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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
96/123

病葉(二)

     4


「白石と僕は同じ医大の出身なんですよ。まぁ彼は僕なんかとは頭の出来も人望も随分と違いますが」

 ゆっくりと労わるように車椅子を押す彼の姿が小道の向こうに消えると、山崎がぽつりと呟いた。

「生真面目で、ちょっと融通の利かないところもありますが、母親想いの良い奴ですよ」

「……白石先生のお母さまは、御病気なんですか?」

「え? いや、病気と言うか、事故と言うか……まぁ僕の専門分野ではないので何とも言えないのですが」

 僅かに言い淀んだ山崎の言葉の裏に、何か他人には話せない複雑な事情のようなものを感じて、わたしは口を噤んだ。そしてふと思う。手を伸ばせば届くほどの近さに在っても、透明な硝子で遮られたような彼の静けさや、目の前にいる人間と話していても何か違うものに向けられたような遠い眼差しは、もしかしたら彼の母親の事情に関係しているのだろうか――

 思わず想像を巡らしかけた自分を急いで戒める。知りもしない他人の事情を勝手に想像することほど愚かなことはない。そんな勝手な想像で、彼の纏う空気を汚したくはない。そしてわたしは、相手が誰であれ、他人の内面に深入りしたいとは思わない。

 けれどもそんなわたしの想いは、目の前の白衣の男には通じなかったらしい。

「彼は苦労人でしてね。母子家庭で育って、奨学金で医大に入学して、周りがサークルの飲み会やら合コンやらで騒いでいる中、一分一秒すら惜しむように一人黙々と勉強していましたよ」

「……なんで、そんな話をわたしにするんですか?」

 自分を睨むわたしを、山崎はしばらく無言で見つめていた。やがて小さく嘆息すると、わたしから目を逸らしてパサついた髪を掻き上げた。

「生きている人間に興味を持つことは良いことです」

 彼の去った木立を眺めていた山崎の口許が不意に歪んだ。

「……貴女にとっても、彼にとっても」


 ……わたしが彼を見ていたことを知っているのは、彼だけではなかった。

 そう気付いた瞬間、鋭い斧を振りかざしてじっと獲物を狙う蟷螂の姿が目に浮かび、背筋にぞくりと寒気が走った。



     ❀



 ――もうすぐ死ぬ。

 煉と名乗る黒髪の少年は、大部屋に眠る老人を指してそう言った。だからどうと言うことも無い。今日か、明日か、十年後か。人はいずれ死ぬ。そんな当たり前のことに心を乱されているようでは、医者などやってはいられないと由那人は思う。

 だから数日後、緊張した面持ちで看護師達が大部屋を出入りするのを見ても、作り物じみた沈痛な表情で医者が足早に部屋を立ち去るのを見ても、心を動かされることは無かった。唯、もうこれであの少年に逢うこともないかと思うと、それだけが少し残念だった。そして見ず知らずの他人に対してそんな感傷を抱く自分を不思議に思った。

 だからだろうか。翌日の早朝、いる筈もない少年の影を求めて、ふと大部屋の前で足を止めた。由那人を誘うかのように、窓際のカーテンが風に揺れる。窓を閉める振りをして近付き、皺ひとつ無い白いシーツを横目に見る。そこには誰もいない。昨日までそこに老人が眠っていたことを物語るものなど、ひとつとしてありはしない。

 当たり前だ。人はいずれ死ぬ。そして後には何も残らない。

 溜息と共に窓を閉めようとした由那人が、不意にその手を止めた。

 窓辺にひっそりと置かれた一輪の野の花が、風に微かに揺れた。



「……もう会えないかと思ったよ」

「どうして?」

 彼を探して木陰のベンチへ来た由那人を見て、そこに座っていた少年は愛らしく小首を傾げた。そして由那人が無言で差し出した薄紫の花を受け取ると、それを読んでいた本のページに挟んだ。

