怪物は霧に潜む1
領主邸宅前の道は、わざと悪路のまま残している。
全ては監査のためだ。
監査に「こいつボンクラだな」と侮らせ、油断させるためだ。
ノキシスが馬車を用いず、自転車を愛用する理由も、ここにある。
車輪がガタガタ跳ねて、乗り心地が良くないのだ。
金に汚い守銭奴を演じるため、環境の整備を後手に回しているように印象付ける。
総合評価をギリギリ平均点に維持するため、ノキシスは大変気を遣っていた。
「や~んっ、ひどい道! おしり痛くなっちゃったわ!」
邸宅前に止められた高級そうな馬車から、純白のスーツの青年が降りる。
高い身長をうんと伸ばす彼の登場に、出迎えたノキシスの顔色が、サッと悪くなった。
「やーん! ノキちゃん久しぶり~! 元気だったあ~?」
「シュレー……」
片腕に大きなリボンの巻かれた丸い箱を抱え、シュレーと呼ばれた青年がにこにこ腕を振る。
薄茶色の髪は柔らかく、緑色の目と相俟り、温和で爽やかそうな印象を与えた。
……特徴的な話し方を除けば。
微笑を携えていたマリアでさえも表情を消し、無機的に腰を折る。
彼等の様子に困惑したサミュエルが、マリアにならって頭を垂れた。
荷物を受け取ろうと前へ進み出るも、少年を無視した青年は、ノキシスの前へ歩み寄る。
「全然本家に顔を出してくれないんですもの~、心配しちゃったわ~!」
「少し、……体調が悪くてね」
「んっふっふっふ~」
挨拶のためノキシスと頬を触れ合わせたシュレーが、喉の奥で笑う。
腰を屈めたまま、ぼそり、囁いた。
「その眼鏡、クソダサいわね。ノキちゃんに全然似合ってないわ」
ますます顔色を悪くさせたノキシスへ、姿勢を戻したシュレーが笑いかける。
毒などどこにもないような、好青年らしい笑みだった。
「はい、ノキちゃんへプレゼント! たまには都会へいらっしゃいな。歓迎するわ!」
「……ありがとう。……喜んでいただくよ」
「んっふふ~、どういたしまして」
どさりと手渡されるプレゼントの山。
にい、と目許を三日月形に笑ませ、シュレーがノキシスの肩を押して屋敷へ入っていく。
両腕で荷物を受け取った領主は、黙したまま大人しく彼に従っていた。
「……マリア、なんなんですか、あの人?」
事情を汲めないサミュエルが狼狽する。
マリアまでもが沈鬱な顔で黙り込んでおり、それがますます少年の不安を煽った。
唯一のメイドが、閉じた正面玄関を横目で見遣る。
重たいため息ごと、彼女が微かな声で囁いた。
「シュレー様は、監査官の中でも、特に恐ろしいお方なのよ」
マリアとサミュエルが、こそりと執務室を覗く。
ソファに座ったシュレーは長い脚を優雅に組み、積まれた書類をパラパラめくっていた。
「……シュレー様は、本家跡取り候補のひとりなのよ」
「マジですか!?」
声を潜めてかわされる言葉に、驚愕が滲む。
こくり、マリアがうなづいた。
「シュレー・ゲルトシュランク。オーティス様の弟で、本家筋の次男ですの」
「最悪じゃん……。なんでそんなのがここに来るんだよ……」
「わからないわ。けど、シュレー様の監査は抜け目ないと噂よ。解任へ追い込まれた人が、後を絶たないの」
「そんなっ」
サミュエルがまじまじと白スーツの優男を見詰める。
時折ティーカップを傾け、クッキーをつまむシュレーは、気軽に帳簿をめくっているようにしか見えなかった。
ただの金持ちのボンボンが、面白おかしく視察ごっこをしている。
サミュエルの目には、そのように映った。
パラパラとまくられる帳簿は微風を起こし、シュレーの前髪を揺する。
――大して中身を見てないだろ、それ。
ノキが連日苦労して作ったんだぞ。
サミュエルの中に、恨み言が湧き上がった。
そんな少年の意に介さず、持っていた帳簿をぽいっと投げ捨てる。
シュレーが、うんと伸びをして立ち上がった。
「ねえ、ノキちゃん。お散歩に行かなぁい?」
