第6話 残業明けのもふもふは沁みる
深夜残業明けの清々しい朝日が、ボロ屋敷の窓から差し込んでいる。
私は一晩で「激変」させてしまった裏庭の広大な田畑を一望し、満足げに頷いてから、抱えていた漆黒の仔犬――クロをベッドの上にそっと置いた。
「よし。これで一旦、本日の現場作業は終了ね。あとはハンスさんが起きるまで、ゆっくりブラッシングでも――」
「…………おい。いつまでそうやって、俺をぬいぐるみ扱いするつもりなんだ?」
部屋に響いたのは、凛とした、けれどどこか幼くて高い、鈴を転がしたような可愛い声だった。
「…………えっ?」
私は固まった。部屋には私と仔犬しかいない。
恐る恐る視線を落とすと、ベッドの上でよろよろと立ち上がったクロが、金色の瞳でじっと私を射抜いていた。
「な、なに。今の声、あなたなの?」
「……驚くのも無理はない。人間と言葉をかわせる魔物なんて、そうはいないからな。どうだ、驚いたか?」
クロが誇らしげに鼻を鳴らした。
喋った。ワンちゃんが喋った。
前世の常識が「そんなバカな」と警報を鳴らすが、今の私の脳は、警戒以前に別の解釈を叩き出した。
「すごーい! 魔物って喋れるのね! 音声入力・出力機能完備なんて、なんてハイエンドなペット……いえ、相棒なのかしら! それに、声がとっても可愛くて癒やされるわ!」
「……はぁ!? か、可愛いだなんて言うな!」
クロがむっとしたように顔をしかめる。その仕草がまた、小動物特有の愛くるしさに満ちていて、私の「癒やしを求める社畜の心」を直撃した。
「だって、本当のことだもの。鈴の音色みたいで、徹夜明けの脳にスッと馴染むわ」
「バカにするな! 俺の声は、聞くやつを震え上がらせる絶望の宣告なんだぞ! お前、よく聞け。俺は……たくさんの国を滅ぼして、神様にさえ恐れられた伝説の厄災獣、フェンリルなんだぞ!?」
フェンリル。
その名は、リリアの記憶の片隅にも「禁忌の存在」として刻まれていた。
本来なら、その名を聞いた瞬間に失禁して失神してもおかしくないレベルの、生ける災害。
けれど、目の前にいるのは、私の三時間の「残業代(魔力)」ですっかり元気になり、毛並みがツヤツヤになった五十センチ足らずの、ふわふわな仔犬だ。
「フェンリル……。……あ、もしかして、芸名(アーティスト名)みたいなもの?」
「本名だよっ!!ゲイメイって何かは分からんけど……。違うことはわかる」
あまりに全力のツッコミ。可愛い。
私は思わず、クロの頭をわしわしと撫で回した。
「いいのよ、クロ。フェンリルさん(自称)でも、何でも。あなたが私の魔力で元気になって、こうしてお話しできるようになったことが重要なんだから。これって『互換性の確認』が取れたってことよね。素晴らしい進捗だわ!」
「なっ、お前、俺の頭を……!? やめろ、離せ! 俺はすっごく偉いんだぞ!?」
クロは必死に私の手を逃れようとするが、足取りはまだ少しおぼつかない。
そのままベッドの上でゴロンと転がってしまい、腹を見せる格好になった。
「…………っ。……不覚だ。人間に、こんな恥ずかしい格好を……」
クロは顔を背け、金色の瞳を少し潤ませながらポツリと漏らした。
「……でも。……お前が俺を助けたのは、間違いないしな。あの罠には、嫌な呪いがかけられてたんだ。普通のやり方じゃ、俺の命は危なかった……。それを、お前のあの変に透き通った魔力が、全部綺麗にしちまったんだ」
クロは、気まずそうに視線を泳がせる。
「……恩を売られたままなのは、俺のプライドが許さない。……仕方ないから、不本意だけど、少しの間お前を見守ってやるよ。伝説の厄災獣に見守られるんだ、光栄に思えよな!」
