3.10.希望
「ほ、本当ですか!?」
萩間の言葉に思わず飛びついた雪野は、彼の肩をがっしりと掴む。
女であるのに対した力だ。
それだけ本気で救おうとしているのだろう、ということがよく分かった。
力強いその手を優しく離す。
「的外れやもしれぬがな」
「いいえ! 私はそちらに賭けます!!」
「間違っていても恨むでないよ?」
答えを急ぎ過ぎたような気もしたが……やる気が出たなら何よりだ。
雪野にはもう少し詳しく、この事は話しておかなければならないだろう。
縁側に投げ出していた足を仕舞って胡坐をかき、雪野に向きなおる。
彼女もすぐに正座をした。
「鏡夜。異形の文献を持ってこい」
「どちらのですか?」
「継矢家の物だ」
「承知いたしました。真下様」
「ええ、手伝います」
二人の使用人は一礼をしてからその場を後にする。
残されたのは萩間と雪野、それと気絶している早瀬だけだ。
「先も話したが、妖は人間の恐怖を喰らう。恐怖がなければ生きられぬ故、奴らは人間を全滅させることはない。妖にとって恐怖は強さの源であり、弱点でもある」
「妖が恐怖すれば……弱体化する、って話ですよね」
「その通りだ」
これは稀にあることだ。
妖の中でも大きな存在が下級の妖に遭遇した際、気が弱かったり生命の危機を感じた時……つまり恐怖を感じた時に妖は弱体化する。
だが人間を捕食対象と見ている彼らは、人間と戦っている時は弱体化しない。
妖共の内情……もしくは全く別の勢力の介入が必要となる。
とはいえ、弱体化する個体もいればそうでない個体もいる。
力に大きな差があっても仲が良ければ弱体化しないし、大きな力を持つ妖が力を振るわなければ影響はない。
つまり妖同士の内情で弱体化することは本当に少ないのだ。
彼らとて自分の弱点くらい知っている。
だからこそ……妖は総大将を決めた。
「天逆海」
「あまのざこ?」
「妖の総大将……そして、全妖をまとめ上げた妖だ。これにより妖は力を削られることなく、今まで我らに対抗し続けているのだ」
妖の弱点を知っていた天逆海は、妖をすべてまとめ上げ、人間と戦うために団結する様に、と説いたのだ。
そのやり方は随分無理矢理だったと聞くが、その時の記録は存在していない。
なんにせよ重要なのは、妖同士でのいざこざがなくなり、仲間同士で足の引っ張り合いをしなくてもよくなったことだ。
その時から、人間や鬼、獄門の勢力は妖に押され続けていることは確かである。
「これが千年前の話だ」
「千年……」
「だが今回、秋の風がろくろ首衆に勝利した……。相討ちなら分かるが、勝利となると話は変わってくる」
妖同士で力の削ぎ合いは千年前からしなくなった。
そのため、今回の一件は何か他の要因で妖は恐怖し、力を削いでしまったことになる。
ろくろ首衆と最も繋がりが強かったのは二口衆。
前線を張っていたろくろ首衆と秋の風がぶつかり合っていたのであれば、二口衆に何かがあったに違いない。
そしてその場から最も近くにあるのが……“異形の村”なのである。
「旅籠殿は異形の地に落ちたと言っていたな」
「そんなことを……あれは言っていました」
本当に一言だったが、雪野はナテガが口にした言葉をしっかりと覚えていた。
旅籠の手掛かりに繋がる唯一の物なのだ。
忘れるはずがない。
「もし異形が何かしらの存在の出現で奮起し、二口衆に恐怖を与えたならば……」
「妖が弱体化したことも説明がつく、ということですか?」
「然り。その存在が、お主らの友である可能性は高い」
もちろん全くの見当違いの可能性もある。
まったく知らない渡り者かもしれないし、妖が反旗を翻した可能性もある。
だが異形が奮起するためには、何かきっかけがなければならない。
