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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
47/123

狐火(前編)

氷雨降り狐火燃えむ冬の夜にわれ石となる黒き小石に (中島敦)

挿絵(By みてみん)


【 プロローグ 】


 景色が煙るほどの夕立が通り過ぎ、辺りに小鳥達の囀りと蝉の鳴き声が戻ってきた。公園の樹の枝で雨宿りしていた煉が、雨のもたらしたひと時の涼に目を細めて伸びをした。

「すごい雨だったねぇ。でもお陰で少し過ごし易くなったね」

「涼しくなるのはいいが、俺は夕立をみるとどうも胸の辺りが妙な具合にざわざわして落ち着かんな」

 煉の懐から顔を覗かせ、俺は湿った夕風の匂いを嗅いだ。

「は? 何それ」

 笑いながら辺りを見回していた煉が、あ、と楽しげな声を上げて公園の花壇を指差した。

「見て見て、すごい!」

 煉の指差す先には、大きな紅い花が咲き乱れていた。雨に濡れて光る紅く細長い花弁は、炎のように波打ちながら天に向かって反り返っている。

「グロリオサっていうんだよ。別名キツネユリ」


 忍び寄る夕闇に仄か浮かぶ紅い花は、まるで音もなく燃える無数の狐火のようだった。



  1



 俺が煉に初めて逢ったのは、いまだ(まつりごと)の中心が京の都にある頃だった。もっとも俺のその頃の記憶はあまり定かではない。あの頃の俺にとって世界と俺の存在の境界線はひどく曖昧で、俺は唯、薄暗くなったりぼんやりと明るくなったりする世界の中を、微睡むように風に漂っていた。

 変化に乏しい仄暗い世界の中で、俺はある日妙に明るい光を見た。草陰からその光に目を凝らすと、そこには片目の黒い鳥を肩に乗せて山道をゆく少年の姿があった。少年がふと立ち止まり、俺を振り返った。

「どうした、煉」

「あそこの、草の陰になんかいるからさ」

 少年が此方を指差すと、ふん、とつまらなそうに黒い鳥が鼻を鳴らした。

「珍しくもない、ただの狐火だろう」

「そうかな? なんか普通の狐火とは違うような気がするんだけど」

「そんなもん放っておけ。どちらにしろソレはもう長くはない。風前の灯って奴だ」

 黒い鳥は俺をジロリと睨むと、その大きく艶やかな翼を広げて茜色の空へ飛び立った。

「……おいで」後に残された少年が草陰を覗き込むようにして囁いた。「少しだけ分けてあげるから」

 その声が余りに暖かく、甘く響き、俺は思わずふわふわと夜風に流されるようにして少年に近付いた。少年が腕を伸ばし、草の陰からそっと俺をすくい上げた。黒々と濡れた大きな瞳でジッと俺を見ていた少年が、不意に俺に顔を近付けると、ふっと息を吹きかけた。その途端、躯の芯がカッと熱くなり、瞬時にそれが全身に広がった。驚くような熱さが消えると、代わりに躯が気持ち良くポカポカしてきた。春の日向にいるような心地良さに、俺はアクビしながら伸びをした。そして伸びをした自分に驚いて躯を見下ろした。手と足と尻尾があった。俺は火の玉ではなく、獣の形の(ほのお)だった。

「あぁ、君は」俺を抱いた少年が微笑んだ。「狐火じゃなくて、カケラなんだね」


 そうか、と思った。俺はカケラなのか。ならば俺の他のカケラは何処にいったのだ? そもそも俺は何故カケラなんぞになったのだ。よく分からないが、しかしカケラと言うなら、俺は俺の残りを探しに行かねばなるまい。

 何も思い出せなかったが、取り敢えず目的が出来た事が嬉しかった。



 俺は俺のカケラを探し、国中を彷徨った。そして永い刻を経て、少しづつカケラを取り戻していった。ある時は神木と云われる古い木の中に、またある時は山の奥に眠る冷たい岩の中に、俺は俺のカケラを見つけた。

