人魚姫(二)
4
鰹節を削るなんて久し振りだ。鳴海の母はパック入りの鰹節どころか粉末のカツオダシを使うが、祖母は昔ながらの鰹節の塊を好む。使い込まれた削り器を取り出し、丁寧に押し出すようにして鰹節を削る。ふわりと芳ばしい潮の香りが鼻腔に広がった。
「た〜だいま〜」と歌うような妙な抑揚と共にドアが開き、汗と埃にまみれた弟が帰って来た。
「あぁ拓海、おかえり。これさ、そこの小松菜と一緒に月太郎にあげてきてよ」
「なにこのブ厚い鰹節、ツッキーのために削ったの? 贅沢だなぁ。ってか姉ちゃんもヒマ人だね」
「失礼ね! あんたがやらないからでしょ! あんたこそ、たまには月太郎を外に連れて出してやりなよ」
「は? 外って?」
冷蔵庫の中身を物色していた弟が、不思議そうに振り返った。
「外は外よ。公園とかさ、昔はよく天気の良い日に散歩させてたじゃない」
「それって俺が小学生の頃の話だろ? 中三にもなってサスガに亀の散歩はないって」
「なんでよ?」
「なんでって、ダサイじゃん」
「ダ……ッ!」
思わず手を伸ばして弟の頭を殴る。そして僅かに開いたリビングルームのドアをチラリと見遣った。今の言葉、亀には聞こえただろうか。
「いってぇなぁ、なんだよ姉ちゃんってばイキナリ……」
不満気に口を尖らせる弟をキッと睨みつけ、しかし亀に聞かれないよう「ばかっ」と押し殺した低い声で罵倒する。
「あんたね、ちょっとデリカシーがないんじゃないの?! 月太郎は目尻の朱色と甲羅の緑色が一番鮮やかな亀が欲しいとか言って、あんたがペットショップで自分で選んだんでしょう?! それなのにダサイとか、月太郎が聞いたらショックを受けるとか思わないわけ?!」
「そうかなぁ。だけど亀なんてさ、ハッキリ言ってなんにも考えてなさそうじゃん。いつも眠そうだし、話しかけても返事もしないし、犬みたいにシッポ振るわけでもないしさ」
「ちょっと拓海! あんたいい加減にしなさいよ!」
振り上げられた鳴海の拳を横っ跳びに避けて、ポテトチップスの袋を掴んだ拓海が廊下へ逃げ出した。そのままドタドタと階段を駆け上がり、二階の自室へ逃げ込む。バタンとドアの閉まる音に鳴海はふっと溜息をつき、削った鰹節と小松菜の皿を持って玄関へ出た。
アカミミガメの月太郎は、水槽に置かれた石の上でじっと瞑目していた。しかし寝ていたわけではないらしい。
「スミマセンなぁ」
鳴海が水槽の中に皿を入れると、硬い甲羅の奥で小さな眼がハシハシと幾度か瞬いた。
「ねぇ、あの、さっきの……聞こえた?」
それには答えず、首を伸ばした亀が鰹節をもそりもそりと食べる。食べたくて食べていると言うより、せっかく鳴海が削ってくれたものを無碍にしては済まないと思っているのがありありと伝わった。硬い甲羅越しにも、亀が僅かに肩を落としているのが分かる。
人に亀の言葉が解らないのは仕方が無いのかも知れない。しかし人は何故、相手も自分達の言葉が解らないと決めてかかるのだろうか。
「……ごめんね」
鳴海が小さな声で謝ると、月太郎が肩越しにゆっくりと振り返った。
「鳴海殿が謝られることなど何もありはしませぬよ。ペットの亀なんぞ、子の成長と共に忘れ去られるのが此の世の常と言うもの。しかし拓海殿は水槽の掃除だけは忘れませぬ。それに鳴海殿にお会いできたというだけで、ワタクシなど大変恵まれているのですからな。文句など言ったら、バチが当たると言うものです」
確かに拓海の言うように、爬虫類には表情筋なんてモノはあまりないのだろう。けれども鳴海を見つめるアカミミガメの口許を掠めた微笑の温かさは、決して気の所為などではないと鳴海は思う。
5
翌々日の土曜日、鳴海は頻りに遠慮する月太郎を連れて公園に散歩に出た。散歩と言っても、別に公園まで月太郎を歩かせるわけではない。如何になんでもそれでは公園に着く前に日が暮れてしまう。猫用のキャリーバッグに月太郎を入れて家を出ると、カラスのクロが鳴海を見つけて嬉しげに肩に舞い降りてきた。
