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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
58/123

氷魚(中編)

    4


 翌朝。修造が一人で山を歩いていると、風も無いのにハラリと木の葉が一枚降ってきた。続いてコツリと青い木の実が頭に当たる。訝しげに見上げた頭上の樹の枝に、煉が逆さにぶら下がっていた。

「……何やっとんじゃ、お前は」

 呆れて溜息を吐いた修造の前に、煉がくるりと綺麗なとんぼを打って着地した。修造も身は軽い方だが、煉の動きはハッキリ言って人間離れしている。

「シュウこそ一人でどこに行くのさ」

「……別に。俺がどこに行こうと、お前には関係ないやろうが」

 修造がぶっきらぼうに答えてソッポを向いた。

「ふ〜ん」

 何やらにやにやと笑う煉に背を向けて歩き出そうすると、煉が不意に「今行っても見つからないよ」と言った。

「……何がや」

「烏瓜の花。あき子ちゃんにあげたいんでしょ? でもこんな昼間には見つからないよ。烏瓜は夜に咲くんだから」

 図星だったものの、男ともあろう者が花を探しにわざわざ山に来たなどと認めるのが何と無く体裁悪く、無言で口を尖らせた修造に煉が屈託の無い笑みを向けた。

「そもそもシュウって烏瓜の花とか見たことないんじゃないの?」

 それはまぁそうだ。晩秋になれば葉の落ちた枝に赤く色づいた烏瓜の実を見るのも珍しくはないが、言われてみれば花を見た記憶はない。そもそも修造は花などにはあまり興味がないのだ。

「良かったら探すの手伝うよ。夕方に祠の前で待ち合わせしない?」

「……まぁ、そういう事なら助かるわ。悪いの」

「どういたしまして」

 煉はおどけた仕草で敬礼すると、地面を軽く蹴って頭上の枝に飛びついた。その重さで(しな)った枝の反動を利用して、更に上の枝に飛び乗り、あっという間に姿を消した。

「なんや、ほんまに猿みたいな奴やな」

 猿というより鬼っ子か、山姥の子かも知れない。しかし別に牙があるわけでもないし、悪い奴ではないのだろう。


    ❀


 日が暮れかけた頃、修造が山へ戻って来ると、煉はすでに祠の前で修造を待っていた。

 茜色の夕風に、煉の黒髪が柔らかに光る。男の癖に無駄に綺麗な髪の奴……などと思いつつ声を掛けようとした時、一瞬、ヒトの話し声が聞こえた気がした。しかし辺りを見回しても、そこには煉しかいない。修造の気配に気付いたのだろうか。振り返った煉が、目を細めて手を振った。

「煉、お前、今なんや独り言を言っとったやろ?」

「え?」煉がキョトンとした表情で目を(しばた)かせた。

「あんな、独り言はあんま言わんほうがええんやで。夜中に独り言をゆうと、鬼や霊が答えよったりするんやで」

「は? 何それ、夜中に口笛を吹くと蛇が来る的なヤツ? シュウってば意外に迷信深いんだね」

 きゃはははは、と愉快気に笑う煉を、修造がじろりと睨んだ。

「暗い山ん中で独りで喋っとる奴なんて、気味が悪いやろうが!」

「迷信深い上に神経質だなぁ。おまけになんかクチウルサイし。シュウの弟妹達に同情するよ」

 無言で振り上げた修造の拳を、煉が笑いながら避ける。

「ま、そんな事より、烏瓜の花を探しに行こうか」

 目に掛かる乱れ髪をさらりと掻き上げ、煉が立ち上がった。

「烏瓜の花ってどんなんや?」

 いつの間にやら辺りはすっかり暗くなり、隣を歩く煉の顔すらよく見えない。山に慣れている修造ですら木の根や蔦に足や腕を引っ掛け、度々転びそうになる。

「えっとね、白くて、五〜六枚の花ビラの周りに、絹糸で編んだレースの飾りみたいなのがついてるんだよ。蕾が綻ぶにつれて、その長い房飾りがふわふわ広がっていくんだ」

「ふ〜ん……」よく分からない説明だ。とりあえず、烏瓜の蔓が絡んでいそうな木の枝に、白い蕾がないか探してまわるしかない。星明かりを頼りに修造が樹々見上げ、闇に目を凝らした。

