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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
73/123

人魚姫(三)

     8


 銀色に仄光る空の下、傘を開くのに手間取る振りをして、密かに深呼吸する。

 もうすぐ梅雨入りだ。しっとりと空気を濡らす雨垂れの音が心地良い。鳴海は雨が好きだ。細かな水滴に沈む世界では、全ての音は柔らかにくぐもり、ケモノとヒトの言葉は少しだけ遠のき、鳴海に束の間の安らぎを与える。

 駅を出て学校へ続く坂道を登りながら深い藍色の傘を開く。深海に似たその色に、最近泳いでいないことを思い出す。物心ついた時から、鳴海はよく水に潜った。海でも川でもプールでも風呂場の桶でもいい。水に棲む生き物達は言葉を持たず、陸の生き物達の言葉は水には届かない。静けさだけを求めて、鳴海は水に躰を沈める。

 ここしばらく水中に逃げ込まないでいられるのは、あの少年のお陰かも知れない。あの子の瞳は澄んだ水を湛える山奥の深い淵に似て、とてもとても静かで、そしてどこか懐かしい。

 それにしても久々に予鈴前に余裕を持って教室に辿り着いたなぁ、やっぱり雨で動物も虫も隠れているしなぁ、でも雨で湿度が上がると教室の引き戸が重たくなるなぁ、などと考えつつ教室の戸を開けようと格闘していた時だ。廊下を走ってきた誰かが背後から腕を伸ばし、鳴海の肩越しに戸を開けた。

 優に頭二つ分は背の高い男子生徒に覆いかぶさられる形になって、思わず首を縮める。

「ユウコいる〜?」

 鳴海の困惑など全く構わず、そもそも鳴海の存在になど気付いてすらいないかのように屈託無く男子生徒が教室を覗く。そんな彼から逃げるように、鳴海が戸の隙間から教室に滑り込んだ。その寸前、男子生徒の濡れた髪が目に映った。

 あれは、あの濡れ方は、雨で濡れたものではない。

 予鈴が鳴って彼がいなくなっても微かなカルキの匂いだけがいつまでも去らず、胸をざわめかせた。



     9


 銀糸のような雨が無数の水紋を描く。あの水に触れたい。音の無い静かな世界に抱かれたい。ひと気の無い公園で、柵越しに身を乗り出すようにして翡翠色の池を見つめていると、不意に肩を叩かれた。

「あぶないよ」

 少年が大きな眼を細めるようにして微笑み、柵を指差す。

「そこのフェンス、杭が腐りかけてるからね。もたれたりしたら折れて池にハマるよ」

「煉くん……」

 この少年になら話してもいいだろうか。誰にも話せないまま、ずっと胸の底にわだかまっている小さな秘密を。

 藍色の傘から滴る雫を見つめ、鳴海が溜息をついた。

「……私さ、子供の頃、海で溺れかけた事があるんだよね」


     ❀


 あれは鳴海が小学四年生の夏休みのことだった。

 湘南の祖母の家に遊びに来ていた鳴海は、毎日のように母に連れられ、弟と共にバスに乗って海岸に泳ぎに行った。泳ぎ、と言ってもその頃の鳴海の泳ぎは市民プールで鍛えた自己流で、海では浮輪が手放せず、鳴海もそれを自分で知っていたので決して安全な浅瀬から離れるような真似はしなかった。

 けれどもその日は朝食のジャムか何かの事で弟と喧嘩して、ひどくつまらない気分だった。だから砂浜でビーチボールを抱きしめ、チラチラと遊んで欲しそうな視線を送ってくる弟を無視して、一人で少し離れた岩場まで歩いていった。

 夏休みと言っても平日だったせいか、それとも尖った岩に打ち寄せる波が意外に高かったせいか、岩場にはひと気が無かった。浜辺の人声も、ボール投げをしている犬の歓声も、カモメ達のお喋りも、波の音に打ち消されてここまでは届かない。その静けさに少し嬉しくなって、鳴海は浮き輪をつけたまま、岩場の無口なイソギンチャクやフジツボ達を眺めて過ごした。

 イソギンチャクの口を突つくのにも飽きた頃、足下の岩陰に見え隠れしている小さな蟹を見つけた。蟹は言葉を話すのか、ふと気になった。鳴海の母は魚を捌くのもイヤという人で、無論生きた蟹を買ってきて料理したこともない。

