雪割の華(前編)
君をまたかく見てしがなはかなくて 去年は消えにし雪も降るめり(和泉式部)
一歩踏み出すごとに、足跡ひとつ無い新雪がキュウキュウと鳴く。昨夜、また少し降ったらしい。けれども吹雪いたわけではないから、足が埋まって歩きにくい程ではない。頭上に薄く広がる早朝の青い空を見上げ、寛太が白い息を吐いた。今日は良い天気になりそうだ。そう、こんなメデタイ日にぴったりの、とても良い天気に。
自然と緩みそうになる頬を引き締め、再び山頂を目指して歩き出す。寛太はひと気の無い崖の端に腰掛け、その高みから白い雪に埋まった村を見下ろすのが好きだった。何故か、ここから見る雪景色はいつもとても柔らかで暖かい。
けれども残念なことに崖の上には珍しく先客がいた。首に暖かそうな狐の襟巻きを巻いた見知らぬ少年の姿に、寛太は訝しげに眉を寄せた。町の者であろうか。夏ならまだしも、雪深いこの季節、山奥の村に人が来るのはひどく珍しい。
足音を忍ばせて背後の木立に身を隠し、そっと少年を覗いた寛太が眉間の皺を深くした。これは一体どう言うことであろうか。歳の頃は寛太と余り違わないように見える少年の周囲には山鳥や野兎、テン、アオシシが集まり、それどころか辺りにはもっと大きな獣の足跡がついている。それはひどく不思議な光景だった。
少年が不意に振り返り、隠れて自分を盗み見る寛太に笑いかけた。純白の雪に燦めく陽の光のような笑顔が眩しくて、寛太は何やらドギマギして頬を赤らめた。
「おまえ……見かけない顔だな。怪しいヤツめ。何モンだ?」
コソコソと隠れて少年を見ていたことの言い訳のように、咳払いと共に肩を怒らせて少年を詰問する。と、少年の襟巻きがピクリと動いて頭を上げた。なんと、狐の襟巻きかと思っていたのは生きた子狐だったらしい。子狐にしては妙に目付きの悪いソレにジッと睨まれ、寛太は思わず後退りした。
「お、おまえ、雪ん子か?」
「雪ん子?」
「雪ん子は雪女の子供だ。雪山で獣と遊んでたりするんだ」
「ああ、雪童子ね」
「雪ん子はヒトに悪さする鬼の子だ。子供を攫ったり、雪崩を起こしたりするんだぞ」
「は? 何それ?」
「村の言い伝えだ。俺のじいちゃんのじいちゃんがガキの頃に、村が雪ん子に襲われたんだと。雪崩で村が半分埋まって、死人が沢山出たんだってさ」
「ふうん」
少年が僅かに眼を細めると、口許に微かな笑みを浮かべた。
「……その伝承、間違ってるよ」
「ま、間違ってなんかおらんぞ! その証拠に、村の入り口には雪ん子の雪崩で死んだもんの碑があるんだぞ!」
「……そう。確かにあの雪崩は多くのヒトの命を奪った。それは事実だ。でも事実と真実ってのは必ずしも同じじゃない」
ついと伸ばされた手に腕を引っ張られ、バランスを崩して前のめりになった寛太の顔を、黒々と深い淵のような眼が覗き込む。
「教えてあげようか。あの日、一体何が起こったか――」
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「昔々ある処に、一華という名の雪童子がいました。一華はこの辺り一帯の雪山を仕切る雪女の子供でした」
寛太の腕を掴んで有無を言わさず自分の前に座らせると、煉と名乗る少年は実に楽しげに語り出した。
「毎年初雪が降る頃になると、雪女は百人の雪童子を作ります」
「百人?!」
「うん、そう。でも生き残るのはほんの一握りでさ。酷い時なんて、春が来る頃には一人も残ってなかったりするんだ。なんて言うか、雪女の生態って虫っぽいんだよね」
「む……虫?」
「子孫を残す方法は幾つかあるけど、ヒトや獣は少数の子供を作り、それを大切に育て上げることにエネルギーを使う。反対に多くの虫は大量の卵を産み落とすことにエネルギーを使い、子育て自体は殆どしない。数打ちゃ当たるって戦法なんだけど、雪女のやり方ってコレに似てると思うんだよね。ま、どっちがイイとは一概には言えないけどさ」と笑いながら煉が肩を竦める。
