第1話 転生 すなわち長期休暇
月間残業、百五十時間。
この数字を見て「うわっ、ブラックすぎる」と思った人は、きっと真っ当な世界に住んでいる幸せな人だ。
私のいた世界では、これは『今月はちょっと余裕があるね』という挨拶に使われる数字だった。
私の名前は、佐藤愛。二十八歳。職業、システムエンジニア。
……だったもの。
「あー……。ディスプレイの文字が、なんか、可愛い小鳥に見える……」
深夜二時。誰もいないオフィスで、私はキーボードを叩いていた。
三日ぶりの帰宅……は、とうの昔に諦めた。デスクの下に敷いた段ボールが、最近では高級羽毛布団のような寝心地に感じられる。もはや私の感覚は、バグを通り越して仕様変更されていた。
栄養ドリンクの空き瓶が地層のように積み重なったデスク。
鳴り止まないチャットツールからの通知音は、私にとっての鎮魂歌だ。
『明日までにこの仕様変更、反映しておいて』という上司のメッセージ。明日というのは明日の始業時間までであり、はあと5.6時間後にはやってくるのだが、どうやら彼の中では時間は無限に湧いてくるリソースらしい。
ふらふらと、コンビニへエナジードリンクの補充に向かった。
横断歩道。深夜の静寂。
そこに、煌々と輝く二つの光が近づいてくる。
(あ、大型トラックだ……。あれに轢かれたら、明日の納期、守らなくて済むのかなぁ……)
普通ならブレーキをかけたり、避けたりするんだろう。
でも、三徹目の脳が下した判断は違った。
(……やっと、休める)
ガシャォォォォン!! という派手な衝撃音と共に、私の意識は真っ白な光の中に吸い込まれていった。
★
「あー、起きた? お疲れー」
目を開けると、そこは真っ白な空間だった。
目の前には、ポテトチップスを片手にソファでくつろぐ、ひどくズボラそうな美少女がいた。寝癖はひどいし、Tシャツには醤油のシミがついている。
「……上司、ですか?」
「失礼ね。女神よ。一応」
自称・女神は、袋の底に残ったクズを口に放り込みながら、面倒くさそうに私を見た。
「あんたさ、働きすぎ。死因、過労死よ。心臓が『もう無理ポ』って言って止まる寸前にトラックに轢かれたから、実質ダブルノックアウトね」
「そうですか……。ご迷惑をおかけしました。それで、次のお仕事は何でしょうか? 開発ですか? 保守ですか?」
「仕事の話しかできないの!? ……まあいいわ。あんたの人生、あまりにも悲惨だったから、特別に異世界へ転生させてあげる」
転生。流行りのやつだ。
女神は指をパチンと鳴らすと、空中にモニターのようなものを出した。
「ただし! 私も忙しいから、転生先は適当に選ばせてもらったわ。あんた、前世で徳を積んだっていうより、ただの社畜だったでしょ? だから、かなりハードな環境よ。覚悟しなさい」
女神はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべ、説明を始めた。
「転生先は、滅びかけの王国の、さらに没落寸前の男爵家。名前はリリア。八歳。
親は借金まみれで心労で寝込んでる。
領地は荒れ放題で、作物は育たない。
使用人は給料未払いで全員逃げた。
さらに、あんた自身には魔法の才能がこれっぽっちもなーい!
どう? 絶望した? 泣いて謝るなら、もうちょっとマシな――」
「……えっ」
私は、女神の言葉を遮って、震える声で尋ねた。
「今、なんておっしゃいました……?」
「だから、借金まみれで、才能もなくて、誰も助けてくれない没落――」
「睡眠時間は、どれくらい確保できますか?」
「はあ? 知るもんですか。誰もいないんだから、あんたが自分で働かなきゃ餓死するわよ。まあ、せいぜい三、四時間寝られればいい方じゃない?」
私は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
「三、四時間……!? つまり、毎日必ず三時間は寝ていいということですか!? 椅子の上じゃなくて、横になって!?」
「え、ええ。まあ、誰にも邪魔はされないけど……」
「ノルマは!? 月の残業時間は!? 上司からの深夜三時の進捗確認は!?」
「だから、誰もいないんだってば……。借金取りは来るだろうけど……」
信じられない。
上司がいない。
無理難題を押し付けるクライアントがいない。
深夜の会議がない。
その上、横になって三時間も眠れる。
「……神様。あなた、聖母か何かですか?」
「女神だってば」
「こんな恵まれた環境、いいんですか!? 自分で働けば働くだけ、全部自分の成果になる(自営業)ってことですよね!? サービス残業という概念が存在しない世界!! 素晴らしい!!」
私は女神の手を握りしめ、ぶんぶんと振り回した。
「行きます! 今すぐ行かせてください! 月百五十時間の残業に比べたら、領地の立て直しなんてホワイトすぎて余裕です!! むしろ、やりがいしか感じません!!」
「……え、ちょっと、あんた本気? 没落令嬢よ? 泥にまみれて働くのよ?」
「前世では泥を食って生きてましたから平気です! あ、魔法の才能がないっていうのは、『基礎を徹底的に繰り返せばいい』ってことですよね? 試行回数で殴るのは得意なんです、私!」
「……。……。……わかったわ。勝手にしなさいよ」
女神は完全に引き気味に、私の背中を突き飛ばした。
「あ、そうだ! あんた、前世で身についた『ショートスリーパー』の特性、そのまま残しといてあげたから! 短時間睡眠でも脳がバグらないように調整しといたわよ! 呪いだと思って絶望しなさい!」
「最高のご褒美をありがとうございます!! 女神様、大好きです!!」
視界が再び光に包まれる。
私は、人生で初めての「長期休暇(異世界転生)」に胸を躍らせていた。
★
「……リリア様、リリア様!」
古い、カビ臭い匂い。
ガタガタと鳴る窓。
硬い、けれど確かに「横になれる」ベッド。
目を開けると、そこには涙を浮かべた一人の老人がいた。
「ああ、リリア様! お目覚めになられたのですね! 我が家はもうおしまいです……旦那様は倒れ、借金取りが門を叩いております。食べ物も、明日を凌ぐ分しか……」
私はゆっくりと体を起こした。
八歳の、小さくて軽い体。
視界の端に、窓から見える荒れ果てた庭が映る。
老人は「これからどうすれば……」と絶望に暮れているが、私の心は驚くほどに軽かった。
(……静かだ。チャットの通知音が、聞こえない)
深呼吸をする。空気が美味しい。空気がタダで吸える。なんてホワイトなんだ。
「ねえ、おじいさん」
「は、はい……」
「今、何時?」
「朝の、六時でございますが……」
私はベッドから飛び起き、満面の笑みで宣言した。
「まだ六時!? 始業まで時間があるわね! さあ、まずはこの屋敷の『仕様書(帳簿)』を見せて。それから領地の『バグ(借金)』をリストアップしましょう」
「は、はい……?」
「大丈夫。三時間も寝たから、今の私は無敵よ。さあ――お仕事(ホワイトな領地改革)を始めましょうか!」
前世で培った社畜スキル。
眠らなくても死なない体。
そして、自分のために働けるという、最高の喜び。
八歳の幼女リリア(中身は最強の社畜)による、異世界爆速成り上がりが、今ここに幕を開けた。
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