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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
66/123

黒い薔薇(中編)

     7


「……旦那様」

 呼ばれて振り返ると、夕闇の忍び寄る薄暗がりの中に庭師の鉄蔵が立っていた。陽に焼けた老人の顔色が、妙に白っぽく煤けて見える。鉄蔵が黙って指差す先を見て、恭太朗は顔から血の気が引くのを感じた。

 庭の隅の古井戸に向かって駆け出す寸前、ちらりと書斎の窓を見上げたが、そこに少年の姿はなかった。

 冴子が屋敷に来たばかりの頃、使われていない古井戸にお嬢様が落ちたりしてはいけないと言って、鉄蔵が木と竹を組んだ井戸蓋を作った。その重たい蓋が半分程ずらされ、その端に縄が結ばれている。そしてぴんと張った縄のもう一方の端は、暗い井戸の底へ消えていた。幾ら目を凝らしても、淡い夕暮れの光は深い井戸の底には届かず、試しに呼び掛けてみても、聴こえてくるのは己の声の虚ろな反響だけだった。

 手伝おうとする鉄蔵を押しのけるようにして、ずぶ濡れの白い塊を引き上げた。何かを睨むようにカッと見開かれた硝子玉のような両眼に生気は無く、冷たく強張った躰は彼が死んでから時間が経つことを雄弁に物語っていた。

 鉄蔵と二人、息を切らしつつ、呆然として雪之丞の濡れた骸を見つめる。一体何を為すべきか考える暇も無かった。清乃と共に門の外から帰ってきた冴子が、鉄蔵と恭太朗の足元に横たわるそれを見て息を飲んだ。

「駄目だ! 冴子! 来るなッ」

 止めようとする清乃の腕を振り切り、甲高い悲鳴を上げて冴子が駆け寄る。変わり果てた愛犬の姿に泣き崩れる妹を前にして、恭太朗は激しい怒りと、足元の地面が脆く崩れてゆくような覚束無さを味わっていた。

 この屋敷の者で、こんな事をする人間は一人しかいない。そう冷静に考えると同時に、そんなまさかと呆然とする自分がいる。信じたくないという意味ではなく、単に信じられなかった。

 しかし幾ら振り払おうとしても、硝子のように硬質な横顔が眼に浮かぶ。幼い頃から潔癖で、融通の利かない弟。しかし己と血を分けた弟が、感情だけで動物の命を奪うような、そんな酷薄な人間である筈はない。二年振りに出会った弟は、一体何があったのか、確かに酷く荒れている。人は変わらないとは言わないが、しかし悠々自適の学生生活を過ごしながらここまで歪んだ変貌を遂げるには、二年という月日は余りにも短い。

 これは何かの間違いだ。俺は自分の弟を知っている。あいつは、ここまで歪んだ人間ではない。凛太朗は荒ぶる心のままに何かを殺したりはしない。

 そう己に言い聞かせようとした時だった。

 不意に、庭の片隅に独りぽつんとしゃがむ幼い弟の小さな背中が脳裏を過った。



 それは、ある夏の日のことだった。暑さのせいか、母の具合の思わしくない日が続き、屋敷の空気は重苦しく澱んでいた。使用人達は声を忍ばせ、物音を立てないように気を遣い、(しわぶ)く音ひとつですら静まり返った家中に大きく響く。そんな中、幼い弟はいつも大人しく広い居間の隅で絵を描いたり、バルコニーで本を読んだりして独りで遊んでいた。

 その日は一際暑く、木陰でじっとしていても、白い陽射しと降り頻るような蝉時雨に気が遠くなるようだった。本を片手に少しうとうとしていたらしい。ふと気がつくと、先程まで自分の隣で本を読んでいた弟の姿が見えない。家に冷たい物でも飲みに帰ったのかと思い、背中を濡らす汗にうんざりとしつつ、足元に落ちていた弟の帽子を拾って立ち上がった。バルコニーから家に入ろうとした時、庭の隅にじっとしゃがみ込んでいる弟の背中を見つけた。

 この暑さの中、そんな熱心に一体何をしているのかと不思議に思い、背後からそっと近づき、肩越しに弟の足元を覗き込んだ。

 そこには、水を張った(たらい)と、銀色の檻と、一匹の鼠がいた。

 台所で働く女中が罠に捕らえた鼠を始末しようとしたのだろう。水に沈む鉄格子の中で、灰色の鼠は、まるで夢でも見ているかのように、ゆっくりと足を動かしていた。目の眩むような白い陽射しが、ゆらゆらと揺れる水に幾筋もの光を躍らせる。そこに恐怖や悲しみは無く、唯、自分が何故そこにいるのか理解出来ないとでも言うような、途方に暮れた小さな眼には、広く蒼い空が映っていた。

