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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
54/123

樹氷(中編)

     3


 少年の駆け去った方をぼんやりと眺めていた氷上が、ふと我に返ると腕時計に目を落とした。始発の時間が近い。帰ろう、と呟いて朝霜の立つ土手に足を踏み出した。

「──何処ニ?」と耳許で小さな声が囁いた。

 振り返ったが誰もおらず、冷たい風がうなじを吹き抜けていった。

 朝早いせいか、駅には人影が少なかった。切符を買おうと料金表を見上げていると、年老いた駅員が改札口の横の小さな駅長室から出て来て、お客さん、と氷上に声をかけた。

「大変申し訳ないんですが、今朝方この先で地崩れがあって、列車が止まっとるんですわ。ほれ、そこに貼紙があるでしょう」駅員が手書きの貼紙を指差す。「幸い始発前だったんで、怪我人は出とらんようですが、なんせ田舎の単線でしょ? 上下ともトンネルが塞がれちまってて、まだ復旧の目処も立ってないんですわ」

 まるで地崩れや復旧の遅れが自分の責任でもあるかのように、ひどく申し訳なさそうに駅員が頭を下げた。困ったな、と思ったが、幸いまだ時間は早い。途中までバスを使えば、出社時刻に少し遅れる程度で問題はないだろう。バス停の場所を尋ねると、「それが……」と口籠り、駅員が益々申し訳なさそうに肩をすぼめた。

「バス会社でストがありまして、バスも全然動いてないんですわ。おまけにこんな小さい町でしょ? タクシーってのも都会と違って数台しかないし」

「大通りに出ればタクシーも捕まるかもしれないし、大丈夫ですよ」

 此の世の全ての不都合の責任を負い、小さな体が折れそうなほど頭を下げる老人が気の毒で、その心配気な視線から逃げるように駅を出た。しかし大通りをしばらく歩いてみたものの、タクシーなど影も形も見当たらない。夢遊病者のようにふらふらとやって来た遠い田舎町は一夜にして陸の孤島と化し、どうやら自分は孤島の漂流者となってしまったらしい。

 通りの隅でみつけた自動販売機で熱い缶コーヒーを買うと、次は何を為すべきか頭が働かず、仕方無く早朝の町を再び河原へ向かって歩き出した。

 朝陽にようやく暖まりはじめた河原を歩いていると、今朝の少年が平たい岩の上に仰向けに寝転がっていた。氷上の気配に気づいたのであろうか。少年が目を開けて体を起こすと、軽く伸びをしながら例の人懐っこい笑顔を氷上に向けた。

「電車、来なかったね」

「……君は? 友達と約束があったんじゃないのかい?」

「うん、そうなんだけど」少年がその柔らかな眼差しを川面に向けた。「今日は少し時間がかかりそうなんだ。その子、トウセキとか色々あってさ。最近ちょっと風邪気味だったし」

 ──トウセキ。人工透析のことだろうか。この少年の友達というくらいだから、まだ幼さの残る子供だろうに。少年の横顔から目を逸らすと、そうか、それは大変だね、と氷上が呟いた。不意に昨夜の親子連れの姿が脳裏を過った。

「でも悲しむことはないよ。ヒトの人生は様々で、しかし誰であろうといずれ行き着く先は唯ひとつなんだから。少しばかり早いか遅いかの違いだけさ」

 自分の口から出た言葉に耳を疑った。俺は一体何を言っているのか。慌てて顔を上げると、少年の深く澄んだ瞳と目が合った。

 自分に向かって投げつけられた無機質な氷のような言葉に怒るでもなく、悲しむでもなく、幽かな笑みを口許に浮かべ、唯ひたすら静かに、一縷の揺らぎもない瞳が氷上を見つめる。何故か、その眼差しは氷上の内をひどく掻き乱した。やめろ、俺を見ないでくれ、と思わず叫びそうになった。

「僕は死んでいるのかもしれないね」

 謝ろうとした氷上の口から言うつもりの無い言葉が次々と零れ、溢れ出る。

「僕は本当は遠い昔、ある冬の寒い日に死んでいて、なのにそうとは知らず、生きているつもりになっているだけなのかもしれない。だから僕は君の友達の苦境にも、ヒトの死にも、心を動かされることはない」


