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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
59/123

氷魚(後編)

    7


 夏が過ぎ、稲穂が黄金色に色付いても、父は帰らなかった。やがて空を舞う粉雪が全てを覆い隠し、そして再び春が訪れる。穏やかな温もりと共に流れ出す雪解け水に、修造は幾度も氷魚の影を視た。けれども、もうそれを追うことはなかった。

 流れ、巡る季節の中、やがてその透明な影はますます淡く、儚くなり、そしていつの日かそれを目にすることも無くなった。それはまるで、帰らぬ人の面影がぼんやりと掠れ、その声も、微笑みも、自分の肩に置かれた手の重みすらも遠く霞むように。

 しかし眼に見えないからと言って、その存在が消えるわけではない。見えないからこそ余計に重く、まるで深い淵に沈む澱のように、それは心の底に(わだかま)る。



「修造、夕飯食いに行くぞ」

 一日の仕事を終え、汗を拭っていた修造の肩を陽に焼けた男が叩いた。

「給料が出よったで、今晩は儂の奢りや」

「おっちゃん、そない言うたかて、給料出たんは皆同じやろうが」

「あほう、目上のもんが奢ってやるって言うとるんやで、若いもんは黙って奢られとればええんや」

「……おっちゃん、昨日の博打で儲けたんか?」

「何のことや?」

 とぼける男を見て、修造が溜息を吐いた。

「あんま無茶しよると、おばちゃんに怒られるで?」

「修造は若い癖に堅くていかんの」

 がっちりと筋肉質で背の高い修造の肩に無理矢理腕をまわし、ガハハハ、と男が笑った。

 出稼ぎと言っても、修造の村の者は個人的に仕事を見つけるわけではない。稀にそうする者もいるが、大抵は経験豊富な村のリーダー格の者や世話役が仕事を探してくれるのを頼り、同郷の者達と寝食を共にし、そして共に働く。

 学校を卒業すると同時に冬場の出稼ぎに出るようになった修造は、同年代の若者と違い、都会に何の魅力も感じなかった。贅沢な暮らしを羨ましく思わないと言えば嘘になるが、しかし修造は博打にも女にも興味がなく、何かを欲しいと思うこともなかった。

 そんな修造が、今年は他の者が村に帰ってからも独り都会に残って稼ぎたいと打ち明けると、世話役をしている村の男は少し驚き、そして複雑な色をその目に浮かべた。

「夏に一番下の妹の結納があるんですよ。たいした事はしてやられへんけど、まぁそれでも花嫁道具くらい用意してやりとうて。田植えやら何やらは弟たちに任せても大丈夫やろうし」

「ほうか、あき子ちゃんももうそないな歳か。そりゃあ目出度いことやの。しっかりしたええ兄さんがおって、あき子ちゃんは幸せもんや」

 理由を聞いた世話役は途端に愁眉を開き、分厚い手で嬉しげに何度も修造の肩を叩いた。しかし彼が話を聞く直前に一瞬だけ見せた不安気な眼差しは、修造の胸に小さな棘のような痛みを残した。

 過去というものは薄れはしても、決して消え去りはしないのだろう。忘れた頃にふと蘇るそれが疎ましい。しかし最も忌々しいのは、未だにそんな人々の視線に痛みを覚える自分自身だった。

 同郷の仲間が街を去った後も、修造は黙々と働き続けた。 そして一日の終わりには路地裏の大衆食堂で独り夕飯を掻き込む。新しく知り合った仕事仲間に飲みに行こうと誘われることもあったが、大抵は断った。人嫌いというわけではないが、修造はどちらかと言うと寡黙で、余計な人付き合いは肩が凝る。無理に他人に合わせるよりは、行きつけの店の片隅で、窓越しに道行く人々を眺めている方が気が楽だった。

 華やかな都会のネオンの中、色とりどりに着飾った男女が楽しげに笑いさざめきながら、夜の街をゆく。修造にとって、彼等は異世界の住人だった。店のくすんだ硝子越しに目の前を次々と通り過ぎてゆく彼等を眺めるのは、水族館に泳ぐ熱帯魚を眺めるのに似ている。

 ガタガタと音を立てて隣のテーブルの椅子が引かれ、汚れた作業着姿の初老の男が座った。街のネオンに煌めく窓硝子に映るその横顔は生気に乏しく、人生に疲れ切ったように丸められた背中に自身の行く末を見た気がして、修造が慌てて目を背けた。

