樹氷(後編)
6
帰り道、レストランで夕食でも、という氷上の誘いに煉は素気無く首を横に振った。
「レストランなんてつまんないよ。今日はね、お弁当とお菓子を買って河原で宴会しようって、カズキと前から約束してたんだ。今朝、良さそうな場所を偵察して焚火の準備とかもしておいたし」
そうか、それでこの少年は早朝から一人で河原をうろついていたのか。
河原に着くと、煉は葉の落ちた大きな樹のうろに隠していたピクニックシートを広げ、手馴れた仕草でてきぱきと火を熾した。焚火のせいか、冬の夜とは思えないほど暖かかったが、しかしやはり背中は冷えるかもしれない。氷上がコートを脱いでカズキの肩にそっと掛けてやった。
「ありがとう、でもおじさんは寒くないの?」
「僕はこれがあるからね」
焚火で煉が器用に熱燗にしてくれたカップ酒を呑みつつ氷上が笑った。と、カズキの膝の上で丸くなっていた狐と目が合った。狐が余りにも羨ましそうに氷上の酒を見つめてくるので、試しに空になった弁当箱の蓋に数滴垂らしてみた。いそいそと氷上に駆け寄った狐が酒をぴちゃぴちゃと小さな舌で懸命に舐める。そんな狐を笑いながら見ていたカズキが、ふと氷上の背後に目をやった。
「これってなんの樹かな?」
夜空に黒々と枝を伸ばす樹をカズキが指差すと、「桜だよ」と竹串に刺したマシュマロを焚火で炙りながら煉が答えた。
「春の夜は、月明かりに花が白く映えてとても綺麗だよ」
ふ~ん、と言ってカズキが首を傾げた。「桜はピンクなのに、夜桜は白いの?」
「ヒトの眼は、暗いところでは色がみえないからね」
煉が炙ったマシュマロをカズキに渡しながら頷く。
「僕、夜桜って見たことないや。夜風は体に悪いって言われてあんまり外に出れないし、病室の窓から桜は見えないから」
「じゃあ、試しにお願いしてみようか」熱くとろけるマシュマロを頬張りつつ、煉がちらりと氷上に視線を投げかけた。「……花をとても見たいと願っているヒトがいるので、どうか花を咲かせて下さいって」
煉がにやりと笑って立ち上がり、樹の幹に手を触れた。しかし酒を呑みつつ無言で自分を見つめる氷上と目が合うと、幹から手を離して何やら考え込んだ。
「う~ん、あんまり自信ないんだけど、ただ咲かせるだけじゃ面白くないからさ、ちょっと違うのやってみよっか。失敗すると危ないから二人とも少し離れてくれる? 焰、酔っ払ってないで、ちょっと手伝って」
煉が何を始めるつもりなのかと興味津々のカズキと、黙って酒を飲み続ける氷上を樹から下がらせ、煉が狐を呼んだ。
暗い夜空に黒々と枝を伸ばす樹の前に立った煉が、両手を広げて目を瞑り、ひとつ大きく深呼吸した。と、樹の周りの空気が光って揺らぎ、煉の肩に乗った狐の中にその光彩が吸い込まれていくかのようにみえた。なぜか急に風が冷たくなり、先程までの暖かさが嘘のように吐く息が白くなる。
「ヒトは花を愛でるけれど」と白い息と共に煉が呟いた。「花の咲いている樹ばかりが美しいわけじゃない」
不意に梢の先にちらちらと透明な光がまたたき、それが瞬時に樹全体に広がった。
「どう?」振り返った煉が得意気に笑った。
煌々と射す澄んだ月明かりに浮かび上がったのは、淡く燦めく氷の結晶に覆われた見事な樹氷だった。
「少し寒くなったから、コンビニで温かいお茶でも買ってくるね。二人はここで火の番してて」と言うと、某然と樹氷を見上げる氷上とカズキを残して煉が走り去った。煉がいなくなると、辺りが急に静かになった。
「疲れてないかい?」
我に返った氷上が、月明かりに仄光る梢を瞬きもせずに見上げるカズキの横顔に、気遣うように声を掛けた。
「うん、大丈夫だよ……」
樹から目を離さず、上の空のまま、カズキはちびりちびりと一口ずつ唇を湿らせるようにカップに口をつける。
