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船という密室でもめ事は困る1

 船の手摺りにぐったりともたれ、サミュエルが肩を震わせる。

 少年の背中をマリアがさすった。

 苦笑いを浮かべる領主が、水のボトルを差し出す。


「サミュ、大丈夫かい?」

「……ちょっと、……大丈夫じゃない、です」

「サミュさんは、船ははじめてだったわね」


 ボトルに口をつけ、サミュエルが力なく頷く。

 いつにない、よれよれとした声だった。


「揺れといい、においといい、日差しといい……いえ。ついて行きたいといったのは、俺ですけど……」

「遠くを見詰めるといい。船酔いは、予測できない揺れに、脳が混乱して起こる症状からね」


 遠くを指差すノキシスの仕草に、サミュエルが海の彼方へ視線を移動させる。

 ううっ、苦しそうな彼の背を、マリアが優しくさすった。


 マリアの整備を行うために、彼等は海を渡っていた。

 ――何故、わざわざ渡航するのか?

 マリアが初期型の自動人形であるからに他ならない。


 貴族社会は見栄の張り合いである。

 自動人形もまた、貴族のステータスを示すアイテムのひとつである。

 古くさい初期型を稼動させている奇特な家は、もうほとんど残っていなかった。

 顧客が減れば、技師も減る。

 今では初期型を整備できる技師も数を減らし、数える程度にしか存在しない。


 これから会いに行く人物は、その数少ない技師のひとりである。

 長年マリアの整備を担当している技師は、現在親方(マエストロ)として、海の向こうで工房を開いているらしい。

 これは行かねばなるまい。ノキシスは依頼の手紙を出した。


「マエストロ、元気にしているかしら?」

「さてね。手紙で見る限り、息災そうだったが」


 ノキシスの相槌に、やわり、マリアの表情が緩む。

 彼女がこうして機能しているのも、全てはマエストロの整備のおかげだ。


「……そういえば、ノキ。シャール酒積んでましたけど、そのマエストロって人、酒飲みなんですか?」


 ぐったりとした顔をノキシスへ向け、サミュエルが問いかける。


 シャール酒は、領地ベーレエーデに自生する、木苺から作られた果実酒のことだ。

 液果の甘酸っぱさが癖になると評判だが、この木苺、生で食べるととても酸っぱい。

 ベーレエーデで育つ子どもは、みんな一度は好奇心から木苺を口に入れる。

 そしてその酸っぱさに戦いてきた。

 サミュエルもそのひとりだ。


「ああ、酒豪だね。わたしも一度付き合ったことがあるが、すぐに潰れてしまったよ」

「……ほどほどにしてくださいね」


 愉快そうににこにこする主人に、年若い執事がげんなりする。

 ノキがアルコールで倒れたら、どうしよう……。止めなきゃ。

 少年が、悪い顔色の下で思案した。


 マリアが、ふたりの様子を微笑ましそうに眺める。

 緩やかな金の巻き毛が、生成りのドレスとともに潮風になびいた。


 不規則な揺れを繰り返す船体は、清々しいまでの青い空と海の狭間を進む。

 蒸気船の動力音が、海鳥の気軽なみゃあみゃあ鳴く声と混じった。

 甲板を行き交う乗客は、富裕層が占めている。

 楽しげな談笑と、陽気なアコーディオンの演奏が、賑やかに響いていた。


 げっそり、サミュエルが項垂れる。

 ――うえっ、きもちわるっ。

 陽気な気分になんか、なれるわけないだろ、ちくしょう。

 彼の胸中は、暗たんとしていた。


「――どうしてですの!? お父様!!」


 不意に空気を裂いた、甲高い女性の声。

 はっと振り返ったマリアとサミュエルが、声の主を探した。


「テレジア、ユーリのことは……」

「ッ、わたくしは本気だと、あれほど申し上げたはずですわ! 例えこの身分を捨てようと、……いいえ! この身分が足枷となるのなら、わたくしは喜んで名を捨てますわ!!」

