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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
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閑話・懐香

 来し時と恋ひつつをれば夕暮れの面影にのみ見えわたるかな (紀貫之)


     ❀


 煉、と誰かが俺を呼んだ。

 煉、と誰かが肩を揺する。

 でも俺はとても眠たくて、鉛を呑んだように躰が重たくて、痺れた手足を動かすことすら出来ない。

「いい加減にしろよ、煉。今日は母上の命日なんだぞ」

 冷たい水がぴしゃりと顔にかかって、途端に術が解けたかのように躰が軽くなる。

 ゆっくりと眼を開けると、人形のように涼やかに整った顔が俺を見下ろしていた。透明な朝の光に、艶やかな髪が燦めく。

「あ……兄者……」

 振り返った泪が、訝しげに眉根をひそめた。

「なんだ? まだ寝惚けているのか? 寝起きの良いお前にしては珍しいな。悪い夢でもみたのか?」

 伸ばされた泪の指先が、そっと瞼に触れる。そのひんやりと優しい冷たさに、何故か涙が零れそうになった。

 長い、長い夢をみていた気がする。そう。すべては悪い夢だったのだ。

 夢の残り香から逃げ出すように、急いで寝床から飛び起きた途端に転びそうになった。何気無く見下ろした手足がやけに小さい。己はこんなにも小さかったのかと、少し不思議に思う。なにやら己を老成した大人のように思っていたが、そんなわけは無かったのだ。

 ……そう。俺は未だ幼く、此の世の理など何ひとつ知らず、無邪気に、自由に、唯ひたすらに守られて生きている。

 不意に胸の内が温かくなって、くすくすと笑いが零れた。

「なんだ。泣きながら起きたかと思えば、次は思い出し笑いか。おかしな奴だな」

 呆れたように肩を竦める泪の眼が優しい。



 泪の用意した朝餉を掻き込み、跳ねるような足取りで外に駆け出す。母上の墓に供える野の花を摘んできてくれと、泪に頼まれたのだ。

 不意に空が翳り、風を切る羽音と共に黒い影が舞い降りてきた。

「鴉!」

 艶やかな青味を帯びた黒い翼がやけに懐かしくて、思わず飛びつき、両腕で抱きしめる。

「よせ! 離れろ! 俺は抱きつかれるのは好かん!」

 バサバサと羽ばたきながら不機嫌な顔で喚く鴉の姿が可笑しくて、笑い転げているうちにまたふと涙が滲んだ。

「朝っぱらから何処に行くんだ?」

「母上の墓に供える花を探してるんだ」

「……そうか。もうそんな時期か」

 鴉が嘴を噤んだ。鴉はいつもそうだ。母の名が話題に上がると、鴉はいつも黙り込み、そしてまるで何かを探し求めるように、遠い眼差しで遥か彼方の空を見つめる。



 物思いに耽る鴉を肩に乗せたまま、なんとなく沈んだ気分で小石を蹴りつつ歩く。と、前方で人の笑い声がした。此方に向かって歩いてくる少年の一団を見た途端、嫌な予感に胸がちくりと痛む。道着姿の少年達は皆、俺よりもだいぶ年嵩だった。

 どうしようかと迷ったが、田圃の一本道では避けることも出来ない。なるべく相手の目に付かないように小さくなって道の端に寄ったが、その程度ではやはり見逃してもらえるはずも無かった。

「おい、煉」

 擦れ違いざまに肩を掴まれ、思わず顔が歪む。自分を掴む腕を振り払いたいのをぐっと堪えて、ちらりと上目遣いに相手を見上げた。

「目上の者に挨拶もなしに通り過ぎる気か」

 ふんと鼻を鳴らして別の誰かが嗤う。

「こいつが俺達のことを目上だなんて思っているわけないだろう。俺達程度の霊力じゃあ、こいつの足元にも及ばないんだからな。目上どころか見下しているのさ」

 俺はそんなことを思ったことは一度もないと、胸の内に呟く。俺は誰も見下してなんかいないし、そもそもこんな力、欲しくはなかった。

「しかしいくら霊力があっても、修行を怠る奴は実戦では使えんぞ」

「でも、今日は……」

 目が合えば、また生意気だとか言うのだろう。だから俯いたまま、小さな声で反論を試みる。

「……今日は母上の命日だから」

「お前が修行をせんのは今日に限ったことではないだろうが」

「俺達は生まれてこのかた休む間も無く修行に明け暮れているというのに、お前は道場に顔も出さずに遊び呆けて、いい身分だな」

茴香(ウイキョウ)殿は確かに素晴らしい遣い手だったが、その忘れ形見がこれでは亡くなられた茴香殿も報われんな」

  ……何も聞いてはいけない。これくらいのことで心を揺さぶられてはいけない。次々と放たれる言葉の矢から心を閉ざそうとした刹那、鋭い一矢が突き刺さった。

「茴香殿も哀れなことだな。全くもって、無駄死にもいいところだ」

「無駄死に……?」

 思わず聞き返した俺の顔色を見て、少年の眼に鼠をいたぶる猫のような笑みが滲んだ。それを目にした瞬間、キンと耳鳴りがした。身の内深くに漆黒の炎がちらちらと揺らめく。その不穏な色が恐ろしくて、俺は硬く眼を瞑った。