「昼間にちょっと探してみたんだけどさ、この辺の山ってあんまり烏瓜がないんだよね」

 余程眼が良いのだろうか。煉はまるで真昼間の平らな道でも歩いているように、決して躓くこと無く悠々としている。そもそも煉は夜の獣のように気配が少なく、足音も殆ど立てない。煉のいる方角から聞こえてくるのは、くちゃくちゃモグモグと何かを食べるような音だけだった。

「煉……お前、さっきから何食いよるんや?」

「え? 何って草団子だけど、シュウも食べる?」

「お、お前それ……!」顔の前に差し出された団子を見て修造が目を剥いた。「川向こうのばあちゃんが祠に供えよったヤツやんかっ! 山の神さんのモンなんかに手ぇ出しよって、バチ当たるぞっ」

「大丈夫だよ……って、シュウ、どこ行くの?」

「帰るんじゃ。ついてくんな」

「烏瓜は?」

「自分で探す」

「だけどアレって夜にならないと咲かないから、シュウ一人じゃ見つからないよ?」

 振り返った修造が肩越しに煉を睨んだ。

盗人(ぬすっと)の助けなんかいらん」

「は? 盗人って俺のこと?」

「ほかに誰がおるんやっ?! 俺は御供えモン盗むような奴とは付き合わん!」

「盗んだんじゃないよ、いっぱいあるから、少しわけて貰っただけだよ」

「知っとるか、煉。そんなんはな、盗人にも一分の理って言うんやぞ」

 煉が少し驚いたように目を瞠り、続いてぷっと吹き出した。

「何がおかしいんじゃっ」

「だってさぁ」ククク、と煉が腹を捩るようにして笑う。「ホントだよ、俺は盗んだわけじゃない。祠の主が、『沢山あるから少しやる』って言ったんだよ」

「嘘こけっ! なんで祠の主がお前にそないなこと言うんやっ?! そもそもそんなもん、どこにおるんや?!」

「どこって……そこ」

 煉が修造の背後を指差した。生温かい夜風が誰かの吐息のように首筋を撫で、不意に背中に視線を感じた。ひやりとして慌てて振り返ったが、煉の指差す先には星明りにぼんやりと光る白っぽい岩がひとつあるだけで、何もいなかった。

