと目の奥に火が入った気がした。しかし勘違いだったのか、すぐに彼の目は平常に戻る。視線はあちこちに動いてなにか探していた様子だったが、眼球はまた一点、どこか遠くを見つめて止まった。
「剣客ではない、と。では結構。この僕には用事がないでしょう」
どうやら、小雪路の近くに刀がないかを探していたらしい。自らの刀を左脇に置いていた彼は、とたんにこちらへの注意を失い顔を背けた。そこへ小雪路が、興奮冷めやらぬ声をかける。
「用事、たしかにいまは無いからなんもせんけど。仕事入ったらうちとも戦ってくれる?」
「剣客以外との戦闘は不必要」
言って、ふいとカウンタのほうへ手を振る。どこからともなく懐中筆を取り出しており、カウンタに置かれていた羊皮紙につらつらとなにか書き連ね始めた。小雪路は断られたことに残念そうな顔をして、退屈そうに椅子を船こぎさせた。
間を見計らったように、最初の料理が運ばれてきた。ひげで口元が隠れているため、いささか無愛想に見える男は、白い小鉢を四枚と箸入れを器用に持ち運ぶ。
小鉢に盛りつけられたのはわずかばかり薄緑に色づく、小さな白っぽい野草の小山だった。箸先でつまむに大きすぎず小さすぎない幅で、花開く前の朝顔のつぼみを思わせる、ねじれた見た目の葉に水気を多分に含ませふっくらしている。味付けのつもりか、少量の油と大粒の塩がはらはらと散らされていた。
「先付けの万取劫の葉です」
簡潔に告げてカウンタへ戻っていく。聞いたことのないものだったので井澄は首をかしげるが、意外にも靖周がああ、と納得の声を出した。
「ひさしぶりに見るぜ。洞窟の中ほどに生える奴だ」
「洞窟に?」
八千草が問うと、うなずいて靖周は箸を取った。
「わずかな日の光しか入らなくても周りの同種に当たるよう、全体が白っぽくなった野草らしい。ただまあ、洞窟の中なんざ養分がないから大して味もない」
「まずいんですか」
「……いや、これは大丈夫だろ。見ればわかる。食えばもっとわかる」
勧められるまま、井澄たちは手を合わせていただきますとつぶやき、箸を伸ばす。まとめて三切れほどつまむと、井澄は口の中におさめた。
まず塩気がはしり、舌が起きた。しゃきりと噛み砕いた野草からは見た目通りの水分があふれ、しゅるりと口の中を浸す。人の手が入らない野草に特有のほろ苦さと、青く胸がすく芳香が鼻の奥をつつき、さらに噛みしめれば水分の中に甘みが感じられた。
けれどえぐみはない。降りかけられた油がえぐみを差し引いて、代わりにまろやかさを置いていった。最後に鼻の奥に微量の熱さが押し寄せ、油に鷹の爪がひたしてあったことを理解する。
「んまい!」
「二代目の少女よ、この僕が静かにと言ったばかりでしょう」
思わず叫んだ小雪路に、ばっと振り返って黒衛が苦い顔をした。
だが叫ぶのも無理はないか、と井澄はわずかばかり小雪路に同情する。ろくな味付けもされていないと見えた葉に、これほど旨みがあるとは思っていなかった。しゃくしゃくと八千草は手早く自分の小鉢に箸を伸ばし、頬をほころばせながら眉根を寄せた。
「味がしないなどとは大嘘もいいところであるよ」
「だからこれは大丈夫だって言ったろ。まだ色があおく残ってて、ひとつひとつが一寸ちょいだからな。たぶん朔の月の頃に生えてすぐ採ったんだ。生長に味が消費される前に」
「なるほど、大きくなる前が食べごろと」
おいしそうに食べている八千草を何気なく見つめた井澄だが、視線に気づかれるとなぜかすごくにらまれた。おまけにテエブルの下で向こうずねを蹴飛ばされ、うめきをあげると今度は黒衛ににらまれた。
「ん、瑞々しい。いい頃合いで採ったやつだなぁこれ。しかも体にいいんだぜ。万病薬にもなるって噂だ」
「そんな噂があるのなら、洞窟に忍び込んでやたらと採取する人が増えそうなものだけれど。市場でこれを見たことは一度もないよ」
