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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
93/123

雪割の華(後編)

     4


「それから十度、季節が巡り、一華と春は冬の逢瀬を重ねた」

 遠い日々を懐かしむかのように煉が眼を細め、小さく嘆息した。ばさり、と大きな音を立てて樹から雪が落ちる。獣達と共に息を詰めるようにして煉の語る昔噺に聴き入っていた寛太は、その音に我に返った。

「春は、一華の正体を知ってたのか?」

 さぁ、と言って煉が肩を竦める。

「春は俺の眼から見ても、すごく素直ないい子だった。一華がヒトというモノの存在に対して疑問を抱かなかったように、彼女は一華の存在をあるがままに受け入れてたんだと思う」

 十年という時を経て、若い娘となりつつあるヒトの子と、いつまでも姿の変わらぬ幼い雪の精。

「ふたりは無二の親友で、ヒトだとかヒトでないモノだとか、そんな隔たりには意味が無かったんだ」

 ばさり、と再び雪が落ちる。その音に寛太は思わずびくりと身を竦ませた。

「それで……」

 ごくりと唾を飲み込み、風に乱れる煉の黒髪を見つめる。

「それで、ふたりはどうなったんだ?」

「……春が数えで十四になる年の冬、初雪と共に目覚めた一華は、いつものように真っ先に春に会いに山を降りた。一華は知らなかったんだけど、その年は三年続きの冷夏で、作物の育ちは最悪だった。おまけに予想外の雹や嵐が続いて、蓄えも底をついて、村は後にも先にもないほど貧窮していた」


     ❀


 格子戸の隙間から覗く一華に気付いた春は、着物を繕う手を止めてすぐに外に出てきた。霙混じりの風に竦められた肩がやけに薄い。色の悪い痩けた頬を見て、一華が不安そうに春の手に指先を触れた。

「はる……さむいんか?」

 雪童子の小さな手に冷えた指先を絡め、春が微笑んだ。

「いっちゃん……あのね、これあげる」

 不意に手渡された紅いお手玉に、一華が目を瞠った。それは、春が幼い頃から肌身離さず大切にしているものだった。白い雪景色の中、紅いお手玉を器用に投げながら綺麗な声で唄う春を眺めるのは、一華の楽しみのひとつだった。

「わたしはもういらないから……いっちゃんに持っといて欲しいの」

 手の中の柔らかな縮緬を、一華が恐る恐る撫でる。さらさらとした手触りのそれは、少しだけ春の匂いがした。

「……どうして?」

 何故大切なお手玉を手放すのか。一華が首を傾げると、春が道向こうの屋敷を指差した。

「あのね、今年も芸人さん達が来てるの」

 春が生まれた冬に村へ来た一風変わった身なりの者達を思い出す。彼らが旅芸人と呼ばれるモノであることを、春に教えられて一華は知っていた。

「それでね、今年は村にお金がないから、芸人さん達はここには長いこと居られないの。でもその代わり、村を出るときに子供達を連れて行ってくれるのよ。だから……わたしも一緒に行くの」

「どこに行くん?」

 驚いて、一華が声を高めた。

「 いつ帰ってくるん?」

 それには答えず、春は唯、折れそうなほどに細い首を優しげに傾げた。

「ねぇ、いっちゃんに教えてあげた唄、おぼえてる?」

 コクリと頷いた一華を見つめ、春が微笑んだ。

「そしたらね、忘れないように、ときどき歌ってあげてね。それで、いつか、わたしが帰ってきたら、歌って聞かせてね。いっちゃんの唄とお手玉、楽しみにしてるわぁ」


 灰色の空に粉雪が舞う。

 シャンシャンと風に鳴る鈴の音と共に、春は行ってしまった。


 春はいつ帰ってくるのか。

 山の頂きにちょこんと腰掛け、来る日も来る日も一華は雪に埋もれた一本道を眺め続けた。そして春を待つ雪童子は、ぎこちない手つきでお手玉を投げつつ唄を口遊(くちずさ)む。自分は春のように上手には歌えないけれど、唄を忘れてはいけないから、だから、誰にも聴かれないように小さな声で、恥ずかしそうに、懸命に、同じ唄を幾度も幾度も繰り返す。