「お、脅かすなやっ、ナンもおらんやんかっ」

「ふ〜ん」

 煉が僅かに首を傾けると、口の片端を吊り上げるようにしてニィと笑った。

「シュウは氷魚は視えるのに、コレは視えないんだ」

「……お前なぁ、さっきも言うたやろうが。あんま気味の悪いことばっかり言うなや。嫌われるで、ホンマ」

「迷信深くて神経質で口煩くて、おまけに怖がりなんだ?」

 修造が無言で踵を返しかけた時だった。

「あっ、烏瓜! 見つけた!」

 不意に煉が谷底を指差した。

「なに?! どこや?!」

「ほら、あそこの、崖の途中に生えてる木に白い蕾が見えるでしょ?」

 崖の端から深い谷底へ恐る恐る身を乗り出すと、確かに五〜六メートル程下の崖の窪みにしがみ付くようにして生えた灌木の枝に、蔓が絡まり、白い蕾が幾つか付いている。

「あれならきっと今晩中に咲くよ」

 そう言うなり、煉が谷底へ身を踊らせた。

「アホウッ」と叫び、修造が咄嗟に煉のシャツの首を掴んで後ろ向きに引きずり倒した。

「アホがっ、お前、何考えとるんや?! こないな崖、命綱も無しに降りよったら、命がいくつあっても足らへんやろうがっ」

「え〜、これくらい大丈夫だよ」

 喉元を締められゲホゲホと咳込みつつ、煉がおどけた仕草で肩を竦める。

「どこがやっ?! こんなもん、足でも滑らせよったら、大怪我どころかフツーに死ぬやろうが?!」

「あ、俺って不死身だから大丈夫」

「あかんっ! あかん言うたらあかん! 絶対にあかんっ! 烏瓜なんか、わざわざあんな所に生えてるもん採りに行かんでも他に幾らでもあるやろうがっ」

「せっかく見つけたのに……」

 不服そうに口を尖らせる煉を逃がさぬようシャツの端を掴んだまま、修造が崖に腹這いになって眼下の宵闇にぼんやりと浮かぶ白い蕾を覗き込んだ。

「烏瓜の花は夜に咲いて、朝が来る前に萎んじゃうんだ」

 下に降りるのを諦めたらしい煉が、修造の横に腹這いになった。


 東の空にかかる月が、ゆっくりと夜空を昇り、山を隅々まで照らし出す。ほろほろと零れる月の光に、白く柔らかな花弁がゆるゆると花開く。五弁の小さな星のような花は、絹糸で編んだレースのような縁飾りを少しずつ広げてゆく。淡く、儚く、音も無く咲き零れるその花の美しさに、修造は時が経つのも忘れて陶然と見惚れた。


「……この花が、ええ便りを届けてくれるんか?」

 煉が無言でちらりと修造を見遣った。

「あき子は甘ったれや。父ちゃんが帰ってきよるんを、毎晩待っとる」

 あき子だけではない。幼い弟妹達は皆、首を長くして父の帰りを待っている。母も、祖父母も、そして修造自身も。この闇に浮かぶ白い花がもたらす便りを、俺たちは皆──

「俺が届けるよ」と不意に煉が言った。「約束するよ。俺が必ず届ける」

「……煉、お前、俺がおらんくなったら、崖を降りたろうとか思っとるんとちゃうやろな?」

 修造にジロリと睨まれ、煉があらぬ方に視線を漂わせる。

「言うとくがな、あそこの花やったら俺は絶対にいらんぞ。お前がアレを採って来よたって分かったら、絶交やからな」

「も〜、シュウって融通が利かないなぁ。ちょっと真面目過ぎるんじゃない? もうちょっとリラックスしないと、人生疲れるよ?」

「こんなもん、融通とかいう問題ちゃうわっ」

「わかったわかった」煉が仕方無さそうに肩を竦めた。「約束する。あそこの烏瓜だけは採らない」

「絶対やな?」

「絶対……なんなら指切りする?」

 顔の前に差し出された煉の小指を見て、修造が顔を顰めた。

「アホか。オトコの約束に指切りなんかいらんわ」

 楽しげな煉の笑い声が、闇に淡く光る白い花弁を揺らした。


    ❀


 煉は約束を守った。

 あき子の誕生日の前夜、煉が窓辺に届けた無数の烏瓜の花は、白く柔らかに宵闇に咲き乱れ、一晩中家人を楽しませた。



    5


 それは真夏の酷く蒸し暑い夜のことだった。ねっとりと湿り気を帯びた空気に息が詰まり、中々寝付かれず、修造は蚊帳の中で何度も寝返りを打った。ようやく少しウトウトしたかと思えば、重く湿った闇の中で何かを叩き潰す夢を見た。赤黒く染まった両手に息を呑む修造の耳許で、誰かがつん裂くような悲鳴を上げる。ぞっとして目覚めれば、悲鳴かと思ったのは闇を掻き乱す夜蝉の鳴き声だった。

 恨みがましい溜息と共に眠るのを諦め、冷たい水でも飲んでこようと立ち上がる。薄い掛け布団を蹴散らかし、あちらこちらに寝相悪く転がっている弟妹を踏まぬよう、足音を忍ばせて部屋を出た。