 俺がカケラを取り戻すとカケラを失った木の幹は朽ち、岩は割れ、山は崩れた。しかしそんなことは俺の知った事ではない。カケラを取り戻す度に俺の影は濃く、鮮明になり、躯は重く、強くなった。俺は最早風に吹かれて消える(ともしび)などではなかった。


 旅の先々で、煉という名をしばしば耳にした。

 面使いの煉。人魚殺しの煉。煉獄の煉。

 鬼や物の怪共は、ある時は怖れと憎しみを、またある時は不思議な程の親しみを込めてその名を呼んだ。


 そんなある日のこと。カケラを探していつものようにひと気の無い深山を彷徨っていると、オイ、と苔むした岩陰から声を掛けられた。振り返ると、酷く年老いて萎びたような鬼が冷たい地べたに座って此方を眺めている。

「死にたくなくば、そっちには行くな」と掠れた低い声で鬼が言った。「逃げたヒト喰いを追って煉が先程山へ向かったからな。下手すると巻き込まれて焼け死ぬぞ」

 あの黒髪の少年が近くにいると知った途端、首筋の毛がざわりと立った。

「……煉か。よく聞く名だが、煉とは何者だ?」平静を装い、俺は鬼に訊ねた。

「古い退魔の一族の生き残りさ」

「ヒトか?」

「ヒトだが、人魚の血を飲んで不老不死になったのさ。不老不死のヒトなど、最早ヒトなどとは呼べぬかもしれんがな」鬼がくつくつと湿った嗤い声を立てた。「面使い共は厄介な一族だったが、奴等の滅亡はある意味煉のお陰だからな、俺達は奴の存在を有難く思うべきかもしれんがな、しかし一番厄介なのは、実は生き残った煉の方だったのさ」

「どういう意味だ?」

「……鬼はヒトに魅入るが、彼奴は鬼に魅入る」

 どろりと濁って虚ろな眼を細めるようにして鬼が俺を見た。

「彼奴に魅入られて死んだ鬼を俺は何匹も知っている。松明の火に惑わされる蛾のようなものだ。死にたくなくば、お前も煉には近づかんことだ。まぁアレほど旨そうなヒトというのも滅多におらぬがな」


 その夜、俺は煉が鬼退治に向かったという山の向かい側に登り、奴の退魔の炎が夜闇に燃え上がるのを見物した。天をも焦がさんばかりに猛り狂う炎は見るも恐ろしく、目も眩むほどに美しく、俺は息をするのも忘れてその輝きを見つめた。



 ❀ ❀ ❀



「ねぇ、焰のカケラってどれくらい集まった?」

 ソフトクリームを舐めながら、煉がのんびりと訊ねる。

「さぁな、よくわからんが、精々半分弱だな」

 煉の肩からソフトクリームに向かって身を乗り出しつつ俺は答える。煉の奴はチョコ味ばかり買うが、俺はバニラ味が好きだ。今日はチョコ味が売り切れで良かった。ヒトは往々にしてクダラナイモノばかり此の世に産み出すが、アイスクリームってのはヒトが創ったモノの中では数少ない意義あるモノだろう。

「半分かぁ……」

 煉が蒼い空を見上げた。

 こいつはよく空を見上げる。こいつの意識の一点は、どんな時でも何処か遥か遠くを見つめている。そして空を見上げる時、その小さな染みのような点が不意に滲み、広がり、それはまるでこいつを内側から喰らい尽くすようで、得体の知れない不安に俺の胸の内はざわざわと揺れる。

