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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
99/123

病葉(五)

 

     10


 警備員から借りた鍵を鍵穴に差し込み、取手をまわす。長らく動かされることのなかった蝶番が耳障りな音を立てて軋み、錆びた鉄の匂いと共に扉が開いた。

 ゆっくりと屋上の端まで歩き、腰ほどの高さしかないコンクリートの囲いにもたれて眼下を見渡す。髪を乱す初夏の爽やかな風に、由那人が僅かに目を細めた。

 生と死の間には物理的な境界線がある。ある一定の条件さえ揃えば、己の意思でその垣根を越えることは難しいことではない。……そう、丁度この屋上の囲いのように。

 この囲いは余りにも低い。生きることに疲れ、心に隙間をもつ者ならば、ふとした拍子になんの躊躇いもなく越えてしまえるほどに。だから、二度と再びあのような『事故』が起きないように、来月辺りに高い金網が設置されるらしい。そう院内の噂に聞いてから、すでに一年が過ぎようとしていた。

 背後で蝶番が軋んだ。

「よお、生きてるか」

 口の片端を上げて、猫背気味の男が由那人に向かって顎をしゃくった。

「ここ、立ち入り禁止だぜ?」

「……知ってるよ。上の許可は取ってある」

「上の連中は相変わらずお前に甘いな。状況が状況だろ? 普通は許可しないぜ?」

 徳がある奴は違うな、などと言って苦笑しつつ、由那人の隣に立った山崎が懐から煙草を取り出し、口に咥える。

「……何か用か?」

「いや、別に」

 低めた声に微かな苛立ちを滲ませたにもかかわらず、山崎は悪びれた様子もなく肩を竦めた。

「お前がここにいるって、看護師達から聞いてさ。折角だから、猫探しのついでに見晴らしの良いところで一服しようと思っただけさ」

「猫探し?」

 ああ、と山崎が頷いた。

「灰色の仔猫なんだ。まぁ最後に見掛けてからだいぶ経つから、もう仔猫ではないだろうが……お前、見たことないか?」

「……いや、知らないな」

 蒼く澄んだ空を見上げ、その深さに思わず眼を瞑る。濡れそぼった灰色の生き物の映像が不意に脳裏を過った。

 音も無く降り頻る霧雨。

 長い黒髪を滴る透明な雫。

 しっとりと濡れた白いうなじ――

「……生きている人間は、死者に囚われてはならない」

 どこか投げやりな山崎の声に、由那人が我に返った。

「死に囚われて生きる者は、死に囚われて死んだ者よりも憐れなり」

「……聞いたことがないな。誰の警句だい?」

「俺の警句だ。今作った。気に入ったならお前に進呈するぜ?」

 由那人を振り返った山崎がにやりと口の端を歪める。昔から由那人は同期の男の、この人を食ったような調子がどうも苦手だった。これが患者を前にすると途端に穏やかで親身な様子を見せるのだから、ある程度の演技力というものはやはり医者には不可欠なのだろう。

 無言で目を逸らした由那人の横顔を眺めていた山崎が、ふと溜息し、疲れた顔でこめかみを揉んだ。

「白石……俺にはお前がわからない」

 煙草をくゆらせつつ、山崎が頭を振る。

「お前は常に物腰穏やかで、教授受けもよく、看護師に人気があり、患者には絶大な信頼を寄せられている。けれどもお前は時々、ひどく冷めた眼で人を見る」

「冷静且つ客観的であることは、優秀な医者の条件じゃないのかい?」

「それは確かにそうだが、お前のそれは冷静だとか客観的であるとか、そんなこととは次元が違う」

「僕が冷酷な人間だとでも言いたいのかい?」

「そこまでは言ってないさ。現にお前は彼女に……自分の患者でもなかった人間に花を捧げるような奴だ」

 由那人の足許に置かれた白い花束にちらりと目を遣り、山崎が笑いながらゆっくりと煙を吐く。

「だが一体何故お前が彼女に花を捧げるのかが、俺には解らない。それは若くして散った命への憐憫か、彼女を救えなかったことに対する後悔か、医者としての責任感か、それともそうする事を他人から望まれていると考えてのパフォーマンスなのか」

