47:こじつけという名の誤解。
「まったく、今日はひどい一日であったよ。このドレス、お気に入りだったのに」
ぼやく八千草は土埃をかぶった黒髪を払い、アンブレイラ片手に不機嫌そうな顔で歩みを進めていた。
端正に丹念に可憐なフリルとレエスで織り造られたドレスには汚れがちらつき、少々みすぼらしくなってしまっている。体の線がよく見えるそのドレスは井澄にとっても目の保養としてお気に入りの品だったので、やるせない気持ちになった。
それでも彼女の美しい面立ちには一切の曇りなく、パイプをくわえる横顔には凛々しさと儚さが矛盾なく同居していた。彼女の少し前に歩み出た井澄は燐寸を擦ると、垂れ落ちる湾曲した吸い口持つパイプに火を近づけた。
「うん、ありがとう……それにしてもまったくひどい。ここ最近の依頼で最悪のひとつなのだよ」
「そうですね。ずいぶんとくだらないことに巻き込まれたものです」
歩みを止めてじっと火をともす。燃え尽きた燐寸を手の内に握りつぶし、敷嶋の紙巻煙草をくわえて二本目の燐寸を擦る。井澄が煙を吹きつつ振り返ると、井澄と八千草に打倒された連中が、目を回して倒れ伏していた。奥には、放心状態でぺたんと座りこむ女もいる。
井澄たちは近場にあった伝書鳩の店に赴き、早急に必要な人材を招くよう依頼する旨を伝える文書をアンテイクへ送った。店番の山井が、意図をくんでくれるだろう。
店の前へ戻ると、まだ連中はのびていた。八千草が灰を落として、また煙草葉を詰め出そうとしていた。これから羊頭苦肉へ謝りにいきますので少々我慢を、と告げると、口寂しそうにしながら八千草はパイプをシガアケイスにしまった。
こうして、後処理がはじまる。
三層五区には二軒の奇妙な店が存在していた。質屋〝羊頭苦肉〟とえれきてる屋〝平賀電機〟。前者が赤火の所属、後者が緑風の所属である。今日はここへ呼ばれて、御守りとしての業務をこなしていた。
平賀電機の女店主、平賀水茂の言い分としては、「最近自分の店の品物が店からも流通途中からも盗まれることがあり、羊頭苦肉の店が怪しい」とのことだった。どうも冥探偵・式守一総との一件を思い出す依頼であったが、井澄と八千草は顔を見合わせてこれを受けることとする。
言われるがまま調べを進めるが、向こうの倉庫にまで立ち入ることは緑風の人間である井澄たちには許されない。盗品があるのかどうかは、結局確かめられずじまいだった。
仕方なく盗みの現場を押さえるべく、七日の間隠れて御守りの業務を成すこととした。
……そうして店の隣にある住居から交代で見張りを続け、三日目夕刻のつい先ほど。仮眠をとっている八千草の寝顔を眺めて一人悦に入っていた井澄は、平賀電機からの物音に気づいて慌てて飛び出す。
「だれですか、あなたがたは」
問いかけと共に硬貨幣を向ければ、彼らは動きを止める。そこにいたのは顔を覆いで隠したいかにも怪しげな男たち三人組で、井澄の敵意に気づくと即座に戦闘になった。
なんのかんのとひと悶着あり、三人の男には苦戦を強いられた。男たちは全員が異形の体術を操り、特に近接戦が苦手な井澄とはかなり相性が悪かった。
〝軟体術・極芸雑戯〟というらしいその技は全身の間接駆動がでたらめな運びを見せるもので、重心や足運びなどから挙動を読めなくなるという厄介きわまるものだった。あとから起きてきた八千草の蹴りを下腹部急所へ受けても平気だったあたり、骨掛けも使えるらしい。脅威の業だ。
決定打を与えられない戦いは長引き、数分にわたって競り合いが続く。しかし最終的には井澄たちが勝利を収めた。
彼らの曲芸じみた動きはどうやら相当に体力を消耗するらしく、長期戦になるにつれて目に見えて動きに粗が滲んできたのだ。やがて動きの繋ぎ、その類型が見えてきて、先手を取って封殺することが可能となる。
一人、またひとりと男たちは倒れ、狭い路地に突っ伏す。御守りの業務であるため殺しはせず、戦闘不能にすることで場を納める。井澄たちはやれやれと仕事の完了に至った。
