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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
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朧月(四)

 

      7


 十数年振りに訪れた山寺はひどく荒れ果て、ひと気も無く、それどころか鬼を封じる結界の名残りすら感じることは出来なかった。崩れかけた門をくぐり、注意深く辺りを見渡す。微かに鼻を突く錆びた鉄の匂いと甘い腐臭に胸の内が不吉に騒めき、チリチリと首筋の毛が立つ。そしてその騒めきに誘われるように、奥へと進んだ。

 生い茂った草木の露に濡れた裾がしっとりと重く、足に絡み、その重さに歩みが鈍る。寺の奥に進むにつれて匂いは益々きつくなり、懐から取り出した忘れ草で思わず鼻を覆った。不意に雲が割れ、蒼い月明かりに人影が浮かんだ。

 その女はまるで一枚の絵のように独り静かに濡れ縁に座し、寂れた庭に瞬く青白い蛍の火を眺めていた。

 山吹の、と女が微笑んだ。懐かしげに細められた眼に銀の炎がちらちらと躍る。

「久しいの」

 その女は若く、美しく、しかし死にたくなくばソレに近づいてはならないと、本能に似た何かが朧月に囁いた。

 まるで朧月が来ることを知っていたかのように、濡れ縁に置かれた二つの盃に女が酒を注ぐ。

「呑まぬのか」

 血のように紅い酒に満たされた盃を指差し、女が小首を傾げた。

「海の向こうの異国より手に入れた酒ぞ」

 白い喉を仰け反らせ、女が盃を干す。漆黒の髪が月の光にしっとりと濡れて肩に流れる。その何処にも襤褸のように汚れ、痩せ衰えた少女の面影は無い。

「……お前に近づく気は無い」

 見知らぬ女と成ったソレから目を逸らし、朧月が吐き捨てるように言った。

「お前にとって、俺はもう大き過ぎることはないからな」

「そうだの」

 驚いたように僅かに目を瞠った女が、次の瞬間愉しげな笑い声を上げた。

「お前は大きすぎず小さすぎず、ナズナには丁度具合が良さげだの」

 細い肩を揺らしてころころと笑い転げる屈託無い様と、闇に燃え上がる生き生きとした銀の眼に、不意に朧月の知っている少女の面影が蘇った。やはりこれはナズナだったのだと思った途端に、ふと心の何処かが緩んだ。溜息と共に崩れかけた塀に腰掛ける。

「あの尼僧はどうした」

「鬼に喰われた」

「その鬼はどうした」

「ナズナが喰った」

 夜目にも紅い唇をゆっくりと舐め、ナズナが口の端を吊り上げる。

「……ヒトを喰った鬼の味は格別だの」

 好物の獲物を前にした猫のような表情のどこにも、死んだ尼僧を惜しむ影はない。

「……尼僧は生前、お前に辛く当たったのか?」

「いや、そんなことは無かったぞ?」

 けろりとした顔で盃に酒を注ぎつつナズナが答える。

「あれはナズナに衣と食い物と寝床をくれた。読み書きと算術も教えてくれた。だがあれは、ナズナが鬼を喰うことを禁じた。鬼喰いは忌むべきモノ、ヒトの血を穢すモノなどと言いおってな。鬼を呼ぶ術も祓う術もナズナに秘した。だからあれ亡きあと、書庫の書物を漁って術を学んだ。独学だ」

 すごいだろう、とナズナが得意げに笑う。その子供の頃と変わらぬ無邪気な様に、今度は何故か背筋がひんやりとした。朧月はナズナの変化を厭い、しかし同時に彼女の幼子のような無邪気さに怖れとも疎ましさともつかぬ違和感を覚え、そしてそんな己を持て余した。

「強きが弱きを喰うは此の世のことわり。ヒトは鬼の餌に過ぎず、鬼はナズナの餌に過ぎない。野の草や山鳥、川魚を喰うのと鬼を喰うのに、一体何の違いがあろうものか」

 そうだな、と呟き、手にした忘れ草の花に顔を埋めた。


      ❀


 その夏の夜以来、百合に似た芳香を放つ忘れ草を手に、朧月は度々朽ちた寺を訪れた。そして崩れかけた塀に腰掛け、濡れ縁に座して盃を傾けるナズナと共に月を眺めた。

 朧月が現れる度に、ナズナは満たした盃を勧める。そして決してそれに手をつけようとしない朧月を見て、さも可笑しそうに肩を震わせる。

「毒も痺れ薬も入ってはおらんぞ?」

 声を上げて笑うナズナから目を逸らし、朧月はふんと鼻を鳴らす。毒が入っていると思ったわけではない。ただ、盃に口をつけることで、ナズナと己の仲を試すような真似をしたくなかっただけだ。