いつもの事ながら、肩にカラスを乗せた鳴海を道行く人々が物珍しげに振り返る。気味悪そうに道を避ける人もいる。野生のカラスなんて手懐けていたら、中世なら魔女扱いされて火炙りになっていたかも知れないが、ありがたいことにここは現代の日本。多少気味悪がられても火炙りにされる心配はない。そもそも鳴海を火炙りになんかしようものなら、動物達が黙ってはいないだろう。
公園の木陰に静かなベンチを見つけて月太郎をバッグから出してやる。迷子にならないように甲羅に紐を結び、草叢にそっと月太郎を置く。
「紐が絡まないように気をつけてね」と注意すると、鳴海はベンチに腰掛けて一息ついた。集まってきた雀やヒヨドリ達の他愛ないお喋りに相槌を打ちつつ、ぼんやりと空を見上げる。澄んだ空に淡い波のような雲が浮いている。海に行きたいな、と唐突に思った。音の無い、静かな蒼い水に沈みたい――
「レンやッ!!!」
一羽の雀の甲高い叫び声に我に返った。
「嘘こけ!」
「嘘やない! ホンマもんのレンや!」
「どこや?!」
「あっち! 水飲み場におった!」
「もうすぐコッチにくるぞ!」
「ホントか?」
「ホントや!」
「ねぇ、レンって誰?」
鳴海が尋ねても、ピーチクパーチク大騒ぎしている雀達は振り返りもしない。
「レンを迎えにいこう!」
「レンを探しにいこう!」
鳴海などそっちのけで雀達が一斉に飛び立った。
「……レンって何者?」
後に残された鳴海がぽかんとしていると、肩の上のカラスが大きく羽ばたいた。
「煉は煉。面使いの煉。火炎術師の煉。人魚殺しの煉」
黒い眼が隠しきれない興奮に輝く。
「煉に撫でて貰えば寿命が十年延びるって言われててさ、俺達の世界では超有名人さ」
まさか、本当にそんな人間がいるのだろうか。別に嫉妬しているわけではないが、しかし自分よりも動物達に人気のある人間になんて会ったことがない。訝しげに眉をひそめた鳴海の前に、その少年は現れた。
ひと気の無い公園の小径をゆっくりと歩く少年の左肩で、金色の狐がのんびりとアクビする。空いている右肩を争うように小鳥達が羽ばたき、リスが足元に戯れる。柔らかな曲線を描く頬に木洩れ陽がちらちらと躍り、初夏の風が艶やかな黒髪を乱した。
綺麗だの愛らしいだのという言葉では表しきれない。芸能人は身に纏うオーラが一般人とは違うなどと聞くが、ある意味それに近いかも知れない。しかしその少年が身に纏うのは、夜のネオンのように作られた煌めきなどではない。それは、涼やかで透明な風と、満月の光に似た静謐な存在感だった。
少年の耳許で小鳥達が頻りに囀っている。と、俯いてクスクスと笑っていた少年が不意に顔を上げ、その黒々と濡れた瞳を真っ直ぐ鳴海に向けた。やけに大人びた眼差しにどきりとしたのも束の間、次の瞬間、少年が弾けるような笑顔をみせて鳴海に駆け寄ってきた。
「うわあ、獣珠の持ち主に会うのって久し振りだなぁ」
「ケモノダマ?」
「うん、略してケダマ。ケモノの言葉が解るようになるんだ」
「……ケダマ」
嫌な略し方だ。家の猫がケヒョッ、ケヒョッと変な咳をしながら丸いケダマを吐く姿を思い出す……って、え? ちょっと待て。今、物凄く重大な情報を聞いた気がする。
「ねぇ、聞き間違いかも知れないけど、キミ今、獣の言葉が解るようになるって言った……?」
「うん、言った」あっさりと少年が頷いた。「だってわかるんでしょ? 犬とか猫とか鳥とか、あとカメの言葉なんかも」
ベンチの陰から興味深げに首を伸ばしている月太郎を、少年が笑いながら指差す。
「え? まぁ言葉は確かに解るけど……」
突然の事態に混乱して、上手く頭が回らない。
動物の言葉が解る。幼い頃は空想好きな子供と笑って済まされた。しかし小学校に入った頃から不思議ちゃんを気取っていると言われ、他の子供たちには嘘つき呼ばわりされた。高校生になった今現在そんな事を他人に言えば、正気を疑われて病院送りだろう。なのにこの見知らぬ少年は、疑う素振りひとつ見せず、それどころか言葉が解るのが当たり前のような口調だ。