ところがそこで慌てだしたのはなぜか平賀だった。不審な態度を見かねて八千草が詰め寄ると、彼女はあっさり白状する。
「……ほほう、盗まれたふり、だったのかい」
冷やかな声はぞっとするほど美しい。骨身にしみる恐怖を味わった平賀は、がっくんがっくんと首を縦に揺らした。
どうやらこの盗難騒ぎは、盗人と組んでの狂言だったらしい。「盗まれた」と騒ぐことで、本来品が売れるたびに発生する流通仲介業者への支払いを無しにすることが目的だったようだ。また流通途中で盗ませることで運搬業者に損害を請求し、懐を温めるなどの真似もしていた様子。
これらの事実が露見しそうになったため、井澄たちに盗人の存在を確認してもらい、やはり自分が被害者だと演出しようとしていたのだ。
「ごめんなさいもうしませんお願いですから許してください」
まるで定型文な謝罪の言葉を耳にしても、八千草の表情は固まったまま動かない。よりにもよって、湊波が流通に関する整備などを行っている最中に、この悪行に出たのである。残念ながらいかに緑風が自由な気風のもとに運営される葉閥であっても、許されることではない。
あきれ果てた八千草は緑風監督者(代理)としての権限により、厳しい処断を下すと告げてその場をあとにした。
そして現在。
日が暮れるころには緑風から集められた人材により、遠目で見る見るうちに平賀電機は解体されていく。八千草がパイプから灰を落とし、休憩をはさんで二度ほど煙をふかすうち、店からは品が運び出され現金が掃き集められ、どんどん空っぽになっていく。
「あああぁわたしの城がああぁ」
うめく平賀だが、このあと自分の体も絞りかすにされることを理解しているのだろうか、いやしていまい、反語。などと思いながら井澄は吸殻を近くの灰壺へ落とす。
ひとまず現金は先に迷惑をかけた方々への補償へ充て、商品は緑風配下の質屋〝質変化〟店主の男・並木藤次郎に鑑定を依頼した。高額な品は売り払ってさらに補償に充てるのだ。しかしえれきてるを用いた品というのはまた需要が微妙なため値がつけにくいそうで、とりあえず今日のところは商品回収に終始するとのことだった。
あっというまに作業は終わり、もぬけの殻となった店に平賀が残された。作業に駆り出された者どもは賃金をもらうと蜘蛛の子を散らすように消えていく。
最後に、生気を失っている彼女の首根っこをつかんだ並木が馬の荷台に放りこみ、処分が終了する。大柄な並木はハンチングをとって禿げあがった頭を見せ、八千草と井澄に会釈した。
「んじゃこれにて」
「ご苦労様です。なるだけ良い値をつけてやってください」
「へへぇ、お任せあれ」
快活に笑い、並木は馬車を駆る。と、手綱を引きあげたところで思い出したように降りてきて、荷台からひとつの品を井澄に渡した。滑らかな質感の、トランクのような大きさをした箱状の物体だった。突き出した片眼鏡のような部品が怪しい輝きを放っており、使い道のわからない井澄は素直に問うた。
「これは?」
「今日見た中じゃ一番値の張る品でさぁ。ぜひとっておいてください」
「まあそう言うのなら預かっておきますが……なんですこれ?」
「幻灯機ですよ。使い方は中に付属の説明書をご覧になって、どうぞ」
では、と今度こそ並木は去っていき、残された二人は首をかしげた。
「どうします?」
「……ぼくに訊かれてもわかりはしないよ。とりあえず」
ドレスの裾を払い、軟体男たちとのすったもんだで帯びた土埃を落とす。髪の毛先まで指を走らせ、ひっかかりを覚えるとそこを横目にむ、と眉根を寄せる。
「体をきれいにしたいね。今日はもう、湯あみとしようかな」
#
三層から五層へ戻り、幻灯機をアンテイクに置いて。とぼとぼと歩いて五区の自宅まで戻り、軽く泥を落として着替えてのち、二人は六区にある湯屋へ向かった。