 廊下の向こうで人の話し声がしたような気がしてふと振り返ると、居間の襖の隙間から明かりが漏れている。こんな夜更けに訪ねてくるとは、一体誰だろう。襖に手を掛けた時、「雄造」と漏れ聞こえた父の名に心臓が早鐘を打った。

 襖から手を離し、息を潜め、切れ切れに聞こえる会話にそっと耳を澄ませた。

「……町で……声を掛けたが……逃げるように……」

 重苦しい咳払いと共に、低い声がぼそぼそと何事かを語る。続いて聞こえてきた言葉に、修造は思わず目を瞑った。

 町、博打、借金、女、行方知らず。

 マチ、バクチ、シャッキン、オンナ、ユクエシラズ、マチバクチシャッキンオンナユクエシラズバクチオンナバクチオンナバクチ……


「……兄ちゃん」

 不意に背後から掛けられた声に、修造がびくりとして振り返った。年の離れた弟妹達が、廊下の隅に肩を寄せ合い、巣で親を待つ雛鳥達のように遠慮勝ちに修造を見上げている。

「父ちゃん、いつ帰ってくるん?」

「……父ちゃんは……」

 耳の奥で繰り返す無機質でおぞましい言葉の羅列に眩暈がする。船酔いでもしたかのように自分を襲う吐き気を堪え、修造は弟妹達の不安げな瞳を見返した。目を逸らしてはならない、と思った。今、自分が目を逸らせば、弟妹達は自分の中に潜む不安を瞬時に読み取り、怯えるだろう。

「……父ちゃんは、まだしばらく帰って来られへんかもしれん。町でええ仕事が見つかったで、もうちいと頑張って稼ぐんやと」

「父ちゃん帰ってこおへんの?」

「アホウ、泣いとる暇なんてあらへんで」

 修造が鼻の頭を赤くした妹のおかっぱ頭をくしゃくしゃと撫でた。

「父ちゃんがおらんかったら、お前らぁも田んぼの草引きやら母ちゃんの手伝いやら頑張らんとあかん。父ちゃんは俺らぁの為に町で独りで頑張っとるんやで、心配かけたらあかんで?」

 自分の言葉に懸命に頷く幼い弟妹達の姿に、修造はそっと唇を噛んだ。無理矢理作った笑顔と共に口にした言葉が、舌にざらりとした苦味を残す。

 それは、修造が生まれて初めてついた嘘だった。


    ❀


 真夜中、皆が寝静まった家をそっと抜け出し、修造は山へ登った。そして月明かりを頼りに崖に咲く烏瓜を探すと、その白い花が音も無く咲き溢れてゆく様を見つめた。

 かさり、と下草をふむ柔らかな足音がして、誰かがそっと隣に座った。

「花言葉なんて嘘っぱちや。良い便りなんて、なーんも()おへんかった」

「……ごめんね」

「なんでお前が謝るんや。こんなもん、お前のせいとちゃうやろうが」

 隣に座った少年を振り返り、修造が呆れたように笑った。


「俺は大人になって、学校を出るのが待ちきれん。そしたらナンボでも金稼げるし、母ちゃんにもラクさせてやれるやろうし」

 皆が寝静まった夜、手のアカギレにクリームを塗る母の背中を想う。父が土産に買ってきたクリームを、それはそれは大切そうに、勿体無さそうに、母は少しづつ使う。もっとたっぷり塗らないと意味が無いのではないかと修造はいつも思う。けれども荒れた指先にクリームを塗る母の横顔は、幸せそうに輝いていた。


「それに大人になったら自由や。自由に、いろんなところに行ける」

 本当は知っている。大人になっても自由なんてない。肩に次々とのし掛かる責任と言う名の枷に囚われ、俺はきっと死ぬまで馬車馬のように働き続けるのだろう。老木の枝のように節くれ立ち、箸を持つのも儘ならぬほどに歪んだ祖父の手を想う。あれは俺の手だ。俺の指もいつか動かなくなる。そして動かない指で、俺は働き続ける。