彼らは……従属を最も得意とする存在だからだ。
「萩間様、お持ちしました」
広大な日本庭園の奥から歩いて来た真下と鏡夜が、幾つかの資料らしき和綴じの本を持ってきた。
それを縁側に丁寧に置く。
「これは継矢家という一族が残したものだ。先祖は異形を従わせていたらしくてな」
萩間は一冊を無造作に手に取ると、すぐに開いた。
一度見たはずの文献を流すように読み続け、雪野に共有したい文書を見つけ出す。
三冊目でその文書を見つけたらしく、和綴じの本をこちらに向けてくれた。
ミミズの這ったような文字が続いている。
さっぱり読むことができないそれを、萩間は指を差しながら読み進めた。
「異形はあやし。従属すと身作り変ふ。名をまうけば生導きいだす」
「どういう意味ですか?」
「異形は奇妙。従属すると身を作り変える。名を授かれば生を導き出す。従属と名付けで異形は少し変わるらしいな。それくらいしか分からぬが」
パン、と音を立てて和綴じの本を閉じる。
萩間は他の資料にも目を通したことがあるが、そのほとんどは眉唾なものでしかない。
日記のようなものだったり、異形が妖ほどの力を有するなどといった内容だったりと様々だ。
読む価値はない。
「もし旅籠殿が異形に名付けをした場合……。異形は少しばかり変わっておるやもしれん」
「それに二口……衆? が恐怖したってことですか?」
「分からぬ。憶測の域を出ぬ話だ。これは旅籠殿がまだ生きている前提の話ゆえな」
「生きてます。大丈夫です」
「……」
真っすぐな目を見て小さく息を吐く。
手だけで資料を仕舞ってくれ、と使用人に促すと鏡夜だけは少し眉をひそめた。
折角持ってきたのにもう片付けさせるのか、と思っているのだろう。
真下がくすくす笑いながら鏡夜を小突いた。
「雪野殿は、長旅は得意か?」
「長旅ですか? い、いえ……」
「では覚悟しておけ。秋の風が集う最前線は馬で一ヵ月ほどの距離がある」
「う、馬で……!?」
移動時間を聞いて驚愕した。
馬は並足で行けば、休みながら五十から六十キロを一日で移動することができる。
馬が一日五十キロを移動すると考えると……。
目的地はここから約千五百キロは離れていることになる。
ここに来る道中、馬を何頭か見たがどうやら日本古来の小さな馬ではなく、現代で見るような大きな馬がこの世界にはいるようだ。
なので移動速度は変わらないはず。
この世界は思っている以上に広大な土地を有しているらしい。
想像以上に長い旅になる。
急に不安になってきたが、旅の道中は比較的安全で宿に泊まることができるらしい。
その際鬼の領地を渡ることになるのだが、その時でも野宿はしないだろうと萩間は教えてくれた。
もちろん不慮の事故がなけれあの話だが。
「では身支度を済ませねばな。一月経てば冬の風たちと前線も入れ替わるだろうしな」
「えと、その時萩間さんは?」
「颪は年中前線にいる故、案ずるな。帰されようとも粘ってみせよう」
膝を叩いて立ち上がる。
これから長い時間を掛けて旅籠を探しに行くことになるはずだ。
雪野は早瀬を揺すり起こす。
気絶しているのでなかなか目覚めないかと思ったが、意外と早く目を覚ました。
「……? あれ、俺は……」
「陸さん。旅籠さん探しに行くよ!」
「! 分かった!」
がばっと立ち上がった早瀬は、萩間を見る。
「どうしたらいいですか!?」
「まずは身支度を整える。道中、早瀬殿の稽古は私が引き受けよう。では、門で待っていろ」
「「はい!」」
友人、旅籠守仲を見つけて連れ帰る。
二人は彼が生きていると信じ、決意を新たに歩みを進めたのだった。
次章は旅籠視点へと戻ります