 貴方ハ永久ニ凍ッタママ、花ヲ咲カセハシナイ。


 ずきり、と目の奥が痛んだ。こめかみを抑え、唇を噛む。微かな鉄の味が口に広がった。

「……すまない」

 心を落ち着かせようと、ひとつ深く息を吸うと、吐く息と共に謝った。

「こんな事を言うつもりはなかったんだ」

「別にいいよ。だって本当のことだもの」

 少年が愛らしく小首を傾げると、屈託の無い笑みを浮かべた。細められた眼を縁取る長い睫毛の先にチラチラと朝陽が躍る。

「あぁ、つまり、氷上さんが死んでるかも、ってとこじゃなくて、ヒトの行き着く所は同じってとこがね」

「……聞きたかったんだが、君はなぜ僕の名前を知っているんだい?」

 氷上に向けられた黒い瞳が悪戯っぽい笑みを含み、くるくると動く。

「氷上さんの名前だけじゃないよ? 俺はいろんなヒトのいろんなコトを知っている」

 クスクスと笑う少年に氷上の質問に答える気はないらしい。試しに名前を尋ねると、少年は煉と名乗った。



 煉は不思議な少年だった。あどけない口調で楽しげに話し、屈託無く大声で笑い、しかし何かの拍子にどきりとするほど大人びた眼差しで何処か遠くを見つめる。そしてその瞳は深く澄んでいて、しかし余りに深く、底が見えなくて、その仄暗い淵のような深みに引き込まれそうで、不用意に覗き込むのは躊躇われた。

 冬の朝陽が暖かくて、心地良過ぎたせいであろうか。我ながら、らしくないと思いつつも、氷上は少年の隣に腰かけ、ただ取り留めもなく心に浮かぶまま様々な話をした。

「樹は、何故花を咲かせるんだと思う?」

 葉を落とした裸木に眼をやった氷上がふと尋ね、しかし煉の返事を待たずに自答する。

「樹が花を咲かせるのは鳥や虫を誘って受粉させるためさ。つまりは子孫を残すため。別に人を愉しませるために咲くわけではない。だからね、もし子孫を残す必要がなければ、樹は決して花を咲かせたりはしないんだよ」

「そうかな?」煉が首を傾げ、冬の晴れた空に広がる梢を見上げた。「たとえそこが世界の終末で、花を咲かせるのが全く無意味だとしても、花をみたいと心から願うヒトがそこにたったひとりでもいたら、きっと樹は花を咲かせると思うよ」

「君はロマンチストだな」と笑う氷上に、煉が口の片端を僅かに上げた。

「ロマンチストか。俺がロマンチストなら氷上さんは?」

「……さあ」

 自分へ向けられた少年の眼差しから逃れるように氷上が目を逸らせた。

「皮肉屋だとか、懐疑的現実主義者だとか、会社では色々と言われているみたいだけど、どれもぴたりとは当てはまらない気がするな。強いて言えば、酷く無機質な何か──」

 あなたは樹氷よ、と囁く声が耳奥に響く。

「違うよ、氷上さんはねぇ」煉がくすりと笑った。「氷上さんは、サンタクロースの存在を忘れてしまった子供だよ」

 煉がふと首を傾げると、風の音に耳を澄ませ、ふわりと口許を綻ばせた。

「──起きた」と呟いた煉が、腰掛けていた石から立ち上がり軽く口笛を吹いた。と、どこかで遊んでいたのだろうか。小柄な狐が枯れた草叢から飛び出し、少年の肩を駆け登った。

「行くのかい?」と尋ねる氷上に、煉がにこにこと楽しげに頷く。

「今度こそあの子が起きたみたいだから、迷子になる前に探しにいかないと」

 煉が氷上に向かって片手を上げ、指先で軽く敬礼してみせる。

「じゃ、またね」

 氷上は僅かに目を細め、冬の朝陽にひかる土手を跳ねるように駆け去る少年の後姿を見送った。もう二度と逢うこともないであろう少年の艶やかな黒髪が、まるで別個の生き物のように透明な風に軽やかに揺れ、陽の光に躍り、やがて視界から消えた。

