木守り柿(後編)
5
あの秋以来、毎年必ずミチルは一番大きくて艶やかな実を木守り柿として枝に残した。そして秋も深まる頃、柿右衛門は白々と澄む月明かりの中、ミチルの窓辺に現れる。
ミチルは柿右衛門がいない一年の間に起きた出来事を、ひとつひとつ丁寧に話して聞かせる。おっさん顔の柿の精は正座をして腕を組み、どんな話でもふんふんと頷きながら真剣に聞く。朝になればカラスやヒヨドリが窓辺に柿右衛門を訪ねてくる。柿右衛門は鳥達の話にも同じように熱心に聞き入っていた。
柿右衛門、と時々ミチルは訊ねる。
「煉くん、今年は来るかな?」
いつも少しだけ首を傾げて考えてから、柿右衛門は答える。
「まだ来ない」
時代の流れと共にヒトとモノは変わり、それは時としてミチルを酷く傷つけた。一体いつ頃からの事だろうか。音も無く忍び寄るきな臭い風と憂鬱な影がミチルの世界を覆い、脅かし始めた。そんな儘ならぬ世界に胸が痛む日はいつも、ミチルは宵闇に黒々と伸びる枝と、そこにひとつ残された赤い実を想う。
柿右衛門のいる景色は、変わることなく果たされ続ける未来への約束だった。そしてそれは何モノにも揺らぐことのない芯となってミチルの世界を支え、ミチルを安心させた。
「わたしは大丈夫」
茜色の風に向かって、ミチルは呟く。
「もうすぐ柿右衛門に会える。わたしは柿右衛門を守り、柿右衛門はこの地を守る。だって、約束だから――」
そしていつかまた、あの少年に会える。冴え冴えと白い月明かりに眼を細め、夜風に艶やかな黒髪を靡かせるあの少年に。
約束は守られるべきモノで、果たされる為に在るのだから。
❀
疲れた足を引き摺るようにして家へ帰り着いた途端に、玄関に倒れ込むように腰を下ろす。一日中立ちっぱなしで、俯いて作業していたせいだろうか。肩が凝って腕が上がらない。疲れ過ぎていて、最近は口を開くのですら億劫だった。
「……ただいま」
台所を覗くと、夕飯の支度をしていた母が振り返り、小さな声でおかえりと言った。黒い布の傘を被せられた電燈のせいか、髪に白いものが混じり始めた母はやけに老けてみえた。
あのね、と薄い粥を混ぜつつ、母が疲れた溜息をついた。
「お向かいの正太君ね、甲種合格だったそうよ」
「ふーん」
そりゃそうだろうな。近所のガキ大将だった正太のがっしりと広い肩幅と利かん気そうな太い眉毛を思い浮かべる。最近の正太は道でミチルに会っても俯いたまま足早に通り過ぎるだけで滅多に口をきく事もないが、昔ミチルはよく正太にいじめられて泣いたものだ。でもあの眉毛はちょっと柿右衛門に似ているな。そう言えば、柿右衛門を投げつけられた正太が鼻血を出した事があったっけ。懐かしい思い出に、ふとミチルが口許を緩めた。
「――甲種合格だなんて、きっと直ぐに召集がかかるんでしょうねぇ」
母の倦んだ呟きに、不意に冷たく濡れた手で触られたかのように胸の内がひんやりと凍えた。
正太の家に赤紙が届いたのは、それから僅か十日ばかりの事だった。
❀
まだ少し硬そうだけど、でもあと数日で採り入れどきかな。
夕暮れ時の庭で柿の木をぼんやりと眺めていたミチルが、ふと人の気配を感じて振り向いた。と、塀越しに此方を覗いていた正太と目が合った。正太が慌てて頭を下げ、そそくさと立ち去ろうとし、しかし少し迷ったように立ち止まるとミチルを振り返った。
「……俺、一昨日召集令状がきてさ、明後日行くんだ」
「うん、お母さんから聞いたよ」
こういう場合は何て言うのが正しいのかしら。オメデトウ、ガンバッテ、オキヲツケテ? どれもなんだかしっくりしない。ミチルが密かに悩んでいると、無言で柿の木を見つめていた正太が不意にくすりと笑った。
「昔、ミチルに柿を投げつけられた事があったな」
「え? そ、そうだったかしら」