 舌にざらつく煙草の苦味のような同僚の皮肉に気付かない振りをして、由那人は軽く肩を竦めた。

「たいした意味は無い。単なる弟の月命日のお裾分けさ」

 弟、と聞いた途端に顔から薄笑いを消し、山崎が痛ましげに眉根をひそめた。

「……弟さんが亡くなられてからどれ位になるんだったかな?」

「今年で丁度二十年だよ。あいつも生きていればそろそろ三十か。月日が経つのは早いな」

 二十年間、由那人は一度として月命日の花を欠かしたことは無い。弟の消えたあの線路脇で、雨に濡れ、音も無く朽ちていった無数の花を想う。永い刻を、繰り返し、繰り返し、花は朽ち続け、還らぬ者を悼み続ける。

 由那人の足許に置かれた花をぼんやりと眺めていた山崎が、再び溜息を吐いた。

「お前、彼女が子供の頃に父親から暴行を受けていた事を知っていたか?」

「……あぁ」

「そうか。彼女は本当にお前を信頼していたんだな」

 担当医でもない癖に、全く妬けるなぁ、と山崎が笑った。

「彼女は別にお前を医者として信頼していなかったわけじゃないさ。ただ、お前が蟷螂に似ているとは言っていた」

「蟷螂だって? そりゃまた変なものに喩えられたもんだな」

「あながち間違ってもいないだろう」

「だが蟷螂は酷い。あれは肉食じゃないか。俺はご覧の通り、最近流行りの草食系男子ってヤツだよ」

 お前が草食系なのは見掛けだけだろうと言いかけてやめた。そんなことは、言われずとも本人が百も承知しているだろう。

「なぁ、知ってるか? 父親から虐待を受けた女性は、成人後にも虐待癖を持つ男と付き合う率が高い。ある種の心理コンプレックスだ」

「……その程度の事なら知ってるよ。心理学の基本じゃないか」

 実の父親による虐待被害者が、謀らずも成人後に父親に似た人間に惹かれる。それは決して父親への愛情などではなく、唯、彼女達は無意識の内に自らの歴史を塗り替えようとしているのだ。過去の人間関係を現在に再現することで、彼女達は今度こそは相手にとって過不足なく美しく、賢く、愛おしく、従順であろうとする。そんな自分を父親に似た誰かが絶対的に愛してくれるのならば、子供だった自分に決して与えられることの無かったモノを与えてくれるのならば、過去を塗り替えし、その痛みを永久に葬り去ることが出来ると信じて。

「そう、彼女も例に違わず、屑のような男ばかりと付き合ってきた」

 風に流れる煙草の煙を無言のまま目で追っていた山崎が、やがて靴裏で火を揉み消すと首を横に振った。

「俺に解らないのはさ、そんな彼女がなんでよりにもよってお前に惹かれたんだろうってところなんだ。品行方正で家族愛の権化のようなお前にさ」

 女心とは中々難しいもんだ、などと(うそぶ)き、山崎が踵を返す。屋上の出口へと向かう同僚の猫背気味な背中をぼんやりと眺めている内に、ふと疑問が湧いた。

 おい、と山崎を呼び止める。

「……僕がここに花を持って来た理由を、彼女への愛情だとは思わないのか?」

「おいおい、馬鹿にするなよ」

 一瞬だけ足を止めて肩越しに振り返った山崎が、白衣に包まれた薄い肩を震わせるようにして嗤った。

「俺だってこれでも一応、心理学博士号を持つ精神科医の端くれなんだぜ?」

 その言葉の意味を問うより先に、不意に嗤いを止めた山崎がひたと由那人を見据えた。

「……白石。死者に囚われて生きるなよ」



     11


 真夜中の病院というものは、何故こんなに静かなのだろう。夢に魘された誰かの悲鳴も、ストレッチャーを押す看護師達の急いた足音も、途切れがちの心音を伝える機械音も、手術中という赤い文字を瞬かせながら閉じられた重たい扉の音さえも、すべてがどこか遠慮勝ちで、薄い水の膜に覆われているかのように遠い。ひと気の無い廊下に、自分の足音だけが虚ろに響く。