「とにかく、山に初雪がちらつく夜、一華という名の雪童子は此の世に生まれた。雪童子が生まれる光景ってすごく不思議なんだ。冷たく澄んだ空気の微かな揺らぎの中から、小さな雪童子達が次々と現れる。顔はみんなそっくりなんだけど、でもやっぱり少しづつ個性があってさ。クスクスと楽しそうに笑いながら雪の中を転げ回る子もいれば、きょとんと指を咥えて辺りを見回す子、怯えて樹の陰に隠れてしまう子もいる。そして雪女がそんな雪童子達に教えることは唯ひとつ。『穢れることなかれ』……そしてヒトには近づくな」
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月の光に煌々と照らされた雪原を音も無く滑るように飛ぶ梟の狩りを眺め、冬籠りの熊の穴ぐらを覗く。朝陽に燦めく甘い氷の結晶を舐め、雪山の獣たちと遊び、激しく吹雪く風の歌に耳を澄ませる。そして雪に覆われた山の頂きに座り、白銀の世界を見下ろす。
一点の曇りも無く透明に凍えるその景色が、一華の世界の全てだった。
日が長くなり、風が温もってくると、一華は幾度もあくびを繰り返し始める。そして春の陽に山の雪が解けるのを待たず、長い眠りにつく。雪童子が爛漫の春を見ることはついぞなく、彼らは夏の蛍火も秋の実りも知らない。やがて頬を刺す風にちらちらと舞う初雪が、雪童子の眠りを醒ます。共に此の世に産まれた雪童子達が次々と消えてゆく中、一華は眠りと覚醒を幾度も繰り返した。
それは一華が生まれてから幾度目の冬の事であったか。
早朝の眩しい朝日に目覚めた一華が、僅かに首を傾げて耳を澄ませた。風に乗り、何処からともなくシャンシャンと鈴の音が聴こえる。その軽やかでありながらどこか物寂しい音色に惹かれるように、山の端から眼下を見下ろした。両脇を切り立った崖に阻まれた細い道を、一風変わった身なりの者達が行く。不機嫌な表情で寒さに首を縮めたその一団が、雪に埋もれた山奥の村に長期滞在して村人の無聊を慰める旅芸人達であるなど、一華には知る由もなかった。けれども極々稀に遠くに見かけるマタギや村人達とは異なるその風貌に、ふと興味を持った。
あの者達の姿をもっと近くで見てみたい。あの鈴の音をもっと近くで聞いてみたい。
ヒトには近づくなという雪母の教えも忘れ、一華は村へ向かって駆け出した。
長旅に疲れ切った芸人達は、逗留先の大きな屋敷に荷を解くと、思い思いの格好で横になった。初めは何が起こるかと小さな胸を高鳴らせて窓の端から芸人達を覗いていた雪童子は、すぐに飽きて屋敷を出た。彼らの吸う煙管や白粉の臭いに堪えられなかったせいもある。
雪に埋もれた道端の物陰に隠れ、興味深げに辺りを見回す。仔犬のように鼻を上げてクンクンと風の匂いを嗅ぎ、耳を澄ます。辺りの空気は今まで嗅いだことのない匂いや聞いたこともない音に満ち溢れ、一華は酔ったように足元がふらついた。
これ以上ここにいてはいけない。ここには、なにか良くないモノが満ちている気がする。ヒトには近づくなという雪母の教えが不意に蘇り、一華は慌てて立ち上がった。と、その時、古びた農家の一角から誰かの叫び声が聞こえた。
何やら慌ただしい気配にまたもや興味を掻き立てられ、氷柱の伸びた軒下に足音を忍ばせるようにして近付き、格子戸の隙間から中を覗いてみる。
人々の熱気とぐらぐらと煮え立つ釜の湯気で霞んだ部屋で、若い女が薄い布団に寝ていた。苦しげな呻き声を上げる女の姿に、具合が酷く良くないのかと、一華は心配で胸が痛くなった。女が一際大きな悲鳴を上げ、その余りに苦しげな様子に怯えた一華はぎゅっと目を瞑って耳を塞いだ。と、塞いだ耳に、ほぎゃあほぎゃあと頼り無げな泣き声が響いた。人々のどよめきと安堵の笑い声が続く。
恐る恐る目を開き、そっと格子戸の隙間を覗く。
そこには、得意げに笑う産婆に抱かれた赤くて小さい、皺々のイキモノがいた。
そのイキモノの余りの醜さに一華は腰を抜かしそうに驚いて、一目散に山へ逃げ帰った。
……アレは一体何だったのだろう。