「ごめんなさい、ちょっと混乱してて……えっと、つまり、私に動物の言葉が解るのは、そのケモノダマとかいうモノのせいなの……?」
「もしかして、自分がケダマの持ち主だっていう自覚なかったの?」
「そんなこと、全然知らなかった」鳴海が呆然として答えた。「なんで他の人には聞こえない言葉が解るのか、すごく不思議で、ずっと悩んでたんだけど……あの、ごめん、君はなんでそんな、本人ですら知らない事を知っているの?」
「なんでって、こいつらが教えてくれたから」
「は……ハア?!」
「あんたが獣珠を貰って食べたって……ってどうしたの?!」
少年の肩から鳴海を見つめる小鳥達のキョトンとした顔に眩暈がした。衝撃のあまりベンチに倒れ込んだ鳴海に、少年が慌てた声を上げる。
「大丈夫?!」
「全然大丈夫じゃないッ」
鳴海を支えようと伸ばされた腕を反射的に振り払い、錯乱気味に叫んでしまった。
「貰って食べたってなにそれ?! 誰がそんなモノくれたの?! ってかなんで?! なんでみんな知ってたのに教えてくれなかったの?! 私だっけ知らなかったとか、ヒドイッ! ヒド過ぎるッ」
「ひどいって言われてもなぁ」
困った様に雀達が顔を見合わせる。
「別にわざと教えんかったわけやないし。オレらだって、ナルミが知らんことを知らんかったし」
「ナルミだって喜んで食べてたやんなあ」
「嘘よっ! 私、そんな変なモノ食べた記憶ないッ」
髪を掻き毟る鳴海を、まぁまぁと少年が宥める。
「本当に記憶にないの? 忘れてるって言うより、もしかして獣珠って知らずに食べたんじゃない?」
「……ケモノダマって、そもそもどんな形しているの?」
「えっとね、丸くて透明で……確かちょっとピンク色だったかな?」
少年が同意を求めるように肩の狐を振り返ると、狐がふむと頷いた。
「そうだ、獣珠は桜色の飴玉に似ているな」
「……飴玉」
遠く霞んだ記憶がもやもやとおぼろげに蘇る。これあげる、と差し出された小さな手の上の飴玉。桜の花弁に染まる春風のような淡い色合い。
「それって、もしかして、桜の花の蜜みたいに甘い……?」
「いや、俺は食べたことないから味までは知らないけど、でも美味しいって誰かに聞いたことあるよ」
……そう。紅い着物の女の子に貰ったあの飴玉はとろりと甘く、舌に蕩けた。それがあんまり美味しかったから、もうひとつ欲しいとねだったのは、あれは夢ではなかったのか。
「思い出した?」
顔を覗き込んでくる少年に向かって、鳴海が沈鬱な表情で頷いた。
「あの、私、獣だけじゃなくて、虫の言葉も解るんだけど……」
「ええっ?! 蟲珠まで持ってるの?! それってすごく珍しいよ」
つまり桜色の飴玉がケモノダマで、黄色い飴玉がムシダマだったと言うわけか。
「よっぽど気に入られたんだねぇ」と感心したように少年が唸る。
気に入られたとはあの紅い着物の女の子に、という意味だろうか。なんて迷惑な。いや、相手が子供だったとは言え、知らないヒトに貰ったモノを食べてしまう自分の意地汚さを恨むべきかも知れない。しかしとてもじゃないがそんな達観した気分にはなれそうにない。そもそもあの女の子は何者だったのだろう。
呆然としている鳴海に対して、少年はにこにこと屈託無い。
「獣珠に蟲珠なんてスゴイね。じゃあさ、魚珠は?」
「ウオダマ?」
「魚や貝の言葉が解るようになるやつ。青い飴玉」
「あ、それはない。見た記憶もないから、飴玉をくれた女の子も持ってなかったんじゃないかな」
自分に魚介類の言葉が聞こえないのは、別に彼らが無口なわけではないのか。なるほどね。
「ふ〜ん。で、まさかとは思うけど、最後の一個は貰ってないよね?」と少年に訊かれ、鳴海が首を傾げた。