     ❀


「……春はどこに売られて行ったんだ?」

「ここからずっと離れた所にある鉱山町だよ。そこの茶屋にさ……まぁ、お世辞にも環境がいいとは言えなかったね。水や空気が汚れてて、仕事もキツかったし。鉱夫もオンナも、身体を壊すヒトが多かった」

「一華はその事を知ってたのか?」

「雪童子ってのは基本的に自分の母親である雪女のテリトリー内から外に出ることはない。一華を作った雪女はここら一帯の山岳地帯を仕切ってたけど、春の行った銅山はテリトリー外で、ずっと遠いところだった。そもそも雪童子は普通は凄く臆病で、雪女の縄張りの中でもほんの一部の山や崖から離れないもんなんだ。ひどい時には一本の樹にずっとしがみついてたりしてさ。一華は山を降りて村を覗きに行ったりして、雪童子にしては好奇心旺盛だったけど、でも世間知らずである事に変わりはない」

「そんなら……一華は春の仕事のこととか、なんにも知らなかったんだな」

「うん、知らなかった。でも幾冬かが過ぎて、ある年、春の様子がどうしても知りたいって、俺、一華に頼まれたんだ」


     ❀


 雪童子から渡された紅いお手玉を手に、夕暮れの鉱山町を彷徨った。少女を探し、行き着いた先は、こんもりと丸く土が盛られただけの小さな塚だった。墓とも呼べない打ち棄てられたそこには一輪の花を手向ける者もおらず、煉がそっと置いた紅いお手玉だけが、ぼんやりと闇に浮いた。



 雪女が守る山は美しい。

 朝陽に燦めく新雪をサクサクと踏みしめて歩いていた煉が、ふと足を止めて辺りを見渡した。人の子の背よりも高く積もった雪に埋もれて今は見えないが、山は深く豊かで、そこに暮らすモノ達も心穏やかだ。しかし彼らの豊かさは、人の豊かさと決して同じではない。長い冬、乾いた夏、刈り入れ直前の作物を襲う風。荒ぶる自然はいとも簡単に人の生活を揺るがす。

 大昔、神とは自然であり、自然とは神であった。しかし自分達の意のままにならない神々を人は疎み、切り捨て始めた。神殺しは最早禁忌ではない。そうやって、人はいつか山を、川を、海を、風を、此処に生きる全てのモノ達を殺してゆくのだろうか。

「れん!」

 物思いに耽る煉を、高く澄んだ声が呼び覚ました。

「れん! はるに会ってきたんか?!」

 白い斜面を転がるようにして一華が駆け寄ってくる。

「れん、はるはいつ帰ってくる?!」

「……一華」

 自分を見つめるつぶらな瞳に、その余りに純粋に澄んだ様に、微かな痛みを覚えた。

「春は、とても遠いところに行ってしまったから、もう帰って来ないよ」

「はるはどこ行ったん?」

 それに答えず、視線を逸らした煉を一華がじっと見つめた。

 煉の眼は、真冬の風にも凍らぬ深い淵に似ていると、一華はふと思った。しんしんと降る雪を音も無く呑み込む淵に似て、煉の眼は深く、暗く、そこに湛えられた静けさが、生きることをやめた全てのモノを呑み込んでゆく。

 れん、と囁く声が、風に掠れた。

「……はるは死んだんか?」

 手に握りしめたお手玉を見つめる。何故今まで気付かなかったのか。その紅い色はくすみ、掠れ、愛しい日々が遥かに遠く過ぎ去ったことを、二度とその手に戻りはしないことを一華に知らしめた。陽に解ける淡雪のようにヒトの命は儚く、消えた跡には一滴の雫すら残さない。

 ほろほろと頬を何かが伝い落ちる。驚いて頬に当てた手の中に、ころころと硬くて丸い氷の粒が転がった。


 一華はヒトを知り、別れを知り、涙を知った。

 そしてその(かな)しみのうちに流す涙でさえも、冷たく凍えることを知った。


「一華……」

 伸ばされた腕を振りほどき、一華は駆け出した。

 雪童子が泣けば山が哭く。その小さな胸を押し潰そうとする悲しみを両腕に抱きしめ、山の頂にしゃがんだ一華が背中を丸めた。しかし堪えても堪えても、呻き声のような嗚咽が洩れる。