 何も聞いてはいけない。

 これくらいのことで心を揺さぶられてはいけない。

 なのにそんな俺を嘲笑うように、少年は喋り続ける。

「なんだ、煉。お前、知らんのか? そもそも茴香殿が亡くなられたのは、産まれたばかりのお前を狙ってきた鬼に―― 」

「煉」

 凛と澄んだ声が俺の名を呼んだ。その声を耳にした途端、俺の躰にねっとりと纏わりつく淀んだ空気が軽くなる。

「花を摘みに行ったんだろう? こんな道端で、一体何の話をしているんだ」

 背後から近づいてきた泪の姿に、少年達が素早く目を見交わす。と、がっしりと肩幅の広い少年が泪の前に立ち塞がり、妙に好戦的に泪を()めつけると頬を歪めて嗤った。

「お前の弟が、お前達の母御を無駄死にさせたって話さ」

 ゆらり、と空気が揺れて、急に風が冷たくなった。

「……済まないが、もう一度言ってくれないか」

 首の根をとんとんと叩きつつ、泪が僅かに首を傾げて少年を見つめた。一糸の乱れもなく結い上げられた美しい髪が、さらさらと肩に零れる。

「昨日、煉と西の山の淵で潜りの腕を競ったのだが、どうやら耳に水が入ったらしい。どうも音が聞こえ難いんだ。だから済まないが、俺にもよく聞こえるように、もう一度言ってくれ」

 小鳥達の囀りが止まり、獣は息を潜め、辺りが水を打ったようにしんと静まりかえる。自分に向けられた氷のように冷ややかな眼差しに、怯んだように少年が後退った。

「……なんでもない。たいした事じゃないんだ」

「遠慮するなよ」

「いや……わざわざお前に言うほどの事でもないさ」

「そうか」

 形の良い口の端を上げて、泪が静かに微笑んだ。

「俺に言うほどの事で無いならば、煉に言う必要も無い」

 ふわり、と風にひるがえる袂が俺の顔を覆った。着物に焚き染められた微かな香と、薄荷に似た薬草の爽やかな薫りが俺を包み、守る。

「次に何か面白い話を思いついた時は、直接俺のところへ来てくれ。楽しみにしているよ」



 俺の手を引き、無言のまま兄者は歩いてゆく。兄者に遅れまいと、小走りに山路を登る足取りが次第に重くなってきた。

 兄者はあそこに行こうとしている。誰も知らない、俺と兄者だけの秘密の場所。柔らかな萌黄色の葉と、小さく愛らしい野の花が鮮やかに咲き乱れる崖の端。

 でも俺は、あそこには行きたくない。今だけは、あの花の匂いに包まれたくはない。

 立ち止まった俺を、兄者が訝しげに振り返った。

「……俺のせいで、母上は無駄死にしたの?」

 恐ろしさに躰が震えた。

 俺が恐ろしかったのは、己の存在が母を死に追いやったということではなく、あの時もしも兄者が現れなかったら、俺はあの場にいた全ての者を殺していたかも知れないということ。

「煉」

 涼やかな風のように透明に、揺らぎなく澄んだ瞳が俺を見つめる。

「どんなことがあっても、そんな言葉を口にしてはいけない。そんな言葉で、母上を悲しませてはいけない」

 無言で俯いた俺の髪をひんやりと心地良い手が優しく乱し、柔らかな袂がふたたび俺を覆う。

 知っているか、煉、と静かな声が俺に囁きかける。

「並ぶ者の無い遣い手でありながら、母上は、本当はいつも自由になりたいと願っていた。心を絡めとり、押し潰す此の世の全てから自由に。だから、お前は、お前だけは、母上の願いを叶えるために、どうか、いつも自由に――」


     ❀


 ぽたり、ぽたりと瞼に落ちる冷たい朝露に、俺はゆっくりと眼を開けた。

「……夢をみたよ」

 辺りを見回し、溜息を吐く。

「この花のせいだね」

 糸のように細く柔らかな萌黄色の葉を千切り、口に含む。独特な香りと微かな苦味が口に広がった。

「茴香の別名は懐香(クレノオモ)……この香りにつられて、古い記憶が蘇ったのかもしれない」

 咲き乱れる茴香の甘い香りに胸が疼く。

 煉、と囁き、金色の狐が濡れた鼻先を俺の頬に寄せた。

「……誰だって、泣きたい時は泣いてもいいんだぞ」

 朝風に乱れる髪を掻き上げ、俺は口の端を歪めて嗤った。

「俺が泣くわけないでしょ」


 泣くことは許されない。

 零れる涙を隠し、此の世の悪意と、そしてこの身の内に秘めた黒い炎から俺を守ってくれたあの袂は、もう何処にも無いのだから――


 風にとけ消える夢の残り香に、指先が痺れた。



(END)

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