黒真珠の鍵(16)
赤い実をたわわに実らせた、自慢のコーヒー畑を一望しながら……一息を入れる、ロンディーネ夫人。少し前までは飲むならコーヒーよりも絶対に紅茶だと思っていたのだが、こうして自分の農園で生産された愛しい一杯を口に含むと、大抵の疲れも吹き飛ぶ。
この農場の正式な持ち主になって、3ヶ月。経営者としても、生産者としてもゼロからのスタートだったが、それでも……彼女の中に残された遺志は、新しい土壌にしっかりと根付いていた。
(あなた……今日もこうして綺麗な空の下で、美味しいコーヒーを頂いています。本当にありがとう……)
そんな事を考えながら、手帳と一緒に肌身離さず持ち歩いている1通の手紙を取り出すと、そっと確かめるように目を落とす。その文字はいつ読んでも、変わらぬ顔をしているが。何度読んでも、何にも代えがたい勇気を彼女に与え続けていた。
“愛しい君へ
手紙で君に告白しなければいけない事を、許してほしい。
きっとこの手紙を君が読んでいる頃には、全てが終わった後なのだろうな。
僕は自分の手に余る……山に眠っているらしい遺物が何よりも恐ろしかった。
だから、クロツバメ山脈を丸ごと買い取ってくれるなんて、政府が言い出した時は、喜んで手放したのだけど……まさか本当に、そんな物が生きた状態で出てくるなんて、想像もしていなくて。
今思えば、本当に僕は臆病で……救いようのない、大馬鹿者だったんだ。
でも君がこの手紙を読んでいるという事は、きっと僕は君を守り切れたんだろう。
その事実があれば、他は何もいらない。
例え、君の側にいることができなくなっていたとしても……最後の最後で、君にようやく何かを残せた気がするよ。
この先の君の人生が、実り多いものになりますように。
僕の行き先は天国か地獄かは分からないけど……どっちだって、構わない。
どんな場所からでも。いつでも、君の幸せを誰よりも祈っている。
ペルラ・ロンディーネ 5世”
自分に残された何かをしっかりと理解しながら、折角の手紙の愛しい文字を滲ませないためにも。そして、何よりも……自分を誰よりも愛してくれていた夫の分まで、これからの実りを見届けるためにも。溢れる涙を瞳に溜めたまま、二度と俯くものかと顔を上げて。間違いなく、天国にいるだろうロンディーネ侯爵に向けて、彼女は柔らかく微笑んだ。
***
「あぁ……喉が渇いた……エル……メ……水、持っていない……か?」
「そんな物……どこに……ある……っていう、んですかい……?」
刑務所で秘密裏に神経毒を生成していたことを露見させないために、その持ち主は収容されていた囚人達をきちんと隔離させた後……証拠隠滅の意味も込めて、クロツバメ山脈を「特定閉鎖区域」に指定し、既のところであらゆる者の立ち入りを禁じることに成功していた。
しかし、足を踏み入れることさえ許されぬはずの坑道を依然、1匹の怪物が彷徨っている。爛れた顔に、カラカラの喉。……数ヶ月も飲まず食わずのはずのそれは、出口を求めて重たい足を引き摺りながら、何度も何度も足元を確かめ……止め処ない、ため息をつく。
「……それもこれも……アニ……キが、あん……な手記を……鵜呑みにするから……!」
「フン……それ、はこっちの、セリフ……だ……! あんな鍵を……お前が……持ち出して、くる……から……!」
1つの体をまるで左右で殴り合うように、喧嘩を始める2つの頭。牙を剥き、淀んだ瞳になけなしの闘志を滾らせ、無駄な争いを一頻りした後に……いつも通り、悲しい呻き声をどちらともなくあげ始める。
「……ア、ニキ……どうして……こん、なことに……なったんだ……?」
「分か……らん……だけど……ずっと……このまま……なの、かもし……れない……」
容赦無く灯を奪われた後の義兄弟に残っていたのは、果てしなく続く、常闇の絶望。
元詐欺師の囚人・エルメルに自由を与えたのは他でもない、モーズリーその人だったが、当然ながら野心家で何事にも研究熱心なモーズリーはエルメルの「人を騙す手際」に利用価値を見出していただけだった。それでも、エルメルの方はその恩からモーズリーを兄貴と慕っていて……彼の命令で送り込まれた先から鍵を持ち出したのも、敬愛する兄貴のためだったのに。それをこんな所で詰られるなど、心外にも程がある。
しかし……それでもモーズリーから離れられないのは、例の「お仲間を作りたがる」永久機関の悪戯がもたらした結果にすぎない。あのドアの向こう側へ踏み出したあの日から、徐々に身に刻まれる異変に気づいて光の悪魔から逃げ出してみたものの。……時、既に遅し。中途半端に異形へ作り替えられた彼らを照らす光など、「迷子になったっきり2度と日の目を見られない」とかつて誰かが言っていたこの坑道には……1筋も残されてはいなかった。
【おまけ・黒真珠について】
主に「黒蝶貝」を母貝にして生成される真珠の一種で、その中でも割合、希少性の高い宝石に該当します。
純粋な鉱物ではなく、所謂「生体鉱石」。
宝石として扱われてはいますが、産出はかなり特殊です。
そして、そのためか……モース硬度は約3.5程度と、かなり弱々しい……。
更に悪い事に、汗等にも弱く、オレンジジュースをこぼそうものなら、大ダメージ。
オレンジジュースを何の気なしに、脱脂綿などちょっとザラザラした素材で拭こうものならあっという間に傷だらけ。
保管も他の宝石にぶつかっただけで傷になったりするから、分けないといけなかったり……かなり扱いには気を使わないといけない繊細な宝石なのです。
落としてすぐにパリン、なんてことはあまりないみたいですが……常々相手に「優しくしてね」を要求してくる、なかなかに憎いやつです。
なお、真珠は日本人の所有率が最も高い宝石だとも言われ、中でも黒真珠は「お葬式」に最適なジュエリーなのだとか。色もお誂え向き、という事なのでしょうが……そもそも、個人的には普段使いはなかなかにハードルもお値段も高い宝石だと思います……。
【参考作品】
『黒真珠/怪盗紳士・アルセーヌ・ルパン』
『十三棺桶島/怪盗紳士・アルセーヌ・ルパン』
主にモチーフの連想を練るのに参考にしました。
話の概要自体はあまり関連性がありません。