「最後の一個? それって緑色の飴玉のこと?」
「……まさか食べたの?」
「ううん、最初の二個がすごく美味しかったから、もうひとつ頂戴って言ったんだけど、緑色のだけはくれなかったんだ」
「そりゃヨカッタな」狐がニヤニヤと笑った。「最後の一個はヒトダマだ」
「ひ、人魂?!」
「あ、大丈夫。多分あんたが考えてるのとは少し違うから。でも良かったね。人珠を食べると、他人の心の声が聞こえるようになるんだよね。ヒトによってはそれで精神を病んじゃったりするからさ」
「へ、へえ……人の心の声が聞こえるって、それは確かにある意味キツイかもね……」
ヒトダマを食べずに済んだのは不幸中の幸いか。あの女の子は鳴海の為を思い、緑色の飴玉だけはわざとくれなかったのだろうか。いや、私の為と言うなら、なぜ最初の二つをくれたのだ。そんな妙なモノ、欲しくはなかった。もしまたあの子に出会ったら、絶対に文句を言ってやる。
「レン君だっけ? 私に飴をくれた女の子って、キミの知り合いなの?」
「いや、面識はないけど。まぁケダマの主って言ったら結構有名だから、何度か噂には聞いたことがあるけどね」
「……あの子って何者なの?」
「鬼と神の中間くらいのモノ……って言ったら信じる?」
「……キミは何者なの?」
少年が口許を歪めてニヤリと笑った。
「……ヒトと鬼の中間くらいのモノ」
冗談か本気か、不敵な笑みを浮かべる少年の真意ははかり難かった。
6
煉と名乗る不思議な少年に聞きたい事は山ほどあったが、頭の整理が追いつかず、何から聞けば良いのかすら分からなかった。後日改めて話をしたいから連絡先を教えて欲しいと頼むと、煉は少し考えてから、「俺に会いたい時は、こいつらに言えばいいから」と鳥達を指差した。
「俺、ケータイとか持ってないからさ。でもまだしばらくはこの辺にいる予定だから、用があったら雀かカラスに言ってよ。猫や虫とかでもいいし。自由に動けて鳴海さんの言葉が通じるヤツなら何でもいいよ」
当たり前のようにそう言って、少年が笑った。鳴海の当たり前が少年にとっても当たり前であることに、言葉の通じない異人の街で初めて同郷の人間に出会ったような懐かしさと、泣き出したくなるような安堵を覚えた。
しかし翌朝目覚めると、煉という少年に出会ったのは夢だったのではないかと不意に不安に襲われた。自分と似た誰かに会いたいという密かな願望が見せた、都合の良い夢……。
悩みながら寝室の窓を開けると、電線の上でお喋りしていた雀達が鳴海を見て嬉しげに集まってきた。
「ねぇ、煉くんを探してきてくれる?」
「レンか? ええぞ」
「探してやるで、後でパンおくれな?」
煉って誰だ、などと言われなかったことにホッとする。
朝食を食べに階下に降りると、玄関で月太郎の水槽に首を突っ込んでいたミケが慌てて駆け寄ってきた。
「ナルミ! 煉に会ったって本当?!」
「月太郎に聞いたの?」
「聞いた。煉に撫でて貰ったって、すっごい自慢された。月太郎ばっかりズルイ! アタシも煉に会いたい!」
「煉くんって本当に有名なんだね」
「当たり前でしょ。なんたって煉なんだから」
「当たり前か……」
風に乱れる艶やかな黒髪を乱暴に掻き上げ、白い八重歯をちらりと見せて微笑む少年の姿を思い描いた途端に、不自然なほど胸が高鳴った。思わずウッと呻いて心臓を抑える。
……ヤバイ。なんだこれは。私はショタコンではない。小学生男子に恋する高校生女子とか笑い話にもならない。煉くんは年の割には妙に大人びた感じの子だったけど……って、いやいやいやそういう問題じゃない。
冷たい水で顔を洗い、タオルに顔をうずめて嘆息する。これは多分、同病相憐れむ的なモノだろう。同病相憐れみ、同憂相救う……あの子は別に憂鬱そうにも悩んでいるようにも見えなかったが。
朝食の残り物を持って縁側の硝子戸を開けると、待ち構えていたように雀達が舞い降りてきた。
「レンおったで!」