「あぁ、早う大人になりたいわ」

 嘘だ。大人になんてなりたくはない。自分の帰りを待ち望む人々の心を踏みにじるような、誠実さの欠片もない、そんな大人の仲間になんてなりたくなかった。


 ……だけど俺は逃げない。

 ギリギリと音がするほど強く奥歯を噛み締め、修造が暗い夜空に瞬く星を睨んだ。俺は、家族を守ってみせる。何があっても、何を犠牲にしようとも、決して逃げたりはしない。

「……シュウ」

 呼ばれて振り返ると、煉の穏やかな眼差しがじっと自分を見つめていた。

 あのね、と煉が囁く。「泣きたければ、泣いてもいいんだよ?」

「アホか」と吐き捨てるように言って、修造が鼻を鳴らした。「俺は物心ついた時から一度も泣いたことがないのが自慢や。長男やからの、泣いとる暇なんかあらへん」

「……シュウ」

「なんや。慰めなんか要らんぞ」

「そうじゃなくってさ」煉が懐からゴソゴソと何か取り出した。「コレ、お腹空いてない?」

 淡い星明かりの下、目の前に差し出されたモノを見て、修造が鼻に皺を寄せた。

「……煉。お前、また性懲りもなくこんなもん掻っ払ってきよったんか」

「違うよ」煉がクスクスと笑った。「祠の主がね、シュウがお腹空いてるかも知れないからって、ひとつ分けてくれたんだよ。つまんない気分の時は甘いモノが一番なんだってさ。祠の主のせっかくの好意なんだし、意地張らずに半分こしよ?」

 山の神の好意と言われては無下にもできない。半分に割られた饅頭を渋々受け取る。煉の手で温められた饅頭はほっこりと柔らかく、どこか懐かしく、甘く優しい味がした。



    6


 父の不在とその理由が織り成す暗い影は、日が経つにつれて徐々に現実味を帯びてきた。狭い田舎では噂が広まるのは時間の問題だ。自分達家族に向けられる憐れみと好奇心の混ざった視線。自分が通り掛かった途端にぴたりと止む会話。何やら困惑したように自分から目を逸らす人々。その全てが、自分達が平和で静かな村に混じる異物と化したことを修造に思い知らしめた。

 屈託の無い笑顔や、何気無い挨拶にすら裏があるような気がして、居た堪れなかった。無性に悔しくて、溺れかけたように息が苦しくて、まるで一糸纏わぬ姿で公衆の面前に立たされているように恥ずかしい。

 誰も自分のことなど知らない場所へ逃げ出したかった。しかし山奥の狭い村に逃げ場などない。修造に出来ることは、唯、無言でじっと耐え忍ぶこと、それだけだった。



 そんなある日のこと。

 重い息を吐きつつ学校から帰って来た修造が裏木戸の前でふと顔を上げると、田んぼの畦道に見知った小さな背中がしゃがみ込んでいた。弟の正太だ。

 しゃがみ込んだ弟の足元の地面を、大きな黒い虫がゆっくりと歩いている。あれは正太が大切にしているオオクワガタだろう。朽木の隙間で見つけたオオクワガタの幼虫を、虫好きの正太は見事成虫まで育て上げた。修造の助けがあったとは言え、それは簡単な事ではない。

「父ちゃんが帰ってきたら、見せたるんや」と得意げに頬を紅潮させていた弟の笑顔を思い出し、胸の奥がつきりと痛んだ。修造が弟に声を掛けようとした時だった。

 弟が不意に手元の大きな石を掴んだ。

 止める間もなく振り下ろされた石の下で、艶やかな甲冑が潰れ、茶色い汁が飛び散った。大切に、宝物のように、丹精込めて育てたソレに向かって、幼い弟が何度も何度も石を叩きつける。