「御注文はお決まりですか?」

「……(さわら)と……熱燗」

 男が口にした「鰆」という言葉の抑揚に、思わず酒を口に運ぶ手を止めた。僅かに尻下がりのその優しく独特な抑揚は、修造の故郷のものに近い。ちらりと横目で男を見て、ふと苦笑する。見知らぬ男の訛りに懐かしさを覚えるとは、自分はなんだかんだ言ってもやはり人恋しいのだろうか。

 人は誰も無条件に己の存在を信じられるほどには強くはない、と言ったのは誰であったか。都会の華やかなネオンは灯に群がる蛾のように人を惹きつける。しかしその無数の人の群れの中、寄り添う者もなく独り佇む己の影は、あまりにも曖昧で、頼りなく揺らぎ、胸の奥底に暗い不安を掻き立てる。

 けれども自分には帰るところがある、と理由の無い不安に襲われる度に修造は己に言い聞かせた。自分には、懐かしい故郷と自分の帰りを待つ人々がいる。俺は決して独りなどではない。



 食事を終え、酔いを醒まそうと店を出ると、修造は足元を僅かにふらつかせながら新鮮な空気を求めて海辺へ向かった。と、先程店で見た男が独り、沖を見つめて浜辺に佇んでいた。

 同じ訛りを持つ者への勝手な親しみを感じ、修造が何気無く男に近付いた。

「すんません、火ぃくれませんか?」

 振り返った男は少し驚いたように目を瞠り、しかし無言で頷くと懐から出したマッチを擦った。マッチが湿っていたのか、男の手が震えていたせいか、火は中々点かなかった。ようやく点いた火で一服すると、修造は(いさ)り火の点々と焚かれる沖を眺めた。暗い水に滲む漁り火は、夜空から堕ちた星のようにどこか遠く、儚い。

「もうこの街に出稼ぎに来るようになって何年にもなりますが、こないにのんびりと夜の海を眺めるのは初めてですわ。ええ景色や思いますけど、俺には街の水は合わんかって……春が来て故郷に帰るたびにホッとしますよ」

 躰の芯に残る酔いのせいか、いつになく饒舌な修造の言葉に、男はただ無言で頷いた。修造が口を噤むと、ひと気の無い海辺には気怠く繰り返す静かな波の音だけが響いた。


 孤独は海の波に似ている、と言った黒髪の少年の静かな微笑みが胸を(よぎ)る。

 孤独は繰り返し浜に打ち寄せ、岩壁を削るこの波のように、人の心を削り、その存在を蝕む。冷たい潮風と、単調に繰り返す波の音に、指先が痺れた。


 男に別れを告げて立ち去ろうとした時だった。

 無言で海を見つめる男の頬に光るものを見て、修造が驚いて思わず足を止めた。

 自分が何かおかしな事を言ったのだろうか。それとも他人の目も気にせずに夜の海で泣きたくなるような、余程の事があったのだろうか。どちらにしろ事情を知らぬ自分が無遠慮に声を掛けるのも躊躇われ、しかしそのまま立ち去るのも忍びなく、困った修造は男から海へ、そしてまた男へと落ち着きなく視線を彷徨わせた。やがて雲の切れ間から覗く朧月がぼんやりと辺りを照らし、その鈍い光の中、男が手に握り締めている物が不意に目に入った。

 その色に見覚えがあった。澄んだ淵の水が不意に掻き乱され、底に沈む澱が水を濁らすような不快感に足元が揺らいだ。男の手の中の、古びた手漉き紙の燻んだ茜色がじわりと滲み出て、視界を赤く染める。以前にも一度同じ色を見た。あの日、純粋さと、信頼と、友を失い、子供時代が終りを告げた日。

 眩暈がする。無言で頬を濡らす男の姿に、その惨めで薄汚れた哀れな姿に吐き気を催す。辛うじて男を殴りつけるのを堪えたのは、唯、そのシミの浮いた薄汚い躰に触れたくなかっただけだ。

 これが偶然であるわけが無い。男は俺が誰か知っていて、わざと俺の行きつけの店に現れ、俺の隣に座ったのだろう。しかし男は俺に声を掛けずに店を出た。路地裏から人の様子を窺う臆病な鼠のように、コソコソと隠れて俺を見ていただけだ。浜で出会ったのは確かに偶然だったが、こいつはその偶然に(かこつ)けて、俺の前で花栞をチラつかせた。正面から俺の眼を見る勇気も無い癖に。