「……本が傷むよ」

「うん、そうだね」

 少年がクスリと笑って肩を竦めた。

「でもいつかまたこの本を読みたくなった時に、押し花を見て、あのヒトのことを思い出すことが出来るから」

「だけど……それは借りてきた本だろう?」

 背表紙に付けられた図書館のラベルに由那人が眉を顰めるのを見て、少年が屈託無い笑い声を上げる。

「ダ〜イジョウブ。わざわざこんなツマンナイ本を借りて読むような酔狂なヒトなんて、滅多にいないって」

「……悪く言う割には、君自身は何度も読み返しているみたいだね」

「うん、そう」

 濃い睫毛に縁取られた猫のような眼が、不意に深みを帯びた。

「生きていると時々ね、無性にベタな話が読みたくなる時があるんだ」

 透明な風の歌に耳を澄ませるかのように、僅かに首を傾げて少年が頭上の梢を見上げる。

「エゴイズムの塊みたいな、そんな人間らしい人間を描いて、それでも最後にハッピーエンドで締めくくるような、そんな馬鹿馬鹿しくて幸せな話がなんだかとても懐かしくなる……あんたみたいな人間に出逢った時は特に」


 不意に吹きつけた強い風が、少年の膝に置かれた本を乱暴に捲った。



     5


「どうして自分を傷付けるのですか?」と蟷螂が問う。

 診察時間と呼ばれる、午後の退屈なひと時のことだ。

「自傷行為とは、言葉に出来ない鬱屈した想いを形として自分の外に出す方法のひとつです。物に当たったり他人を傷つけたりすることで鬱憤を晴らす代わりに、自分を傷付ける。ストレスを外に出すことで他人に迷惑をかけてはいけないという思いが、リストカットのような自傷行為に走らせる」

 滔々と語る蟷螂の声は、水の向こう側から響くようにぼんやりと遠い。

「ありがちで実は少ないのは、『他人に構って欲しい、振り向いて欲しい』という理由からの自傷行為。しかし子供の場合は、自分の内なる痛みを他者に知らせる為の信号という事もあります」

 わたしは子供ではないし、そもそも誰かに助けを求めた覚えはない。病院(ここ)に居るのだって、別に強制入院というわけではなく、単に帰る場所が無いだけ。居場所を求めてわざとつまらない罪を犯し、刑務所へ入る人がいると聞いたことがある。その時は愚かな人間がいるものだと思ったけれど、今ならそんな人の気持ちが少しだけわかるような気がした。

「精神的苦痛を肉体的苦痛で和らげるという人もいます。人間という動物にとって、二つの痛みを同時に感じることは難しい。だから一時的にせよ、肉体的苦痛が精神的苦痛を忘れさせてくれる。または肉体的苦痛によって脳内から分泌されるエンドルフィンで、一時的な恍惚感を味わっているのかも知れない……」

 長袖のブラウスに隠された左腕に、そっと指を這わす。薄い布越しにも、ケロイド状に隆起した幾筋もの疵跡がわかる。この疵達は、わたしに恍惚感など与えてくれはしない。けれどもこれは、人が空気を必要とするように、わたしが生きていくためにどうしても必要なものだった。

「でも貴女は違う。貴女はこのどれにも当て嵌まらない。ならば貴女は、なぜ自分を傷つけるのですか」

 蟷螂がわたしを噛み砕いて分析しようと躍起になる。鬱陶しいけれど、でもそれが蟷螂の仕事だから仕方が無いのだろう。蟷螂から目を逸らし、窓の外を眺める。あの人は、今日も静かにあの窓辺に佇み、母親の車椅子を押してあの小道を歩いているのだろうか。


 人の心とは、ある日何かの切っ掛けで、乾いた小枝のようにぽきりと折れてしまうものなのだろうか。それとも、波に洗われる硝子の欠片のように、少しづつ、少しづつ、擦り減ってゆくものなのだろうか。わたしにはわからない。

 ある朝目覚めたら、心が痺れていた。そこに痛みは無く、音も、光も、風も無い。そしてその日以来、わたしは暗い水底に沈む死人(しびと)のように、静かで優しく重苦しい眠りを貪り続けている。