 ぷくぷくと口から細かな泡を吹く蟹の声を聞こうと、波に合わせて岩陰を動いている蟹に向かって身を乗り出した時だった。海藻のヌメリに足を取られ、あっという間に岩と岩の隙間に転げ落ちた。打ち寄せる波が鳴海の身体をふわりと持ち上げ、次の瞬間、凄まじい勢いで鳴海を海に引きずり込んだ。

 波に揉みくちゃにされながら、落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせた。わたしには浮き輪がある。大丈夫、溺れるわけがない。目の前の切り立った岩に向かって必死に右手を伸ばしながら、左手で浮き輪を抱きしめた。唯一の救いであるソレが、手の中でぐにゃりと力無く潰れた。

 尖った岩に擦れて穴が空いたのだろう。シマッタ、などと考える余裕もなかった。

 空気の抜けた浮輪が肩に絡まり、身体の自由を奪う。恐ろしさと混乱のあまり、声も出ない。足の届かない深みの中、空気を求め、無我夢中で手足をばたつかせた。

 不意に何か生温かいモノが背中に抱きついてきた。巨大なタコに襲われたかのような不気味な感触に悲鳴を上げた途端にしたたか水を飲み、息が詰まった。

「大丈夫! 大丈夫だから!」

 耳許で誰かの声がして、岩の上に鳴海の身体を押し上げた。

 恐怖に痺れて力の入らない手足を必死に動かし、這うようにして岩によじ登る。ガクガクと震えながら四つん這いのまま咳込む鳴海の背中を、誰かが懸命にさすってくれた。

「……イチオウ確認するけど」

 ようやく咳の止まった鳴海の前に座り込み、荒い息をついていた少年がゴーグルを取って顔を拭った。

「あんたさ、遊んでたの? 溺れてたの?」

「……あ、遊んでたって……! こんなとこで遊んでるわけないじゃないッ」

 安堵と恐怖で泣きそうになるのを堪えていたせいか、口を開いたら御礼の代わりに自分でもびっくりするようなヒステリックな金切り声が飛び出した。

「あ、そう。じゃあヨカッタ」

 目の前の少年は鳴海の金切り声に全く動じる風もなく、切れ長の瞳を細めてニコニコと屈託無い。少年が鳴海の胸元を指差した。

「それさ、なんて読むの?」

「シラハセ……シラハセ・ナルミ」

「ナルミかぁ。へええ」

 スクール水着の胸元に書かれた名前を読み上げると、少年はパッと目を輝かせた。

「すっげえイイ名前だな!」

「そ、そう……?」

「うん、俺、泳ぐの大好きでさ、海とかプールとか大好きなんだよ。白波瀬鳴海って、すっげえ水っぽくてイイ名前じゃん!」

 ……水っぽいか。まぁ確かにそうだが、これは褒め言葉と受け取るべきか、微妙なところだ。

「それにさ、ナルミってなんて言うか……」

 おいおい、命の恩人とは言え、いきなり呼び捨てか。

「ナルミって人魚姫みたいだよな!」

「に、人魚姫?!」

 アンデルセンの童話に登場する儚くも美しい人魚姫と自分に一体どんな共通点があったのだろう。照れるべきか、喜ぶべきか。とりあえず耳まで赤くして口ごもった鳴海を少年がキラキラした瞳で見つめる。

「うん、髪の毛がワカメみたいでさ」

 一瞬このバカを海に突き落としてやろうかと思った。

 鳴海の殺意を知ってか知らずか、少年は楽しげに伸びをしながら立ち上がると、その切れ長の瞳を水平線に向けた。

「俺もいつか人魚になりたい」

 俺()ってなんだ、俺()って。私は人魚じゃないぞ。そもそも人魚ならこんな所で溺れかけてはいない。

「俺は人魚みたいな、世界一のスイマーになりたい」

「……それって水泳の選手になりたいって意味? 将来はオリンピックに出るのが夢とか、そういうやつ?」

「あ、俺さ、オリンピックとかワリとどーでもいいんだよね。まぁ出してくれるってゆうなら出たいけどさ。でも次のオリンピックは俺まだ年が足りないからダメだし、その次は俺が高二の時だから、出れるかどうかビミョーだな」