 どろどろと腹の底に響く不気味な山鳴りに、人々が不安気な眼差しを交わし、山を見上げた。



 どれ程の間、そうしていたのだろうか。

 シャンシャンと鳴る鈴の音に、一華がふと顔を上げた。見れば、村を出る隘路を旅芸人の一座が行く。その後には数人の痩せた子供達が続く。項垂れ、雪に埋もれた山路を黙々と歩くその姿に、春の姿が重なった。

 鈴が鳴る。

 鈴が鳴る。

 鈴が鳴る。

 あの鈴の音と共に春は一華の前に現れ、そして鈴の音と共に去っていった。

 行ってはいけない。行けば、春のように帰って来れなくなる。だから止めようと思った。

 しかし幾ら声の限りに叫んでも、一華の声はヒトの耳には届かない。行ってはいけない。そう彼らに伝えようとして、小さな手に握った雪を投げた。唯それだけのことだった。

 けれども山の上から投げられた雪つぶては、雪童子の悲しみを纏い、風を呼び、山の斜面を転がるうちにあっという間に大きくなり、雪崩となって道ゆく人に襲いかかり、村を呑み込んだ。



     5


「それは本当にあっという間のことで、俺にはどうすることも出来なかった」

 長い睫毛を伏せ、煉が深い嘆息を吐いた。

 ヒトに名を教えてはならない。ヒトに己の欠片を与えてはならない。ヒトは脆く、儚く、穢れ多きイキモノだから。その短い命が尽きるとき、与えられた欠片と共に逝ってしまうから。遺されたモノは、心の欠片を失ったまま、永遠に不完全なままに、永い刻を独り生きなければならないから。

「あの日、雪崩を前にして、なすすべも無く茫然とする俺の前に現れた雪女は、唯静かに呟いた。穢れることなかれ、と」


     ❀


「穢れることなかれ」

 眼の痛くなるような白銀の世界を見つめ、山の頂に佇む雪女が呟く。氷のように透き通る肌は唯ひたすらに美しく、凛と冷たい横顔には一縷の乱れもない。

「我らが眷族も少のうなった」

 ふと振り返った雪女が、白い指先をついと伸ばして煉の髪に触れた。

「煉。御前の手は温かい。御前達、温かな手を持つ者にとって、生きるとは穢れるということ。その善し悪しを問うつもりは無い。唯、我らはそれでは生きてはゆけぬ。純粋であろうとすればするほど、ヒトと交わり、共に生きてゆくのは難しい。だから言ったのだ。ヒトには近付くなと」

「……厳しいね」

「雪は、白く冷たいからこそ雪なのさ」

 舌打ちと共に雪崩跡から目を逸らした煉を見て、雪女の薄く整った口の端を微かな笑みが掠めた。

「煉よ。逝くモノを憐れと思うなら、祈っておやり」

「祈ることになんて意味は無い。どんなに必死に祈ろうと、どんなに強く願おうと、世界は変わらないし、死んだモノは還りはしない」

「それが御前の知る此の世の理か」

「そうだ」

「そうか」

 氷のように硬く冷たい指先が、煉の輪郭をなぞるように撫でる。

「祈りを知らぬままに生きるも、悪くは無かろう」

 眼下に広がる遥かな山並みを愛しげ見つめ、雪女が呟いた。

「だが忘れるな。御前の知る変わること無き此の世の理をもって、雪は風に舞い、やがて解けて水となり、そしていつの日か春を呼ぶだろう」


     ❀


「……それで、一華はどうなったんだ?」

「さぁ」

「さぁってなんだよ?!」

「雪崩が過ぎた後に一華の姿はなく、次の冬、雪が降っても一華は帰っては来なかった。ま、当たり前だよね。血の穢れ、つまり殺しは雪の眷族最大のタブーだもん。禁忌を犯したモノは決して赦されることはなく、その存在は消えて無くなる」

「そんな……だけど、一華には殺意はなかったんだろ?! 法律だって事故と計画殺人じゃあ刑罰は違うってじいちゃんが言ってたぞ!」

「故意か事故か。他者の命を奪うという罪の深さの前では、それに至った理由なんてあんまり重要じゃないのかもね。それに法律ってのはヒトの世界の話で、雪のモノ達が生きる理とは違う。そもそも奴らはヒトを殺すことを別に『罪』だと思ってるわけじゃないんだよ。罪じゃなくて、自分達の存在の妨げとなる『穢れ』だね」