 不意に陽が翳り、景色が煌めきを失った。足許を見ると、解けた霜に濡れたズボンの端が黒く染みていた。


 あなたと一緒にいたい、と彼女は言った。

「あなたはいつも、みえない蝶を追う子供のように、どこか遠くをみつめていて、周りをみようとはしない。でも大丈夫。私はいつかあなたを振り向かせてみせる」

 そう言って彼女は微笑んだ。


 彼女は去っていった。別れはいつも唐突だ。ひとは皆、俺をおいてゆく──


「氷上さーん」

 呼ばれて顔を上げると、駆け去った筈の少年が堤防の上から手を振っている。

「今日ね、俺達、隣町の水族館に行くことにしたんだ。ちょうど水族館の隣にちっちゃな移動遊園地みたいなのが来てて楽しそうだしさ。氷上さんも一緒に行かない?」

 レンくーん、とどこかで少年を呼ぶ声がする。煉が嬉しげに振り返ると、「おーい、こっちこっち!」と叫んで大きく両手を振った。

 駆け寄ってきた少年の肩に親しげに腕をまわし、煉が氷上に紹介する。

「俺の友達。カズキ」

 ほっそりとした身体つきの少年の澄んだ瞳に見つめられ、氷上が僅かに息を呑んだ。

「で、こちらが、今日俺達を遊園地に連れて行ってくれる氷上さん」

「え、ちょ、ちょっと待ってくれ。僕は仕事があって──」

「だけど今日は電車もバスも来ないよ? もうこんな時間だしさ、どうせ今からタクシー使ったって会社に着くのは夕方になっちゃうって。だからさ、今日はもう休んじゃいなよ」

 他人事だと思って簡単に言ってくれる。大人と子供では事情が違うのだ。しかし煉は氷上の困惑など全く意に介さぬように、にこにこと屈託が無い。

「それにね、俺達、氷上さんが一緒に行ってくれないと困るんだ。カズキの母さんに、知り合いの小父さんが連れて行ってくれる、って言っちゃったから。氷上さんが一緒に行ってくれないと、カズキの母さんに嘘をついたことになっちゃうでしょ?」

「えっと、他の日では駄目なのかい? 今週末にでももう一度出直してくるから……」

「ダメ」と煉が素っ気無く首を横に振る。「今日を逃すと、次はいつカズキが外に出れるかわからないから」

 ね、と煉に同意を求められ、傍らの少年が遠慮勝ちにおずおずと頷いた。

「……でも、あの、もしおじさんが忙しいなら、仕方がないし」

「ちょ、ちょっと待ってて」

 氷上が胸ポケットから携帯を取り出すと少年達に背を向けて急いでボタンを押した。

 電波が悪いのだろうか。呼び出し音がやけに遠い。数回のコールの後にようやく、「……もしもし」と若い男の声がした。

「もしもし、奥田か?」

「……い、課長……? い……どこに……っしゃるんです……?」

「すまない、ちょっと急用で今日は会社に行けそうにないんだが、例の取引の件なんだが、おい、聞こえてるか?」

「……いえ、ちょっと……にくくて……、……ですか?」

 駄目だ、電波が悪くてお互い相手が何を言っているのか全くわからず埒が明かない。

「あのな、突然で悪いが、今日は休ませて貰うから、何かあったら携帯の方に──」

「……い?」

「キョ・ウ・ハ・ヤ・ス・ム!」

 氷上が怒鳴ったところでプツリと電話が切れた。

 振り返ると、やったあ、と歓声を上げて煉がぴょんぴょんと飛び跳ねている。カズキは恥ずかしそうに、しかしとても嬉しそうに頬を紅潮させていた。



     4


「ここね、ウオノタユウがいるんだよ!」

「ウオノタユウ?」

 はしゃぎながら水族館に駆け込む煉の後ろで氷上が首を傾げると、「マンボーのことだと思う」とカズキが答えた。

「煉君はマンボーと仲が良いんだ。まぁ仲が良いのはマンボーだけじゃないんだけど」

 大きな水槽に駆け寄った煉に、奇妙な姿の巨大な魚がゆっくりと近づいて来る。

「タユウ、久しぶり。元気だった?」

 煉に声をかけられ、とぼけた顔つきの魚がぽわん、と空気の泡をひとつ出した。

 カズキの言う通り、煉はどこへ行っても大人気だった。ピーピークワークワーと大騒ぎしながら小さな翼をぱたぱたさせて、尻をふりつつ我も我もと集まってくるペンギン達は中々の見モノだったが、ガラス張りのトンネルの頭上に隙間なくびっしりと張り付いた無数の鮫の白い腹は流石に異様だった。

「すごいなぁ」

 うねうねと絡まり合いながら煉に踊りを披露するウツボ達にカズキが感嘆の溜息をつく。

「君は全ての生き物と仲が良いのかい?」

 ウツボの踊りを楽しげに眺める煉に氷上が尋ねると、「そんなことないよ」と煉が首を横に振った。

「意思疎通の難しいヤツもいるしさ。特に海のモノは陸のモノとはだいぶ世界観が違うからね」

 でも君は、と氷上が心の中で呟いた。君は、常に多くの生き物に囲まれ、過去に逢った全てのモノと、未来で逢う全てのモノに愛されて生きるのだろう。俺には想像もつかない、温かく豊かな生を──