 あの光景を思い出すと、今でも背筋にぞくりと寒気が走る。水牢に囚われた鼠の姿に恐怖したのではない。溺れ死ぬ鼠を身じろぎひとつせずに見つめる弟の、硝子玉のように透きとおった無表情な眼に、その何の感情の起伏も見せぬ淵のような眼差しに、言いようの無い恐怖を覚えたのだ。

 ……そう。凛太朗は、荒ぶる心のままに何かを殺したりはしない――



「どうしたの?」

 背後から掛けられたのんびりとした声に我に返ると、小さな箱を手にした凛太朗が立っていた。空の端に消えかけた最後の光に、凛太朗の影が黒々と伸び、雪之丞の白い躰に覆い被さる。

「ああ、なんだ。そいつ、死んだのか」

 ぞっぷりと濡れそぼった屍を見下ろし、眉ひとつ動かさないその姿に、あの夏の日と同じ悪寒が走った。

「……凛、お前、今まで何処にいたんだ?」

「どこって、町の時計屋だよ。オルゴールのゼンマイの調子が悪いみたいだったからさ、修理に持って行ったんだ。これだけは他人に任せるわけにはいかないからね」

 大切そうに手の中のそれを撫でる弟の姿に、その場違いなほど明るく愛おしげな微笑みに、眩暈がした。

「……凛」

 声が掠れ、唾を飲み込む音がやけに大きく耳に響く。

「雪之丞を……縛ったのはお前か?」

 井戸に落としたのはお前かとは、恐ろしくて口に出来なかった。しかし兄の葛藤に反して、弟は軽く肩を竦めるとあっさりと答えた。

「ああ、そうだよ」

「……どうして、そんな事を……」

「俺が外に出る度に吠えかかるからさ。噛みつかれそうで、危なくておちおち庭にも出れないだろう?」

「……雪之丞は理由もなく人を噛んだりはしない」

「そんなの分からないだろう? 犬畜生の考えていることなんてさ。それにしても、まさか自ら(・・)井戸に飛び込むとはね。本当、畜生の考えていることは解らないね」

 眼に嘲りの色を浮かべて笑う弟を見つめ、恭太朗は唇を噛んだ。目の奥に、不意にずきりと鋭い痛みが走った。

「兄さん」

 立ち竦む恭太朗の肩に親しげに手を置き、擦れ違いざまに凜太朗が囁いた。

「……雪之丞で良かったな」

 布地越しに肩に触れたその手の冷たさに、はっきりと悟った。

 古井戸に落ちたのが、否、井戸に落とされた(・・・・・)のが雪之丞で良かったなと、弟は言ったのだ。冴子でなくて良かったなと、切れ長の瞳が笑っていた。


 夜風が濡れたシャツを撫でるように吹き抜け、背筋にぞくりと寒気が走った。



     8


 ……躰が重い。

 柔らかな寝床に横になっていても、疲れ切った身体が暗い沼に沈み込むような不快感に眠ることが出来ない。諦めてベッドの上に起き出すと、指先にどろりと纏わりつく闇を手探りし、枕許の明かりをつける。手に取った懐中時計の針は夜中の二時を指していた。

 人を起こさぬよう、足音を忍ばせて廊下に出る。冴子の部屋の前で一瞬足を止めたが、よく眠っているのか、中からは何の物音もしない。雪之丞がいなくなって数日が経つが、毎夜悪夢に魘されて夜中に幾度も悲鳴を上げる妹のために、昨夜から清乃に添い寝を頼んである。このまま朝まで眠ってくれればいいのだがと、小さく溜息をつく。

 再び廊下を歩き、突き当たりの部屋の前で足を止めた。息を潜めて耳をそばだてたが、闇に沈む部屋は死んだ様に静かだった。

 階下に降り、居間の前を通りかかると、中から微かな物音がする。不思議に思い、扉の陰からそっと覗くと、開け放たれた窓から吹き込む風に重たい天鵞絨(ビロード)のカーテンが揺れていた。