「今日はもう休んではどうだね? 長旅で疲れただろう」
執務机で書類を整理していたノキシスが、シュレーの誘いをやんわりと断る。
にこにこ笑顔で領主へ近づいた監査官は、優雅な仕草で腰を折った。
扉から覗くサミュエルたちの死角になるよう、机に手をつく。
「あたし、お腹すいたわ」
「軽食を用意させよう」
「いやーよ。ノキちゃん家の食事、あぶらっこいのばっかりだもの。でも、不思議なのよねぇ」
シュレーの手が、ノキシスの腹へ添えられる。
ゆっくりと撫でられるそれに、領主が笑みを作った。
監査官も微笑み返す。お互いがポーカーフェイスを浮かべ、腹の底を探っている。
「ノキちゃん、あんなにフォアグラだとかフィレ肉だとか食べてるのに、ぜぇんぜん太らないんだもの」
「さて、幸いにも太りにくい体質のようだ」
「や~ん、うらやましぃ~」
乙女らしい仕草で身をくねさせたシュレーが、ノキシスの耳許へ顔を寄せる。
わざとらしい高音ではない低音が、ぼそり、囁いた。
「いいから早く用意しなさい。パパに言いつけるわよ」
「……わかったよ」
静々書類を手放したノキシスが、大人しく席を立つ。
覗き見ていたマリアとサミュエルが、即座に壁際まで離れた。
置物のように背筋を伸ばす。
「んっふふ、ノキちゃんのオススメのお店を教えてちょうだい? こんなど田舎でも、パンくらいは食べられるでしょう?」
「さてね。生卵なら飛んでくるんじゃないかな」
「あら、石じゃないだけマシじゃない」
「サミュ、馬車の用意を」
ノキシスの指示に、敵意を懸命に飲み込んだサミュエルが腰を折る。
優雅な礼から顔を上げ、取り繕った無表情で踵を引いた。
少年の肩が勢い良く掴まれたのはそのときで、目を爛々と輝かせたシュレーが彼の顔を覗き込んでいた。
「やだー!! 超絶美少年じゃな~い!!」
「はっ?」
「ねえ、ノキちゃん! この子ちょうだい! そしたらパパに、『何ごともなかったですぅ』って報告してあげるわ!」
「は!?」
食い入るようにサミュエルの顔を見詰め、シュレーがとんでもないことを叫ぶ。
ぎょっとした年若い執事が、視線で主人へ助けを求めた。
しかし主人は、変わらぬポーカーフェイスを貫いている。
「困ったね。彼はうちの少ない働き手だ」
「新しく雇いなさいよ~。ねぇ、あなた、お名前は?」
指先で顎を持ち上げられ、サミュエルの全身が、ぞぞぞと総毛立つ。
ぎこちなく視線をそらせた少年が、「サミュエルです」端的に名乗った。
「やあ~ん! シャイボーイかっわいいー!!」
「ひっ」
「決めたわ! あなた、うちで働きなさい!」
堪らないとばかりに身をくねらせたシュレーが、にやけた顔でサミュエルを指差す。
唖然とした少年は、込み上げてくる口汚い言葉を飲み込むことに必死だった。
「ヘッドハンティングよ。うれしいでしょう? こんなど田舎から、大都会でお仕事できるのよ~? やーん、大出世じゃなぁい!! お給料だってガッポガポよ~!」
「わ、私はっ、ノキシス様に、仕えておりますので……」
「うっそー!? 忠義に厚い感じぃ? ノキちゃんに!? やーん、おっかしー!!」
高飛車な仕草でけらけら笑った青年が、意地の悪い顔をサミュエルに近づける。
少年の胸を人差し指で押し、にんまり、彼が囁いた。
「じゃあこうしましょう? あなたがあたしのモノになれば、ノキちゃんの処遇を考えてあげる。でも、あなたがあたしの誘いを断れば、ノキちゃんの人生はここまで。パパに首をはねてもらうわ」
「そんな!?」
気まぐれに決められた二択に、サミュエルの顔が青褪める。
愉快そうに笑ったシュレーが、ひらりと片手を振った。
「よぉく考えることね。さ、ノキちゃん行きましょう」
「……わかったよ」
愕然と震えるサミュエルを一瞥することなく、シュレーに肩を押されたノキシスが、彼等の前を通り過ぎた。