 何故俺の前に現れたのかと、今更おめおめとその顔を家族の前に晒して赦されるなどと思うなと、お前には矜持というものは無いのかと、唾を吐きかけ、恨みと言葉の限りに男を罵り、(なじ)ることも出来る。いや、それよりも、唯無言で踵を返したほうがいい。お前など塵芥以下であり、その存在すら認めはしないと、無言の内に教えてやるほうがいい。

 震える拳を握り締めて硬く瞑った瞼の裏を、艶やかな黒髪を風に靡かせ、遙かな空を見つめる少年の姿が(よぎ)った。

 ──煉。

 あいつは何故今頃、この男を俺の前に連れて来たのだ。何故今更、この男を見つけたのだ。俺の人生に於いて、最も不必要で忌まわしい人間を。

 煉は俺を試しているのだろうか。

 母は帰って来た男を見て何と言うだろうか。彼女はきっと、驚き、呆れ、泣き、そして許すのだろう。そう、彼女は許す。そして歓ぶ。

 母の顔を想像した途端に、不快な嗤いがふつふつと腹の底から湧き上がってきた。その嗤いの毒が身の内を黒く染めてゆく。

 悩むまでもない。俺は、自分達を棄てた男を見て歓ぶ母の顔など見たくはないのだ。感涙に噎ぶ母の姿を自分が純粋に喜べるとは思えなかった。何故ならそれは、彼女の、いや、自分の悲しみや怒りの意味を無とすることだから。己が今まで何の為に苦労し、我慢してきたのか、わからなくなるから。そんなことを許すことは出来ない。それでは、独りで肩肘を張って生きてきた自分が、この男の血を引くことで周囲に蔑まれないように、この男の不誠実さを補って有り余るほどの誠実さを自身に求め続けた自分が、余りにも愚かで、哀れではないか。


 愚かであってもいい。しかし己が哀れであるなどと、認めるわけにはいかなかった。


 修造は無言で踵を返し、男に背を向けて歩き出した。

 冷たい潮風が目に沁みる。キシキシと、波に濡れた砂が足元で泣いた。



    8


 早朝に目覚めた修造が、家人を起こさぬようそっと家を出た。久し振りに帰った故郷で、家の前を流れる川を独りぼんやりと眺める。澄んだ山の空気は春の温もりを歓迎する無数の生命のざわめきに満ち、田植えの終わった青い水鏡を春風が揺らす。しかしいくら待っても、あの透明で儚い硝子細工のような氷魚の影を見ることは出来なかった。当たり前だ。自分は最早、春を心待ちにする少年ではないのだから。

 思えば少年時代とは夢幻のようなものだ。一瞬にして過ぎ去り、二度と還らない。人は誰も、(とき)をその手に捉えることは出来ない。

 氷魚はいない。

 あの懐かしい日々は還らず、あの無垢な少年(じぶん)は、もう何処にもいない。

 穏やかな諦めが、透明な雪解け水のように胸の内を満たす。しかしふと屈んで手を触れた山の春の水は、都会の水に慣れた手には刺すように冷たかった。

 家へ戻って朝餉を済ますと、修造は旅行鞄を押入れに片付けた。それは思い出したくもない過去を心の隅に押し隠すのに似て、これで秋が過ぎるまでこの古びた鞄を見ることも無いと思うと、どこかほっとした。

 部屋に吹き込む柔らかな春風にふと顔を上げると、寝間の窓に近い木の枝に、なにやら茶色く萎びた実のようなものが幾つも紐でぶら下げられているのが目に入った。

「おう、あき子、何や、そこにぶら下がっとるキタネェもんは?」

「あら」

 廊下を通り掛かったあき子が修造の指差す先を見て笑った。

「烏瓜。冬にお姉ちゃんの子が来た時に一緒に遊んどったんやけど、片すの忘れとったんやわ」

「……烏瓜やと? なんでそんなもん、こんな所にわざわざぶら下げとるんや」

「兄ちゃんったら、憶えとうへんの? 昔、ようやってくれたやん。烏瓜のランタン」

「何やそれは?」

「ほら、お父ちゃんが帰ってこんようになって、夜さみしゅうて、私が布団の中で泣いてたら、兄ちゃんが窓の外に吊るしてくれたやん。烏瓜の実を動物やら人の顔やらの形にくり抜いて、中に火を灯して……烏瓜の赤い色が透けて、ちらちら光る火が(ぬく)そうで、それを見ながら眠るんが好きやったわ。でもホンマ、兄ちゃんは器用やなぁ。自分でやっても、あんな上手いことよう作れれへんわ」