 どうでもいいとか言いつつ、しっかり計算してるじゃん、コイツ。

「世界一のスイマーってのはね、世界で一番キレイに泳げるヤツになりたいってこと」

 そう呟くと、白い入道雲と眩しい波の照り返しの中で少年はニヤリと笑った。そしていきなり岩の上を跳ねるように駆け出し、海に突き出た岩の先から高くジャンプして頭から水に飛び込んだ。そんな乱暴な飛び込み方だったのに、水飛沫すら殆ど上げないまま、少年の躰は恐ろしく静かに蒼い水に飲み込まれ、あっという間に見えなくなった。

 それは何処か非現実的で、そしてドキリとするほど美しい光景だった。

 少年は波間に沈んだままいつまでも待っても上がってこなかった。今から思えば、彼を待っていたのはほんの数分の事だったのだろう。けれどもその数分は酷く長く、水面を見つめて少年を待つ内に全てが悪い夢だったような気がし始めた。もしかしたら少年は本当に人魚だったのかも知れない。何だか泣き出したくなった頃に、「ナルミ〜」と海の向こうから自分を呼ぶ声がした。

 波間にぽかりと顔を出した少年は、人魚と言うよりも水族館のアザラシのようだった。アザラシそっくりの人懐っこい笑顔で、立ち泳ぎしながら少年が手を大きく振る。

「おまえのその腕さあ〜、はやく手当てしろよ〜」

 少年に言われて初めて、岩にぶつけた腕が擦り剥けて血が滲んでいることに気が付いた。気が付いた途端に白い塩を吹いた傷がヒリヒリと痛み、波に呑まれそうになった恐怖が蘇って足が震えた。

「尾ビレが生えてくるまではさあ〜、あんまムチャすんなよ〜」

 尾ビレなんか一生待っても生えてこないっつーの!

 そう怒鳴り返そうと思って振り返った波間には、誰もいなかった。



 夏休みが終わって東京に帰った鳴海は、親に頼んでスイミングスクールに通い出した。怒られたり心配されたりするのが嫌で、溺れかけた事は結局誰にも言わなかった。

 何者の声も届かない水の中は鳴海の唯一の憩いの場だ。スイミングスクールに通うのは溺れかけた時に感じた恐怖を克服し、水の中でのびのびとしたいから……と言うのは自分に対する言い訳で、本当は泳ぎを学ぶことであの少年に繋がっていたいと思っていたのかも知れない。

 わたしは人魚ではない。いくら待っても、この足が尾ビレに変わることは無い。けれども少しでも泳ぎが上手くなれば、あの日垣間見た世界に近づけるかも知れない。

 そんな憧憬に似た幼い希望を胸に、鳴海は水に潜り続けた。


     ❀


「それで泳ぎが上手くなって、大会かなんかで謎の少年と再会したんだ?」と煉に聞かれ、鳴海が肩を竦めた。

「それがさぁ、そう上手くはいかなかったのよ。好きこそ物の上手なれって言うけど、やっぱ人間には得手不得手があるんだよねぇ」

「なんだ、水が好きな癖にカナヅチとは、残念な奴だな」と焰が笑った。

「カナヅチなんかじゃないわよ、失礼ね」

 狐の小さな鼻面を鳴海がピンと指先で弾く。

「ただ、私には大会に出るようなそんな才能は無かったってだけ」

「じゃあ初恋の君とはそれっきりだったの?」

「初恋って、ちょっとやめてよ。初恋の君って言うには、あいつはちょっと色々と残念過ぎるからね」

 銀色の空を見上げて鳴海が笑った。

「でもまぁ、残念ついでに、なんと言うか、天にまします何者かの悪意を感じちゃう展開で再会しちゃったんだな、これが」


     ❀


 白波瀬鳴海と白いチョークで書かれた黒板の前で、鳴海がぺこりとお辞儀した。

「シラハセ・ナルミです。東京から引っ越してきました。よろしくお願いします」

 本当はもっと色々とアピールするような楽しい自己紹介でもした方がいいのだろうか。転校した経験の無い鳴海にはよく分からない。まぁ、ここでどんなに気合の入った自己アピールをしてみてもどうせ無駄だろう。一番良いのは、なるべく目立たず、大人しく、なんの変哲も無い普通の子ってフリをすること。このクラスにお世話になるのもどうせ数ヶ月の事なのだ。