「夕方、公園で待ってるってゆうとった!」
「本当?! ありがとう」
鳴海が千切ってやったパンの欠片を啄ばみつつ、雀達が口々に囀る。
「デートやな」
「そやな、レンとデートとは羨ましいな」
「ちょ、やめてよ! デートとか全然違うしっ」
「春やな」
「ナルミにもようやく遅い春がきたな」
「ほんに遅い春やったな」
「てっきりナルミは嫁にイキオクレルかと思うたで」
「失礼ねッ」
「ほんでもレンが相手とは、ナルミもなかなかヤルナ」
「やりてババみたいやな」
「そやな」
「ちょっとあんた達! 根も葉もない変な噂を流したら怒るわよ! そもそもなんで私が弟よりも年下の子供に嫁に貰われなくちゃいけないのよ?!」
鳴海が顔を赤くして怒鳴ると、雀達がキョトンとして顔を見合わせた。
「ナルミ、なに言うとるんや?」
「レンの方がナルミよかずうっと年上やで」
「そやそや」
「……は? 煉くんってどう見ても小学生くらいじゃない」
「レンは小学生とちゃうで」
「学校通っとらんもんな」
「……は?」
「ほんでもやっぱりナルミにレンは無理かもしれんな」
「なんでや」
「レンはヒトが嫌いやからな」
「……え? それ、どういう意味……?」
「ほんでもナルミは珠持ちやろうが」
「フツーのヒトよりはマシやろか」
「そやな」
「そやそや」
「ナルミはナルミやからな」
「レンはレンやしな」
姦しいお喋りに夢中になった雀達から意味のある情報を引き出すのは難しい。諦めて残りのパン屑を庭に撒き、家に入った。
「してからに煉殿は、こうワタクシの甲羅を何度も撫でて下さり……」
玄関を通りかかると、月太郎がミケ相手に何やら得意気にまくし立てている。どこに行っても耳に入る言葉はレンレンレン、あの少年は本当に大した人気者だ。
「いやはや、煉殿の御手は実に温かかったですな。全くもって噂通りでありましたな。春の陽の如くほかほかと心地良く、一度撫でられれば寿命は十年も延びましょうな。それを煉殿は、二度三度と言わず、もう何度も何度も撫で撫でホカホカ……」
キイィと叫んでミケが月太郎に向かって猫パンチを繰り出した。月太郎が素早く甲羅の中に頭を引っ込める。
「撫で撫でホカホカ……」
甲羅の中で月太郎がくぐもった笑い声を上げ、躍起になったミケが水槽をひっくり返しそうになる。
「こらこら、喧嘩しないで。月太郎もいい加減にしなよ、もう」
「アタシも煉に会いたいィィィ! ナデナデホカホカしたいィィィ!」
床をのたうって泣き喚くミケの姿に、甲羅から鼻先だけ出した月太郎がキシシと笑う。
この亀、どうもかなり欲求不満だったらしい。ミケは内猫で外に出してはいないが、水槽から滅多に出ることのない月太郎よりは自由気儘な生活を送っている。そして彼女はしばしば月太郎の水槽の前に座り込み、面白いテレビを観ただとか、鳴海のベッドで寝ただとか、コタツは暖かいだとか、つまらない自慢話をしている。そんなミケに、月太郎はここぞとばかりに仕返しをしているのだ。
恨みがましい眼で月太郎を睨みつつ、シミシミと泣く三毛猫に鳴海が嘆息した。
「もう仕方ないなぁ。今日の夕方に公園で煉くんと会うんだけど、ミケも一緒に……」
「イクッ」
鳴海が言い終わらないうちにミケが悲鳴じみた歓声を上げて、キャリーバッグに飛び込んだ。
「いやまだ朝だし。行くのは夕方なんだけど……」
置いて行かれては大変とばかり、ミケがキャリーバッグにしがみつく。獣医病院に連れて行こうとすると、何が何でもバッグに入るまいと手足を踏ん張って抵抗するくせに、現金なヤツめ。
7
その日の夕方、ミケを連れて公園に行くと、煉はすでにベンチに座って鳴海を待っていた。鳴海に向かって満面の笑顔で手を振る少年の姿を目にした瞬間、癒しというモノの意味を心底理解した。断じてショタコンではない。
「鳴海さんも食べる?」
