名残り雪(前編)
まよふなり月の光の白うさぎ 雪にはふかき道もわすれて(『夫木和歌抄』藤原為顕)
1
冷凍庫を開けた途端、丸い緑の粒がころころと足元を転がった。
……なんだコレは。持病で痛む膝を曲げ、厳めしい眉根に深い皺を寄せて床に転がった粒を拾い上げる。
それは、凍ったグリーンピースだった。
「婆さんめ、冷蔵庫の始末もろくに出来んのか」
ぶつぶつと口の中で文句を言いつつ、グリーンピースを流しに捨てる。そして再び、何か簡単に口に出来そうなものはないかと冷蔵庫を探る。
老妻が家を出て行ってからはや一週間。冷蔵庫の中身も乏しくなり、ここ数食は米と漬物ばかり食っている。しかしこの寒空の下、食糧を求めて外に出るのは余りに億劫だ。
事の起こりは温泉旅行だった。
町内会の温泉旅行に行きたいと言い出した妻に、「俺は嫌だ」と羽瀬は素っ気無く応えた。
「次の展覧会に出す作品に悩んどるんだ。温泉なんぞ行っている暇はない」
「次の展覧会って一体いつの話ですか? あなた、最後に展覧会に出品したのなんて三年前でしょう?」
「……三年前じゃない、二年前に知り合いの画商にどうしてもと頼まれて何枚か出している」
どこぞの大御所が臍を曲げ、数人の画家の合同展覧会直前に作品をごっそり引き揚げた。壁がガラ空きでは格好がつかないから、何でもいいからその穴を埋めてくれと泣きつかれ、そういう事なら致し方ない、一肌脱ごうと重々しく頷いた羽瀬の作品は、ひと気のない一番隅の、手洗いの横の壁を飾っていた。
「ね、行きましょうよ、温泉。雪を観ながら露天風呂なんて、素敵じゃないですか」
「こんな寒空の下、露天風呂なんぞ入ったら風邪を引く」
「大丈夫ですよ、熱いお湯につかってるんですから。今年の結婚記念日だって何もしなかったんですから、たまにはいいじゃないですか」
「結婚記念日なんぞ若いもんのやることだろう」と羽瀬が馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「四十余年も同じ顔ばかり見てきたんだ。飽きこそすれ、今更改めて祝うことなどないだろうが」
「……なんですって?」
昼食後の番茶を淹れていた妻が手を止めて、ジロリと羽瀬を睨んだ。
「四十年以上毎日毎日あなたの我儘と偏屈に付き合ってきた賢妻を労おうとか、あなたにはそういう殊勝な考えはないんですか?」
不意に低くなり、不穏な気配を帯び始めた妻の声色に内心焦りつつも平静を装う。
「わ、我儘とはなんだ。俺はいつだって家族の為に勤勉に働いてきただろうが」
「あなたが勤勉に働いてたのは陽子がお嫁に行く前まででしょうが。陽子がいなくなった途端にタガが外れちゃって、画家になるなんて言い出して。定年まで勤めていれば退職金だってもっと出たでしょうに……」
「か、金の事ばかり言うな! この家だって親からの貰いもんで借金があるわけでもあるまいし、食うに困る生活なわけでもないだろうが……」
「食うに困らなくったって、古い家はあっちこっちガタがきちゃって、直すのにもお金が掛かるんですよ! 私がこの歳でなんで裁縫の内職なんて始めたか、知らないわけじゃないでしょう!」
ぐぬぬ、と言葉に詰まる。ここで止めておけば良かったのだが、思わず口が滑った。
「お、お前のような奴に、人生を賭けるに足る夢を持つ人間の気持ちがわかってたまるかっ」
「いい歳して何が夢ですか! 寝惚けるのもいい加減にして下さいよ! そもそも愚妻ってなんですか、愚妻って?!」
「な、なんのことだ」
「何のことって、自分が言ったのにもう忘れちゃったんですか?! おとついあなたのお客さまにお茶をお出ししたら、『愚妻の秋江です』って言ったでしょうが!」
「……それがどうかしたか」
「どうかしたかじゃありませんよ、白々しい。ひとのことを愚妻だなんて、失礼なんですよ! 私がいなければ食事の支度どころかお茶ひとつ淹れられない癖に、私が愚妻なら、あなたなんて寝惚けた愚夫でしょうが! 愚夫!」
グフグフと喚く妻に閉口して、アトリエ兼書斎として使っている三畳間へ逃げ込んだ。そして夕飯時、そろそろほとぼりも冷めたかと思い、そろりと居間へ戻ってみれば、冷え切った台所には夕飯の支度など無く、それどころか火の気すら無く、『生きれるものなら、ひとりで生きてみなさい』という憎々しげな書き置きのみを残し、妻の姿は消えていた。