 パラパラと遠慮勝ちな拍手の中、鳴海が再びぺこりとお辞儀した時だった。

 あっと誰かが小さく息を飲み、続いて教室中に響き渡る声で「人魚姫!」と叫んだ。

 母親の体調不良と療養を理由に数ヶ月間の約束で祖母の家に住むことになった鳴海は、転校先のクラスで人魚の少年と再会した。



 彼、櫻井克也(サクライカツヤ)は一目でそうと分かるクラスの人気者だった。明るく冗談好きで、誰とでも笑顔で屈託無く話し、運動神経抜群で喧嘩も強い。おまけに顔も良いとくれば、男子のみならず女子からも人気が出るのは当然の結果だろう。惜しむらくは勉強にはイマイチ興味が無さそうなところだが、まぁ小学生のうちはそれもご愛嬌と許される。少なくとも、多少勉強は出来ても他に特技の無い子供、それもどちらかと言うとネクラで動物や虫に向かってブツブツと話し掛けるようなヤツよりはずっとマシなのだ。

 しかしクラス全員に一目置かれている克也が積極的に話しかけてくれたお陰か、他の子供達も克也につられる様に鳴海を迎え入れてくれた。思いがけず新しいクラスに溶け込めそうで、鳴海は少しばかり浮かれた気分で海辺の学校に通った。そして与えられたチャンスを台無しにしないよう、自分が動物や虫の言葉が解るなどと素振りも見せないように気をつけた。

 全ては上手くいっていた。クラスの女の子の誕生日会に誘われ、一生懸命選んで自分のお小遣いで買った小さなプレゼントを手に、ノコノコとその子の家に遊びに行くまでは。

 女三人寄れば姦しいと言うが、たかが小学生と言えども女は女。オタンジョウビカイという名の女子会の騒がしさに、同じ年頃の少女達と遊ぶのに慣れない鳴海は頭がクラクラした。何の脈略もなくポンポンと飛ぶ話題についていくのがやっとで、ひたすら頷きつつ愛想笑いを浮かべる頬が怠くなってきた。

「ピーチクパーチクうるさい小娘共だ」

 ソファーの背もたれに寝転び、辟易とした顔で舌打ちする猫の言葉に思わず頷きそうになる。アブナイアブナイ。

 それにしても少し耳鳴りがする。足元で腹を見せているダックスフントや背後の猫に向かってうっかり返事をしてしまう前にタイムアウトが必要だ。洗面所を借りてホッとひと息つき、冷たい水で手を洗っている時だった。

 どこからともなく響いてくる酔っ払ったような歌声とはしゃいだ騒ぎ声に鳴海が首を傾げた。そしてその声を辿り、そっと洗面台の下の戸を開けた。


 山小屋風の絵の描かれた愛らしい赤い屋根の下、その紙製の家が放つ微かに甘い匂いに酔い痴れ、濃い焦茶色の艶やかな羽を持つ虫達がドラ声を張り上げる。強い粘着質を持つそのトラップは一度踏み込めば決して彼等を放すことは無く、彼等は飢えて死ぬその最後の瞬間まで人の耳には届かぬ唄を歌い続ける。長い触覚だけをユラユラと動かしながら、幸せそうに、陶然として。

 それは、天国に似せて描かれた地獄だった。


 級友の親からの電話で祖母が駆けつけた時、鳴海は自分が吐いたものの中に座り込み、泣きじゃくりながらゴキブリ用トラップをバラバラに引き裂いていた。細切れになった厚紙がそこに捕えられた茶色い虫の残骸と共に鳴海の手足や髪にベタベタと貼り付いた様は、まさに地獄絵図だったと祖母は後に語った。

 この一件を境に、鳴海は新しいクラスで完全に孤立した。閻魔様もびっくりの地獄を目の当たりにしたクラスメイト達が鳴海に近づかなくなったからと言って、彼女達を責めることは誰にも出来ないだろう。そしてそれは、克也の人気をもってすら、どうすることも出来なかった。


     ❀


「子供の時ってさ、家族と小学校のクラスだけが世界の全てみたいなところがあるじゃない? まぁ大人になっても小学校が中学高校から大学、会社になるだけで、基本的には変わらないのかも知れないけど……でも幼ければ幼いほど独りでなにかをする事が許されなくて、独りでいると群れの中で目立ってしまって、それが結構キツかった」