「違う世界に棲む奴と分かりあうのは難しい。だからこそ面白いとも言えるけど、でも本当は……」

 煉がウツボ達の水槽のガラスにそっと手を触れた。

「本当は、イキモノは皆、自己という宇宙の中から外に出ることは決してなくて、だから、誰かと分かりあえるなんて思うこと自体が幻想なのかもね」

「……君には似合わないセリフだな」

 煉が不意に氷上を振り返ると、ウツボに夢中で見惚れるカズキの肩越しに、うっすらと微笑んだ。

 俺はいろんなヒトのいろんなことを知っている。声には出さず、唇の形だけで煉が囁く。ダケド、アンタハ俺ヲ知ラナイ。



 ──何を話しているのだろうか。きゃはははは、と煉が笑い、そんな煉を見るカズキの横顔も楽しげに上気している。ガラスからガラスへ、自分の前を軽やかにスキップする少年達の、剥き出しの好奇心や無邪気さや無垢な喜びの毒気に当てられたのか、僅かに眩暈がした。

「少し休憩しないか? 」思わず足を止め、少年達に声をかけた。「向こうの売店で何か飲み物でも買ってくるよ。何がいい?」

「ありがとう。俺、コーラがいいな。カズキは?」

「じゃあ、僕は水をお願いします」

 売店に向かって歩いていると、パタパタと軽い足音と共にカズキが追いかけてきた。

「……ひとりだと持つの大変かもしれないから」

 少しはにかんで自分を見上げた少年に、ありがとう、と言って微笑みを返した。

 ぽつぽつとカズキと話しながら売店から戻ると、煉の姿が消えていた。仄暗い深海のようなガラスの間を探し回り、ようやく一際大きなガラスの前で煉を見つけた。しかし何故かその後ろ姿に声をかけるのが躊躇われて、氷上は足を止めた。


 深く、遠い色の水の前に少年は独り佇んでいた。

 無数の半透明の海月が、外界への恐るべき無関心さをもって、ガラスを一枚隔てた異世界に漂う。歪な月の落とし子達は、いつか空に還ることを夢みて、長い触手をゆらゆらと天に向かって伸ばし、その暗い水に少年の影が溶け、頼りなく揺らめく。

 耳が痛くなるような静けさの中、不意に、寂しい、という言葉が胸に湧き、吐く息と共に滲み出て、暗い水に溶け、少年の影とひとつになり、消えた。



     5


 水族館を出ると、少年達は待ちきれないかのように隣の小さな移動遊園地に駆け込んだ。全種制覇を合言葉に次から次へと乗り物を楽しむ少年達を、氷上はベンチに腰掛けぼんやりと眺めた。

 冬の陽は暮れるのが早い。四時を過ぎると辺りが急に涼しくなった。

「どうだい? 全種制覇は達成できそうかい?」

 ベンチで待つ氷上のもとに戻ってきた少年達に尋ねると、大きな棒付きキャンディーを嘗めながら煉がうん、と頷き、頭上を指差した。

「アレで最後だよ」

 煉の指差す先には、薄暗くなり始めた空を分かつように細く黒い線が走っている。線の一方は高く組まれた櫓から出ているが、氷上のいる場所からはもう一方の端は見えなかった。あれは一体どういった物なのか。氷上が首を傾げた。

「ジップラインって知らない? 最近流行ってるんだけど。まぁ、安全に誰でも出来るターザンごっこみたいなもんだよ」

 不意に微かな悲鳴が聞こえた。慌てて見上げると、細いロープからぶら下がった人影が遥か頭上を音もなく滑っていく。それでね、と煉が先を続けた。

「氷上さんさ、待ってるだけじゃ退屈でしょ? アレって二人ペアで出来るようになってるから、氷上さん、カズキと一緒にやってきなよ。カズキが一人じゃ怖いって言うからさ」

「…………君はやらないのかい?」

「俺? もちろんやるよ。でも俺には焰がいるからね」

 煉が藪に隠れる雀を興味深げに覗く狐を指差すと、名前を呼ばれた狐が煉を振り返り、その肩に駆け登った。

「こーゆー場合の俺のパートナーは焰って、昔から決まってるんだ」

「……ホムラって、まさかとは思うが、その狐もあれをやるのかい? それはちょっと危ないんじゃないかな」それどころか動物虐待ではないのか。狐があんなものを愉しむとは思えない。氷上と目が合うと、小柄な狐もどきがふふんと鼻先で嗤ったような気がした。