 煉が俺に視線を戻し、ふと微笑んだ。

「全部集まったら、焰は何になるんだろうね」

「さぁな」バニラ味の染みたワッフルをパリパリと喰いつつ俺は肩を竦めた。「ナニになろうと俺は俺だ。俺が結果的にナニになるかなど興味は無い」

「じゃあなんでカケラ探しなんかしてるの?」

「それが俺のモノだからだ。カケラが集まれば力も強くなるしな。そもそも俺のカケラを無断使用している奴がいるかと思うと面白くない」


 ……カケラを探し続ける限り、(ここ)に座り続けることが許されるから、などと思っているわけでは断じてない。



 ✿ ✿ ✿



 三度目にその少年に会ったのは北の最果ての地だった。重たい灰色の空の下、波に濡れた岩場で少年は海に向かって佇んでいた。

 少年の肩には相変わらず片目の黒い鳥がとまっていた。それがカラスと呼ばれる類の鳥である事を俺は学んでいた。そしてただの鳥であろうが物の怪であろうが、カラスとは強く、賢く、敵にまわせばヤリにくい相手であることも。しかし久し振りに見るその鳥は見る影も無く痩せさらばえて、その羽根は往年の黒光りするような艶を失っていた。

「鴉、なんでこんな寒いところに来たかったの?」

「何故って決まっているだろう。此処が一番俺の黒羽が映えるからさ」

 鴉が低く喉を鳴らすようにして笑い、片方の翼をばさりと広げた。しかし折悪しく吹きつけた冷たい潮風に身震いすると、直ぐに翼を閉じ、不機嫌そうに嘴を胸にうずめた。

「煉、次は何処へゆくつもりだ?」

「……鴉はどこに行きたい?」

「俺はもう何処へも行かん。俺は此処で待つ」

 吹雪いてこそいなかったが、春の遅い北の大地は白く凍てつき、海は流氷で埋めつくされていた。キュー、ギギギィと流氷が鳴く獣じみた音だけが浜辺の静寂を破る。

「……煉、分かっているな。俺が死んだら、俺の躯は灰も残さず焼け」

 俯いた少年の横顔を年老いた鴉がじろりと睨んだ。

「俺の躯は俺のモノだ。誰にもやらん。羽一枚でも残しておこうだのと、ゆめゆめ考えるな」

 老いてなお鋭い鴉の眼光を避けるかのように、少年は風に乱れる黒髪に顔を隠し、海を埋める流氷を無言で見つめていた。



 喰い物でも探しに行ったのだろうか。少年が岩場を離れた隙に俺は鴉に近付き、痩せてすっかり艶を失った黒羽をジロジロと眺めた。俺の気配に振り返った鴉は胡散臭そうにジロリと俺を一瞥したが、しかしたいして気にする風も無く、僅かに肩を竦めると流氷に目を戻した。

「オイ」

 奴の座る岩によじ登り、声を掛けた俺を奴は無視した。

「オイ、老いぼれ」

 尻尾の先でパシリと奴の背中を叩こうとした途端、死にかけの老いぼれとは思えぬ速さで鋭い嘴が俺の眼玉に向かって突き出された。

「なんだ、短気な奴だな!」

 慌てて飛び退き文句を言っても、奴は不機嫌そうに押し黙ったまま振り向きもしない。感じの悪い奴だ。しかし俺は構わず話し掛けた。

「なぁ、お前と一緒にいるニンゲンだが、あいつは煉ってヤツだろう? 面使いだって聞いたぞ。人魚を殺して不老不死になったって本当か? 気性の荒い人魚をどうやってあんなガキが殺したんだ?」

「……失せろ」

「お前、どうしてニンゲンなんぞと旅しているんだ? それも退魔の力を持つ奴なんぞと? 奴の力が怖くはないのか? 奴の一族は死に絶えたんだろう? なんでだ? 奴が殺したのか?」

「ウルサイ奴だな」膨らませた肩の羽毛に苛立ちを漂わせ、鴉が俺を睨んだ。「煉がヒトを殺すわけないだろう」

「だけど鬼が言っていたぞ。奴の血族は奴のせいで絶えたって」

「……アレは煉の所為ではない」鴉が低く嗄れた声で忌々しげに答えた。「強い退魔の力を得る為には血の濃いモノ同士で婚姻を結び続けなければならん。濃い血を持つ者の絶対数が足りなければ産まれてくる子の力は弱まり、やがて普通のヒトと変わらなくなるのは自然の道理だ」