 体育の体操の二人組、友達の顔を描く図工の時間、給食は誰と机を並べるか。そんな小さくクダラナイことに神経を擦り減らす毎日。

「くだらんな」とゴミ捨て場のカラスが肩を竦める。

「気にするんじゃないよ」と公園の野良猫が柔らかな身体を足に擦りつける。

「ナルミは何も悪くない」と隣家の犬が鼻を鳴らす。

 そんな動物達の慰めの言葉に、鳴海は決して答えない。意地を張っているわけではない。唯、そうだね、と口に出して言ってしまえば、波に洗われて薄く薄く色褪せた硝子のように、心がぱりんと割れて砕けてしまうから。だから鳴海は無表情に背筋を正し、誰とも目を合わさず、真っ直ぐ前だけを見つめる。

 そうやって、何も聞こえない振りをして、何も感じない振りをする。

「大人になるって、振りをすることが巧くなるってことなのかもね」

 強い振り、優しい振り、痛くない振り、出来る振りに出来ない振り。自分ではない何者かの振りをして、生きる。そうやって、振りと言う名の鎧で身を守り、他人はおろか己をも騙せるようになれば大人(ヒト)としても一流だ。

「煉くん……君にはまだわからないかも知れないけど」

 鳴海がそう言った途端、大きな飴玉で頬を膨らませた少年が上目遣いにちらりと鳴海を見た。黒目勝ちの瞳がニヤリと嗤った気がしたが、すぐに伏せられた長い睫毛の陰に隠れてしまった。


     ❀


 並んだ四角が二列。通路を挟んでもう二列。一番後ろは特別で、四角が五つ並んでいる。観光バスの座席表の話だ。遠足の楽しみはバスの座席を決めるところから始まる。

 子供達のワクワクとした熱気の中、白波瀬、と黒板に小さく書かれた字が寂しそうだった。隣はぽっかりとスペースが空いているというのに酷く肩身が狭そうで、まるで空白欄に押し潰されているみたいだ。

「あら、白波瀬さん、誰かと約束してないの?」

 思わず呆れて若い教師の顔を見上げる。このヒトは少し馬鹿なんじゃないかと思った。約束する相手がいないから隣が空白なのだ。なんでそんな当たり前の事を大声でわざわざ聞くんだろう。

 無言で自分を見つめる鳴海に教師が頬に手を当てて溜息を吐くと、子雀のように姦しく喋っている少女達を振り返った。

「あなた達、誰か白波瀬さんと一緒に座ってあげてくれないかしら?」

 座ってあげてなんかイラナイ。乞食じゃあるまいし、そんなモノ恵んで欲しくなんかない。

 急にしんと静まり返って自分と目を合わせないようにあらぬ方を見る少女達の姿に、若い教師は僅かに狼狽え、それを隠すように咳払いし、そして愛想良く微笑みながら鳴海に向かって愛らしく小首を傾げた。

「……先生の隣でもいいわよね? 白波瀬さん、先生と一緒に座ってくれる?」

 オンナの愛想笑いと可愛いポーズはオンナ相手には通用しないのという此の世の摂理を、一体どうやってこの歳上の女に教えてやればいいのだろう。

 鳴海が教師の作り笑いを前に密かに悩んでいると、教室の後ろで騒いでいた男子達の中から誰かが黒板に向かって歩いてきた。また新しいペアが出来たのだろう。白いチョークをキュキュッと鳴らして名前を書く。

 その少年が黒板を離れた途端に、声にならない溜息で教室の空気がざわりと揺れた。次の瞬間、男子の間から一斉にブーイングが上がった。女子も顔を寄せ合い、何やらヒソヒソと話しつつ鳴海に険しい視線を送ってくる。

「なんだよそれ〜?! 何やってんだよカツヤ〜?!」

「せっかくジャンケンで勝って一番後ろの五人掛けゲットしたのにさ〜」

「俺、酔いやすいんだよね。だからやっぱ後ろはヤダ」

「おまえが車酔いするとか聞いたことねぇよ。いっつもバスで騒ぎまくってんじゃん。嘘つくなよ」

「嘘じゃねぇって。今まではお前らに気ィつかって我慢してたの」

「後ろがイヤなら、俺たちと前の方で一緒に座ろうぜ? 通路の補助席使えば三人掛けになるじゃん」

「補助席とか狭くって座り心地わりいだろ」

「でもわざわざゴキオンナなんかと座んなくったってさぁ……」

「っせぇな!」

 それまでのらりくらりと笑いながらクラスメイトの文句を聞き流していた克也が、不意に顔色を変えた。

「ったく、オンナの連れションかよ?! 狭いバスの中なんか、どこに座ろうが同じだろ?! つまんねぇことで、てめーらいつまでもガタガタうるせぇんだよッ」

 克也の剣幕にクラス中が水を打ったように静まり返った。怒鳴ってみたものの、全員の注目を浴びて気不味くなったのか、克也が口を尖らせてクシャクシャと髪を掻き毟る。そして彫像の様に固まっている鳴海と目が合うと、眉を八の字にして、少し困ったように笑った。