井澄は常の三つ揃えのままだったが、八千草は湯屋に行くときだけは安いうつぶし色の着物に、言わず色の帯を巻いた。ドレスだと盗まれることがあるための措置だが、着物をまとう彼女を見るのは、このときくらいである。長く腰まで垂れ落ちる黒髪が、ゆらゆらと彼女の影を隠した。
「アンテイク住まいのころは、こちらの湯屋に来ることなどありませんでしたね」
「遠いからね。けれどまあ、こうして住まいと近くなってみると値も安いし、存外悪くない」
両手で手拭いを納めた手桶を抱える八千草は、すたすたと通りを行く。道幅は狭く舗装もなされておらず、いかにも下町といった風体の者が多く見られる。次第に平屋の家が多くなり、天蓋は低く道は下り始める。斜面の先、街路を突っ切った向こうは岩肌で、そこからが六区となっている。
六区、つまり各層の最奥は、四つ葉の複合階層都市の最奥だ。そこには銀山へ繋がる道があり、各階層とも奥深くで繋がっている。もっとも、現在は六層六区での赤痢流行に際して連絡通路は封鎖されているらしい。
「それにしても疲れた。徒労とは言わないけれど、ああした仕事はなるべく引き受けたくないものであるよ」
「帰ったら報告書を作って、流通方面への侘びと対策についての文書も作成しなくては」
「やだなぁ」
「手伝いますから」
「でもお前が手伝うと、なぜかいつも一人でやるのと大して変わらない時間がかかるのだよ」
なるべく八千草と共にいる時間を増やしたいのだから、しょうがない。とはいえ本心を隠すように、井澄はそらとぼけた顔で言い訳を口にした。
「作業自体は分担できているから、楽でしょう」
「それはそうだけれど」
「ならいいではありませんか」
「ううん? ううん……」
いい加減に丸めこんでいるうち、六区に入る。とたんにごうと激しい風が一吹きなだれこみ、二人の全身に寒気を叩きつけて去っていく。あとは、ゆったりと停滞した空気が、一定の温度を保った。
この坑道を利用した街は事情に通じていなければ廃坑に迷い込むこともあり、全貌を把握する者はいまだいないとされている。
大きく開けた入口は、まだ頭上も高い。天井まで三間(一間が約一.八メートル)、道幅も同じくらいといったところだ。松明やカンテラの明かりに照らされる道に居並ぶ者どもは、この鉱山における掘削労働者や彼らを客とする者が多く、意外に女性の数も多い。
というのも嘉田屋の支店が、これら六区の入口近くに建設されているためだ。「女性の目があるだけで労働者の働きにちがいが出るの」と、以前山井が話していたのを思い出す。同じ理由でここらは呑み屋などの娯楽施設でも女性が多い。もちろんあまり変なことができぬよう護衛の人間がついてはいるが、こうした一時の安息の地があることで、重労働は成されている。
道なりに進んでいくと、両側に岩肌を削った粗雑な階段が現れる。ここで上下に道が分かれ、天井は低くなる。上が第五坑道に続く道で、見上げると大きなボタ山が積まれている。もう少し進んだところで石炭、銀、鉄、銅などをおおまかに分ける施設があるのだ。
そして下の道は第六坑道、つまり六層へ続く連絡通路だ。いまは先の合流地点を封鎖しているが、そこに辿り着くまでの中途に、呑み屋や湯屋が岩室を用いてつくられているのだ。
「……あらおにいさん、きれいな身なり……坑道働きの人じゃないのね。ちょっと先の店で一杯やってからアタシと」「はいはい邪魔じゃま」
ここにも嘉田屋の客引きがいたが、八千草がはねのけるようにして進む。井澄もするりと横をすり抜け、先へ向かった。途中、じとっとした目で八千草が井澄を振りかえった。
「なんです?」
「いや、べつに……」
「ですか。それにしてもどこにでもよくいますね、嘉田屋の人々」
「……そしてお前も、どこでも嘉田屋の人間に誘われ過ぎであるよ。もしかして上客だったりするのかな」
「ご冗談を。私は一度たりともあの店を利用したことはありませんよ」
「靖周に誘われたりしないのかい。奴も一応はお前より立場が上なのだし、仕事の付き合いだー、とか口にしそうだけれど」
「個人的に誘われたことは幾度もありますが、同行したことは一度もないです」