羽瀬は売れない画家だった。若い頃は中学で美術の教師をしていたのだが、一人娘が結婚して家を出て行った頃に教師を辞め、画家として生きてゆくことにした。しかし五十も半ばを過ぎた自称画家では生計を立てられる筈もなく、近所の暇人や子供相手にお絵描き教室を営み、ふと気付けば七十の峠を越える歳となっていた。
一体、時と言うものはいつの間に人の手をすり抜けてゆくのだろうか。油断も隙もあったものではない。これでは、ふと気付けば線香の煙に燻されつつ棺桶の底に転がっていました、などと言うことになり兼ねない。目下のところ、餓死して台所の床に転がっていました、と言う方が可能性が高いようだが。
溜息と共に再び冷凍庫の中身を漁る。薄切りにした生姜、小分けにした挽肉、作り置きしてタッパーにいれられた餃子。この餃子を肴に熱燗で一杯やりたいところだが、しかしコレは電子レンジで温めるだけでいいのだろうか。それとも蒸したり焼いたり、そんな手間が必要なのだろうか。凍った餃子の皮を指で突いて暫し考え込む。うむ、これに手を出すのはもう少し切羽詰ってからにしよう。
再びゴソゴソと冷凍庫の棚を掻き回し、チクワを発見。思わず心が浮き立つ。チクワ如きに胸を高鳴らせるというのも些か情け無いが、しかしチクワなら火で炙るだけで良い酒の肴になる。更にチクワの奥に丸いオレンジ色のモノを見つける。なんとなんと、冷凍蜜柑ではないか。炬燵で食べるシャリシャリと冷たく甘い冷凍蜜柑は羽瀬の大好物だ。ウキウキと蜜柑を取り出した羽瀬が、はたと動きを止めて手の中のソレをじっと見つめた。
蜜柑には、何者かが齧った跡があった。
2
寝返りを打つのはこれで何度目か。少なくとも五十回は下らないのではなかろうか。寝床で悶々としつつ、羽瀬が大きく溜息を吐いた。
冷凍蜜柑についていた齧った跡が気になって仕方無く、どうしても寝付けない……いや、実は蜜柑だけではなかったのだ。よくよく調べてみたところ、チクワのパッケージや刻んで小分けにされた冷凍野菜の袋にも鼠が噛んだような跡がついていた。肉類は無事のようだったが、しかしいくら考えても腑に落ちない。老妻は几帳面で綺麗好きだ。噛み跡のついたようなモノを喜んで冷凍庫に仕舞っておくとは考えにくい。
もしや冷凍庫に虫か鼠でもいるのだろうかと探してみたが、そのような気配はかった。そもそも冷凍庫の中で鼠が生きていけるとは思えない。鼠が夜中に冷凍庫を開けて侵入する筈も無かろう。最近この辺りでは野生化したアライグマが問題になっているらしいが、しかし如何に手先が器用なアライグマでも、重い冷蔵庫の扉を開けるのは無理だろう。
……まさかとは思うが、腹が減ったあまりに、自分が夜中に寝惚けて冷蔵庫を漁っているという事は……。
薄暗い台所で夜中に生の冷凍食品の袋に齧り付いている己の後ろ姿を想像し、慌ててその恐ろしい想像を打ち消す。まさか、如何になんでもそんな事はあり得ん。俺はまだボケちゃいない。ばあさんがいなくなって多少不自由していると言えないでもないが、しかしそんな妖怪じみた真似をするほど窮してはいない筈だ。
色々と考えていたら、何やら尿意を催してきた。歳を取ると手洗いが近くなって実に面倒だ。特に冬場は身体が冷えるせいか、一晩に三度も四度も起きる羽目になる。
溜息と共に寝床から這い出し、冷たい廊下に出た。起き出したついでにチラリと台所を覗く。窓から差す月明かりが埃っぽい床を寒々しく照らしているだけで、生き物の気配はない。ふむ、と一つ頷いて寝間に戻ろうとした時だった。
ごとり、と何かが落ちるようなくぐもった音がした。振り返ったが何もいない。しかし耳を澄ますと、確かにゴソゴソと何かが動き回るような音がする。羽瀬がそっと冷蔵庫に近付いた。音は確かに冷凍庫の中から聞こえてくる。ゴクリと唾を飲み込むと意を決し、冷凍庫の扉を大きく開けた。
そこには、冷凍グリーンピースの袋を咥えて引っ張る手の平サイズの饅頭のような雪の塊……紅い南天の実で出来た目と緑の葉の耳を生やした……雪ウサギがいた。
雪ウサギの紅い目と無言で見つめ合う。数秒後、我に返った雪ウサギが慌てたようにくるりと羽瀬に背を向け、ぴょこぴょこと冷凍庫の奥に戻った。そして盆の上によじ登り、羽瀬に向き直ると、行儀良く前足を揃えて盆の真ん中に鎮座した。