「ふーん。よくわからんが、しかしそんなに簡単に失われるとは、その退魔の力ってのは余程不自然なモノだったのだろうな」

「……どういう意味だ」

「だってそうだろうが」と俺は肩を竦めた。「此の世で生きるのに有利な力なら、普通は自然と子孫に受け継がれてゆくものだろう? 道理と言うなら、生きるのに得にならん力を切り捨ててゆくのが生き物としての道理だろうが」

「ふむ」鴉が初めて正面からまじまじと俺の顔を見た。「貴様、ただのお喋りで成長不良の野狐(やこ)というわけでもないな」

「当たり前だ。俺をあんな下品な奴等と一緒にするな」

 旅先で時々出会う目付きの悪い野狐達を思い出し、思わず憤慨して息を荒げた。しかし鴉はふんと鼻を鳴らすと、「狐なんぞどれも似たようなもんだろうが」などと憎まれ口を叩き、再びそっぽを向いた。実に気分の悪い鳥だ。あの鋭い嘴さえなければ獲って喰ってやるのに。

「お前こそオカシナ奴だ」齢数百歳、下手すれば千歳にもなるかと思う程、硬くて不味そうな鳥肉を横眼で睨みつつ言ってやる。「死んだら自分を焼けだのと、何故あいつに言ったんだ? 俺が見たところ、あいつはお前を焼きたいとは思っていない。なのに死んだ後までそんな厭がらせみたいなことをするのもどうかと思うぞ。それともナンダ、お前、死んでも厭がらせしたいと思う程の恨みでもあるのか? カラスとは執念深い生き物だからな」

 阿呆か、と鴉が吐き捨てるように言った。

「……俺と煉が古くからの知り合いであることは周知の事実。俺の躯の一部でも残っていれば、煉を誑かそうなどと思う奴等がそれに憑くかも知れんだろうが」

「しかしあいつは面使いだろう? 奴等が祓う全てのモノは無に還る。祓われればオシマイだぞ」

「死んだモノはただの肉だ。それ以上でもそれ以下でもない。死んでから焼かれるなら、別に祓われるわけではないから支障はあるまい」

「本当か?」

 鴉が目を逸らすとふんと鼻を鳴らした。

 コイツ、と俺は思った。コイツ、死んでから祓われることの安全性なんか本当は知らないんだな。それでも灰すら残さず自分を焼けという。オカシナ奴だ。

「なぁ鴉、お前、死んで生まれ変わったらどうする?」

「……何がだ?」

「生まれ変わって、もし今生の記憶が残っていたら、また奴と共に生きたいと思うか?」

「お前、馬鹿か?」鴉が顔を顰めて呆れたように嘆息した。

「俺は今生、あいつのせいで散々な目に遭った。あいつが産まれてから何百年もの間、腐れ縁でヒトのお守りなんぞしてきたんだ。ようやく御役御免で清々さ。俺はあいつの探しモノに十分付き合ってやった。次は自分の探しモノの番だ」

「何を探しに行くんだ?」

「……黒い翼をもつヒト」

「翼をもつヒトだと? なんだそれは、新種の妖か?」

 奴はふと黙り込み、ナニを想っているのか、その霞んだ眼を遥かに遠い空へ向けた。

「オイ」

 俺に声を掛けられ我に返った奴はじろりと俺を睨み、「お前なんぞに話す筋合いはない」などと言ってむっつりと嘴を噤んだ。

 この無愛想な黒い鳥とあの少年は一体どれほどの時を共に過ごしてきたのだろうか。俺が俺として此の世に在るずっと以前から、此奴はあの細い肩に座って世界を観てきたのだろうか。けれども永遠に続く旅などない。ヒトも獣も妖も、同じ形で此の世に在り続けることは叶わない。