 何やら喋り続けている蟷螂の声を子守歌に、診察室の椅子の腰掛けたまま、わたしは眼を閉じて少しうつらうつらとした。そしてその微睡みの中に、再び彼を想う。

 あの日、木陰のベンチで言葉を交わして以来、彼はわたしを見ると穏やかに微笑んで会釈してくれるようになった。本当に、唯それだけのことだけれども、でもそんな彼とすれ違うたびに、鈍く痺れた心のどこかが溶けて、木洩れ陽の暖かさや、雨を呼ぶ風の湿り気を帯びた匂いや、夕暮れの空のざわめきを急に身近に感じることがある。生きる歓びとまでは言わないけれど、でもそれはもしかしたら、生きているということを実感するということなのかも知れない。

 ……そう。彼のそばにいる時だけ、わたしは少しだけ死という微睡みから醒めて、生というざわめきに近づく――


「愛とはなんだと思いますか」

 不意に蟷螂が問うた。一体何の話かと、訝しく思って顔を上げたわたしに、蟷螂が憐れむような眼差しを向ける。

「自分を愛することを知らない人間は、他者を愛することも出来ない」

 空欄の目立つカルテを閉じると、蟷螂は窓辺へ行き、カーテンを大きく開け放った。遥か彼方、透明な硝子の向こう側に、車椅子を押す彼の姿があった。

「誰かを大切だと思うのなら、まず自分を大切にしてあげて下さい」



     ❀



 ――人はいずれ死ぬ。

 手にしたこの白い花束が時を待たずに散り、朽ち果てていくように、人という生き物もまた脆く儚い。

「おはよう、母さん」

 およそ生気というものの感じられない白い病室へ入り、黄ばんだカーテンを大きく開け放つ。降り注ぐような初夏の陽射しに、老女が皺に埋もれた眼を苦しげに瞬いた。

「今日はとても良い天気だよ。先月のこの日は雨で、外に出るのが大変だったからね。今日は晴れて良かったね」

 嫌々と、駄々をこねる幼女のように首を横に振って身体を強張らせる老女を軽々と抱き上げ、車椅子に座らせ、その膝に花束を置く。ゆっくりと労わるように車椅子を押す由那人を人々が振り返り、同情の眼差しで見送る。そんな彼らに微笑みと会釈を返しつつ、幾百度となく訪れたあの場所へ向かう。

「もうここに来るのも何度目だろうね」

 見晴らしの良い陸橋の上で車椅子を止めて、眼下を見下ろす。

「ねぇ、母さん。母さんは、由貴人が最期に見た光景を見たいと思ったことはない?」

 人は眠っていても、たとえ昏睡状態にあってでさえ、周囲の物音を聞くことができる。

 だから由那人は囁き続ける。

「あのね、僕は記憶力は良い方だと思うんだけど、でもひとつだけ、どうしても思い出せないことがあるんだ」

 すらりとした長身を折り曲げるようにして老女の眼を覗き込み、風に僅かに乱れた銀髪を優しく耳にかけてやる。

「……由貴人が死んだあの日は今日みたいに素晴らしく晴れていたのか、それとも雨に冷たく濡れていたのか、それだけがどうしても思い出せない。だから、僕にはどうしても由貴人が最期に見た光景を想像することが出来ない」

 遠くで警笛が鳴る。徐々に近づいてくる足下の振動に、由那人が目を瞑った。

「でも時々思うんだ。自分に迫ってくる電車に向かって線路の上に立っていたあいつの眼には、もう既に何も映っていなかったんじゃないかって――」

 人はいずれ死ぬ。雨の日も、晴れの日も、人は変わることなく死に続ける。だが自分は、年老いて、病みつき、動くことさえ儘ならぬこの女を死なせはしない。そんな形で、これに自由を与えるわけにはいかない。

 だから由那人は囁き続ける。

 意味のある言葉を発することも無く、虚ろな表情で口の端から涎を垂らし、それでも彼を見る目に怯えた色を浮かべる老いた女の耳許に、優しく、愛を囁くように、繰り返し、繰り返し、彼だけが知る彼女の罪を囁き続ける――



(To be continued)

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