 春に会いたいという雪童子の願いはついぞ叶えられること無く、その存在は淡雪のように解けて消えた。ヒトを愛したばかりに、ヒトを助けようと思ったばかりに、穢れという汚名を着せられて――。

 血が滲むほど硬く握り締められた拳に煉の指先が触れた。その温かさに心のどこかが弛み、不意に涙が零れそうになった。

「雪の精としての一華の命は終わった。でも、雪女が言ったことは本当だ」

「雪女の言ったこと……?」

 それには答えず、煉が軽く伸びをしながら立ち上がった。それを合図に、煉の昔語りに耳を澄ませていた獣達も我に返ったように動き出し、次々と立ち去ってゆく。腰の雪を払い、何事も無かったかのように歩き出した煉を見て、寛太が慌てた。

「ちょ、ちょっと待てよ!」

「なに? 昔話はおしまいだよ。もうすぐ日が暮れる。暗くなる前に子供はおウチに帰んなきゃ。あ、それともなんかハッピーエンドでも期待してたとか? 雪崩と共に悪い鬼は退治され、おじいさんとおばあさんはいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」

 黒髪の少年の人を喰ったような口調に思わずムッとする。眉間に皺を寄せて睨みつけたが、煉に寛太の表情を気にする様子は無い。

「じゃあね」と軽く手を振り立ち去る後ろ姿を見ているうちに、ひとつの疑問がむくむくと頭をもたげた。

「おい! 煉!」

 雪を蹴散らすようにして煉に追いつき、その肩を掴む。

「おい、煉。おまえはそもそも、なんでここに戻ってきたんだ?」

「俺? 俺はね」

 振り返った煉がニヤリと笑った。

「……物話の結末を見届ける為に」

 不意に強い風が吹き、地に積もった雪を舞い上げた。吹雪のように白く霞む景色の中、自分をじっと見つめる瞳に何故か不思議な既視感を覚え、胸の奥がざわめいた。

「あぁ、そうそう。言い忘れてたんだけど、雪童子ってのはみんな、躰に小さな痣があるんだ。雪女は、その痣の形で雪童子の名前を決めていた」

 黒々と濡れた闇色の瞳が、隠された何かを探るように細められ、その深みを増した。

「一華の腕には、雪割一華(ユキワリイチゲ)の花の形をした薄紫色の痣があったんだよ。雪を割り、冷たい早春の風と共に咲く花の痣が――」

 スッと伸ばされた指先が分厚いジャケットに包まれた左腕に触れた瞬間、寛太は思わずびくりとして身を引いた。訳もわからず腕を背後に隠した寛太を見て、煉の顔にゆっくりと笑みが広がる。

「早く家に帰ったほうがいい。もうすぐ産まれるよ」

 その言葉に不意に我に返った。

 ……そうだ。なぜ今まで忘れていたのだろう。早朝に始まった母の陣痛を思い出した途端、心臓が早鐘を打ち出す。弟か、妹か。不安と期待に居ても立ってもいられなくて、寛太は雪山に来たのだ。山の頂から白銀の世界を見下ろし、心を落ち着けるために。寛太はひと気の無い崖の端に腰掛け、その高みから白い雪に埋まった村を見下ろすのが好きだった。何故か、ここから見る雪景色はいつもとても柔らかで暖かく、そして涙が零れそうなほどに懐かしい。

 そわそわと落ち着かぬ様子で足踏みしつつ村を振り返る寛太の姿に、煉が声を上げて笑った。そして愉しげに肩を揺らしつつ、崖の端の小さな陽だまりを指差した。

「ごらん、もうすぐ春がくる」

 ばさり、と大きな音を立て、木々の梢に積んだ雪が落ちる。

 ポタリポタリと雫が垂れる。

 ちょろちょろと流れ出す冷たい川のせせらぎが耳に優しい。

 雪は解けて水となり、やがて春を呼ぶ。


「……君の妹によろしく」


 透明な風に雪の結晶が舞い、薄紫の蕾が揺れた。



(END)

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