「……また君か」

 蒼い月明かりの中、窓辺に座って夜空を見上げる少年の黒いシルエットに、恭太朗が溜息を吐いた。振り返った煉がニヤリと笑う。

「これは不法侵入……立派な犯罪だよ。門には錠が下ろしてあるし、窓や扉にも鍵が掛かっていただろう。一体どこから入って来ているんだい?」

「こんな大きな屋敷だからね。忍び込もうと思えば、穴や隙間はどこにでもある」

 煉が悪びれた風も無く、肩を竦めてみせた。

「そんなことよりさ、あんたこそ何してるの? 草木も眠る丑三つ刻、こんな時間に歩き回るのは魑魅魍魎だけだよ」

「それはこっちの台詞だよ、全く……」

 呆れて首を振る恭太朗を見て、煉が声を上げて笑った。静まり返った屋敷に響く笑い声は、愉しげで、生き生きとしていて、こちらの気分まで明るくなるようで、そしてこの家には酷く不釣り合いだった。何故か、少年がその内に抱く暖かな炎を消してはならないと、その光を穢すような事があってはならないと、不意に強く思った。

「煉君……君はここに居てはいけないよ。ここは君の居るべき場所ではない」

 ソファーに腰掛けた恭太朗が、重い溜息と共に呟いた。

「……この家には化け物が棲んでいるから」

 しばらく無言で恭太朗を見つめていた煉が、やがて幽かに微笑んだ。

「犬のこと、残念だったね」

「……見ていたのかい?」

 恭太朗の問いには答えず、煉が窓枠に頭を凭せかけ、夜風に微かに混じる甘い花の薫りを嗅いだ。音も無く零れる透明な月明かりに、艶やかな黒髪が濡れたように光る。少年の姿は、まるで一枚の絵のようで、どこか此の世のものでは無いように美しく、儚かった。

「冴子ちゃんはどうしてる?」

「……ひどく塞ぎ込んで、食欲も無い」


     ❀


 幼心にも、捨てられた仔犬に己の身の上を重ねたのだろうか。雪之丞と名付けた仔犬を冴子は目に入れても痛くないほど可愛がった。そして、そんな仔犬に何やら嫉妬しているような自分に気付き、恭太朗は思わず笑ってしまった。

「恭兄さま。雪之丞の右目にはね、少しだけ青い色が入っているのよ」

 風呂で洗われ、シロクマの子のようになった仔犬を抱きしめ、冴子が笑う。

「暗い雲の隙間から光が差しているみたいで……綺麗でしょう?」

「そうだね。綺麗だけど、でも少し妬けるなぁ」

「あら、どうして?」と驚いたように冴子が目を瞠った。

「その不思議で綺麗な目のお陰で、冴子に大事にして貰えるからさ」

 恭太朗が笑いながらそう言うと、冴子は僅かに首を傾げて考え込んだ。

「……雪之丞が大事なのは、目が綺麗だからではないわ。もちろんそれもあるけれど、でもそれだけではないの。それに……」

 顔を上げた冴子が、血の色の透ける頬に手を当て、恥ずかしげに微笑んだ。

「雪之丞はとても大事よ。でも、冴子が世界で一番大事なのは、雪之丞ではないわ」

 仔犬と庭で戯れる少女の笑顔は、彼女がこの家に来て初めて見せる、無垢で純粋な子供のものだった。


 雪之丞がいなくなった今、冴子が心から笑うことはない。


     ✿


「……冴子に、仔猫か小鳥を飼おうかと言ったんだ。雪之丞の代わりという意味ではなかったんだが……でも断られたよ」

 夜風に艶やかな黒髪を靡かせる少年に向かって、吐き捨てるように恭太朗が言った。

「冴子は凛を怖れている。何か飼えば、また凛に殺されのではないかと怯えているんだ」

「ふうん。それって妥当じゃないの?」

「……それは、そうなんだが」

 口籠った恭太朗を見て、煉が肩をすくめた。

「俺の経験から言うとさ、動物を殺すニンゲンには二種類いる。感情や興味で一度殺してみてから初めてその罪深さを知り、血濡れた己の手に恐れ慄く者。反対に、一度ヤッたら病みつきになって、歯止めが利かなくなる者。あんたの弟は間違いなく後者だと思うけどね」