「うん、それで俺鼻血出してさ。新しいシャツを汚してお袋には叱られるし、女にやられてガキ大将のメンツは丸潰れだし、おまけにびっくりしたせいか、なんか夜になったら熱まで出しちまってさ、もう散々だったよ。お陰で俺は今でも柿が苦手だ」
そう言って楽しげに声を上げて一頻り笑うと、正太がミチルに向かって片手を上げた。
「じゃあな、お前も頑張れよ」
無言で台所に駆け込んだミチルが鋏を掴むと物置に飛び込み、辺りの物を引っ掻き回すようにして奥に仕舞われていた籠と梯子を出した。
「まぁ、こんな遅くに一体どうしたの?」と母が目を丸くした。
「おい、ちょっと採り入れには早いんじゃないか?」と父が首を傾げる。
そんな両親に構わず木に掛けた梯子に登ると、物も言わずにミチルは硬い柿の実をもぎ続けた。そして、一番高いところにある一番綺麗な実をひとつ残して全ての実をもぐと、その中からなるたけ赤くて柔らかそうな実を選び、袋に詰めてお向かいの家に駆け込んだ。
「正太っ」
驚いたように玄関に出て来た青年の顔の前にミチルが袋一杯の赤い実を突き出した。
「これ、うちの庭の柿。まだ少し硬いけど、でもきっと甘いから。うちの柿は特別だから、きっときっと美味しいから。一度食べたら、また絶対に食べたくなるから。どこに行っても、どんなに遠いところに行っても、また絶対に柿を食べに帰ってこようって思えるから」
呆気に取られたようにミチルの前に立ち尽くしていた青年は、やがてきりりと口を引き締めると無言で頷いた。
6
収穫が早すぎたせいか。その夜、月明かりの射し込む窓辺に現れた柿右衛門はいつもの年に比べ顔色が冴えず、体の動きも硬かった。
「ごめんね、柿右衛門。採り入れが早すぎちゃったね」
「問題ない」
体をほぐすようにコキコキと首を回しつつ、柿右衛門が鷹揚に頷いた。
数日程で柿右衛門の体の硬さは取れ、顔色も良くなった。収穫が早かったせいか、それとも気候の穏やかな日が続いたせいか、庭の柿の実は傷む気配を見せず、その年はいつもよりも長く柿右衛門と一緒に過ごせそうだった。とは言え、女学校など疾うの昔からずっと休校で、工場と家を往復する日々では柿右衛門に話して聞かせたいと願うような楽しい話題は少なかった。けれども柿右衛門はどんな話でも黙って聞いてくれた。そしてたとえ話をしなくても、梢を鳴らす風の音にふと目覚めた真夜中、窓際でじっと腕組みして月を見上げる柿右衛門の姿に、ミチルはいつも深い安堵を覚えた。
そんなある日のことだった。
「柿右衛門、海を見たくない?」
久し振りの休日の早朝、澄んだ空を見上げたミチルが何気無く尋ねた。別に深い意味は無かった。唯、広々と遮るもののない景色が無性に見たくなっただけだ。ミチルの問いに、縁側で日向ぼっこしていた柿右衛門は少し驚いたように目を見開いた。
「ダメ? バスと電車を使えば二時間くらいで行けるんだけど。でもそんなに長い間、木から離れられないかな?」
腕組みしてしばらく何事か考えていた柿右衛門は、やがて、「問題ない」と大きく一つ頷いた。
初冬の海岸はひと気がなかった。目の前に広がる海に、目も口も真ん丸にした柿右衛門が、おおおおお、と声を上げる。波打ち際にそっと降ろしてやると、寄る波に小さな足を濡らした柿右衛門が再びおおおおおと言って大きく見張った目でミチルを見上げた。
柿右衛門が波に攫われないよう背後で見守っていると、何か見つけたらしい柿右衛門が波打ち際にしゃがみ込んだ。見れば、それは小さな蟹だった。猿蟹合戦を思い出し、恐る恐る蟹を突ついているその姿を微笑ましく思っていると、柿右衛門が突如甲高い悲鳴を上げた。怒った蟹にヤモリのような小さな指を挟まれ、あわわわわ、と叫びながら狼狽えて走り廻る柿右衛門をミチルが笑いながら助けてやる。
