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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
70/123

濡れ鼠(後編)

     5


 予感的中。

 俊介の持ってきたダンボール箱の中を覗き、まだ眼も開いていない三匹の仔猫を見て徹は慌てふためいた。しっとりと濡れそぼった小さな仔猫達は、よたよたと腹を引きずるようにして箱の底を這い、世界の広さとその冷たさにふるふると震えていた。一匹は動く元気すらなく、死んではいないようだが箱の隅にグッタリと横たわっている。

「ちょ、お前どうすんだよ?! こんなもん拾ってきて!」

「だって、仕方無いだろ。雨降りそうだったし、もう夜だし……」

 確かにこのまま道端に放っておかれたら、仔猫達は明日まで保たなかっただろう。

「それにしても何故わざわざ離れに連れて来る?」

「だって、母さんは猫が苦手だから……」

 むむ、なら仕方が無いか。しかし徹だって仔猫を育てた経験などない。それどころか猫を飼ったことすらない。試しにレンジで温めた牛乳を皿に入れて与えてみたが、飲む様子はなかった。まぁ眼も開いてないのだから当たり前か。

 心配気に蒼ざめる俊介の隣で徹が腕組みして考え込む。この近所に獣医ってあったっけ? 電話帳を調べるか。いや、ネットで検索した方が速いな。机の上のパソコンの電源を入れかけた時、不意に煉の顔が頭に浮かんだ。

 急いで縁側に出る。いつの間にか降り出した雨の中、しゅっ、しゅっ、と相変わらず凄いスピードで濡れ鼠達が天に向かって鎖樋を駆け昇っている。

「あのさ、楽しんでるとこ悪いんだけどさ、ちょっと頼みがあるんだけど、いいかな?」

 濡れ鼠が鎖樋の途中でピタリと止まり、ルビーのように紅い眼でじっと徹を見つめた。

「煉を探してきてくれないかな? それも、出来るだけ早く――」

 徹が言い終わらないうちに濡れ鼠達は一斉に地面に散り、あっという間に姿を消した。

 本当に物の怪の情報網は馬鹿にならない。それから小一時間もしないうちに煉が離れにやって来た。

「コンチワ〜」と気軽に挨拶しながら離れに入ってきた煉は、何気無くダンボール箱を覗いた途端に顔色を変えた。慌てて一番弱っている仔猫を自分のシャツの中に突っ込み、残りの二匹を嫌がる焰の腹に無理矢理押しつける。

「ほらほら、早く湯たんぽ用意して!」

「え、湯たんぽなんて物置を探してみないと」

「冷蔵庫にコーラのボトルあったでしょ? あれの中身を捨てて、お湯入れてタオル巻けばいいから!」

「え、でもあれまだ封も開けてない――」

 俊介が黙って冷蔵庫を開けると情け容赦無く徹の炭酸飲料を流しに捨てる。まぁ仕方無い。諦めよう。

「低体温の上に脱水症状か」

 少量の砂糖を溶かしたぬるま湯を脱脂綿を使って器用に仔猫に飲ませつつ、煉が考え込んだ。

「牛乳は下痢するから良くないんだよね。生後三週間以内の猫用粉ミルクと仔猫用の哺乳瓶が必要だな。ま、哺乳瓶はスポイトとか目薬の瓶とかでも代わりが利くけど」

 煉が部屋の隅でこちらを窺っていた濡れ鼠達にチラリと目をやった。煉と目が合った濡れ鼠が姿を消し、数分もしないうちに戻ってくると、煉に向かって何やら懸命に身振り手振りを交えつつ、チィチィと鳴く。煉が濡れ鼠に向かってひとつ頷き、徹を振り返った。

「哺乳瓶は駅前のペットショップで売ってるけど、猫用の粉ミルクはその隣の獣医に行かないとないってさ。今は仔猫達を動かさない方がいいから、獣医に事情を話して数日分のミルクを貰ってきてくれない?」

 それを聞いた途端に俊介が立ち上がって駆け出した。雨の中、傘も差さずにマウンテンバイクに飛び乗る俊介を見送りつつ、徹がふうんと唸った。俊って動物好きだったのか。全然知らなかった。なんだか生意気な従兄弟の意外な一面を見た気がする。

 煉のお陰で仔猫達はなんとか無事に峠を越えた。俊介によって体の大きい順に一号二号三号と名付けられた仔猫達は、十日もしないうちに見違える程元気になり、みゅーみゅーと可笑しな鳴き声をあげながら畳の上をよたよたと這いずり回った。