笑顔と共に差し出されたピンク色の飴玉を丁重に断る。いかに天使のような少年がくれたモノでも、これだけはダメ。と言うか、手の平に乗った飴玉を見ただけで胸がムカムカする。もしかしたらこの先一生、飴だけは食べられないかも知れない。
「デートやな」
「そやな」
「そやけどレンのくれるもん食わんとは、このデートはおしまいやな」
「ナルミは女子力ゼロやもんな」
余計な事を言って騒ぐ雀を鳴海がジロリと睨む。この雀共、朝のパン屑はしばらくお預けだな。
「ねぇ、いつも不思議に思ってるんだけど、なんでこの辺りの雀って中途半端な関西弁なの? 東京の雀はすごい江戸っ子風のべらんめえ調だったのに」
「ああそれね、雀のカルチャーなんだよ。雀って方言とかを真似するのが得意でさ、なんかの拍子にテレビとかで新しい方言を聞くと、一気にそれが流行ったりするんだよね。ネイビーの基地に住んでる雀達なんてアメリカ人達の真似して、片言の日本語で喋ってるよ」
きゃははは、と煉が笑う。
「煉くんに動物の言葉が解るのは、獣珠を持ってるから?」
「ううん。俺は血統の関係。なんかね、普通のヒトよりも少しだけ『眼』や『耳』や『鼻』が良い家系なんだ」
イチゴ味の棒付きキャンディーを舐めつつ、煉が首を横に振る。
「つまり、煉くんの家族も動物の言葉が解るってこと?」
「うん、まぁそうだね。でも鳴海さんみたいに全ての獣や虫の言葉がハッキリ聞こえるわけじゃないと思う。俺だって解るヤツとあんまり解らないヤツがいるし」
「煉くんは魚の声も聞こえるの?」
「まぁね。相手にもよるけど、大型で寿命の長いヤツラとか、水族館に住んでいるような魚だと通じやすいかな。でも海のモノって陸のモノとは世界観が違うからね。そのぶん解り合うのは難しい。まぁそもそも、言葉が通じるだけで解り合えるわけじゃないしさ」
「世界観かぁ」
鳴海がふふっと笑った。
「私、この能力のせいで昔からよく嘘つき呼ばわりされて……本当に動物達の言葉が聞こえるんだって、どんなに言葉を尽くして説明しても、誰にも理解して貰えなくって。自分と他の人では観ている世界が違うんだなぁって、仕方無いって、もうずっと諦めてたんだけど。でも時々、人の心の中が覗いてみたくなるんだよね。この人達は何を考えて、どんな風に世界を観ているのかなって、不思議に思うの。まぁヒトダマとかいうモノは欲しくないけど、でも言葉を通り越して心の声が聞こえるなら、もう少し人に近づけるのかなぁ、とか」
しばらく無言で膝の上の三毛猫を撫でていた煉が、不意にガリッと飴を噛み砕いた。
「……ヒトの心の声なんて、聞こえても良いことないよ」
その声の暗さと、隠していても滲み出るような苛立ちに驚いて、鳴海がまじまじと少年を見た。
「煉くん……君はもしかして、人の心の声が聞こえるの?」
「……少しだけ」
僅かに躊躇ってから、煉が答えた。
「それに全部聞こえるわけじゃない。そう、聞こえると言うより、俺には視えるんだ」
「何が?」
「ヒトの闇と、そこに巣喰う鬼が」
「人の闇……?」
「ヒトは妬み、憎しみ、恨み、恐れる。己の手の届かないモノを嫌悪し、身の内に抱く慾望に喰らい尽くされ、その弱さ故に猜疑心に苛まれる。そしてヒトは、ヒトとして生きることを悲しみ、絶望する」
翡翠色の若葉をさらさらと鳴らす夕風に煉が眼を細めた。どこか遠くで子供達の笑い声がして、甘い花の香りに惹かれた蜜蜂の羽音がぶぅんと耳に優しい。
「大なり小なり、ヒトなら誰でも抱えている暗く歪んだ感情。俺にはそれが視える。まぁ、そんなモノが視える俺の存在が一番歪なんだろうけど」
「歪って……つまり心が読めるってこと? 暗い部分だけ?」
「うん」
「……それって最悪だね」
「うん」
煉はヒトが嫌いだ。雀達の言葉が不意に胸を過ぎった。
「ねぇ煉くん。君は、そんな自分から……逃げ出したいって、思ったことある?」
歪な少年はそれには答えず、唯、茜色の夕陽に染まる空を見上げて笑った。
(To be continued)