「大丈夫? 柿右衛門」
「も、問題ない」
はぁはぁと息を切らせながら赤い顔で柿右衛門が答えた。
こんなに喜ぶなら、もっと早く連れてきてあげれば良かった。何を見てもおおおおお、おおおおお、と声を上げてはしゃぐ柿右衛門の無邪気な姿にそう思った。そうだ、海だけではない。今度からもっといろんな所に一緒に行き、いろんなモノを一緒に見よう。世界は広く、美しいもので溢れているのだから。
不意に柿右衛門がハッとした表情で空を見上げた。空高く、黒い鳥のような不吉な影が編隊を組んで飛んでいく。ひやりとして急いで辺りを見回す。どうしよう、海岸には身を隠すような場所はない。けれども黒い鳥の群れの高度は高く、地面で狼狽えるミチルなど歯牙にもかけず、あっという間に山の向こうに見えなくなった。
ほっとして、ふと柿右衛門を見ると、小さな柿の精は凍りついたように黒い影の飛び去った空を見つめていた。どうしたの、とミチルが声をかけようとした時、柿右衛門がギクシャクとやけに硬い動きでミチルを振り返った。
「ミ、ミチル……」
振り向いた柿右衛門の顔は真っ青だった。赤い柿が青く見えるというのもおかしな話だが、しかしその時、ミチルには確かに柿右衛門の顔が青白く霞んでみえた。
「どうしたの?! 大丈夫、柿右衛門?!」
ミチルッ、と柿右衛門が叫んだ。
「逃げろっ! 家はダメだっ! 逃げろっ! ミチルッ」
甲高い悲鳴と共にミチルの足元に駆け寄ろうとした柿右衛門の姿が不意にぐしゃりと潰れ、波打ち際に血のように赤い汁が飛び散り、一瞬にして跡形もなく掻き消えた。
バスも電車も無い混乱の中、丸一日かけてミチルは家に帰った。豆の潰れた足を引き摺るようにして帰ってきた我が家は半壊し、見る影もなく、柿の木は燃えて跡形も無かった。
世界はある日突然壊れる。硝子の地球儀のように、世界は透明で、美しく、脆かった。砕け散った欠片を集めようとする指先は傷つき、血を流し、しかし世界が元通りになることはない。もう二度と、ミチルの約束が果たされることはない。
少年は言った。
木守り柿は木を守り、木は家を守り、家の礎は重石となって地を守る。
だから君は木守り柿を守る。
地の均衡を保ち、闇から這い出る鬼からヒトの心を守るために。
――煉くん、君は嘘をついた。
瞑った瞼を過る黒髪の少年の遠い面影に、そっと囁きかける。
人の心を荒らし世界を壊すのは鬼ではない。小さな木の精など太刀打ちの仕様もない圧倒的な悪意と暴力で世界を壊すのは、それは鬼ではなく、ヒトだった。
不思議なくらい涙は零れなかった。唯、胸の内が酷く乾き、虚ろで、何も感じることが出来ない。焼け焦げ、炭と化した木端に指を這わせる。柿右衛門はミチルに逃げろと言った。家はダメだ、逃げろ、と。しかし一体何処に逃げろと言うのか。たとえ世界の果てまで逃げても、ヒトはヒトのまま、何も変わりはしない。
もしかしたら、柿右衛門はミチルに逃げろと言うことで、生きろと伝えたかったのかもしれない。逃げて、生き延びろ、と。それが柿右衛門の最期の願いなら、叶えるべきなのだろうか。未来への約束の無い、壊れた世界で、ミチルは独り、生きてゆくべきなのだろうか。
ばさばさと乱暴な羽音に顔を上げると、壊れた家の残骸の上に一羽のカラスがとまり、柿の木があった場所をじっと見つめていた。不吉に紅く燃える夕焼けに浮かぶ黒い影を見上げ、ごめんね、とミチルが呟いた。
もう柿右衛門はいないんだよ。もう二度と逢えないんだよ。
「お行き」
立ち上がって山を指差す。
「あなたの世界も私の世界も粉々になって、もう元に戻ることはないから。だから、もうこんなところに来てはダメ」
真っ黒な鳥の真っ黒な眼が無表情にミチルを凝視した。柿右衛門を守りきれなかったことを責められているような気がして、申し訳無さに肩を震わせ、思わず俯いた時だった。