バタン、と音を立てて冷凍庫の扉を閉める。そのまましばらくじっとして数分後、恐る恐る扉を開け、細い隙間から中を覗き込んだ。盆の上の雪ウサギは身動きひとつせず、ジッと羽瀬を見つめている。再び扉を閉め、息を整え、もう一度開ける。雪ウサギはピクリとも動かない。当たり前だ。やはり寝惚けていたのだろう。
ホッとして扉を閉めようとした時、雪ウサギがふわ〜と大口を開けてアクビした。続いて短い後脚で南天の葉の耳を掻く。そしてクシュンと小さく嚔した。
3
「……不思議なこともあるもんだ」
炬燵で熱燗をやりつつ、畳の上をぴょこぴょこと歩き回る雪ウサギを眺める。雪ウサギはふんふんと小さな鼻を蠢かせて畳や座布団の匂いを嗅ぎ、かと思えば埃の積んだ箪笥の後ろを真剣な様子で覗き、物珍しげに部屋中を見聞して回っている。
「ううむ」
抓り過ぎて赤くなった頬をもう一度抓ってみる。痛い。やはり夢ではない。老人痴呆に因る幻覚……という縁起でもない言葉が脳裏を過ったが、慌ててそれを打ち消す。何度も言うようだが、俺はまだ呆けるにはちと早い……と自分では思っている。
数日前の事だ。二月も下旬だと言うのに、この辺りでは珍しく雪が降った。それも記録的な大雪で、羽瀬も玄関の雪掻きに四苦八苦した。以来気温の低い日が続いているせいか雪は一向に解ける気配を見せず、これが羽瀬が外に食料の買い出しに行くのを渋っている最たる理由だ。単に面倒臭いというのもあるが、しかし万が一滑って転んで頭でも打ったら目も当てられない。呆けてはいないが、絵ばかり描いていて滅多に家から出ない自分の足腰が、かなり弱まっているという自覚はある。
雪が降った翌日、お絵描き教室に来た子供達は皆、そわそわと落ち着かなかった。籠に積まれた林檎に全く興味を示さない小さなニンゲン共に閉口し、「雪で何か作ってそれを絵に描こう」と仕方無く提案した。歓声を上げて外に飛び出した子供達は大はしゃぎで雪だるまやカマクラを作り、雪合戦をして遊び、結局何も描かないまま家に帰っていった。
子供達が遊んでいる間、羽瀬は無聊のままに雪ウサギを作り、それが中々出来が良かったので、次に子供達が来た時に描かせようと盆に載せて冷凍庫に仕舞った。そして今の今までその存在を忘れていた。
「ふ〜む」
腕を組み、眉根を寄せて雪ウサギを眺める。
腕の良い絵師が描いたモノが命を持ち、夜な夜な絵を抜け出て遊ぶ、などと言う昔話や逸話はよく耳にするが、まさかそんな事が我が身に起こるとは夢にも思わなかった。しかしこれは絵に描いた兎ではなく、雪で作った兎だ。つまり自分は画家ではなく、彫刻家に向いていたということか。庭の雪で適当に作った雪ウサギが命を持つくらいだから、もっと若いうちから彫刻の道を極めていれば、日本のロダンと呼ばれるくらいには大成したに違いない。実に惜しい事をした。いや、まだ間に合うかも知れぬ。
酔いの回った頭で、雪祭りの巨大な氷の彫像達が命を持ち、動き回る姿を想像する。そしてそれを見て驚き、感動する人々。神の手を持つ自分に与えられる数々の賞賛……。
畳の上をぴょこぴょこと跳ねていた雪ウサギが、赤く熱した電気ヒーターを覗き込んだ。途端にジュッと不吉な音がして、見る見るうちに雪ウサギの顔が溶け出し、南天の実の眼玉がぽろりと落ちた。
「イカン! そんなモノに近付くなっ」
酒に噎せつつ大慌てで雪ウサギをヒーターから引き離し、急いで顔を整え、畳に転がっていた南天の実を拾って付け直す。
「全く……お前は雪で出来ているんだからな、ヒーターや炬燵には気を付けなきゃイカン」
ぶつぶつと文句を言う羽瀬を、きょとんとした顔で雪ウサギが見上げた。顔が半分溶けかけたというのに、どうも危機感に欠ける兎だ。念の為にヒーターを消し、雪ウサギが溶けて出来た水溜りを拭こうと台所に布巾を取りに行く。
台所から戻って来ると、雪ウサギは炬燵のコードをガジガジと噛んで遊んでいた。
「こ、コラッ! ヤメロッ」
慌てて叱ったが、時すでに遅し。
コードを噛み切った雪ウサギの体が鼻先から尻尾にかけて、ビビビッ、と痙攣した。
流石の雪ウサギも感電は恐ろしかったらしい。羽瀬が絶縁テープで繋ぎ直したコードを遠巻きに眺めているが、近付こうとはしない。
「お前、今日はもう寝ろ。俺もいい加減疲れた」
羽瀬に捕まえられ、盆に載せられても大人しくしている。冷凍庫の扉を閉める寸前、雪ウサギがふわ〜っとアクビして体を丸めるのが見えた。
(To be continued)