「このクラス、男子も女子も人数が奇数だから……わりぃな」

 人数が奇数であることを理由に女子から弾かれた事か、心無いクラスメイトの言葉か、それとも克也の隣に座る事か。克也が一体何に対して謝ったのか、鳴海はわからない振りをして、貝のように心を閉ざした。

     


 君が嫌いだ。そう思えたらどんなに楽だろう。

 クラスで浮くことなんて馴れている筈だった。独り言を気味悪がれ、そのせいで友達がいないのも平気。クラスメイトの誕生日会で衝撃的に無気味な姿を晒してしまったのも、終わったことは仕方が無いと自分に言い聞かせた。なのにそれを憐れまれたかと思うと恥ずかしさでカッと顔が熱くなり、溺れたように息が苦しい。夏の海辺で鳴海を救った少年の他意のない優しさは、それが純粋であればあるほど鳴海の息を詰まらせる。

 真夜中の暗い部屋で寝付けぬままに、鳴海は独り空気を求めて喘いだ。

 そして遠足の日の朝、鳴海を起こしにきた祖母に背を向けて、声を失った人魚のように唯ひたすら首を横に振り続けた。



 遠足の翌々日、緊張に身体を縮めるようにして教室に入って来た鳴海を振り返る者は誰もいなかった。この教室で席を並べる子供達にとって、自分などいてもいなくても同じなのだと改めて実感する。安堵とも寂寥とも言えない想いがひたひたと胸の内を満たした。そして不意に、海の泡になりたいと思った。人魚姫のように、海の泡になり、深い水にとけたい。

 ガラリと教室の戸が開かれ、騒々しい笑い声と泥だらけのサッカーボールと共に少年達がなだれ込んできた。と、その中の一人が鳴海の前の椅子を乱暴に引くとそれに後ろ向きに座り、鳴海の顔を覗き込んだ。

「腹イタ、もう大丈夫なのか?」

「……うん。クスリ飲んだら、すぐに治ったから」

 至近距離で見る切れ長の眼に、思わずびくりと身を引きつつ小さな声で答える。

「そっか。大したことなくて良かったな」

 その屈託無い笑みに、胸の奥がツキリと痛んだ。

 克也は結局誰の隣に座ったのだろう。人気者の彼が独りぼっちでバスに座る姿など想像もつかないが、しかし全ての席順はあらかじめ決められている。もしかして、鳴海が独りぼっちにならないようにと気を遣ってくれた少年を、鳴海は独りぼっちにしてしまったのだろうか。どうして今までその事に気付かなかったのだろう。なんで自分の事しか考えなかったのだろう。今更ながらに込み上げる申し訳なさに、鳴海が唇を噛んで俯いた。

「でも遠足の日に腹イタってツイテナイよな。俺もさぁ、時々痛くなるんだよな。道に落ちているもんとか食った時に。おまえも気をつけろよ?」

 道に落ちているモノって、誰がそんなモノを拾い食いなんかするか。お前と一緒にするな。思わず呆れて溜息をつく。

 どうしてだろう。克也と話していると、いつも零れかけた涙が乾く。海辺の太陽のような笑顔に癒されているわけではなく、その口から飛び出す言葉が余りにもバカバカし過ぎて脱力してしまい、自分が一体何を悩んでいたのか忘れてしまうのだ。