不意にカラスがカァとひと声鳴いて茜色の空に舞い上がった。ぽとり、とミチルの足下に何かが落ちた。
それは、ふっくらと艶やかな一粒の種だった。
❀
庭に蒔いた一粒の種は春になると土の中から頭をもたげ、薄黄緑の芽を出した。芽はやがて若木となり、空に向かって枝を伸ばし、艶やかな緑の葉を生い茂らせる。そして十年の月日をかけ、木は赤い実を結んだ。
「甘柿の種から甘柿が出来る可能性は千分の一とか数百万分の一とからしいぞ」
父がからかうのを聞き流し、ミチルは丁寧に小振りな赤い実をもいでいった。そして全ての祈りと願いを込めて、一番上の枝に一番綺麗な実をひとつ残した。
たとえ一億分の一の可能性でもいい。柿右衛門に会いたかった。
その夜、ミチルは用意した酒肴と共に窓際で待ち続けた。しかし、ゆっくりと東から昇った月が暗い夜空を一周し、西に沈むまで待っても、柿右衛門は現れなかった。
東の空が白々と明け始めた時、不意に涙が零れた。傷は癒えても傷跡は残る。けれども残った傷跡の、その痛みさえも糧に、ヒトは生きて新しい世界を築く。しかしヒトでないモノ達は、ヒトほどしぶとくはないのだろう。あの淡やかな世界は失われ、もう二度と戻ることはない。
ミチルは木守り柿の守りだった。そして同時にミチルはヒトだった。ヒトならヒトらしく、唯ひたすらに生きてゆくしかあるまい。
涙を拭き、強張った背中を伸ばして立ち上がる。菫色の空に霞む山影が遠い。刻一刻と色を変えるこの空の下、ミチルは生きる。それが柿右衛門がミチルに残した、最期の約束だから。
窓を閉めようとした時、バサバサと羽音を立てて一羽のカラスが舞い降りてきた。バランス悪くよろめくように窓際に止まったカラスの姿に、眼を疑った。不機嫌そうなカラスの黒い脚には、やや小振りの赤い柿がしがみついている。
「久々で、木から上手く降りられなかった。だから鳥が起きるまで待った」
ちいさなヤモリのような手で窓ガラスをぺたりと触るとおっさん顔の柿が言った。
「ミチル、木に縄梯子をつけてくれ」
ミチルに飛びつかれた柿右衛門がむぐぐ、と唸る。ミチルに抱きしめられて、潰れる潰れると騒ぐ嬉し気な声が、爽やかな秋の朝空に響いた。
エピローグ
あれからどれ程の月日が過ぎたのだろう。
「柿右衛門、煉くんは遊びに来るかしら」
穏やかな秋の午後、縁側でのんびりと和んでいる柿の精にミチルが何気無く訊ねた。と、腕組みして考え込んでいた柿右衛門が、うむ、と重々しく頷いた。
「もうすぐ来る」
予期せぬ答えに、えっ、と驚いて柿右衛門を振り返る。
「もうすぐって……?」
「もうすぐ。今あの山を越えて、もうすぐ町に入る」
ヤモリのような小さな指が、町の端を指し示す。
「ええっ?! それって本当にすぐじゃないの!」
大変! と叫び、慌てて銀色の髪を撫で付けながらミチルが立ち上がった。急いで立ち上がったせいか、一瞬眩暈がして体がふらついた。歳のせいか、最近よく立ち眩みする。
「全くもう、柿右衛門も知っているならもっと早くに教えてくれればいいのに。お茶受けになるようなものがあったかしら? 着替えて、お化粧もしなくちゃ」
あたふたと部屋を出て行くミチルの後ろ姿を、小さな柿の精がじっと見送る。
身支度を整え、お茶の用意をして部屋に戻ってきたミチルが襖を開けると、縁側に座った懐かしい影が振り返った。艶やかな黒髪が夕風に靡き、それはまるで何かの映画のワンシーンのようだった。
「もしもしお嬢さん。甘い柿はいかがですか?」
悪戯っ子のような笑顔と共に少年が熟した実を差し出す。
「すごーく美味しいので、是非一緒に食べましょう」
袋いっぱいの赤い実をみせて、茜色の風の中、少年が笑う。
(END)




