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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
63/123

名残り雪(中編)

     4


 雪ウサギは夜行性らしい。

 翌朝遅くに起き出した羽瀬が冷凍庫を覗いて声を掛けても、じっと俯いたままピクリとも動かない。余りに反応がないので、やはり昨夜のアレは夢だったのか……と思い始めた夕方、夕餉の支度でもしようと冷凍庫を開けた途端、グリーンピースの袋と共に雪ウサギが転げ落ちてきた。扉のポケットに入れてあったグリーンピースを狙って身を乗り出していたらしい。

「こらこら、危ないだろうが」

 慌てて足元の雪ウサギを抱き上げ、怪我がないか確かめる。かなりの高さから落ちたにもかかわらず、雪ウサギはケロリとした顔で羽瀬を見上げ、クゥクゥと甘えた声で鳴いた。

 冷凍庫の奥から発掘したアジの干物とスルメを炙り、それを肴に炬燵で熱燗を呑む。雪ウサギの安全を考慮して電気ヒーターを消したので、些か背中が冷えるが仕方無い。箪笥の奥から引っ張り出した古い丹前を羽織って我慢する。

 雪ウサギは紅い眼を細めるようにして、小皿に取り分けてやった冷凍グリーンピースを食っている。やがて満足したのか、畳の上をぴょこぴょこと跳ね、座布団や新聞紙の端を齧ってみたり、カーテンの隙間に潜り込んだりして遊んでいる。しかし炬燵のコードには決して近寄らず、避けて歩いている。一応学習能力はあるらしい。ふと見ると、あちらこちらに雪ウサギが食った筈のグリーンピースが転がっていた。

「……なんだコレは? 食わんのか?」

 拾ったグリーンピースを雪ウサギに見せると、雪ウサギは鼻を蠢かせて羽瀬がつまんだそれの匂いを嗅ぎ、興味無さげにふんとソッポを向いた。そして再びぴょこぴょこと跳ねていく雪ウサギの後には、ふた粒のグリーンピースが転がっていた。

「……なるほど」

 どうやら食ったモノがそのまま糞として出てくる仕組みらしい。排出されたモノの見た目は摂取される以前と全く変わらないが、しかし雪ウサギにすればそれは既に『糞』であり、食べ物とは認められないのだろう。試しに人参の尻尾や林檎の切れ端を与えてみたところ、喜んで食べるものの、入ったモノはそのままの形で出てくる。つまり養分として身に付いていないのだ。

 暖房の無い部屋は、家の中とはいえ羽瀬には寒過ぎるくらいだ。しかしやはり雪ウサギには暑いのだろう。雪ウサギが歩き回った畳がしっとりと濡れているのがそれを如実に物語っている。このまま放っておけば、雪ウサギは数日も保たずに溶けて消えてしまうやも知れぬ。躰のラインが昨日よりもほっそりして見えるのは、決して気のせいではないだろう。

 ウロウロと家中を探検していた雪ウサギが、カーテンの陰から出て来なくなった。何をしているのかと背後からそっと覗くと、雪ウサギは何やらうっとりとした表情で縁側の硝子戸から庭を眺めている。夕方から再び降り出した雪が、しんしんと夜空を染めてゆく。

「……そうか。お前もあの空から来たんだな」

 ふと思いつき、セーターを重ね着した上に丹前を羽織り、更に軍手とマフラーで重装備する。縁側の硝子戸を開けてやると、雪ウサギは初めは恐る恐る、続いて嬉しげに庭へ飛び出した。

 もしかすると、外に出た雪ウサギはこのまま何処ぞへ逃げてしまうかも知れないと思ったが、羽瀬の心配は杞憂に終わった。新雪に小さな足跡をつけて遊ぶ雪ウサギは、決して羽瀬の目の届かない所には行かず、時折チラリと振り返っては縁側に羽瀬がいることを確かめているようだった。一度だけ玄関の門灯のそばまで行って外を覗いてみたが、道を走るバイクの音に驚いて跳び上がり、慌てふためいて羽瀬の足元に駆け戻って来た。羽瀬の陰に隠れ、ふるふると震える雪ウサギの丸い背中をそっと撫でてやる。