「あ、そうそう、忘れるとこだった」

 克也がハーフパンツのポケットから何かを引っ張り出し、鳴海の手の中に落とした。チリンと小さな鈴が鳴る。

「……何これ?」

「お土産」

 立ち上がった克也がニコッと笑った。

「次は一緒に行けるといいな」

 手渡された毒々しい色のそれをやや呆然として見つめる。それは、物凄く悪趣味なタコの出来損ないのような人魚のキーホルダーだった。


     ❀


「本当に理解不能だよね」

 古ぼけてくすんだ色のキーホルダーを鞄の内ポケットから取り出し、鳴海が苦笑した。

「だって遠足は海じゃなくて、山方面だったんだよ? あいつ、一体どこでこんな悪趣味なモノ手に入れたんだろうって言うのが、私の人生七不思議の一つなの」

 しかしそれを聞く機会のないまま、僅か一ヶ月後に鳴海は元の学校に戻る事になった。

「それで?」

「それだけ」

「それっきり?」

「うん。それっきり、おしまい」

「ふ〜ん……」

 煉の手の中で、銀色の鈴がチリチリと涼し気な音を立てる。

 何やら納得しかねた顔でキーホルダーを眺めつつ首を傾げる少年から目を逸らし、鳴海が声を上げて笑った。



     10


 煉にはああ言ったものの、櫻井克也とは『それっきり』ではなかった。三度目に彼に出会ったのはつい最近、高校に入学して間も無い頃だった。

 高校でも水泳部に入るべきか、鳴海は悩んでいた。学力レベルを基準に選んだ学校は文武両道がモットーで、良くも悪くも部活動が盛んだった。下手に水泳部なんかに入部したら、勉強する時間がなくなるかも知れない。そもそも泳ぐというよりも単に水に沈んでいるのが好きなだけという鳴海には、インターハイ常連の水泳部は敷居が高い。

 しかしとりあえず見るだけ見ておこうと思い、カルキの匂いに惹かれるように覗いた部室は、男子水泳部のものだった。女子水泳部は隣の校舎だったらしい。慌てて出て行こうとした鳴海の肩を、誰かが親しげに叩いた。

「内村さん?」

 母の旧姓を呼ばれて振り返ると、パッチリとした眼の女生徒がニコニコしている。

「内村鳴海さんだよね?」

「え、あ、はい……」

 そうそう、両親の離婚に伴い、鳴海は母方の旧姓に名前を変えたのだ。しかし内村という響きに中々馴れず、呼ばれて戸惑うことが多い。

 それにしてもこの子は誰だろう。美人さんだな、と思ったが、相手の名前が分からない。ドギマギしていると、薄い茶色のポニーテールを揺らして少女が笑った。

「あ、ごめん。細野裕子です。内村さんと同じクラスなんだけど」

「え?! ごめんなさい、私、名前とか覚えるの苦手で……」

 と言うか、そもそもクラスメイトなる赤の他人の名前を覚える気など初めから無いだけなのだが。コミュ障でゴメンナサイ。

「あ、全然気にしないで、っていうか、驚かせちゃってごめん。でもよろしくね」

 美人だけど気さくで明るくて、ステキな子だな、とその爽やかな笑顔に素直に感心する。

「えっと、水泳部の見学に来たんだよね? でもここ、男子水泳部なんだけど……あ、内村さんももしかして、マネージャー希望?!」

「え?! えっと、私は……」

「よかった〜、水泳部のマネージャーって結構キツイんだよね。水音に負けないように大声出しっぱなしで、陸トレとかもあるし、おまけにここって大所帯だし。マネージャー志望が私だけだったらどうしようかと思って、ちょっと不安だったんだ」

「え、えっと……でも私、マネージャーとかやったことなくって……」

「大丈夫! わたし、中学でも水泳部のマネージャーやってたの。二人で力を合わせればなんとかなるって!」

「え、えっと、それは心強いと言うか……」

 そんなつもりは全く無かったのに、裕子の笑顔を見ているうちに、それも悪くないかも知れないと思った。マネージャーなら、自分の記録だの何だのというプレッシャーもなく、ずっと水のそばにいられるだろうし。

「ね、一緒にやろう!」

 思わずコクリと頷きそうになった時、騒がしい笑い声と共に部室の戸が開いた。

「おお〜、ユウコじゃん」

 たとえ街ですれ違ったとしても分からなかっただろう。戸を潜るようにして現れた彼はびっくりするほど背が高く、たかが高校生とは思えない程に筋肉が発達し、肩幅が広かった。

「なんだお前、まさかマネージャー志願かよ」

「そ、ありがたく思ってよね」

「げえ、マジかよ。お前って単にキビシイだけじゃなくってドSからヤなんだよね。優しくて可愛いマネージャーを夢見て高校に入ったのにさぁ、ここまでくっついてくるとか、一体何の嫌がらせだよ?」