 数時間毎のミルクとシモの世話で寝不足気味の徹に対し、俊介はやけに元気だ。暇さえあれば離れに入り浸って仔猫と遊んでいる。そして煉と気が合うらしく、雨の日は離れにプレステやDSを持ち込み、晴れた日には一緒に外に遊びに出かけたりしているらしい。そのクセ塾での成績は落とさない。ガキの癖に大した奴だ。

 ちなみに俊介には同じく離れに入り浸る濡れ鼠達は視えないらしい。また濡れ鼠達に仔猫を気にする様子もない。ガキに仔猫に鼠。生物密度はかなり高いが、徹の離れはそれなりに平和だ。



     6


 仔猫達が離れに来て一ヶ月を過ぎた頃、それまで保たれていた離れの平和と均衡に歪みが生じ始めた。どうやら仔猫達には濡れ鼠の姿が視えるらしい。自分達と同じ位の大きさの鼠――体重は鼠の方が大分上だが――を仔猫達が面白半分に追いかけ回し出したのだ。

 狩りというより仔猫達はただ単に遊びたいだけのようだが、濡れ鼠達にガキ共の相手をする気はないらしい。物陰から飛びつかれ、昼寝の邪魔をされ、徹の入れてやった酒の器を引っくり返され、濡れ鼠達の機嫌が日増しに悪くなってきた。仔猫達を離れに連れ込んだ元凶の俊介も、濡れ鼠達の間ではかなり評判が悪いらしい。

 そんなある日のこと。徹が縁側から外を眺めていると、傘を差した俊介が小走りに離れにやって来るのが見えた。と、俊介の足下を濡れ鼠がシュッと駆け抜けた。途端に俊介が足をもつれさせて大きな水溜りの中に転ぶ。ずぶ濡れの泥まみれで離れにやってきた俊介が不思議そうに首を傾げた。

「最近さぁ、なんか俺、何もないところでよく転ぶんだよね。それも必ず雨が降って泥水が溜まっている時に限ってさぁ」

 それはお前を快く思っていない物の怪の仕業だよ、と言う訳にもいかず、黙って俊介にタオルを投げてやる。

「この前なんか、三日連続で自転車のタイヤがパンクしてたし、傘にはなんかが齧ったみたいな変な穴があいてるしさ。傘の穴とかさ、誰かの嫌がらせにしては変な感じなんだよな」

「……ま、そーゆー事もたまにはあるさ。気にするな」

 洗濯カゴの中で寝ていた仔猫が一匹、俊介に気付いて起きあがり、アクビと伸びをする。そこへ、雨水をたっぷりと吸った杏仁豆腐風濡れ鼠が機嫌良さげにぷるぷると白い尻を揺らしながら通りかかった。途端に仔猫が眼をらんらんと輝かせ、頭を低くして高く上げた尻を振り、狙いを定める。そして止める間もなく洗濯物の陰から杏仁豆腐の尻に飛びついた。

 仔猫の針のように細い爪が濡れ鼠の尻を引っ掻いた瞬間、びしゃっと水風船が割れるような音を立てて水が辺りに飛び散った。突如足下に現れた水溜りに俊介がワッと驚く。徹も濡れ鼠が破裂したのかと思いギョッとしたが、幸い濡れ鼠はふわふわ状態に戻っただけで怪我はないらしい。

 しかしほっとしたのも束の間、とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、紅い眼を怒りに燃やした濡れ鼠が仔猫に飛びかかった。周りで見ていた濡れ鼠達が加勢し、それに更に二匹の仔猫も加わり、あっという間に離れは大狂乱の渦に巻き込まれた。