「そんなに怖がらんでもいい。アレは門の中まで入ってきたりせんからな」

 しばらくそうしている内に落ち着いたのか、気を取り直した雪ウサギは庭に積もった新雪をシャリシャリと食べ始めた。

 汚れひとつない柔らかな新雪を食べた雪ウサギの腹はふっくらと膨らみ、まろやかな雪明りに仄かに光っていた。



     5


 妻が家を出て行ってからはや十日が過ぎ、とうとう食糧が底をついた。雪ウサギにやるグリーンピースやリンゴも無い。雪さえあれば他の食べ物は必要なさそうだが、しかしオヤツなしだと非常に不満気だ。やはり誰にでも主食以外の嗜好品は必要なのだろう。雪ウサギの嗜好品と己の必需品を求め、羽瀬は久々に家を出ることにした。

 数年前、家からバスで二十分程のところに大手スーパーマーケットが出来た。食料品から衣料品、日用雑貨まで全て揃っているので、買い物が随分楽になったと妻が喜んでいた事を思い出す。しかしコレが出来たせいで、昔ながらの地元の商店街は閑古鳥が鳴くようになり、個人経営の八百屋や魚屋などは軒並み店を畳んだ。

 安さや便利さを求めるのは人の常であろう。大手に追いやられ、泣く泣く店を手放した人々の為に義憤を感じるほど羽瀬は青くはない。しかし流行りの音楽が流れ、妙に白々と明るくシミひとつ無い店内でショッピングカートを押していると、何やら自分の存在が酷く場違いなようで肩身が狭い。そしてこの時だけは、土臭い段ボール箱が雑多に積まれた八百屋や、店の床も前の道も常に生臭い水で濡れていた魚屋が懐かしく、彼等を追いやった大手企業を密かに恨めしく思った。

 ガタガタと揺れるバスの窓から、流れる景色をぼんやりと眺める。安普請の癖に妙にチャラチャラとした外見の家が並ぶ新興住宅地は、まるでお菓子の家の集まりだ。羽瀬が子供の頃、この辺りはまだ田圃や畠が多く、家の裏には野原や雑木林が広がっていた。

 そんな長閑な野原の片隅で、怪我した野兎の仔を見つけたのは、あれは一体何十年前の春の事であったか。


     ❀


 羽瀬はこう見えて中々の動物好きで、子供の頃はよく巣から落ちた雀の子や捨て犬を拾ってきては育てていた。だから、後脚から血を流して藪の陰で震える仔ウサギを見つけた時も、迷うことなく脱いだシャツでそっと包んで大切に家へ持ち帰った。

 幸い骨は折れておらず、ぬるま湯で軽く洗い、消毒して布を巻いただけで、傷口は化膿することもなく綺麗に塞がった。まだ幼かったせいか、仔ウサギは人にもすぐに馴れ、つぶらな瞳を細めるようにして林檎の皮や野菜屑を食っていた。そして、羽瀬はそんな仔ウサギの姿を絵に描いた。

 鉛筆を舐め舐め、やや灰色を帯びた柔らかな褐色の姿を丁寧に写生していると、仔ウサギは甘えた顔で羽瀬のシャツに潜り込んできた。シャツの中でひくひくと蠢く鼻ヅラや和毛の生えた柔らかな足の裏がくすぐったくて、少年だった羽瀬は鉛筆を放り出して笑い転げたものだ。

 思えば自分は、幼い頃から家にこもって絵ばかり描いていた。あの頃はまだ、絵を勉強したいだとか、画家として食っていきたいだとか、そんな事は考えてみたことすらなく、唯ひたすら何かに憑かれたように眼に映る全てを白い紙に写していた。

 真面目な公務員であった父親は、そんな自分を見て良い顔はしなかった。

「紙と鉛筆の無駄だ。そんな暇があったら勉強しろ」と小言を言われるだけならまだマシだ。父が酔ってこぼした酒を描きかけの絵で拭かれたどころか、便所のチリ紙として使われたことさえある。そんな父から隠れるようにして、羽瀬は絵を描き続けた。

 外の世界を自身の内に取り込もうとしていたのか、それとも己の内なる世界を開く鍵を探していたのか。少年時代の自分が何故、親に隠れてまで絵を描いていたのか、羽瀬には今でも分からない。唯ひとつ、確信を持って言えるのは、あの頃の自分はその後の人生では望むべくも無いほどに純粋で、荒削りで、そして灼けつくような創作への渇望を持っていたということ。

 仔ウサギを拾ってきて二週間ほど経ったある日、羽瀬は初めて仔ウサギを庭へ出してやった。ぽかぽかと暖かな春の陽射しの中、仔ウサギはひょこたんひょこたんと片脚を引き摺りつつも、物珍しげに盆栽の匂いを嗅ぎ、蜘蛛の巣だらけの縁の下を覗き、鼻の先に絡まった蜘蛛の巣に慌てていた。