「……その、やはり君は水とかはあまり飲めないのかな?」
「え?」
「……すまない、煉君から君が透析を受けていると少し聞いたものだから」
別にいいよ、と言って少年が微笑んだ。闘病生活のせいか、カズキは思慮深く、そして煉とは違った意味でひどく大人びた少年だった。
「体に溜まった余計な水分を腎臓が体の外に出してくれないからね、必要以上の水分はなるべく取らないようにしているんだ」
「透析はどれくらいやっているんだい?」
「前は週二回だったんだけど、今月からは週三回になったんだ。透析すれば体はびっくりするほど楽になる。でもね、体中の血がどんどん外に出て行くのを見るのはなんだかすごく怖い。注射とかは全然平気だけど、アレだけは何度やっても中々慣れなくて」と言ってカズキが笑った。
赤い液体が透明な管を通り、身体の外に流れ出し、冷たく無機質な箱の中に消えてゆく。生きるために、繰り返し、繰り返し、限り無く死に近づく──
「──立ち入ったことを聞いて済まないが、その、君は透析以外の治療は考えていないのかな?」
しばらく無言でちらちらと揺れる焚火の炎を見つめていた少年が、やがて微かな溜息と共に僅かに肩を竦めてみせた。
「母さんと僕は血液型が違うから移植は出来ない。僕には兄弟もいないしね」少年がふっと笑って氷上を見た。「でもね、本当は僕、兄弟がいなくて良かったと思ってるんだ」
「どうして?」
氷上に答えず暗い川面に目をやった少年の、その横顔がひどく大人びていて、それが何故か寂しく思えた。やがて少年が振り向き、静かな口調で答えた。
「だって、もし僕に兄弟がいて、血液型が同じだったら、僕はきっとその子の腎臓が欲しくなっちゃうもの」
少年の口許にうっすらと滲む微笑みを、氷上はただ無言で見つめていた。
「ドナーになるって、本当は危険なことなんだ。だけど、それが分かっていても、やっぱり僕に腎臓をちょうだいって言わないでいられる自信がないから、だから、そんなふうに色々と我慢したり悩んだり誰かを傷つけたり傷ついたりする必要がなくて、良かった。でもこれは母さんには内緒ね」少年が血の気の薄い唇にそっと人差し指を当てた。「もし知ったら、きっと母さんが悲しむから」
凍える梢から洩れる透明な月光に浮かぶ微笑みは、白く、柔らかく、しかしそこに温度はない。
「……君は、でも、その、君の父親は……」
「僕にはお父さんがいないんだ。僕が赤ん坊だった時に死んじゃったから」
氷上が言葉に詰まったのを見て、少年が明るく笑った。
「あぁ、全然気にしないでね。僕にはお父さんはいないけど、母さんやおじいちゃん、おばあちゃんがいて、みんなすっごく優しいから。父さんがいないことで僕がヒトより不幸だとか、不自由だとか、そんなことは全然ないよ」
真っ直ぐに氷上を見る少年の眼差しには、嘘も衒いもなかった。
「煉君、遅いね。どこまで行っちゃったんだろう? 探しに行った方がいいかな?」
「──カズキ君」立ち上がった少年の腕を氷上が不意に掴んだ。「僕と君の血液型は同じだ」
言われた言葉の意味が分からないかのように僅かに首を傾げ、カズキが眉をひそめた。
「だから、もし、君さえ良かったら、僕の腎臓を受け取って欲しい」
驚きに目を見開き息を飲んだカズキが、一瞬の間を置いて慌てて首を振った。
「……だめだよ」怯えた小動物のように後退りしながら、カズキが幾度も首を振る。「そんなのだめだ。貰えないよ」
「どうして?」
「どうしてって……そんなの貰う理由がないもの」
「僕の身体には腎臓がふたつあって、でも僕にはひとつしか必要ではない。つまり僕の身体の中では腎臓がひとつ余っている。そして君は腎臓がひとつ必要だ。これだけでは不十分なのかい?」