 ドアノブに手を伸ばした丁度その時、中からドアが開いて、看護師と鉢合わせた。わ、と小さな悲鳴を上げた看護師が、由那人を見上げてすぐさま笑顔を見せる。

「ああ、白石先生。すみません、遅くまでお疲れ様です」

「いえ、こちらこそ驚かせてしまってすみません」

 優しげに微笑んで軽く頭を下げる由那人に、看護師が好しげな視線を向ける。

「そうそう、先生のお母様、夕方から熱も下がってきて、御気分もよろしいみたいですよ。オムツを汚されていたようだったので、それだけ替えさせて頂きましたが、それが終わったらすぐにうとうとされて」

 若い看護師に丁寧に礼を言い、彼女が立ち去るのを見送ってから病室へ入る。そして窓に歩み寄り、カーテンを大きく開けて中庭を見下ろした。黄色味を帯びた灯りに照らされたそこに動くものはなく、無論あの少年の姿も無い。

 由那人の足音が聞こえたのだろうか。浅い眠りから覚めた老女が僅かに身じろぎ、そして窓際に立つ者の姿に息を飲む気配に、由那人がゆっくりと振り返った。

「あぁ、ごめんね、母さん。起こすつもりはなかったんだけど」

 整った口許に笑みを浮かべてベッドに歩み寄ると、寝汗に湿り、乱れた髪を指先で撫でつける。

「髪を梳いてあげようか」

 馴れた手付きで老女を起こし、暗い窓に向かって座らせる。そして痩せた背中を片腕で支えたまま、サイドテーブルの引き出しから飴色に使い込まれたつげの櫛を取り出した。

「……母さんは、長くて艶やかな髪が自慢だったね。黒髪の映える白い肌も、華奢な手足も、とても子供が二人いるとは思えないような可憐な容姿のすべてが、母さんの自慢だった」

 短く刈られた白髪を櫛で弄びつつ、「あぁ、でも残念だね」と由那人が嘆く。

「今の母さんには、昔の面影はひとつとして残っていない。母さんを見ていると、つくづく時の流れの残酷さというものを感じるよ」

 暗い窓硝子に映る幽鬼のような姿を指差し、老女の顔を覗き込む。その濁った眼に滲むどろりとした憎しみや悔しさの毒が、躰を芯まで冒し、心を痺れさせる。

「ねぇ、母さん。母さんは、死にたいって思ったことはある?」

 黄色いシミと硬い静脈の浮く乾いた肌を優しく撫でながら、その耳許に囁く。

「こんなに醜く年老いて、人の手を借りなければ排泄すら満足に出来ず、病いに全身を蝕まれ、その痛みに悶えながら、ここで独り、生きたまま、ゆっくりと腐敗していく……」

 何故だろう。不意に、黒髪の少年の横顔が脳裏を過った。僅かに伏せられた濃く長い睫毛に木洩れ陽の雫が散る。はらり、はらりと黄ばんだ頁を繰りつつ、指先の蟻に微笑みかける――

「生きるって残酷だね」

 優しい溜息と共に老いた母親を寝かせ、白いシーツを肩に掛けてやる。

「でも母さんには僕と由貴人の分まで、頑張って長生きしてもらわないと。これは由貴人との約束だからね」

 言葉にならない呻きに喉を引き攣らせ、老女が由那人に向かって痩せた手を伸ばす。慄き、震える黄色い爪を見つめ、由那人が静かに微笑んだ。

「……苦しんで、生き永らえてもらわないと」



     12


 病室を出て帰り支度を整える頃には、時間はとうに深夜を過ぎていた。ちらりと見上げた夜空に星は無く、砕けた硝子のように細く鋭い月だけが在った。ひと気の無い中庭でふと立ち止まる。木立の陰にぽつんと置かれたベンチは梢から洩れる幽かな月明かりに照らされ、寂しげで、そして酷くよそよそしかった。