「そりゃそうだろ、下手な奴が採りにいくと大抵死ぬそうだからな」
「え?」
「なんでも地面からこれを引っこ抜くと死ぬらしいぜ」
じゃああのひげの男はどうやってこれを手に入れたのか。不思議に思うと同時に急にこの野草がおそろしく思われて、井澄はちょっと手が止まりそうになった。
それからしばらくは黙々と各自の小鉢に向かい、小山をどんどんと崩していった。井澄が半分ほど食べたころには八千草がすべて平らげており、いかにも期待したまなざしをカウンタの方へ向けていた。黒衛は片手で羊皮紙になにか記しながら、もう片方の手で器用に酢の物を食べていた。
次に運ばれてきたのは漆塗りの椀だった。なにが入っているのかとふたを開けてみれば、実は椎茸が浮かぶのみだった。椀が透けて見える澄まし汁と見えたが、底の方にわずかばかり白い濁りが沈んでいる。
「透魚の澄まし汁です。音を立てないようにお召し上がりを」
「音を立てないように?」
「音を立てると全体が濁り味も悪くなります。箸も差し入れることはおすすめしません。椎茸は最後まで取りませんよう」
ひげの男に言われるまま、縁に口つけて音を立てぬよう息をひそめる。そこで鼻腔に香るふわりとした出汁は、すでにえもいわれぬ風味としてひとつの料理のように思えた。
ゆっくりと無音のうちに嚥下すると、喉の奥からほくりと味が広がった。焼き魚のふくよかな肉の奥、骨の髄を思わせる味に、焼けた皮の香ばしさを合わせたような芯のある品だった。
「これもうまいんよー、ってああぁ」
軽く叫んだ拍子に水面を揺らしてしまったか、小雪路の椀が一瞬にして白く濁る。おそるおそるそこに口をつける小雪路だが、すぐに悲しそうな顔で椀を置いた。どうしたんですかと問えば、「涙の味になった」となんだか詩的なことを言った。
「……ちょっと揺らしただけでこれとは、どうやって鍋から注いだのだろう」
「さあ。というか揺らしただけでだめになるのなら出汁をとる間も湯を沸かせない気が」
「煮立たせないでじっくり水から出汁とるんだとよ。だから下準備で先に椎茸からも出汁とってんだよ。ただ透魚は、名の通り見づらいからどこに入れたかわからなくなりやすい。そこで箸でかきまぜたりすると、我が妹のような有様になる」
哀れな小雪路はしばしうつむいてじっと次の料理を待っていた。彼女の椀をふっと見やると、白く濁った中に、ほとんど透明であるがゆえに形が見えるようになっている透魚の姿があった。
全長にして三寸ほどの透魚は、円筒状の細い身の両脇に頭から尻尾まで伸びるひらひらとした布のようなひれを持つ、到底魚類とは思えない見た目をしていた。これも洞窟付近でとれるもので、空中に網を張っているとたまに引っ掛かるのだという。水棲ですらないのに、ホントにどうして魚とつくのだろうと井澄は疑問に思った。
椀物が空になると、次にきたのは刺身だった。
「春割魚の御造りです」
ひげの男が短く告げて去ると、また靖周が説明を加える。気候が暖かくなってきたころに、大量の魚群の先頭になって南下してくる魚だという。薄く桜色とも見える身に銀色の皮が輝いており、身と皮の間が白く境界として映えている。
「ここの身と皮の間の脂肪がうまいんだ。魚群もこいつを食いたくて追っかけてくるんじゃねーかって言われてるくらいにうまい。食べると不老不死になるとかいう噂もあってな、ちなみに見た目は下半身が魚で上半身が、」
「というかぺらぺら饒舌ですね。あなたその蘊蓄はどこから出てくるんですか。さっきからちらちら詩神がうるさそうにあなたを見てるんですよ」
「え、あ……あー、はは」
水菓子の仙果です、と出されたものに手をつけつつ、じっとこちらを見ている黒衛と靖周の目があった。しおしおとうなだれた靖周を尻目に、八千草は酒はないかとひげの男に問うていた。「今日は猩猩の酒です」と顔をあげた男は一言返した。