「落ち着きなさい! 何を馬鹿げたことを言い出すんだ!!」

「馬鹿なものですか!!」


 黒い髪の男性と、年頃の令嬢が言い争っている。

 船尾に位置するそこは、積荷である木箱の陰になり、人目につきにくかった。


「……喧嘩ですか?」

「さてね……」


 ますます激しくなる口論に、サミュエルが困惑の顔をする。

 止めた方がいいのだろうか? 少年が主人を見遣った。


 はたと瞬いたマリアの目が、すっと細められる。


「――ッ! お父様のわからず屋!!」

「待ちなさい、テレジア!」


 マリアの目が、はっと瞠られる。

 瞬間、彼女のヒールは甲板を蹴っていた。


「もし! そこの方、積荷から離れて!!」

「マリア!?」

「積荷を縛るロープが、切れていますわ!」

「!!」


 駆け出したマリアを、大きな揺れが襲った。

 船内の各地で悲鳴が上がり、アコーディオンの音色が途切れる。

 高波を過ぎたのだろう。青い空の行く先に、重たい雲が見えた。


 マリアの声に振り返った男性が、傾く木箱に青褪める。

 彼の腕は、年頃の令嬢の身体を突き飛ばし、落下の派手な音に飲み込まれた。

 転倒した華奢な少女が、顔色をなくす。

 これ以上の木箱の落下を防ぐため、駆けつけたマリアがその身を呈した。

 細身の彼女が積荷を押さえる。


「マリア!!」

「お、お父様!? お父様ッ!!」

「危ないから、下がって!」


 這い寄ろうとする令嬢を、サミュエルが止める。

 騒ぎを聞きつけた乗客等が悲鳴を上げ、幾人かの男手が木箱を動かした。


 一辺が1メートルほどの木箱は、釘でふたを塞いでいる。

 男性の上にのった木箱を退け、ノキシスが屈んだ。

 肩を数度叩いて呼びかけ、首筋に指先を添える。

 うつ伏せに倒れる彼に、意識はなかった。


「サミュ! 船員と医者を呼んできてくれ!」

「わかりました!!」


 男性の脚にのった、持ち上がらない木箱に苦戦していたサミュエルが、即座に駆け出す。

 懐中時計を引っ張り出したノキシスが文字盤を一瞥し、焦ったように頭上を仰いだ。


「……天候が崩れてきたな」

「お嬢様……? だ、旦那様!? 旦那様!!」


 使用人の制服を纏った青年が飛び出し、うつ伏せの男性に縋りつく。

 はっと顔を上げた青年が、男性の脚を下敷きにする木箱を動かそうと力を込めた。

 先に奮闘していた乗客の男が、歯を食いしばって呻く。


「駄目だ! 動かん!!」

「くそッ、何が詰まっているんだ、この箱!?」

「無闇に動かさない方がいい! 脚が壊死する!」


 進む長針に視線を落としたノキシスが、焦った顔で叫ぶ。

 表情をぎょっとさせた彼等が、箱から離れた。


「きみ、担架を」

「ッ、畏まりました!」

「マリア! これを持ち上げられるかね!?」

「仰せのままに」


 指示を受けた青年が走り去り、他の乗客に積荷を任せたマリアが、ノキシスの元まで駆け寄る。

 華奢な女性の登場に、周囲が唖然とした。


「な、何を考えているんだ! 女性の手には余る代物だぞ!?」

「ノキ! 連れてきました!!」


 血相を変えた船員を連れてきたサミュエルの後ろから、小太りな男性が走る。

 汗を流す彼が、息を切らせながら傍らに膝をついた。


「ふっ、ふーっ、い、医者だ……。容態を……ッ」

「積荷の下敷きになって、およそ8分。彼の意識はなく、脈は少し速いね」


 懐中時計に視線を落とし、ノキシスが答える。

 患部を確認した医師が、積荷を動かすよう指示した。

 マリアの手に、力が込められた。みしり、音を立てて木箱が浮く。

 あんぐり、周囲の人々が口を開けた。


「お待たせしました! 担架です!!」

「助かる!」


 駆けつけた使用人の青年が抱える担架に、ノキシスが顔を上げる。


 かくして、救出された男性は客室へ運ばれた。

 使用人の青年の、「旦那様!!」と呼びかけ続ける悲痛な声が、連れ添って客室へ消える。

 残された令嬢は、乗客の婦人等に宥められ、怯えたように震えていた。


「わ、わたくし、なんてことを……ッ」


 震える令嬢の頬を、雨粒が叩く。

 あれほど穏やかだった天候は見る影もなく、ゴロゴロと重たい音を鳴らしていた。


「――誰だ!! ロープを切った奴は!?」


 積荷を積み直していた船員のひとりが、怒声を張る。

 ざわめきは乗客等へ伝染し、形のない恐怖となった。

 サミュエルが船員に混じり、切断されたロープを覗き込む。

 ギザギザと刃物のあとの残るそれは、人為的なものだった。

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