 ……あの少年に逢いたい。

 不意に渇きにも似た強い感情が湧き上がり、躰が震えた。そんな己を諌めるように、大きく一度息を吸い、吐く。最近、ふとした拍子に瞼の裏を過るのは、幼い弟の面影ではなく、あの少年の横顔だった。どうかしていると自嘲に口許を歪め、踵を返す。

 そしてそのまま家へ帰るつもりだったのに、まるで今にも掠れそうな弟の影を追うかのように、あの場所へと自然に足が向かった。自分が追っているのは記憶の底に沈む弟の影か、冴え冴えと澄んだ月に似たあの少年の眼差しか。人通りの消えた深夜の線路脇で陸橋を見上げ、由那人は思わず嘆息した。


 線路を跨ぐ高い陸橋の欄干に腰をかけ、少年は月を見つめていた。その倦んだ眼差しは、翡翠色の若葉の下で笑いながらファウストを貶す生き生きとした様とは異なり、ひどく大人びていて、けれどもきっとそれが少年の本質なのだろうと思わせる何かがあった。

「煉君」

 呼ばれて振り返った少年の髪が夜風に乱れ、透明な月の雫がほろほろと零れる。

「奇遇だね。丁度、君に会いたいと思っていたところだったんだ」

 ……本当は知っている。これは偶然を装った必然なのだと。

 ひんやりと冷たい欄干を掴むと、塗料が剥げて僅かに錆びついたそれに足を掛け、勢いをつけて身体を引きずり上げた。そこから見下ろす線路は思ったよりも遥かに遠く、虚ろな風が足の間を吹き抜けてゆく。

「何してんの? いい歳して、危ないよ」

 呆れたと言わんばかりの少年の言葉に、思わずくすりと笑いが漏れた。

「なに?」

「……いや、丁度一年ほど前に、屋上の囲いの上に立っている女性を見かけてね。僕も彼女に同じ事を言ったんだ。『何をしているんですか、危ないですよ』ってね。そしてその直後、彼女は空へ向かって飛んだ」

 ふと考える。己が生きていることを確かめるために、腕を刻み続けたあの少女は、あの瞬間、暗い夜空に抱かれて生を実感したのだろうか。

「……彼女は助けを求めていたのに、僕は彼女を救うことが出来なかったんだ」

 足下の奈落に向かって、そっと手を伸ばす。闇に舞う白い花弁を見た気がした。けれども、還らぬ者を悼み、咲き続け、散り続ける花は白くは無い。それは、目に映る全てを深紅に染めあげるような――

 不意に強く腕を掴まれ、前のめりになっていた身体を引き戻された。何かを探るかのように由那人の横顔を見つめていた少年は、やがて小さく嘆息すると、物憂げな仕草で髪を掻きあげ暗い夜空を見上げた。

「ヒトは誰も、本当には『誰か』を救うことなんて出来ないんだよ。生きることは残酷で、その痛みからヒトを救うのは、本人の意思だけだ」

 冷たく投げやりな口調のどこかに、微かな苛立ちと、嘆きと、そして祈りにも似た想いが滲む。由那人の口許を微かな笑みが掠めた。

「……君だったら良かったのにね」

「え?」

「彼女があの日出会ったのが、君だったら良かったのに。君なら彼女を救うことが出来たんだろう」

「何それ? 俺が人助けのヒーローかなんかに見えるの?」

「君は強くて、そしてとても優しい……」

「俺が優しいって?」

 少年がさも可笑しそうに笑った。

「あのさ、勘違いしないで欲しいんだけど、俺はあんたのことなんて、本当はどうでもいいと思っている。あんただけじゃない。此の世の全てがどうでもいい」

「それなら、なぜ僕を助けようとするんだい?」

「俺はある人を殺した」

 口許に薄い笑みを浮かべた少年の眼は、笑ってなどいなかった。紙に書かれた判決文を読み上げるように、温度の無い声が淡々と語る。

「本当なら俺が死ぬはずだったのに、俺はその人の命を奪って生き延びた。でも、もしも俺の代わりにその人が生きていたら、きっとあんたを助けようとするだろうから、だから俺はあんたを助ける。唯それだけのことだよ」