長い間、無言で氷上を見つめていたカズキがやがて静かに尋ねた。
「……どうして僕なの?」
感情の消えた瞳が、矢のように氷上を射る。
「世界中に、腎臓移植を必要としているヒトは沢山いる。僕だけじゃない。移植なしにはあと数ヶ月も生きられない子供だって沢山いるんだ。その中で、なんで僕なの?」
「それは」氷上が僅かに言い淀んだ。「……僕が君にあげたいと思うからさ」
少年の視線に耐えられず、思わず目を逸らした氷上にカズキが平坦な口調で尋ねた。
「僕のこと、可哀相だと思ってるの? 父親もいない、母子家庭の、病気で苦しむ子供だって憐れんでるの?」
「違う、決してそんなつもりでは──」
「いらないよっ」カズキが氷上の腕を振りほどいて叫んだ。「僕は可哀相でも憐れでもないっ、腎臓なんか無くったって、赤の他人からそんなモノを恵んで貰わなくったって、僕は生きていけるっ」
そうだね、と氷上が呟いた。「医学の進歩は偉大だ。僕の腎臓なんてなくても、君は生きていけるかも知れない。そして確かに単なる同情や憐憫で臓器提供者になるのは、どこか歪んだヒロイズムのようで、ヒトとして酷くおこがましいのだろう」
この物静かな少年の、どこにそんな激しさが秘められていたのだろうか。自分を突き刺すように睨む少年の燃えるような眼差しに、氷上は静かな驚きを隠せなかった。
「僕は優しい人間ではない。それどころかヒトが目の前で事故にあっても、指一本動かさず平然としていられるような類の人間だ」
ずきり、と不意に目の奥が痛んだ。
「……僕の腎臓を君に提供するというのは、つまり僕は移植を必要としている世界中の誰よりも君に生きて欲しいと、その為に君に僕の腎臓を使って欲しいと願うからだ。これは僕個人の利己的感情であって、君には何の責任もない。勿論君が僕に感謝する必要も、僕に対して何かを負い目に感じる必要もない。君は、僕の腎臓を使ってやる、くらいに思ってくれれば丁度良い」
眼の奧が、心臓の鼓動に合わせてずきずきと痛み、思わず握った拳を瞼にあてた。
「……ヒトは、物事を見聞きし、世界を知り、何かを感じることによって大人になる。君はとても大人びているけれども、でも、それがもし、何かを諦めることでそうなったのなら、僕は、そんな形で君に大人になって欲しくない……」
何故だろう。頭が割れそうに痛み、気が遠くなる。最早我慢の限界だった。額にあてていた拳をおろし、氷上が少年を見つめた。刺すような月明かりに目が眩み、声が震える。
「僕は氷上樹。和樹君、君の生物学的父親だ」
──言うべきではなかった。その言葉を口にした直後に後悔した。自分を見つめる少年の眼に現れたもの。それは驚きでも、怒りでも、口惜しさや苛立ちでもなかった。
それは純粋な恐怖だった。
後も見ずに駆け出した少年を懸命に追った。幾度名前を呼んでも少年は振り返ろうとはしない。でもあともう少し、あと一歩で少年の腕を掴めそうだった。伸ばした氷上の腕を逃れ暗い夜道に飛び出した少年の目前に、車のヘッドライトが迫った。
❄ ❄ ❄
突如現れた街の喧騒とめまぐるしく点滅を繰り返す光の渦の中、耳鳴りと眩暈で身体がふらついた。大丈夫ですか、と誰かが氷上の身体を支える。夜の街に垂れ流される浮かれたクリスマスソングに溺れそうになり、耳を塞ごうとした。
「はやくサンタさん来てくれないかなぁ」
少女のあどけない笑い声に氷上が振り返った。不意に眩しい光が眼を射た。
スリップした乗用車の激しいブレーキ音と同時に道路に飛び出し、前をゆく親子連れの背中を突き飛ばした。次の瞬間鈍い衝撃を全身に受け、身体がふわりと宙に浮かび、世界が回り、黒く濡れたアスファルトがゆっくりと目前に迫ってきて、そして氷上は眼を閉じた。