 そんな長閑な光景を笑いながら写生していたところに、表に遊びに出ていたタロウが帰って来た。タロウは秋田犬の雑種だ。羽瀬が子供の頃は、飼い犬を鎖で繋がずに外を勝手気儘に歩かせている家も多かった。

 タロウは穏やかで気が良く、羽瀬が拾ってくる子雀や仔猫などともよく遊んでいた。だから、タロウが仔ウサギに近付いても、羽瀬は何の不安も感じなかった。

 植木の隙間に頭を突っ込み、夢中になって遊んでいた仔ウサギは、濡れた鼻に尻の匂いを嗅がれるまでタロウの存在に気付かなかった。ふと背後を振り返った仔ウサギが、黒々と濡れた丸い瞳を大きく見開いた。次の瞬間、タロウがハフリと仔ウサギの尻を咥えた。

 タロウの名誉の為に断っておくが、彼は仔ウサギを噛んだわけではない。それは彼が仔猫と遊ぶ時によくやっていたことで、甘噛みですらない、彼流の愛情を込めた柔らかな挨拶だった。

 しかし仔ウサギはそうは思わなかったのだろう。タロウにハフリとやられた瞬間、仔ウサギはびくりと大きく跳ね、後脚を引き攣らせるようにして全身を強張らせ、そして不意にくたりとして動かなくなった。

 初め、羽瀬は仔ウサギが死んだ真似でもしているのかと思い、思わず笑ってしまった。そしてしばらく待っても仔ウサギがピクリとも動かないことに気付き、慌てて駆け寄った時には、仔ウサギはすでに事切れていた。

 兎は繊細な動物だ。巨大な犬に咥えられた驚きのあまり、心臓発作を起こしたのだろう。可哀相なことをしたと、幾ら悔やんでも悔やみ切れなかった。

 人の魂には幾許(いくばく)かの重さがあると聞いた事がある。ならば仔ウサギの魂には、どれ程の重さがあるのであろうか。

 手の中で少しづつ冷たくなってゆく仔ウサギの小さな躰は、陽だまりで遊んでいた時に比べて確かにひとまわり萎んだようで、それが余計に哀れだった。



     6


 庭の雪が少なくなってきた。残っている雪は土に汚れて薄黒い。

「雪が無いからな、これでも食え」

 冷凍庫から取り出した氷を皿に入れてやったが、雪ウサギは一口二口カリカリと齧ってみただけで、何が気に食わぬのか、不服気にそっぽを向いた。少し考えてから、羽瀬は台所の奥を引っ掻き回し、埃にまみれた道具を引っ張り出した。

 ゴリゴリと氷を削り、カキ氷を作る。三月にカキ氷など、作っているだけで尻の底から冷えてきたが仕方が無い。かいた氷を硝子の鉢に入れてウサギの前に置いてやる。今度は三口程食べたが、やはり何やら不満気だ。

 ふと気が付いて、冷蔵庫の中から苺ジャムを出し、カキ氷に混ぜてやる。ジャムは直ぐに固まってしまって混ぜにくかったが、しかしカキ氷シロップなどという洒落たモノはない。ジャムを混ぜた途端に雪ウサギはいそいそと羽瀬の手元に寄ってきて、紅い眼を細めるようにしてシャリシャリとカキ氷を食べ始めた。

 苺ジャム入りカキ氷を食べ終わり、満足気にぴょこぴょこと畳の上で遊ぶ雪ウサギは、ほんのりと淡い桜色に染まっていた。



 色々と試した結果、雪ウサギはバニラアイスを最も好むようだった。バニラアイスなら体がおかしな色に染まることもなく、触り心地も滑らかだ。雪ウサギが歩き回った跡がどうもべたつくのは否めないが、しかし雪がないのだから仕方無い。

 ちなみに大福餅のような薄皮の中にバニラアイスの入ったモノも喜んで食っていたが、雪饅頭のような雪ウサギが大福餅にむしゃぶりつく姿は、どうも共喰いの様に見えて宜しくない。器に盛ったアイスクリームを舐めさせておくのが一番無難だ。