「うわっ、こらっ、ヤメロお前ら! 俊ッ、仔猫共を捕まえろっ」

「え、え、なに?! この水どこから出てくるの?!」

 仔猫を追いかけ部屋中を駆け回り、そこかしこで破裂しては水を撒き散らす濡れ鼠に俊介が悲鳴を上げる。

「これは濡れ鼠が破裂した水で……っていいから早く仔猫を捕まえろって!」

「なんだよ濡れ鼠って?!」

 仔猫を捕まえようとした俊介の顔に一際大きな濡れ鼠が飛びついた。

「うわっ?! なんか今変なモノが顔に……!」

 悲鳴を上げながら後ろ向きにひっくり返った俊介に向かって徹が喚く。

「だから濡れ鼠って物の怪がいるんだよっ、ちょっと目を凝らしてみろよっ、もしかしたら視えるからっ」

「はあっ?! トオルってばナニ言ってんだよ――」

 顔をしかめて体を起こしかけた俊介が、自分の胸の上にデンと座っている濡れ鼠の姿に目を丸くし、続いて盛大な悲鳴をあげた。

「どどどど、ドブネズミッ!!!」

 部屋中を駆け巡っていた全ての濡れ鼠達が不意にぴたりと静止して、俊介を振り返った。

「トオルッ! なんで部屋でドブネズミなんか飼ってるんだよっ?!」

 紅い眼を光らせた濡れ鼠達が俊介に向かって一斉にシャーッと牙を向く。

「ぎゃーっ、ドブネズミに喰われるッ」

「バカッ、ドブネズミって連呼すんなっ、それはコイツラにとっては禁句なんだよっ」

「うわ、ちょっとコレなんの騒ぎ?」

 濡れ鼠達が俊介に飛びつこうとした丁度その時、ドアを開けて煉が入って来た。水浸しになった部屋の凄まじい有様に煉が目を見張る。

「うっわ〜、ぐっちゃぐちゃじゃん。なんかここっていつ来ても紛争地帯だね。今日は特に酷いみたいだけど」

 煉が現れた途端に大人しくなった濡れ鼠と仔猫達が、気まずい顔でこそこそと部屋の隅に隠れた。


     ❀


「ふ~ん、つまり、猫対鼠の百年戦争が勃発しちゃったんだ」

 徹の話を聞いた煉がきゃははは、と愉快気に笑う。

「いや、もう笑い事じゃないよ、ホント」

 水浸しの部屋を見渡して徹が頭を抱えた。

「叔母さんになんて言い訳したらいいか、頭が痛いよ」

「まぁ濡れ鼠達には俺がしっかり言い聞かせておくから。仔猫達もそろそろ里親を探す時期だし、あとちょっとの辛抱だって」

「そっかあ、里親か。全然考えてなかったな」

 俯いて三号を撫でる俊介に徹がチラリと目をやった。当たり前だが俊介は仔猫達を手放したくはないのだろう。徹が胸の中でそっと溜息をついた。しかし叔母は猫嫌いらしいから、コレばかりは仕方が無い。

「シュン」

 煉に呼ばれた俊介の背中がびくりと震えた。

「あのさ、考えてみたんだけど、シュンのクラスメイトに猫が欲しい子がいないか聞いてみるといいよ。クラスメイトならイイ奴かそうでもないか、シュンがよく知ってるだろ? それに近所なら、仔猫達に会おうと思えばいつでも会えるしさ」

 うわ、知らないとはいえ、煉もキツイこと言うな。俊は友達がいないんだよ。徹の心の叫びを知ってか知らずか、煉が俊介を見つめて微笑んだ。

「こいつらの為だもん、一生大切にしてくれる良い家族を探してやんなきゃね」

煉から目を逸らした俊介が、無言のまま小さく頷いた。



     7


 猫対鼠の大紛争から二週間程経った。煉の説教が効いたのか、仔猫も鼠もすっかり大人しくなり、離れは平和を取り戻した。鎖樋を駆け上る濡れ鼠が羨ましいらしい仔猫達が時々チャレンジ精神を発揮して鎖樋に詰まる程度で、あれ以来大した事件もない。

 そんな穏やかなある日の午後、俊介が二人のクラスメイトを離れに連れて来た。一人は優しげな可愛い女の子で、もう一人は以前駅前で俊介を野球に誘っていた少年だった。二人は仔猫を見ると目を輝かせ、それぞれ一号と二号の里親になる約束を俊介と交わし、名残惜しげに帰って行った。


「そっか、じゃあ三号だけ貰い手が見つかってないのか」

 夕方、離れに遊びに来た煉が成長しても他の二匹に比べて体格の劣る仔猫を撫でた。

「こいつは体も小さいし性格も大人しいから、下手なところにやるのはちょっと心配なんだよな」と俊介が溜息を吐いた。

「じゃあさ、もうコイツはこのままシュンが飼ってやればいいじゃん」

「こらこら、煉、簡単そうに無責任なこと言うな。俊の母ちゃんは猫嫌いって言っただろ?」と徹が慌てて諌めると、煉がにやりと笑った。

「シュンの母さんは多分猫を飼ったことがないから苦手ってだけで、嫌いなわけじゃないと思うよ? ま、俺に任してよ」

 何を考えているのか、煉が自信たっぷりにウインクしてみせた。


     ❀


 そして翌日。

 徹、俊介、そして煉の三人が隠れて母屋の台所の裏口を窺っていた。煉が一体何を画策しているのか、徹と俊介は聞かされていない。煉はただ笑いを噛み殺したような顔で、「絶対に声を出さず、隠れて見ていろ」と言っただけだ。