「正太ッ! 何やっとんのやお前はッ?!」

 振り返った弟の顔は蒼白だった。自分に駆け寄って来る兄の姿を認めた瞳が不意に潤み、しかし次の瞬間、激しい怒りと恥辱にその頬が赤らんだ。

「正太ッ」

 顔を真っ赤にして一目散に逃げ去る弟を追うことは、修造には出来なかった。

「……哀れなもんやのう」

 背後からの声に振り返ると、隣家の老人が顔を顰め、駆け去る弟の後ろ姿を眺めていた。潰れた虫の死骸に視線を移し、老人が溜息と共に首を振った。

「借金なんぞこさえて、女と逃げよるようなロクデナシを父親に持ったんが運の尽きや。子供らぁがとんでもない穀潰しになっても、儂は驚かんで」

 老人の言葉が錐のように胸に突き刺さる。幼い弟に一体何の非があると言うのか。自分が何をしたと言うのだ。何故、俺達がこんな事を言われねばならぬのか。

 しかしこれが現実だ。狭い世界に生きる者には、一度貼られたレッテルを剥がすことは難しい。

「……おいちゃん」

 じろりと自分を睨む老人に向かって、修造が深々と頭を下げた。

「うちのガキ共がなんぞ迷惑でも掛けよったら、幾らでも叱ってくれてかまへんし、文句なら俺が幾らでも聞く。せやけど、お願いやから、父ちゃんの事だけは、あいつらには言わんといて下さい」

 顔を上げた修造の、全ての感情を押し殺し、強い決意を秘めた眼が、真っ直ぐに老人の目を見返した。

 ──この狭い世界に逃げ場など無い。 ならば、此処に生きる自分に出来ることは唯ひとつ。それは、他人に後ろ指を指される事などひとつもないと、こちらを嗤った相手が恥ずかしくなるほどに真っ直ぐに、背筋を伸ばして生きることだった。



 老人が去った道端で、修造は独り黙々と潰れた虫の屍を片付けた。畠の隅にそれを埋め、バケツに汲んだ水で茶色い染みを洗い流す。少し迷ったが、今はそっとしておいてやるべきだと考え、弟を探しに行くのは諦めた。ただ、帰って来た弟に屍を見せて傷を抉るような真似だけはしたくなかった。自分達は皆、既に充分に傷ついているのだから。

 夏の陽射しで生温くなった川の水で手を洗い、疲れた足取りで家へ帰る。鉛でも飲んだように体の芯が重く、息をするのでさえ億劫だった。

 裏木戸を開けて庭に入ると、縁側で妹と煉が肩を寄せ合うようにして何かに没頭している。

「お前ら、何しとるんじゃ」

「兄ちゃん」

 顔を上げたあき子が頬を紅潮させ、裸足のまま庭に降りると嬉しげに駆け寄ってきた。

「みて! レンくんがな、コレいっしょに作ってくれたんよ?」

 それは、葉書を一回り大きくした程の茜色の手漉き和紙だった。そしてそこには綺麗に押し花にされた一輪の白い烏瓜の花が貼られていた。

花栞(はなしおり)ゆうんやて……ごっつうキレイやろ?」

 栞と呼ぶにはあまりに大きなそれを嬉しげに差し出す妹に向かって、修造が曖昧に頷いた。

「そんでな、お父ちゃんにな、お手紙書くのも手伝ってくれたんやで」自慢気にあき子が紙を裏返してみせる。「これな、あき子が自分で書いたんよ?」


『おとうさん、おげんきですか。おとうさんがいないとさみしいので、はやくかえってきてください。まってます』


 懸命に書かれた、歪なその字を目にした瞬間、和紙の茜色がじわりと滲み、周囲の音が遠のいた。

「兄ちゃんッ?! 何しよるん?!」

 あき子の悲鳴に我に返った修造は、自分の手の中でふたつに引き裂かれた紅い紙に呆然とした。俺は一体何をしているのか。しかし修造の仕打ちに唇を震わせ、今にも泣き出しそうに目を潤ませたあき子の背後に立つ煉の、無言で咎めるような眼を見た途端、抑えきれない何かが胸の内で爆発した。