「ふうん。……じゃあ女と一度も経験は…………ああいやなんでもない」
「個人的に誘われたことは幾度かありますが、どうこうしたことは一度もないです」
「こ、答えなくともよいよ。ごめん、悪かったよ、私的なことを尋ねるつもりではなかっ……おいなんだいその顔その満更でもなさそうな顔は」
「いえ特に意図あっての顔ではありませんが」
自分ではどのような顔をしているかわからないまま、井澄は首をひねる。八千草は軽く下唇を噛んで、ちらちらと目線を上げたり下げたりしながら、井澄と地面をかわりばんこに眺めていた。
「なんです」
「いや、なんだか、襲ってきそうな顔をしていたものだから」
目を伏せる様がなんだかとてもいじらしく見えた。
火に油を注ぐようなことをしないでほしい、と思いながら、井澄は「往来でそんなことしません」と返した。しかし八千草は「往来で」の部分を拾ってか、とてつもなく嫌そうな顔をして「今日はアンテイクに帰ろうかな……」と遠い目をした。井澄は全力で前言撤回を宣言した。
とまれ、湯屋に着く。くりぬいた岩肌に切妻造りの破風、懸魚が黒ずんで汚れている。じわじわと湿気が辺りを満たしており、引き戸を開けて入る。左手が男、右手が女だ。
「では帰るときには、口笛でも鳴らしますので」
「ああ、頼むよ」
八千草と分かれて、料金を払った井澄はのれんをくぐった。
すでにそこから湯気に満ちており、薄暗い室内は着物を置く棚の他、見えるものが少ない。すぐに曇り出した眼鏡を外してジャケツの胸ポケットへ入れると、井澄は襟巻をとってひとつずつ服を脱いだ。すべて畳んで棚に置くと、手桶片手にぶらりと浴室へ入る。
もうもうと立ち込める湯気が視界を遮り、容易には景色を見てとれない。数日ほど利用したのでいまでこそ勝手もわかっているが、知らないうちは大変だった。
炭鉱労働者が煤にまみれることを考慮してか、手前にひとつ、奥にもうひとつと湯船は分かれている。まず煤汚れの多い者は手前で垢と汚れを落とし、それから奥に入るのだ。知らずに手前の湯につかり、入る前よりも汚くなって慌てたのはつい数日前のことである。
いまは慌てず、奥へ向かう。手桶で湯をくみ体を流し、ほどよく身ぎれいに整えてから、ゆっくりと湯へつかる。岩をくりぬいた湯船の中で、じわじわと、身に熱がしみた。
この湯は鉱山から湧いたものを利用しており、土砂の運搬に使う蒸気機関を冷却する行程で温まったものを利用している。また金属製の筒がいくつも湯船に差し込まれており、ここから高温の蒸気を水中へ噴き出すことで湯を保温しているのだとか。
「湯屋の文化も所変われば、か」
つぶやいて顔を掌でぬぐう。三層では普通に火を焚いて沸かす湯であったため、このような発想で湯を温めるというのは珍しく感じられた。必要に応じた蒸気文化の浸透というものだろう。
適度に温まるまでじっとしているうち、人の出入りは激しくなる。ちょうど、鉱山での仕事も終わる頃合いらしい。いつまでも利用しているのも申し訳ない、もう少ししたら出ようか、などと考えているうち、ふと視界に違和感を覚えた。
人の出入りが激しい中に、一人だけ微動だにしない男がいた。まさか湯あたり、と思って眺めていると、ゆっくりとだが意志のある動きをしていた。では長湯をするタチなのだろう、という考えで一旦は落ち着いたが、しかしどうにも挙動が怪しい。薄暗い浴室の中、木製の壁際を行ったり来たりしているのだ。
「……、」
湯船の中を這うようにして、井澄は黙って男の背に近づく。男は一心不乱になにかをなしており、井澄の接近に気づいた様子は無い。
時折、水面下より鋭く腕を振るっていた。一挙動で水面下に戻す腕は水音ひとつたてず、動きは熟練されている。
薄暗い浴室で、井澄は銀の閃きをたしかに見た。湯の中から、男は刃を振るっているのだ――壁に向かって。細く、研ぎ澄まされた刃を用いて、少しずつ壁を削っているのだった。
「……なにやってるんですか」