全ての音が遠ざかり、匂いが消え、閉じられた瞳の奧で、樹氷の梢が月明かりに淡く煌めいた。
7
冬の柔らかな日差しの中、病院の庭の樹の下に置かれたベンチに座り、氷上は空を眺めていた。小径に敷かれた砂利を踏む軽い足音と共に歩いてきた誰かが、氷上の隣にすとんと腰掛けた。
「……煉君」
眩しそうに目を細めて空を見上げる少年の横顔に氷上が呟いた。
「君はサンタクロースだったのかい?」
氷上の言葉に煉が声を上げて笑った。
「サンタクロースがこんなイタイケな美少年のわけないでしょ」
それよりさ、と煉が空を指差した。「今日は風が澄んでて、空が綺麗だね」
そうだね、と呟き、氷上が再び空を見上げた。と、不意に真顔になった煉が、空を見上げたまま、「ねえ、生物学的父親って、なんでわざわざあんな突き放した言い方したの?」と低い声で尋ねた。
「何故って、おこがましいだろう? 父親らしいことなどしたこともなく、それどころか長い年月、彼の存在を思い出すことすらなかった人間が、ある日唐突に父親を名乗るなんて、酷く無礼で、おこがましい」
「やっぱり氷上さんは怖がりだね」
あははは、と煉が声を上げて笑った。
「臆病で、不器用で、そしてとても優しい」
煉の黒々と濡れた瞳が氷上を捉えた。静かな水面に似たその瞳に映る自分の影を、氷上が無言で見つめ返した。今はもう、少年のその深い眼差しを恐ろしいとは思わなかった。
「あんたは自分が傷つくことも、誰かを傷つけることにも堪えられなくて、だから生きることを怖れた。生きるってことは、ヒトと関わるってことは、傷つき、傷つけることだから」口許に哀しげな微笑を浮かべ、闇色の瞳が瞬く。「でも、それももうお終いだよ」
「ひとつ訊いていいかい?」
「どうぞ」
「どうやら僕は事故に遭ったらしい。気がついたら病室に寝ていた。いや、正しくは、病室に寝ている自分を見ていた。これはどういうことなのかな」
「──脳死」
氷上から目を逸らした煉がぽつりと呟いた。
「もう氷上さんの肉体が目覚めることは二度と無い」
「ならここにいる僕は、幽霊か生霊みたいなもの?」
無言で頷いた煉の艶やかな黒髪を木枯らしが乱す。
「あの親子はどうなったか知っているかい?」
「二人ともかすり傷だけで助かったよ」
「そうか」氷上がほうっと柔らかな溜息を吐いた。「それは良かった」
嘘も衒いもなく、心からそう思った。唯、穏やかで温かな想いだけが、何かを溶かすように胸の内に広がる。
冬の空を見上げて微笑む氷上の横顔を煉が酷く悲しげに見つめた。しかしその視線に気付いた氷上と眼が合うと、少し怒ったようにふいと目を逸らした。
「どうしたんだい?」
「……どうもしないよ」
「煉君」氷上が微笑んだ。「君は確かに色々な事を知っているのかもしれないけれど、でも嘘をつくのはあまり上手ではないね」
「……俺は、氷上さんが英雄気取りや罪悪感からあの親子を助けただなんて思っていない」氷上から目を逸らしたまま、煉が吐き捨てるように言った。「氷上さんはただ純粋にあのヒト達を助けたくて、いや、おそらくあんたはあの瞬間、本当に何も考えずに飛び出していった。だって、それがあんたが今までずっとやりたかったことだから。でも、だからこそ余計にやりきれない。あんたが英雄気取りのナルシストか、これ見よがしの自己犠牲を振りかざす偽善者ならまだマシだったのに」
「……僕の為に泣いてくれているのかい?」
氷上が手を伸ばし、煉の艶やかな髪を掻き上げた。まさか、と言ってそっぽを向く煉の、手に触れた頬が温かい。
「君は優しいね」氷上が柔らかに微笑んだ。「でも僕自身にとってでさえ、僕の存在は空気のように希薄で、僕は生きていても死んでいたようなものだったから、だから君が泣くことはない」