 夢中になって皿に頭を突っ込んでいる雪ウサギの丸い尻をそっと撫でてやる。

「うむ、まさに自画自賛のようだが、お前の毛艶は実に見事だな。いや、毛が生えているわけではないから、これは毛艶とは言わんかな」

 雪ウサギを撫でる手を止めて、ふと考え込む。

「……毛が生えていないという事は、お前は野ウサギよりは、穴ウサギに近いと言うことかな」

 生まれたての野ウサギの子は毛もあり目も見えるが、穴ウサギの子は毛も生えておらず、目も見えないのだと羽瀬に教えてくれたのは、あれは誰であったか。


     ❀


 羽瀬が勤めていた中学校は、市街地からかなり離れた所にあった。辺りにはまだ多少の自然が残っていて、校舎の裏には睡蓮の浮く小さな池があり、毎年ヒキガエル達が元気に繁殖していた。梅雨になると、体長五〜六ミリ程の真っ黒なチビ蛙共がわらわらと池を出る。うっかりしていると踏み潰してしまいそうな程に小さな彼らが、群れを成して裏山へ帰っていく様子は中々に壮観だった。

 そして、池の隣にはウサギ小屋があった。


「いやあ、失敗失敗」

 就任して二年目の若い生物教師がウサギ小屋の前で頭を掻いた。

「去年産まれた仔ウサギなんですけどね、オスは全部生徒達に里子に出したつもりだったんですけど、メスだと思って残しておいた三羽のうち一羽がオスだったみたいで」

 ウサギ小屋の中には藁を敷いた寝心地の良さげな巣箱が幾つか入れてある。生物教師が指差した巣箱を金網越しに覗いてみると、ネズミほどの大きさのモノがモゾモゾと動いていた。ピンク色のモノ、濃いグレー色のモノ。ピンクと黒のまだら模様のモノ……何と言うか、赤剥けのネズミが蠢いているようにしか見えず、その奇怪とも言える姿は羽瀬の子ウサギのイメージとは程遠い。

 う〜む、と唸っていると、「驚きましたか?」と言って生物教師が笑った。

「いわゆるペットのウサギってのは、穴ウサギが先祖ですからね。野ウサギと違って、生まれたては赤裸で、目も開いてないんですよ」

「……まぁ、幾らも待たんうちに毛も生えて可愛くなるんでしょうな。ウサギはたいして手間が掛かるモノでもないし、欲しがる生徒も多いでしょう。これくらいなんとかなるんじゃないですか」

「いやそれが、調べたら他にもメスが二羽妊娠してるんですよ」

「それはそれは……やはりウサギも若いもんは元気ですな」

「全くですよ、参ったなぁ。やっぱり責任感のある生徒にしか里子には出せませんからね。仔ウサギの里親探しも結構気を使うんですよ」

 参った参ったと言う割には、目も開かない仔ウサギ達を眺める若い教師の頬は緩みっぱなしだ。

「そうだ、羽瀬先生、どうですか?」

「は? どうとは……?」

「仔ウサギですよ。宜しければ頃合いを見て、一羽連れて帰りませんか?」

「いや、うちは……」

 慌てて断り掛けて、ふと想像してみる。乳離れしたくらいの仔ウサギは可愛いだろう。特にこの母ウサギは毛足が少し長めで柔らかな艶を帯び、顔貌も他より整っていると常々感心していたのだ。

 やや間をおいて、羽瀬が首を横に振った。

「……残念ですが、娘に動物アレルギーがあるんですよ。少し喘息気味で」

「あぁ、そうなんですか。羽瀬先生なら良い里親さんになって下さると思ったんですけどねぇ。娘さんのアレルギーじゃあ仕方が無いですね」

 少し残念そうに、しかし優しげに微笑む教師を見て、もしかしたら彼は知っているのかもしれんな、と思った。そして不意に気恥ずかしくなって、羽瀬は挨拶もそこそこに、そそくさとその場を退散した。

 生徒のいない隙を見計らい、こっそりウサギ小屋を覗いて林檎の皮をやるのは羽瀬の密かな楽しみだった。早朝や授業の合間にウサギ小屋の周辺をうろつく羽瀬の姿に、生物教師は気付いていたのかも知れない。

 一人娘に動物アレルギーがあるのは本当だ。猫も犬も鳥もハムスターも駄目。動物園でポニーに触っただけで赤く発疹していた。ウサギを試してみたことは無いが、恐らく毛の生えた動物一般が駄目なのだろう。

 しかし娘は来月には結婚して家を出て行く予定だ。だから本当は、ウサギを飼おうと思えば飼えないわけではなかった。それでも首を横に振ったのは、一人娘がいなくなった寂しさを紛らわす為にウサギを手に入れたなどと言われそうで、唯何とは無しに嫌だったのだ。


 数ヶ月後、仔ウサギを引き取らなかった事を心底後悔する事になるなど、この時は思いも寄らなかった。



(To be continued)

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