「あん、あーバレたか。いやなにあとからお前にも見せてやるからよ、いましばらく黙っててくれ。薄いとこ探り当てたからもうちょいなんだ。まったく、前開けた穴がいつの間にか塞がれてやがんだもんなぁ……まあこの作業も充実感あるからいいけどよ」
色の薄い髪を垂らした、小柄な後ろ姿だけならば女性と見まごう。しかし側面に回りこんで表情をうかがえば、まなじりの垂れた目をさらにだらしなくしている様子が紛うことなき男だと理解させる。
阿保な作業に精を出す三船靖周は、後ろを向く素振りもなく、凄まじい集中力で刃を突きこんでいた。どうやら声をかけたのが井澄だとは、気づいていない声音だった。
「ちょっと、やめてください。それ以上は許せませんよ」
「止めるな、止めてくれるな。新しい世界が見えるんだ……今日は若いのが入ったんだ、いま見ずしていつ見る? 俺の目の黒いうちは止めさせやしないぜ」
訊いてもいないことを説明しながら、靖周は井澄を追い払う仕草を見せた。いままたかつりと小さな音と共に刃が当たり、壁から木片を散らす。心なしか、刃が先ほどまでより深く壁に沈んだ。
「おっ、うっ」
とうとう開通の手ごたえがあったらしく、靖周が感極まった声を出した。
心底気持ち悪いと感じた。
「やめてください」
「なにぃ、ここまで来てやめられるか。若いのが入ったっつったろ。いやぁ後ろ姿しか見てねぇがありゃきっと上玉だぜ……長い黒髪といいしゃなりしゃなりとした歩みといい、きっと浴室でも背筋のばして凛とした佇まいしてるに違いねぇ。そうそうそうだよ俺ァそういう女が見たいんだ。歳食って婆になるほどなぁ、手ぬぐいで前隠して自信なさげに背を丸めてる様がエテ公そっくりなんだよ。あんなもん見たら萎びるわ」
「知りませんよあなたの趣味嗜好など。だいたい後ろ姿のみでなにがわか……長い黒髪?」
「黒い着物に濃い目の黄色の帯を巻いてたっけな。湯屋ん中は薄暗いもんだから、顔はよくわからなかったが。まあそのへんの当たり外れも一興だよなー。体つきが良けりゃ、ちいと醜女くらいのほうが興奮する」
「だれが醜女ですかもう一回言ってみろ」
「いやそんな可能性もあるかもっつっただけだろ。なに怒ってんだよかりかりすんなよ一回のぞいて見ろって怒りもおさまるから。おっ……見えてきた見えてきた。ほうほう今日は若いのが多い、んでさっきの子は――ぐげ」
後ろから手ぬぐいを巻きつけ、頸動脈を絞めあげて井澄は靖周の背後で歯ぎしりした。
「こいつ、息の根止めてやる、私だって見たことないんだぞ」
「おま、げ、ちょっ、ぐぇげっ、……ぐへ」
ものの数秒で、靖周の意識を落とした。師・呉郡の糸使いのひとつだが、こんなところで巧くいくとは自分でも思わなかった。荒い息遣いで、力なく肩を落とした。
じゃぷんと落ちた彼の仕込み煙管を手ぬぐいのうちへ回収し、手桶に入れて湯からあがろうとする。疲れを落としに来たというのに、なんだかひどく疲れた。そしてしばし放置すべきかどうか迷ったが、まあついでとばかり、靖周を後ろから抱えて引きあげておくこととした。
そこで。
「……旦那、ひさびさに記事がはかどりそうですよ」
にやにやと笑みを浮かべる四つ葉新聞のブンヤ、踊場宗嗣に遭遇してしまった。
はっとして、自分の現状をかえりみる。意識の無い靖周を、湯船の隅で抱えている。当然裸身。荒い息遣い。
「誤解です」
「誤解も六回もありゃしませんて」
「これは、こいつが」
「誘い受けですか」
「お前も絞め落とされたいんですか踊場」
「うひいおっかない」
手が届く前に素早く逃げられる。人でごった返す浴室の中を、だれにもぶつかることなく遠のいていく。あの逃げ足こそが、踊場がブンヤとしてこの島に生き続けている理由だ。情報を得てすぐ逃げる。おそらくはいまから全力で追っても、追いつくことはできないだろう。
「……ああくそ、本当に、本当に。今日はひどい一日だ」
毒づいて、井澄は眉根を指で揉んだ。
次回、ちゃんと女湯描写。