「山吹の。その花はなんだ? 百合か?」

 ナズナが朧月が手にした夜目にも鮮やかな花を指差した。

「忘れ草だ」

「忘れ草?」

「ヒトは誰しも胸の内に忘れ草の種を持つ。忘れ草はヒトの記憶を喰って花を咲かせ、俺はその花を喰う」

「花を喰うのか? なんだ、鳥か虫のような奴だな」

 ナズナが呆れたように笑う。

「だがなかなか風流だ」

「餌に風流も何も無いだろう」

「そうだな」

 しばらく無言で杯を傾けていたナズナが不意にその手を止め、山吹の、と囁いた。細められた瞳の奥に銀の炎がちらちらと揺れる。

「お前はナズナを喰いたいか」

「……誰であろうと、俺にとってヒトはただの餌だ。だがお前はひどく不味そうだ」

 それは朧月の正直な感想だった。何不自由無く生きてきた者は薄甘く、戦に明け暮れた者の味は濃く、飢えと貧困に窮した者はさらなる飢餓感を煽るような酢い味がする。鬼喰いの味など知らぬものの、人々に疎まれ、母親に捨てられ、育て親を喰った鬼を喰い、平然としているような女に涼やかな甘みなど期待出来ぬことだけは確かだろう。

「喰わず嫌いは良くないぞ。ナズナは幼い頃、それで尼僧によく叱られたものだ」

 酒に噎せつつ、ナズナが笑い過ぎて零れた涙を袖の端で拭う。

「腹が減った時はいつでも言え。花に喰われて死ぬのも悪くない」

 カラカラと笑い続けるナズナの袖の黒い染みから、朧月はそっと眼を逸らした。


      ❀


 それは弓張月の美しい晩のことだった。いつものように寂れた寺の庭に現れた朧月が、ふと首を傾げた。濡れ縁にナズナの姿は見えず、それどころか酒肴の支度もない。

「……ナズナ?」

 奥の座敷に向かって小さく呼びかけたが、応える声はない。

 闇が甘く薫る。夜風が幽かに咽び泣く。胸の奥に騒めく葉擦れの音に、指先が痺れる。

 これ以上近付いてはならないと分かっていたが、どうしても己を抑えることが出来ず、座敷に踏み込み、奥の襖に手を掛けた。みしり、と背後で床が鳴った。

 冴え冴えと冷たい月の光を背に、それは柱に寄りかかるようにして佇み、大輪の花に顔を埋めていた。

 花が彼女を喰うなどと、何故そんなことを思ったのだろう。けれども花を手に佇む姿を見た瞬間、後先を考える間も無く駆け寄り、その手から花を払い落とした。

 ナズナが顔を上げた。間近に見る眼の中で、銀の炎がゆらゆらと燃え立つ。

 しまった、と思ったが遅かった。銀の炎に魅入られ、身動きはおろか息すら出来ない。

 闇が甘く薫る。

 夜風が幽かに咽び泣く。

 花はヒトを喰い、ナズナは鬼を喰う。

 どれ程の間、そうして見詰め合っていたのだろうか。ナズナがふと視線を逸らした。その眼に宿る呪縛から解き放たれた途端、朧月は大きく床を蹴って外に逃れた。そんな朧月に構うことなく、ナズナが屈んで足元に落ちた花を拾った。

「山を下りる途中の道で見つけたんだ。山吹色の大きな花が咲き乱れていて、なかなか見事だったぞ」

 お前の髪と同じ色だな、と言って愛おしげに微笑むナズナの唇は、紅を塗ったように血濡れて赤い。

「鮮やかで、暖かな色だ」

「……山を下りて何処へ行ったんだ?」

 荒い息と声の震えを必死に抑える。

「別に」

 眉ひとつ動かさず、ナズナが肩を竦めた。

「ナズナだっていつも呑んだくれてばかりいるわけではない。山を下りることくらいある」

 ナズナが何やら突如不機嫌に黙り込んだ。そしてそのまま一晩中酒を煽るだけで、朧月と眼を合わせようとはしなかった。


      ❀


「着物を買いに行ったそうな」

 知合いのモノが朧月にその話を教えたのは、数日後のことだった。

「着物?」

「そう、なんでも少し離れた里に上方から行商人が来たらしく。あんな山里では滅多にお目にかかれないような珍しい品も多く、大した人集りだったとか」

 物欲など無さそうなナズナだが、やはりそれは年若い女のこと。物珍しさも手伝って、ついつい人里まで足を伸ばしてみたのだろうか。目深に笠を被り、ひやかしの客や熱心に櫛を選ぶ娘達の背後からそっと品々を覗くナズナの姿が目に浮かぶ。そして一枚の着物が、彼女の目を惹いた。

 それは、闇夜のように艶やかな濃藍に銀糸で月と蛍が描かれた打掛だった。思わず手を伸ばして着物に触れた時、笠が落ち、その眼が露わになった。

「……それで?」

「この辺りの者でアレの悪行を知らぬ者はおりませんからな。逃げ惑う者や恐怖のあまりに気絶する者で、大混乱でありますよ。しかし愚かなのはアレを知らない行商人ですな。お前のような薄気味悪いモノに売る物などないと、面と向かって罵倒したとか」

 ヒトの癖に命知らずにもほどがありますな、と言って鬼が嗤った。けれども無言で目を瞑った朧月は、すでに鬼の言葉など聞いてはいなかった。

 次に逢う時は、闇ノ市で手に入れた美しい着物を持って行こう。確かにあれの着物は染み付き、ひどく薄汚れている。幽界の月の光で染めた銀の絹は、燃え立つようなナズナの眼によく映えることだろう。

 そんな事を考えつつ、うつらうつらとしていた朧月の許へ、月虹から書状が届いた。



(To be continued)

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