「嫌がらせとは失礼しちゃうわね! 別にあんたにくっついてきたわけじゃないわよ! そもそもドSって何よドSって?!」

 振り上げられた裕子の拳を避けながら、切れ長の目を細めて笑う。その屈託無い笑顔だけは小学生の頃から変わっていない。

「で、こちらの彼女は?」

 不意に正面から笑顔を向けられて、心臓が跳ね上がった。

「え、えっと……」

「内村鳴海さん。私と同じクラスなの」

 裕子が笑顔で鳴海を紹介する。

「それでね、内村さんもマネージャー希望で……」

「あ、わ、私はっ、マネージャーとかとは違って! 別にそういうのじゃなくってっ」

 思わず慌てて大声を出してしまった。裕子が驚いたように大きな眼を瞬く。

「え? 違うの? でもさっき……」

「ナルミちゃんかぁ」

 克也が裕子を押しのけるようにしてずいっと顔を突き出した。

「ナルミってイイ名前だよね。ずっと前にさぁ、同じ名前の子がクラスにいたんだけど。五年か六年の時に転校してきて、でもすぐにまたいなくなっちゃったんだよね。その子、苗字もすっげえカッコ良くってさ」

 柄にも無く、カッと頬が熱くなった。

「へえ、何て苗字だったの?」

 裕子に聞かれた途端、克也が困った顔でクシャクシャと髪を掻き毟る。

「それがさ、カッコ良かったのは憶えてるんだけど、肝心の苗字は忘れちまったんだよな。水っぽい名前だったのは確かなんだけど」

 ……なんだ。カッコ良いとか褒めておいて、結局忘れたんかい。まぁ昔から馬鹿っぽい奴だったからな。ナノレベルでも期待した私が馬鹿でした。ってか、ここって県内では学力トップレベルの学校の筈なんだけど、こいつ一体どういう裏ワザを使って入学したんだろう?

「あんた、本当に水泳以外はダメだね」

 裕子が呆れたように溜息を吐きつつ、克也を押しのける。

「ごめんね、内村さん。こいつ、私と同じ中学出身で櫻井克也って言うんだけど、スポーツ特待生でここに入ってきたんだよね」

 あぁ、ナルホド。スポーツ特待生という手があったか。勉強嫌いでも許されるのは小学生までの御愛嬌かと思っていたが、コイツある意味凄い遣り手だな。

「ま、こんな奴でも一応水泳部の期待の星だから、馬鹿だけどスルーしてやって」

 細野裕子は余程克也と仲が良いのだろう。気心の知れた者同士の気安さで、口を尖らせた克也の背中を笑いながらバンバンと叩く。文句を言いつつも満更でもなさそうな克也の横顔は、水底から眺める太陽の様にゆらゆらと揺れて遠い。それにしても期待の星の特待生って凄いな、と素直に感心する。この学校の水泳部はインターハイの常連で、全国でも有名な強豪校なのに。人魚になりたいと言った少年の笑顔と波の燦めきが瞼の裏を過り、不意に目が眩んだ。

「でさ、さっきの話だけど、ここは部員の数も多いから、マネージャーの仕事が結構大変で。三年の先輩達が引退しちゃうと二年がいないから、私達だけになっちゃうんだよね。でも二人で力を合わせれば……」

「ごめん、細野さん。私も中学で一応水泳部だったから、ちょっと興味があって観に来ただけで……ほら、ここって全国大会に出たりして有名でしょ? でも別にマネージャーになる気もないし、それに高校ではもう泳がないつもりなの。勘違いさせちゃって、ごめんなさい」

「ええっ?! そんなぁ」

 残念そうな裕子に何度も謝り、何やら不思議そうに首を傾げている克也に曖昧に微笑んで水泳部を後にした。

 カルキの匂いのこもった部室から外に出て、大きく深呼吸する。彼の泳ぎは、きっととても綺麗なのだろう。それは、まるで、深海に生きる人魚のように。

 いつか観に行こうと思った。人魚のように美しい彼の泳ぎを、彼が散らす水晶の欠片のような水飛沫を、いつかこの目で見たい。

 グラウンドを吹き抜ける春風はまだ少し冷たい。けれどもそれは深い水のように透明で清々しく、鳴海の火照った頬に心地良かった。



 負け惜しみでも何でもなく、本当に観にいくつもりだったのだ。

 櫻井克也の事故のニュースを聞く、その朝までは。



(To be continued)

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