「……そうかな」

「え?」

「もう一種類……何かを殺しても、その死に心を動かされも、奪われもしない者……生き物の生死や苦しみに対して、畏れも歓びも抱かない者もいるのではないかな……」

 じっと恭太朗を見つめていた煉の口許を、幽かな笑みが掠めた。

「あんたの弟は確かに少し共感性を欠くかもね。でも愛することを知らないサイコパスってわけじゃあないと思うよ? それより俺が知りたいのはさ」

 煉が不意に身を乗り出し、恭太朗の眼を覗き込んだ。

「……弟がおかしいって解ってて、あんたはなんで他の動物を飼いたいの?」


 ……冴子の身代わりになる動物さえいれば、凛の手が冴子に及ぶことはないのではないか。心の何処かでそう考えている己に気付いた瞬間、ぞっとするほどに冷たく濡れた屍の感触が腕に蘇った。



     9


 少年に別れを告げて自室に戻ったものの、結局一睡もしないままに朝を迎えた。波のように引いては押し寄せる鈍い頭痛を堪えつつ、午前中は書庫の整理に費やした。部屋の四方の壁を覆う天井まで届く本棚と、それを埋め尽くす無数の蔵書。埃と幽かな黴の香り。古い紙と掠れたインクの匂い。それはどこか懐かしく、世界から隔離されたような部屋の薄暗さに、荒んだ心も落ち着いた。

「……旦那様」

 軽いノックの音と共に、清乃が顔を覗かせた。

「申し訳ございません。今晩の御夕食ですが、凜太朗様が、御自分が御用意なさると仰りまして……わたくし共もお手伝いして差し上げようとしたのですが……」

「凛に台所から追い出されたのかい?」

 困った顔で頷く清乃を見て、恭太朗が嘆息した。

 あいつは一体何を考えているのだろう。弟の顔を思い出した途端に頭痛がぶり返す。心配気に自分の顔色を伺う女中に、恭太朗は無理に優しく微笑んだ。

「凛には困ったね。まぁ、あいつの気紛れはいつもの事だから、放っておくといいよ」

 ほっとした様子で仕事に戻る清乃を見送り、恭太朗も書庫を出た。書庫の薄暗さと黴臭さに、急に息苦しさを覚えたのだ。

 新鮮な空気を求め、花曇りの空の下、ぼんやりと庭を歩く。手入れの行き届いた庭の一画で足を止める。早咲きの薔薇の蕾が膨らみかけているが、しかし満開になるにはまだ少し間があるようだった。肌寒い曇天が続いているせいか、数日前に雪之丞を埋めた花壇の土は、まだ掘りおこされたばかりのように黒々としていた。

 風も無いのに、ひらひらと一枚の葉が舞った。訝しげに見上げた頭上の枝に例の少年の姿を見つけ、恭太朗が溜息を吐いた。

「……煉君。もうなんだか、君はこの家に棲みつく物の怪か何かみたいな気がしてきたよ」

「俺が物の怪だって?」

 きゃははは、と煉が笑い、枝を揺らす。ひらひらと、また数枚の葉が舞った。

「まぁ、これだけの屋敷だからね、物の怪や幽霊の一匹や二匹、棲んでてもおかしくないんじゃないの?」

 ひとしきり笑うと、艶やかな黒髪をさらりと掻き上げ、煉が口の端を歪めた。樹の幹にもたれ、鈍色の空を見上げる少年の倦んだ眼差しは、どこか凛太朗のそれに似ている。

「……君は、いつもそうやって、何を見ているんだい?」

「何って、あんたには視えないモノ」

 口の片端を吊り上げて小馬鹿にしたように肩を竦める少年の下に立ち、憂鬱な色に霞む空を見上げる。

「例えば?」

「例えば……」

 少年が愛おしげに眼を細めると、何かに向かって腕を伸ばした。不意に雲が割れて、重く項垂れていた草木が息を吹き返したかのように風に揺れ、少年の指先に淡い木洩れ陽が躍る。

「春風と共に現れ、草木の眠りを醒ますモノ。光や雨の雫と共に、空から降りてくるモノ。揺蕩(たゆた)う霧や陽炎の中に現れ、消えてゆくモノ。陽に温もる土に生命を与え、そしてそれを奪うモノ」

「……凛は、あいつの眼には、何が映っているのだろう……」

 足元の黒く湿った土を見つめ、その下に眠る犬を想う。深い井戸の底で雪之丞が最期に見たものは、丸く切り取られた蒼い空だったのか。それとも、溺れる灰色の鼠を映す、透明な硝子玉のような瞳だったのか。あの冷たい瞳の奥で、弟は一体何を想うのか。