するとそこで黒衛が席を立ち、腰かけていた椅子をひいた。靖周がびくりとしたが、黒衛にはべつに怒りの様子は見えない。どうしたのだろうと緊迫の数秒が過ぎるうち、彼は羊皮紙を丸めて小雪路に差し出した。
「……二代目の少女よ。緑風に人は多くあるため誰に渡すか迷ったが、書き上げたこれをきみに託す」
「え、うち?」
「きみにしか頼めないとこの僕は判断しました」
唐突な展開に驚いているうち、無理やりに押し付けるかたちで黒衛は小雪路に羊皮紙を預ける。丸められているため中身はうかがえなかったが、書き上げたということはやはり、中身は詩なのだろう。
詩神なのだから当たり前のようにも思えるが、これは異例の事態だった。彼は創作に励む姿こそ多くの人に見られているが、作品をきちりと世に出したことは一度もない。「他者の承認を受けずとも己の中ですべて完結している」という妙な主義らしく、彼の文を見た者はじつは一人もいなかったのだ。
それがなぜ、と思いながら井澄たちが見上げていると、彼は長身を屈ませて、傍らに置いていた刀を手に取ると出入り口へ向かった。どうやら食事を終え目的も果たしたので、帰路につくらしい。
「先代危神の墓前に手向けを。お願いします」
ぼそりと願いを口にして、扉を開くと黒衛は消える。いったいなんだったのか、と店内にはわけのわからない空気だけが残った。ひげの男はその間も何食わぬ顔で動き、銚子を持って八千草の元を訪れた。受け取ってお猪口に注ぎ、言葉を発さぬまま八千草はひとくちあおった。
ややあって、小雪路は丸められた羊皮紙の端をつまんだ。
するするとほどくように、躊躇いもなく羊皮紙を開けた。
「ちょっとあなたそんな勝手に」
「え? 開けちゃいかんって言われんかったよ?」
屁理屈のようではあったが、たしかな事実であった。金をもらっての依頼というわけでもなく、個人的な頼みというだけである。
「しかし勝手に開けるというのは、どうにも」
「でも気にはなるよな」
「……小雪路、なんと書いてあるんだい」
八千草がうながすと、小雪路は曇った顔で書面から目を離した。
「わからん」
「読めないんですか……」
「おいなんだその目はなんで俺を見る。俺ァこれでも読み書きそろばん出来るし、多少は妹にも教えたぞ」
「いやこれ漢字でもひらがなでもないんよ」
「英吉利語かい?」
「みたい」
どれ、と手渡しで受け取り、八千草が開く。すると彼女もまた小雪路と似たような渋面をつくった。あ、これは、と思っているうち、井澄に御鉢が回る。
「よめない」
「筆記体だったんですね」
井澄は席を立つと八千草の背後に回り、彼女の横に顔を並べて一文ずつ目で追う。近い邪魔、と押しのけられて距離ははなれたが、それでも視線は羊皮紙に向け続けた。
――が、井澄の目は横書きで流麗に綴られる文章から滑り落ち、一番下の一文に向いた。
「…………は?」
そこには署名――黒衛の名が記されている。
同時に、筆記体の綴りも並べられている。崩した字で丸く描かれるのは〝Dear Hinohara〟。ここまでは、まあいいだろう。だが併記される名に、井澄は目を疑った。
「……呉郡、黒衛……?」
己が師と同じ姓が、まだインクを滲ませるままに踊っていた。
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数日経って、詩神が赤火より離反したという衝撃的な噂が四つ葉に流れた。
その日井澄は四つ葉新聞を読んでいる最中にこの一報を耳にしたのだが、そのとき誌面に目を落として、日付を見て、ふとあることに気がついた。
あの日、幻影列車で黒衛と遭遇した日は――危神が命を落としてから、ちょうど四十九日目のことだったのだと。