ツーン、とそっぽを向く仔犬。
前世でアニメやネットを嗜んでいた私には、その態度が何を意味するのか、一瞬で理解できた。
「……あ。これ、いわゆる『ツンデレ』ってやつね」
「つ、つんでれ……? なんだ、その変な魔法みたいな響きは」
「ううん、とっても素敵で需要の高い属性よ。そっかぁ、クロは私に恩返しがしたいのね。つまり、自分から『雇用契約』を結びたいってことでしょう?」
「雇用……? いや、俺はただ、お前のそばにいてやるって――」
「わかるわよ。照れなくていいの」
私は満面の笑みを浮かべ、クロをひょいと抱き上げた。
腕の中に収まる、温かくて柔らかな重み。
そして、伝説の魔獣(笑)が発する、かすかなバニラのような良い匂い。
「本当は、もっとこうして、モフモフされたいんでしょう?」
「なっ……ななな、何を根拠にそんなこと……!! 俺は怖い魔獣なんだぞ! 撫でるなんて、普通なら命はないんだからな――」
「えーいっ」
私は指先をクロの顎の下に入れ、一番気持ちよさそうな場所を、絶妙な力加減でカリカリと掻いてみた。
前世で実家の犬を攻略していた私の『撫でスキル』を侮ってはいけない。
「ひゃっ!? ……あ、あう…………ぅ…………」
クロの金色の瞳が、とろんと蕩けていく。
喉の奥から、伝説の厄災獣らしからぬ「ゴロゴロ」という音が漏れ出した。
「……あ、これ、悪くない…………。……いや、全然そんなことないぞ!! やめろ、お前! そこは、そこは俺の……ああぁっ」
「はいはい、もっとこっちもね。一ヶ月の特訓で指先の器用さも上がってるから、フルコースで揉みほぐしてあげるわよ」
「……っ。……はぁ…………。……もう、勝手にしろ…………。お前がそこまで俺に触りたいって言うなら、特別に許してやるよ…………」
クロはついに抵抗を放棄し、私の膝の上で完全にリラックスした「液体」のような状態になった。
耳がぺたんと伏せられ、短い尻尾がパタパタとベッドを叩いている。
「ふふ、可愛い。……やっぱり、深夜残業の後にモフモフがいると、脳内麻薬が出るわね。これ、実質残業代みたいなものだわ」
「…………お前…………本当に八歳か? 時々、戦場を何度もくぐり抜けた老兵みたいな……あるいは、死を覚悟した暗殺者みたいな、恐ろしい目をしてるぞ……」
「あら。失礼ね。私はただの、仕事熱心な『当主代行』よ」
私はクロの耳の後ろを優しく揉みながら、窓の外を見つめた。
一晩で作り上げた広大な田畑。
そして、膝の上に収まった伝説の(ツンデレな)魔獣。
リソース管理は順調。防衛ユニットも確保。
次はいよいよ、この領地を本当の意味で「黒字化」させるための『製品開発』に入らなきゃ。
「さあ、クロ。これから忙しくなるわよ。私の相棒(癒やし担当)として、しっかり働いてもらうからね」
「……俺をこき使うつもりか? ……ふん。せいぜい、お前の『仕事』とやらを見物してやるよ」
クロがふいっと鼻を逸らしたが、その尻尾は相変わらず嬉しそうに揺れていた。
コツコツと積み上げた努力と、偶然拾い上げた最強のモフモフ。
社畜令嬢リリアの「異世界ホワイト生活(仮)」は、一人と一匹の奇妙なコンビによって、いよいよ本格的な加速を見せ始めるのだった。
「(……あ、これ、ブラッシング用の櫛も作らなきゃ。……よし、今日の残業メニューに追加ね!)」
「おいお前。今、俺の毛をさらに弄ぶような邪悪な計画を立てなかったか?」
「気のせいよ。福利厚生の充実計画よ」
八歳の幼女の部屋から、楽しげな笑い声が朝の空気に溶けていった。
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