第2話 仕様確認と現状分析は仕事の基本
老執事――ハンスさんが、泣きながらを持ってきてくれた後。
「リリア様、まずは少しでもお腹を満たしてください。私は門前で暴れる不届き者どもを追い払って参ります」
そう言って部屋を出て行った彼の背中を見送り、私はようやく一人になった。
さて。
まずは、今の自分の「外装」を確認しなくては。
私はギシギシと悲鳴を上げるベッドから降りて、部屋の隅にある、ひび割れた姿見の前に立った。
「……うわぁ」
思わず、前世の社畜時代には一度も出したことがないような、間の抜けた声が出た。
鏡の中にいたのは、プラチナブロンドの髪に、サファイアブルーの瞳を持つ、一人の幼女だった。頬は少しこけているけれど、それがかえって儚げな美少女感を強調している。
「なにこれ……天使? いいえ、私だわ」
二十八歳、慢性的な睡眠不足で肌はボロボロだった前世とは別次元の存在だ。
自分の手をかざしてみる。白くて、小さくて、柔らかい。
「……可愛い。えっ、待って、これ最高じゃない? このビジュアルで『お願いします』って言えば、大抵のバグ修正通るんじゃないの?」
早くも自分の美貌を「商談の武器」としてカウントし始めるあたり、私の脳は相当に毒されている。けれど、この過酷な現場を生き抜くためには、使えるアセットはすべて投入するのが鉄則だ。
私は鏡の前で一つ頷くと、ベッドに戻って目を閉じ、記憶の同期を開始した。
「……なるほど。これがこの世界の『魔法』の仕組みね」
整理した情報はこうだ。
この世界において、魔法は特別なものではない。空気中に漂う『魔素』を体内に取り込み、体内の『魔力回路』で特定の形に変換して出力する。それが魔法だ。
一般的な魔法の使い方は、長い『詠唱』を用いる。
詠唱とは、回路を動かすための「手順書」のようなもの。呪文を唱えることで脳内にイメージを固定し、回路に魔力を流す。
だが、このリリアという少女の記憶には、絶望的な鑑定結果が刻まれていた。
『魔力回路が細すぎ、かつ不純物が多い。複雑な詠唱を流せば過熱して回路が焼き切れる。この娘に魔法の才能はない』
つまり、標準的なプログラミング言語(詠唱)で魔法を動かそうとすると、私の低スペックなハードウェア(体)がフリーズしてしまうのだ。
「……ふむ。システムで言えば、メモリ不足と帯域制限ね。なら、やることは一つだわ」
メモリが足りないなら、コードを徹底的に軽量化する。
仰々しい詠唱という「無駄なコメント行」や「冗長な構文」をすべて削り、魔力の流動を最小単位のバイナリデータにまで圧縮する。
前世のプログラマーとしての人生で、化石のような低スペックサーバーを限界まで使い倒したあの最適化技術を、魔法に応用してやるのだ。
そして、もう一つ。リリアの記憶には興味深い事実があった。
『魔力回路は、魔力を流すたびに摩耗し、微細な傷がつく。そのため、適度な休息を挟まなければ回路は損壊する』
だが、社畜の直感が囁いた。
それ、筋トレと同じじゃない?
破壊と再生。傷ついた回路が治癒する時、以前よりも少しだけ太くなる。
普通の人は「痛いから」「疲れるから」と、一日に数回しか練習しない。あるいは睡眠中にゆっくりと時間をかけて回復させる。
「でも、私には『ショートスリーパー』がある」
女神様がくれた、短時間で脳と肉体をフルチャージする特性。
三時間寝るだけで回路のダメージが完全に修復されるなら。
他の人が寝ている間に、私は何百回、何千回と回路を酷使し、破壊と再生を繰り返せる。
「一万回ノックすれば、細い針金みたいな私の回路も、いつかは超高電圧に耐えるケーブルに進化するはずよ。……よし、現状分析完了!」
私は脳内のホワイトボードに、この『ルベリット男爵家』の経営状況も整理した。
まず、【資産状況】。
最悪だ。一言で言えば「債務超過」状態。
数年前の冷害と、先代――つまり私のおじいさまが手を出した無謀な投資(怪しい魔導具開発らしい)のせいで、家計は火の車。現在の借金総額は、男爵家の年収の約十倍。利息だけで首が回らない。
次に、【人的リソース】。
これも壊滅的。
かつては十数人いた使用人も、給料の未払いが続いて次々に退職。現在残っているのは、先ほどの老執事ハンスさんただ一人。
お母様は数年前に病死。そしてお父様――現在の男爵様は、あまりの心労に耐えかねて、一週間前から寝たきりの「休職」状態。
つまり、現時点で稼働可能なスタッフは、八歳の私と、足腰に爆弾を抱えた老人一人のみ。
そして、【経営環境】。
領地は王国の端っこにある、魔物も出るような僻地。
作物は育たず、領民は飢え、隣接する子爵家からは「借金の肩代わりに領地を割譲しろ」とパワハラ紛いの圧力をかけられている。
「……うん、普通なら『詰み』ね」
けれど、私はふふっと笑みを漏らした。
前世の暗黒企業では、予算ゼロ、納期明日、部下は初日に逃走、クライアントからは深夜三時に「仕様変更」の電話。それでも私は現場を回し続けた。
それに比べれば、ここはなんて素晴らしい。
決定権は私(当主代行)にある。サービス残業という概念すらない「自分自身のため」の仕事。
その上、横になって三時間も眠れるのだ。
「ふふ、楽しくなってきたわ。まずは、ハンスさんが戻ってくるまでに……」
私はベッドの上で結跏趺坐し、指先に意識を集中させた。
目指すのは、初級中の初級。手元を照らすだけの『ライト』の魔法。
通常、教科書通りの詠唱ならこうだ。
『大気なるマナよ、我が呼びかけに応え、闇を払う清浄なる光をここに――』
「長い。ボツ。……変数:光、出力先:指先、持続:無限ループ。これでいいわ」
脳内で魔法式を極限までシェイプアップする。
細すぎる回路に、慎重に、かつ高速で魔力を通す。
……パッ。
「あ」
指先に、針の先ほどの小さな、けれど透き通るような光が灯った。
瞬間、指の奥に焼けるような痛みが走る。回路が悲鳴を上げている。
「……っ、痛い。でも、通ったわ。私の勝ちね」
一回の魔法でこれだ。普通の令嬢なら泣いて寝込むだろう。
だが、私は笑顔を深めた。
「あと数千回繰り返せば、この痛みも『あー、今日も働いてるなー』っていう達成感に変わるはず。……デッドラインを回避するために、残業を始めましょうか」
外では借金取りの怒鳴り声が聞こえるけれど、私には心地よいBGMだ。
八歳の幼女の指先で、小さな光が明滅を繰り返す。
破壊と再生。最適化と反復。
社畜の意地が、異世界の理をコツコツと塗り替え始めた。
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