 台所の裏口には生ゴミ用の大きなゴミ箱がある。しばらく待っていると、そこへ五〜六匹の濡れ鼠達がのそのそとやって来た。

「あれ、なんかあいつらいつもと少し違わない? なんかいつもより濃い感じって言うか……」と俊介が不思議そうに呟くと、煉が我が意を得たりと頷いた。

「多くの物の怪達はね、普段はヒトの眼には視えないんだけど、でもやろうと思えばギュッと存在感を濃くして、普通のヒトにも自分達の姿が視えるように出来るんだよ」

「ふ~ん」と感心して徹が唸る。でもあれって、普通に見たらかなり脅威的に太ったドブネズミだよな?

 濡れ鼠が突如裏口に置いてあるゴミ箱に飛びつき、大きな音を立ててゴミ箱をひっくり返した。ゴミ箱がガラガラと大きな音を立てて転がり、生ゴミが辺りに撒き散らされる。と、裏口が開いて俊介の母が顔を覗かせた。何事かと辺りを見廻した母が、生ゴミに群がる巨大な鼠に息を呑んだ。戸口を振り返った鼠達が一斉にシャーッと牙を剥き、紅い眼をぎらぎらと光らせながら俊介の母を取り囲んだ。ひぃっ、と声にならない悲鳴を上げて俊介の母が腰を抜かすのを見て、煉が腕に抱いていた三号をそっと地面に降ろすと、「よし行け」とその耳許に囁いた。

 三号が裏口に駆けつけ背中を丸めて尻尾を膨らませると、大きな鼠達に向かってフーッと唸ってみせる。徹が見たところ、でっぷりとしたメタボ体型の濡れ鼠達の方が虚弱体質気味の三号よりも大分迫力があるようだったが、しかし鼠達は仔猫を見ると申し合わせたように散り散りに逃げ出した。鼠を追いかけて走っていった三号が、やがて意気揚々と戻って来た。そしてみゃあみゃあと甘えた鳴き声を上げ、裏口に座り込んでいる俊介の母の足に体を擦りつける。

「あらあらまぁまぁ」などと言いながら台所に入った母がミルクを入れた皿を持って出てくると、三号の背中を恐る恐る撫でてやった。

「三文芝居だったけど、これくらい単純な方が返って効果的だからね」

 母と仔猫に駆け寄る俊介の後姿を眺め、煉がくすくすと笑う。

「ま、どっちにしろあのヒトは俊が猫に入れあげてるの知ってたからね、シュンが頼めば猫くらい飼ってくれたと思うけど」

「え、そうだったの? それも物の怪情報?」

 まぁ、あの生意気な俊介が突然俺に懐いて離れに入り浸るようになればナニカあると思うのが普通だろう。つまり叔母さんはずっと見て見ぬ振りをしてくれてたわけか。

「でもさ、それなら、なんでわざわざこんな芝居まで打ったんだい?」

「う~ん、別にシュンに直接親に頼むように言っても良かったんだけどさ、アイツってちょっと人間関係に臆病なとこあるでしょ? 猫好きのクラスメイトを探して来るだけで、もうなんか一杯一杯だったからさ、これ以上追い詰めるのもナニかな、と思って」

 煉の言葉に徹が首を傾げた。アレを臆病と言うのか? まぁ、そう言われれば生意気な口調も自分を鎧っているだけなのかも知れないな。

 そんな徹を振り返り、煉がにやりと笑った。

「シュンを濡れ鼠みたいに破裂させるわけにはいかないからね。濡れ鼠なら破裂しても出てくるのはただの雨水だけど、ヒトが破裂すると一体何が出てくるかわかんないもんね」

 意味深な言葉と共にニヤニヤと笑いながら母子と仔猫を見守る少年の黒髪に、雨上がりの新緑から洩れた陽がちらちらと躍る。



    エピローグ


 三号と濡れ鼠の芝居から数日後の夕方、俊介が離れに顔を出した。

「トオル、最近煉に会った?」

「ああ、あれ以来見てないな。雨も降り出したし、もうそろそろ遊びに来ると思うけど。ってか、お前、あいつの連絡先とか聞いてないの?」

 俊介が無言で三号の柔らかな毛を撫でる。そんな俊介を見て、煉の連絡先の事なんて言うんじゃなかった、と今更ながら徹は自分の無神経さが少し嫌になった。

 徹は知っている。俊介が煉に夢中だということを。だけど煉の方はどうなのだろう。煉は自分のことをトモダチだと思っているのか、俊介は不安に違いない。不安だけど、面と向かってそんな事は聞けない。それどころか、連絡先や住んでいる場所さえ聞くことが出来ない。人懐っこく、いつも楽しげに微笑んでいる煉の黒い瞳には、ヒトが必要以上に自分の中に踏み込むことを許さない何かがあった。