 にこにこと楽しげに思い出を語る妹を前にして、修造はむっと押し黙った。烏瓜のランタンなど、そんな小器用なモノを作った覚えは無い。それは修造ではない。それが誰の手によるものか、何と無く想像がつく気がしたが、しかしそれ以上は考えたくなくて、修造は窓から目を逸らした。

 窓から手を伸ばして萎びた実を結ぶ糸を切っていた妹が、ふと微笑み、「誠の実」と呟いた。

「……誠の実?」

「兄ちゃん、ずうっと前、烏瓜の花をくれた男の子、憶えとる?」

 不意に妹の口から出た言葉にどきりとした。一方的に貶し、殴りつけ、以来二度と会う事もなかった少年の艶やかな黒髪が瞼の裏を過る。修造が無言で頷くと、あき子が僅かに首を傾げ、懐かしげに微笑んだ。

「なんや不思議な子ぉやったね。顔もなんも憶えとおへんのやけど、でもあの子が言うたんよ。烏瓜の花言葉は『良い便り』……それと『誠実』やって」

 何を思い出したのか、あき子がくすくすと笑った。

「ほんでな、あの子、お兄ちゃんは烏瓜に似てるって言うたんよ。(かと)うて、カラスもよお食べへんくらい不味いんやけど、でも誠実やって」


 妹の何気無い言葉に、兄を信じ切ったその純粋で優しい眼差しに、不意に細く鋭い痛みを覚えた。冷たい手で胸の内を撫でられたかのような後ろめたさに、妹の顔を見ることが出来なくて、思わず唇を噛んで目を逸らした。しかし幾ら目を背けようと、決して消えることの無いひとつの疑問が胸に湧きあがる。


 ……俺は誠実なのだろうか。


 修造を知る者は皆、口を揃えて言うだろう。修造は真面目で正直で誠実だと。そして口々に褒め称えるだろう。如何に修造が働き者なのか。如何に修造が家族想いなのか。如何に修造が信頼に足る青年なのか。若いのに大したものだと。とてもあの父親の息子とは思えないと。家族と故郷を棄てるような男の血を引いているとは思えないと。

 当たり前だ。そう思われるように、片時も気を緩めることなく努力し続けてきたのだから。人々にそう思われるように、己でさえもそう思い込ませるように。

 そう、それは最早努力ですらなく、周囲のみならず、己をも欺く完璧な演技──


 本当は、怖かったのだ。

 信じていた者に裏切られたという悲しみの底に黒々と横たわるのは、自分もいつの日か愛する者達を裏切り、全てを棄てて逃げ出すのではないかという恐怖だった。それは決して根拠のない恐怖などではない。家族を守りたいと願い、しかし同時に長兄としての責任を負う両肩が潰れそうに痛み、自分が生きる狭い世界と、自分を見る弟妹達の頼り切った眼に息苦しさを覚えた。

 自分の中に潜む仄暗い想念の存在を認めることが出来ず、その影に怯えた。幾ら目を逸らしても心の奥底に見え隠れする己の不誠実さが疎ましく、うしろめたかった。気を緩めれば、自身の内に渦巻く薄汚い何かに呑み込まれそうで、恐ろしかった。

 俺は、父がいなくなったあの日から、ずっと怯えていたのだ。父を許さず、その罪を永遠に罰することで、俺は己の内に潜む闇から目を逸らそうとしていたのではないだろうか。人の弱さを許せないのは、己の弱さを認めたくないからではないのか。


 漆黒の闇に仄かに光る白い花を想う。

 艶やかな黒髪を夜風に揺らし、少年は言った。「俺が届ける」と。その全てを見透かすような深く透明な眼差しに、修造は悟った。


 煉は俺を試したのではない。あいつは、唯、遠い日の約束を守ったのだ。唯ひたすら、愚かしいほど律儀に、馬鹿正直に、誠実に──


「兄ちゃん、どないしたん?!」

 押入れに仕舞った鞄を取り出し、無言で身の回りの物や着替えを放り込み始めた修造を見て、あき子が目を見張った。

「どうもせん」

「どうもせんって……」

「心配すんな。すぐ戻る」

「すぐ戻るって、昨日帰ってきたばっかりやん! 一体どこに行くん?」

 心配そうに家の外まで追いかけてきた妹の頭を幼子のようにくしゃりと撫で、修造が大きくひとつ深呼吸して微笑んだ。

「……春をつかまえに」

 不意に目の端で何かが光った。

 冷たい雪解け水から躍り出た透明な影が雫を煌めかせ、春の陽光に解け、消えた。


 氷魚が春を呼ぶ。



 (END)

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