「……あんたが死んで悲しむヒトがいないとでも思ってるの?」
自分を睨む煉の眼に、ふと病室で自分を囲んでいた人々を思い出した。
近親者と呼べる者がいないせいか、それは会社の上司や部下が殆どだった。年の暮れの忙しい時に迷惑をかけて申し訳ないことをしたと思う。遣り手で有名な上司は、今まで見たこともない程白く血の気の引いた顔で、医者の説明にただ無言で頷いていた。明るく冗談好きな部下の奥田は、肩を震わせ歯を食い縛り、ぼろぼろと涙をこぼしながら、血が滲むほど両の拳を握りしめていた。
あなたはいつも、みえない蝶を追う子供のように、どこか遠くをみつめていて、周りをみようとはしない、と言った彼女の微笑みが胸を過る。
彼女はいつも正しかった。唯ひとつのことを除いては。
信じて欲しい。貴女も、誰も、泣かせるつもりは無かった。
貴女の声を聴くことも、その姿を目にすることも、許しを乞い、己の内に芽生えたこの優しい温かさを伝えることも既に叶うことはなく、僕は消えてゆく。
けれども、僕は知っている。
きっと貴女は、貴方達は皆、こんな僕ですら赦してくれるのだろう。
「煉君、やっぱり君はサンタクロースだったんだね。君はその不思議な力で僕と息子に束の間の逢瀬と、そしてあの少女と母親を助けるチャンスをくれた」
そして樹氷に訪れる春の陽のような暖かさを。
「違うよ」と煉が首を横に振った。「それは俺の力じゃない。俺はただ、知合いに頼まれて、氷上さんが迷わないように近くで見守っていただけ」
「知合い?」
「憶えてない? ずっと昔、氷上さんが助けた氷の蝶」
煉が空を指差した。少年の眼には何が映っているのだろうか。ヒトにはみえないナニカを求め、氷上が僅かに目を細めて煉の指差す先を見つめた。
「あの日、子供だった氷上さんが見つけた蝶は冬の使いだったんだ。氷の蝶には冬がゆくべき道と在るべき刻を示す大切な役目がある。冬が正しい刻に正しい処に在るように。でもあの時は羽化したばっかりでちょっとフラついててさ、そこを氷上さんに捕まっちゃったんだ。だからね、氷上さんがあの子を逃してくれたお陰で、冬が迷わずに済んで助かったモノが多いんだよ。みんな感謝してる」
「僕は何もしていないよ。僕は動かず、ただ見ていただけさ」
「そうだね。でも、氷上さんは、あの場から動かないことで、蝶を生かし、自由にしてやるという約束を守ろうとした。それだけで十分なんだよ」
「……そうか」
ふと思う。もしもあの日、ただ見ているだけでなく、助けるために一歩でも動いていたなら、自分はその後違う人生を歩んだのであろうか。煉の艶やかな黒髪と、そこにちらちらと踊る木漏れ陽に、姉を想う。
「……僕は、優しく明るい姉が大好きで、彼女を頼り、彼女に憧れ、しかしその反面、死してなお立ち上がり僕を守ろうとしたその強さを怖れた。でも今なら分かる。姉だって本当は怖かったんだって。彼女はヒトよりも強かったわけではなくて、ただ必死だったんだって」
煉は何も言わず、ただ静かに氷上の言葉に耳を傾けていた。少年の深く凛とした眼差しは、揺るぎなく、どこか遥か遠くの一点を見つめている。でも、と氷上は思った。彼も怖いのだろう。強いだけの人間などいない。ヒトは誰しも独りで生きてはゆけない。
「煉君、ついでと言っては何だが、もうひとつお願いしてもいいかな?」と氷上が言うと、煉が無言で頷いた。
「では、お手数をかけて済まないが、僕の肉体で使える臓器全てを移植の為に提供したい。ただし条件がひとつ。ふたつの腎臓の内、ひとつは必ず息子に」
「うん、そう言うと思ってた。氷上さんって色んな意味でホント予想を裏切らないよね」
煉がふっと脱力し、呆れたように笑った。