村で目にしたあの醜いイキモノの姿を思い返し、一華が密かに悩んでいると、獣達から話を聞いたらしい煉が笑った。
「ヒトの子だよ」
煉は幾冬かに一度、雪深い山に雪母を訪ねてくる。煉が何者なのか、一華は知らない。知る必要も感じない。一華にとって、煉とは、冬と共に湖に舞い降り、春の訪れと共に去る渡り鳥のようなものだった。
「君たち雪童子は、百回の眠りからさめるまではずっと幼い子供の姿のままで変わらないけれど、ヒトは違う。ヒトの子は生まれた時はとても小さくて、眼もあまり見えないし、言葉もわからない。獣の子と同じだよ。そしてヒトの子は十年以上かけて、少しづつ成長するんだ」
百年経てば、雪童子は雪女か雪男になる。ではヒトの子は何になるのかと尋ねると、煉は何故か少し悲しげに微笑んだ。
「ほとんどのヒトは、百を超えて生きることは出来ない。ヒトの時の流れは、君たちとは違うんだ」
眼も見えず、言葉も持たない醜いイキモノ。十数年掛けてオトナになり、けれどもそれ以上の何かになることなく消えてゆく。同じ世界に在りながら、一華とは違う刻の流れを生きる遠いモノ達。
その夜、視界を白く染める吹雪に紛れて一華は再び人里に下り、籠に眠る小さなイキモノを見つめた。
❀
「その冬、一華は毎日欠かさず赤ん坊を見に村へ通った。雪山に生きる雪童子はヒトのことも赤ん坊のことも何も知らないから、本当にただ見ているだけなんだけど」
ヒトを知らぬ雪の精は、一体何を思って言葉も通じぬイキモノを見つめ続けたのだろうか。薄く蒼い空を見上げた煉が、ふと溜息を吐いた。
「一華がヒトに近づくのを見ても、雪女は何も言わなかったのか?」
寛太が首をかしげると、振り返った煉が肩を竦めた。
「言ったでしょ。雪女は子育てに関しては完全な放任主義だって。雪童子たちが生まれた時に一言与える以外は、雪童子たちが生きようが消えようが、唯黙って見ているだけなんだ。その善し悪しを問うつもりはないし、まぁそもそも普通の人間は雪童子の気配を感じることはあっても、その姿をハッキリと目にすることは出来ない。だから余程のことがない限り大丈夫かな、とは思ったんだけど、でも俺、なんとなく一華のことが心配でさ。一度だけ注意したんだ」
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「一華」
アオシシの背に乗って、山を降りようとした途端に背後から声を掛けられた。恐る恐る振り向けば、高い樹の枝に腰掛けた煉が眼を細めるようにして一華を見ている。毎日のように人里へ遊びにいっていることを叱られるのかと思い、一華がしょんぼりと俯くと、煉は困ったように笑いながら枝から飛び降りた。
「ヒトの子は大きくなった?」
「……わかんない」
母親とおぼしきヒトに抱かれている時以外は、籠の中でもぞもぞと動いたり、小さな手を開いたり握ったりするだけで、自ら寝返りを打つことすら出来ないイキモノの紅い頬を思い浮かべる。ゆっくりと瞬きを繰り返しながら、障子に映る一華の影を追う、黒目勝ちの瞳――
「殆どのヒトは君の姿を見ることは出来ない。たとえ気配を感じることが出来たとしても、君の声が聞こえたり、君に触れたり出来るヒトは滅多にいないんだ」
煉の言わんとすることが解らず、一華が僅かに首を傾げた。
ヒトの子とは確かに不思議なイキモノだったが、しかしそれと言葉を交わしたり、ましてや触れてみたいなどと思ったことはない。何故なら一華は、何かを欲するということを知らなかったから。
きょとんとした顔で自分を見る一華に向かって、煉が小さく溜息を吐いた。
「ねぇ、一華。いつかあの子に言葉がわかるようになって、そして万が一あの子に君の声が聞こえたとしても、決して君の名を教えてはいけないよ」
そっと伸ばされた煉の手が、一華の乗ったアオシシの耳を優しく撫でる。
「君たちヒトでないモノにとって、名を知られるのは自分の欠片を相手に渡すことだから、ヒトに名を教えてはいけない――」
(To be continued)