「あんたの責任じゃないよ」と不意に煉が言った。

「え?」

「ヒトは皆、肉体という器に囚われ、自己という限られた世界に生き、その外に出ることは叶わない。あんたに俺が視ている世界が分からないように、俺にはあんたが見ているモノが分からないし、あんたには弟の眼を通じて世界を観ることは出来ない。だから、たとえ弟の世界観が理解出来なくても、それはあんたの責任じゃない」

「……君は、年の割にやけに寂しい……大人びた考え方をするんだね」

「なんたって、物の怪だからね」

 途端に表情を崩し、悪戯好きの座敷童子のように笑い転げる少年には掴みどころがなかった。しかしその子供らしい笑い声を聞いていると、絶え間無い頭痛が僅かに和らぐようだった。

「凛が……弟が夕食を作っているんだが、一緒に食べていかないか?」

「ありがとう。でもせっかくだけど、遠慮しとくよ」

「そうか……君を冴子に紹介したかったんだが」

「冴子ちゃんね……」煉がふと目を細めた。「ま、そのうち会えるでしょ。ところであんたの弟ってさ、料理が趣味なの? お屋敷のお坊ちゃんにしては珍しいね」

「いや、特に料理が趣味と言うわけではないんだが……でも子供の頃に、食欲の無い母の為にビスケットを焼いていたな。それを美味しいと母が褒めたら、その後一ヶ月くらい毎日同じ物を焼いて……」

「へええ、美味しかった?」

「いや、それが」恭太朗が苦笑を漏らした。「焦がすくらいならまだしも、材料が上手く混ざってなくて、ところどころ妙に甘かったり塩辛かったり……飲み込むのに一苦労したよ」

 そう、料理の腕はともかく、凛太朗には母の為に連日女中と肩を並べて台所に立つような、そんな優しいところがあった。移り気で我儘なところもあるが、しかし犬を自ら手に掛けるような人間ではなかった筈だ。ならばやはり雪之丞のことは単なる事故で、弟を疑う自分こそ兄として間違っているのかも知れない。

 そう考えると、少しだけ気持ちが晴れた。



     10


 暮れ(なず)む空の光が指先を染める。燻んだ臙脂色のソファーに横になり、辺りの物音に耳を澄ます。どこからともなく聴こえてくる、遠いざわめき、人々の笑い声、食器が擦れる硬質な音、そして、幽かに響くオルゴールの旋律――

 コツコツと窓硝子を叩く音に目を開けると、小柄な狐が部屋を覗き込んでいた。

「腹が減ったろう。差し入れだ」

「あぁ、ありがと……ってコレ何?」

「例の寺の坊主から言伝だ。始末がついたら、それで連絡してくれだとよ」

 焰から渡された白いビニール袋の中から携帯電話を取り出すと、煉が顔をしかめて舌打ちした。そんな煉の姿を焰が感心したようにつくづくと眺める。

「それにしても凄い格好だな」

「……そろそろ始まるからね」

 人形のように華やかなドレスに身を包んだ煉が薄く嗤い、アンティーク調の家具に囲まれた部屋の高い天井を見上げた。

「服はクローゼットの奥で見つけたんだ。一応報酬付きの仕事だし、多少なりとも相手の趣味に合わせないとね。この家の主人は、監禁した少女を華やかに着飾らせてから痛めつけるのが趣味なんだってさ」

「そうか。俺はまたお前がイメチェンでもしたのかと思った」

「んなわけないでしょ」

「しかし中々似合っているぞ? 桐刄辺りに見せたら喜びそうだ」

 煉が顔をしかめると、丸めたナプキンを無言で焰に投げつけた。


     ✿


「ロミオとジュリエットの台詞でさ、that which we call a rose by any other name would smell as sweet* ってのがあるだろう? つまり人にしろ花にしろ名前に意義などなく、たとえ薔薇が他の名で呼ばれてもその薫りは変わらないように、人もその呼ばれ方で本質が変わったりはしないってことなんだけどさ、兄さんはどう思う?」

「……どうとは?」

「こんな話を聞いたことない? 泥棒を泥棒と呼んで蔑めば、そいつは自分が泥棒であることに慣れて、それ以上にはなり得ない。だけどもしも泥棒を紳士と呼べば、泥棒は自分が泥棒であることに後ろめたさを覚えて、紳士然と行動するようになるかも知れない。人は花ではないからこそ、たとえ雑草のような人間であっても、薔薇と呼ばれれば、薔薇の薫りを漂わせようと努力するかも知れない」