「脳死の場合のドナーって確か受け取る人を指定とか出来ないはずだけど、以前から息子の生体移植のドナーになるつもりでその準備を進めていた、みたいな証拠とかあればいいんじゃない? 文書捏造とかで色々と違法な気がしないでもないけど、まぁ知合いに頼んで何とかしてみるよ。弁護士や医者の夢枕に立ったりしてね」
不意に凍った雫が一粒落ちてきて、氷上の手の上を転がり、すっと解けて消えた。
「蝶の涙だよ」空を見上げた氷上に煉が囁いた。「ごめんねって。助けてもらったのに、何も出来なくて、ごめんって」
「それは違う」と言って、氷上が静かに首を振った。
「君達は僕にとても貴重な時間をくれた。何モノにも替えられない、大切な時間を。それに僕は死ぬわけじゃない」
「僕は、僕を生かしてくれた姉と共に、誰かの中で、誰かと共に生き続ける──」
見上げた空は蒼かった。冷たく澄んだ風が身体を吹き抜けてゆく。氷上の柔らかな微笑みが陽に透けて光り、薄らぎ、やがて霧氷のように風に溶け、消えた。
エピローグ
「──母さん」
透析を終えて、病室のベッドで目を覚ました少年が枕元の椅子に座る母を呼んだ。
「夢をみたよ」
「またみたの? レン君っていう男の子が出てくる夢?」
「うん、煉君もいたけど……水族館に行って、遊園地に行って、そのあと河原で……」
アレは何だったのだろう。脳裏を過る煌めく何かに少年が目を凝らした。
「……花見、そう、花見をしたんだ。夜桜が満開で、白く淡く光ってみえて、とても綺麗だった。知ってる? 桜の花はピンクだけど、夜は白くみえるんだよ」
ヒトの眼は暗いところでは色が見えない、と言った少年の眼を思い出す。夢で会う不思議な少年。あの子の眼差しは、僕を通り過ぎ、何か、誰か、他のモノを見ていた。夜桜? 違う……桜は咲いていなかった。あの少年が、あの暗い川辺で、僕の背後にみたモノは──
病院の白いシーツの中で、和樹が疲れたように目を瞑った。
瞑った瞼の奥に蘇る樹氷。凍った霧に包まれ、白く冷たい月の光に浮かび上がるそれは、色の無い透明な世界で、淡く、儚く、胸が痛くなるほどに美しかった。
「もうすぐ春が来るわ。そしたら、おじいちゃんやおばあちゃんも誘って、お弁当を持って、みんなでお花見に行こうね」
涙に掠れる母の声に、和樹が目を開けた。
「母さん」
憂いを帯び、大人びた眼差しが、指先で目頭を抑える母をじっと見つめた。
「……僕の父さんは生きてるの?」
少しだけ時間を頂戴、と言って母は病室を出て行った。否定しなかったということが答えなのだろう。やはり、と頭の何処かで納得しつつも、夢と現が入り交じるような奇妙な感覚に、和樹が嘆息した。今はいい、と思う。今すぐに考える必要はない。
ひと気のない病室で和樹がまどろんでいると、誰かが部屋に入ってくる気配がした。夢うつつに、看護師さんかな、と思っていると、不意に乱暴に窓のカーテンが開け放たれた。眩しい光に驚いて眼を開けると、艶やかな黒髪の少年が窓辺に腰かけ、薄く蒼い冬の空を見上げていた。
「煉君……」和樹が掠れた声で囁いた。「これも夢なの?」
「──世の中は夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ」
「え?」
振り返った煉が陽だまりの中で微笑んだ。
「君が夢だと思えば夢だし、違うと思えば違う。夢と現実の境目はヒトが思うよりずっと曖昧で、ナニが真実かなんて誰にもわからないんだよ」
窓辺から立ち上がった煉がベッドに横たわる和樹に近づくと、そっとその指先に触れた。
「君の父さんから伝言だよ」
樹氷もいつか花を咲かせる。
君のなかで、君と共に。
「……アイシテル、だってさ」
煉の内から流れ込む何かが、触れあった指先を微かに痺れさせた。
(END)