「大丈夫だよ。焰は慣れてるから」

「しかし……」

 風に揺れる細いロープを見上げて口籠る氷上の姿に煉がにやつく。

「やだな~、ノリの悪い大人。あ、もしかして恐いんだ?」

「…………そんなことはないが」

「ならいいじゃん」煉がにやりと笑った。「氷上さん、こーゆーのやったことないんでしょ? 知ってる? 子供の時にちゃんと遊んでおかないと、うまく大人になれないんだよ? 今からでも遅くないから、カズキと一緒にやっておいでよ」

「いや、しかし、体重制限があるんじゃないかな。万が一ロープが切れたりしたら──」

「大丈夫だって。あんなデブのおじさんだってやってるんだからさ」

 煉が再び頭上を指差した。丸々としたシルエットが、小さな子供を両腕に抱き、か細い悲鳴と共に細い線を弛ませるようにして滑ってゆく。

「心配ならまず俺が手本見せてあげるから。ね?」

 氷上に有無を言わせず登った櫓で、自分の順番がくると、煉は実に楽しそうに笑いながら思いっきり助走をつけて飛んだ。それどころか、どうやら体を縛るハーネスのロックを勝手に解除していたらしい。向こう岸に着く直前にロープから手を離し、自由になった体でくるりと空中を一回転すると見事に着地してみせた。

 怖いもの知らずの少年の無謀を叱るどころか周囲の客がやんやの喝采を浴びせるなか、氷上は思わず息を呑んだ。一体アイツは何を考えているんだ。あんなものが手本になるわけないだろう。

 ロープは鋼鉄製ですし、プロのロッククライミングに使われる道具ですから、と説明しながら、係員が氷上とカズキにハーネスを装着させる。上から見下ろした地面は想像していたより遥かに遠く、人など点々と動く蟻にしかみえない。

「いいかい、カズキ君、しっかり掴まっているんだよ。絶対に手を離してはいけないよ」

 氷上の言葉に少年が真剣な顔で頷くと、ロープを指先が白くなるほど強く握り締めた。それでも落ちるのではないかと心配で、少年の脇に手を入れてその細い身体を抱き寄せた。

「がっかりさせて済まないが、僕には煉君のような、あんな芸当は出来ない。ここはひとつ生き延びることだけを考えて──」

 少し大袈裟だったか。係員の女性の笑いを噛み殺した顔を見て、氷上が軽く咳払いした。しかし氷上の不安が伝染したのか、カズキの表情はスリルや緊張を通り越し、恐怖どころか微かな絶望すら漂っている。

「いや、心配しなくても大丈夫。約束する。絶対に君を落としたりなんかしない」

 少年をしっかりと抱きしめると、ロープを握った手に力を込め、櫓を蹴った。


     ❄


 父は外では大人しく真面目な会社人間として通っていた。あの男の狂った内面を知るのは家族だけだった。結婚して息子が生まれた時、俺は息子を傷付けたいなどという衝動を覚えたことは一度として無かったが、しかし生まれたばかりのその小さな姿に心を動かされることも無かった。

 あの男の血は俺の中に流れる。きっと妻は、そんな俺の中に潜む、己も知らぬ狂気を母親の本能で感じとったのだろう。

 俺の血に眠る、あの男の狂気。


     ❄


 カズキが悲鳴混じりの歓声を上げた。氷上は声を出すことはおろか息をすることすら忘れ、腕の中の少年の熱を感じていた。めまぐるしく流れる景色と全身を吹き抜ける風に、煉の愉しげな笑い声が聴こえた。


     ❄


「子は親に似て非なるモノだよ」と煉は言った。

「あんたは狂ってなんかいない。だけどあんたは、ひどく怖れている。それが狂気と言えばそうなのかも知れない」

 わからないな、と氷上が微笑んだ。「何も感じることなく、何にも心動かすことなく、樹氷と呼ばれるこの僕が、一体何を怖れていると言うんだい?」

 煉の深い淵のような眼差しが氷上を捉えた。

「──生きることを」


     ❄


 遮るもののない空で、沈みかけた夕陽に、腕の中の少年の横顔が眩しい。狐と共に二人を見守る煉の笑顔がみるみるうちに近づき、爪先が樹の梢を擦り、足が硬いものに触れ、風の唸りがはたと止んだ。

 わははは、お見事お見事、と幼い娘を抱いた恰幅の良い父親が拍手した。お疲れ様です、と言いながら笑顔で係員がハーネスを外してくれた途端、氷上は崩れるようにその場に座り込んでしまった。

 身体の力が一挙に抜けて足に力が入らず、立ち上がることすら難しかった。しかし隣で同じくヘタリこんでいるカズキと目が合うと、何やら胃の辺りがふつふつと温かく、くすぐったくなり、不意に笑いが込み上げてきた。



(To be continued)

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