「煉君……君は、死んでしまった誰かの為に生きているのかい?」

 その問いに答えることなく、感情と言うものの全く感じられない深い淵のような眼が由那人を真っ直ぐに見返す。その眼は澄んだ水鏡のように由那人の姿を映し、けれども由那人を見てはいない。

「……いや、違う。君は死んでしまった誰かの為に生きているわけじゃない。君は、君自身が再び生きる為に、死んでしまった誰かを探しているんだ……」

 生きている人間は死者に囚われてはならない、と言った同僚の言葉が脳裏を過った。死に囚われて生きる者は、死に囚われて死んだ者よりも憐れなり――

 ふっと不意に少年が笑った。そして肩の力を抜いて大きくひとつ伸びをすると、欄干の上に立ち上がった。

 ねぇ、聴こえる? と囁き、少年が風の音に耳を澄ますように小首を傾げる。

「世界には歌が溢れている。此処に在ることを許されたあらゆる命と、そしてその死が紡ぐ歌は、綺麗で、残酷で……でもその歌が俺を満たすことは無い。此の世の全てが俺には無意味なんだ」

 透明な月の欠片と、暗く遠い空と、吹き抜ける夜風を胸一杯に吸い込み、少年が眼下を見渡す。

「でも、此処にはあの人が守ろうとしたモノがある。そしてこの何処かにあの人がいるかも知れない。だから、俺は、俺自身の意思で、此処に在り続け、歌を紡ぎ続ける……とでも思わなくっちゃ、とてもじゃないけどやってらんないね」

 悪戯好きの仔猫のように眦の切れ上がった眼を細め、振り返った少年がニヤリと笑った。

「まぁ時々さ、本当に何もかもがどうでも良くなっちゃう時があるんだけどね。そしていつか、全てを諦めて、全てに背を向ける日が来るかもしれない」


 行こう、と言って少年が手を差し伸べる。

 今はまだその時じゃないから、だから、俺はこの手を離しはしない。

 そう言って、少年は柔らかに微笑んだ。


「煉君……」

 月影に浮かぶ少年のシルエットは凛と鋭く、それでいてしなやかに優しい。

「もしも君の大切な人に再び逢うことが出来たら、世界は君にとって意味のあるものになるのかい?」

「……さあね」

 差し伸べられた手をそっと握る。全てを許し、包み込むようなその温もりに目を瞑り、そして力任せにそれを引き摺り落とそうとした刹那、身体がふわりと浮いて、次の瞬間全身を硬いコンクリートに叩きつけられた。

「あの日もこうやって、屋上のフェンスに立った女の人を殺したの?」

 暗く、深く、底の見えない淵のように温度の無い眼差しが、由那人を見下ろす。

「……知っていたのか」

「うん。トモダチが教えてくれたからね」

「君の友達とは、あの野良猫のことかい? いつも君の側にいる、黒い……」

「違うよ。アイツじゃない。あんたのことを教えてくれたのは、ほら、そっちの猫」

 少年が指差した先には、影が凝ったような灰色の猫が行儀良く尻尾を前足に巻いて座っていた。感情の無い翡翠色の眼が、由那人をじっと見つめる。

「その猫ね、あの日以来、ずっと俺のこと探して旅してたんだって」

 切れた唇を舐めつつ、由那人が嗤った。

「どちらにしろ、猫なんて生き物はひどく気紛れだ。あまり信用しない方がいい」

 隙を見て少年の足首を掴もうとしたが、一瞬早く臙脂色のスニーカーの爪先が鳩尾に突き刺さった。

「あんまり俺のこと怒らせないで欲しいな」

 身体をふたつに折り曲げて激しく嘔吐(えず)く由那人を蔑むように、少年が鼻を鳴らした。

「暴力って俺の趣味じゃないんだけどさ。でも右の頬を打たれて左の頬を差し出すほど上品な育ちもしてないから」

 教えてよ、と呟いた少年の暗い眼が由那人を捉える。

「何があんたをここまで歪ませたのか。何故あの(ひと)は死ななければならなかったのか――」



(To be continued)

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