「ざけんなッ」

 顔を真っ赤にした修造が煉に掴みかかった。

「馬鹿にしやがって……! ざけんなやッ」

 煉は突き出された拳を避けようとはしなかった。大柄な修造に殴られ、僅かによろめいた煉を両手で突き飛ばし、その上に馬乗りになって腕を振り上げた。滾る怒りに眼に映る景色が真っ赤に染まり、妹の甲高い悲鳴に耳鳴りがする。妹の悲鳴が、自分を囃し立て嘲笑うような蝉時雨とひとつになり、父が帰って来ないと知った夜に見た悪夢を思い起こさせる。けれどもこれは夜蝉ではなく、昼の蝉で、妹の泣き声で、決して醒めることの無い現実という名の悪夢だった。

 荒ぶる感情のままに拳を振り下ろそうとした瞬間、煉と目が合った。

 抵抗する素振りも見せず修造に組み敷かれている煉の眼には、理不尽な暴力への怒りはおろか、微塵の怯えも、憎しみも、地面に転がされたことに対する屈辱すらも無かった。ただ静かに深い淵のような瞳が修造を見つめていた。その黒々と冴えた底知れぬ瞳に捉われ、修造は拳を振り下ろすことはおろか、凍ったように身動きひとつ取れなくなった。

「シュウ」

 自分に呼び掛ける煉の声が、唯ひたすら静かに遠い。

「シュウに氷魚が視えるのは、春が待ち遠しいからだよ」

 不意に胸にぽっかりと穴が空いた。憎しみや怒り、己の内に渦巻く烈しい感情がその暗い穴に飲み込まれ、気力と共に身体から流れ出す。そして全てを失い、後に残ったのは、虚ろな秋風のような寂しさと遣る瀬無さだけだった。

 煉から目を逸らし、振り上げた拳を力無く下ろすと、修造はのろのろと立ち上がった。

「……もう来んな。お前の(つら)は二度と見とうない」

 そう吐き捨てると、修造は俯いたまま、足を引きずるように裏木戸を開けて家を出た。どうしても、煉の顔を見ることが出来なかった。大声を上げて泣いている妹を煉が慰める声がしたが、修造は振り返らなかった。


 あき子の泣き腫らした目を見たくなくて、家に帰る気がせず、当ても無く山の中を歩きまわった。やがて陽が暮れて、夜風にヒトでないモノ達の気配が満ち始める。普段は気にも留めないそれらの気配が、今宵は妙に薄気味悪く感じられた。石造りの小さな祠の陰から自分を見つめる視線を感じ、修造は慌てて祠に背を向け、逃げる様にそこを離れた。

 しばらく歩いているうちに、煉と烏瓜の花を見つけた崖の上に出た。崖の縁に腹這いになって下を覗いてみたが、白い花は見えなかった。そこに無い花の影を求め、修造は暗く深い谷底を見つめ続けた。


 本当は、考えるまでもなく分かっていた。

 煉は悪くない。

 なのに俺はくだらない八つ当たりで煉を殴った。俺が謝れば、煉は笑って俺を許してくれるのだろう。あいつはそういう奴だ。けれども煉はもう二度と俺の前には現れない。俺が二度と顔を見たくないと言ったから。だから、俺は、もう二度とあいつに会えず、あいつに謝ることも許されない。時は戻らず、失ったものを取り戻すことは出来ない。

 人は誰も、その手に(とき)を捉まえることは出来ない。


 煉を殴った拳が痛くて、独りで見上げた夜空が余りに暗くて、その日、修造は物心ついて初めて涙を零した。



(To be continued)

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