 コンコン、とドアがノックされた。途端に俊介が目を輝かせ、転がるようにしてドアを開けにいく。

「なんか途中ですっごい降られちゃって。タオル貸してくれる?」

 艶やかな黒髪からぽたぽたと透明な雫を垂らし、煉が徹と俊介に屈託ない笑みを向けた。正式に家族の一員となった三号が煉に駆け寄り、鈴のついた赤い首輪を嬉しげに見せる。

「イイの貰って良かったな」煉が得意げな三号の喉をくすぐってやる。「明日、俺この街を出ていくからさ。今日はお別れに来たんだ」

 それはまるで、明日は晴れそうだな、とでも言うように何気ない口調だった。

「……出ていくって、引越し?」

 あからさまに落胆した表情を見せて俊介が小さな声で訊くと、煉は笑いながら首を横に振った。

「ううん、そうじゃないんだけど。俺さ、ちょっとヒト探ししてて。それに一カ所にずっといるのって苦手でさ、だからいつもあっちこっち旅してまわってるんだ」

「じゃあ、次はどこにどれくらいの間行くんだよ?」

「山と海を行ったり来たりしながら北に上がって、一番北まで行ったら今度は反対側の山と海を見ながら南に下る」

「じゃ、じゃあさ、またここへも来るよな? また会えるよな?」

 必死で喰い下がる俊介を見つめていた煉の口許を穏やかな微笑が掠めた。その静かに煙る五月雨のように優しげな笑みを見て、徹はなんとなく、あぁ、コイツにはもう会えないんだな、そしてコイツはそれを知っているんだな、と思った。

「そっか、行っちゃうのか。じゃあ今夜は盛大にお別れパーティーだな」

 威勢良く立ち上がった徹が、棚から秘蔵の酒やつまみを取り出す。

「そんな顔するなって」今にも泣き出しそうな顔の従兄弟の髪をくしゃくしゃと掻き毟る。「いつかはわからなくても、生きてりゃそのうちまた会えるからさ。ほら、俊、お前もさっさと部屋に隠している大量のスナック菓子持って来いよ」

 何か言いた気に顔を上げた俊介に向かって、徹がひとつ大きく頷いた。

 煉を引き止めることは誰にも出来ない。でも大丈夫。何が大丈夫なのか我ながらよく分からないけれど、でも俺達はきっと大丈夫だ。

 俊介が不意にキュッと口元を引き締めると徹に向かって小さく頷き、柔らかな雨の中を母屋へ向かって駆け出した。やけくその様に跳ね上げられた泥がその背中に点々と散り、空の零す銀色の水滴がそれを洗い流す。

「もうすぐ梅雨明けだなぁ」

 皿に注いでやった酒を飲みにいそいそと寄ってきた濡れ鼠を撫でつつ徹が呟いた。

「そうしたらコイツ等もいなくなっちゃうんだな。なんか寂しいな。最初は心臓止まるかと思ったけど、馴れるとこの紅い眼にも愛着湧くよな」

 煉がチョコレートを頬張りながらチラリと横目で徹を見た。

「……心配しなくても濡れ鼠は雨さえ降れば出てくるよ」

「えっ、マジで?!」

「夏の夕立とかさ、雷が鳴ったりすると、もうすっごい興奮して結構ミモノだよ。あ、でもそーゆー時は電気帯びちゃうから、触らない方がいいよ。感電死とかで本当に心臓止まらないように気をつけてね」

 顔色ひとつ変えず、相変わらずさらりと怖いことを口にする。そんな煉に呆れつつ、しかし雷雨のなかを青光りしながら天に駆け昇る濡れ鼠を想像すると、なんだか胸の底からワクワクしてきた。

 きっと此の世は目に視えない様々なモノで溢れているのだろう。でもソレは、全然視えないわけではなくて、唯ヒトがその存在に気付こうとしないだけなのかも知れない。

 自分は知らないという事を知っている、と言ったのはソクラテスだったか。


 知らないということを知る者には世界は広く、そして深い。



(END)

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