「まぁ、それはそうかも知れないが……」

 目下のところ、恭太朗の悩みは薔薇の薫りなどではなく、このスープだ。やけに上機嫌で英文学のことなどを語る弟に適当に相槌を打ちつつ、口許をナプキンで隠した恭太朗が密かに顔をしかめた。

 それは、妙に臭みのあるスープだった。やはりと言うべきか、凛太朗が一日中台所を占拠して作ったスープはお世辞にも美味いとは言えず、それどころか本人が一度でも味見したのかどうかすら疑わしい。しかしその意図が何であれ、弟が作った物を無碍にするのも忍びなく、恭太朗は無理に幾匙か啜り、諦めてスプーンを置いた。

「口に合わなかった?」と残念そうに尋ねる凛太朗に向かって、首を横に振る。

「そういう訳ではないんだが……少し食欲が無くて」

「季節の変わり目だから、兄さんも体調を崩してるのかな? そんな歳でもないのにね」

 一体誰のせいだと思っていると言いたいのを堪え、ワイングラスに手を伸ばす。そう、そんな事を口にすべきではない。凛太朗が雪之丞を殺した証拠など、どこにも無いのだから。人にしろ、薔薇にしろ、おかしな名で呼ぶべきではない。

「やっぱり兄さんは舌が肥えてるからなぁ」

 口に残る臭いをワインで洗い流しつつ、隣に座る冴子にちらりと目を遣る。幼い妹は、形の良い眉を曇らせつつも懸命に不味いスープを飲んでいる。正面に座り、じっと自分を見つめる凛太朗の視線が怖いのだろう。

「そう言うお前こそ、自分が作った物なのに一口も食べてないじゃないか」

「あれ? 言わなかったっけ?」先程からワインばかり飲んでいる弟が、笑いながら首を傾げた。「秋ぐらいから少し体の調子が悪くてさ、医者に相談したら、菜食主義を勧められたんだよ。卵や白身魚くらいなら大丈夫なんだけど、赤身の肉なんかだと、消化に悪くて夜に眠れなくなるんだ」

「……大丈夫か?」恭太朗が眉を顰めた。「病名は分かっているのか? 信用出来る医者に診て貰っているんだろうな?」

「心配しなくても、病気って程の病気じゃないよ。いわゆる気の病ってやつだよ。知ってるかい? シェイクスピアの時代には、鬱ってのはハムレットみたいな高邁な知性を持つ一部の特権階級だけが罹るのを許される、高尚で優雅な病気だったらしいよ」

 だがハムレットは、その高邁な知性とやらのお陰で己の尻尾を追い回す鼠のような思考の罠に囚われ、結局はその身をも滅ぼす悲劇を巻き起こしたではないか。

 そう言おうと口を開きかけた時だった。

 カチャカチャと、銀の匙を皿に当てる不快な音に隣を見ると、冴子が大きく目を見開き、自分の前に置かれたスープ皿を凝視していた。あらかた飲み終えたのか、ほぼ空になった陶器の皿に、固く握り締められた匙が繰り返しぶつかる。白魚のように美しい手の震えが大きくなるにつれて、その不快な音も大きくなる。

「冴子……?」

 血の気の失せた顔色とただならぬ様子に驚き、恭太朗が冴子の肩に腕を伸ばすのと、冴子が気を失うのはほぼ同時だった。つん裂くような甲高い悲鳴は清乃のものだったのか、己のものだったのか。椅子から崩れ落ちる妹を咄嗟に抱きとめ、凛太朗を振り返った。

 何事も無かったかのように悠然と真紅のワインを飲む弟の、その硝子玉の瞳の中で、灰色の鼠が溺れる。

「……凛……」

 一体冴子に何をしたのかと問おうとした時、不意に視線を感じて、食卓を見た。

 スープ皿の底に転がる眼玉と、目が合った。


「雪之丞が大事なのは、目が綺麗だからではないわ」

 仔犬を抱く冴子の恥ずかしげな微笑みが瞼の裏を過る。

「雪之丞はとても大事よ。でも、冴子が世界で一番大事なのは、雪之丞ではないわ」


 腐り、元の色も判らぬほど白濁したその瞳に、暗雲を切り裂く一閃の青い光を見た気がした。



(To be continued)

* ウィリアム・シェイクスピア『ロミオとジュリエット』より引用

(From William Shakespeare, "Romeo and Juliet" (II. ii. 47-48))

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