 座るモノのいなくなった少年の肩をふと思い浮かべ、その寒々しさに身震いした。

「……お前が死んだら奴は独りになるな」

 不意に鴉が鈍色にひかる空に向かって闇色の翼を広げ、肩を震わせた。

「誰が隣にいようがいまいが、あいつはいつも独りだ」

 何かを嘲笑うような耳障りな鴉の声が流氷に埋まる海に響き、その妙に悲しげな嗤い声が俺の内にいつまでもこだました。



 北の国の天気は変わりやすい。空が重く、暗くなり、ちらちらと舞う雪があっという間に吹雪き始めるのを見て、少年が戻って来る前に俺は岩場を離れた。用心深さでは狐は鴉に引けを取らない。退魔師などにかかずらわって面倒ゴトに巻き込まれるのは御免だ。少年が何を探しているのかは知らぬが、俺にも俺の探しモノがある。しかし目を瞑ると何故か、風の中に独り佇む少年の横顔と鴉の嗄れた嗤い声が胸を()ぎり、どうしてもその凍った海辺を離れることが出来なかった。

 鴉の待つモノが来るまで、と俺は考えた。ソレを見届けるまでここにいたって別にイイだろう。

 吹雪を避けて背後の木立に逃げ込みつつ、黒い鳥の影に駆け寄る少年の後ろ姿にちらりと目を遣った。



 年老いた黒い鳥の待つモノは、それから幾日もしないうちに訪れた。

 三日ほど吹雪いた空がようやく静まり、久し振りに雲に切れ間が見えた日の事だった。地に積もった深い雪に埋もれるようにしてゆっくりと歩いてきた少年が、海を見下ろす崖の端に腰掛けた。

 風も無く、遙か沖合を漂う流氷の鳴き声も遠く、辺りは穏やかな静けさに包まれている。銀白色の世界で、少年と黒い鳥はひっそりと肩を寄せ合い、ただ無言で頭上に広がる青い空を眺めていた。世界(そこ)には、少年と黒い鳥しかいなかった。

 やがて陽が傾き始め、少年の影法師が足跡ひとつ無い雪原の上を細く長く俺の足元まで伸びてきた。影法師の端を踏まないよう、俺はそっと後退った。

 ばさり、と羽音を立てて、不意に鴉が翼を広げた。その影が少年の影に重なり、まるで少年の影法師に翼が生えたように見えた。それは、翼を持つヒトだった。

 海の、世界の向こう側に沈もうとする夕陽に向かって飛び立とうとするかのように、鴉がその大きな翼を幾度も羽ばたかせた。そしてその度に、己をこの地に縛るナニカから逃れようとするかのように、少年の影が羽ばたく。

 イクナ、と叫びたかった。おまえは此処にとどまれと。おまえは此処に在るべきなのだと。けれどもたとえ声の限りに叫んでも、俺の声など奴等の耳には届かない。

 何故なら、世界(そこ)には、少年と黒い鳥しかいなかったから。


 沈む夕陽に世界が燃える。しかし視界を真っ赤に染めるその光も、その身を覆う死の影に霞んだ黒い鳥の眼には映らなかったのであろう。

「……暗いな」と鴉が掠れた声で呟いた。「……火が欲しい」


 逝く先に在る、澄んだ空への道を照らす火が。


 それが奴の最期の言葉だった。

 陽が沈み、世界が色を失った。忍び寄る闇の中、冷たい骸を胸に抱く少年の小さな背中は身動(みじろ)ぎひとつせず、凍てつく世界の端に独り佇んでいた。

 風向きが変わったのであろうか。沖に出ていた流氷がゆっくりと岸辺に近づいて来た。

 暗い海に流氷が淡く仄光り、そして流氷が鳴く。

 命の気配の無い闇の中、おんおんと虚ろな声を響かせ、流氷だけが泣く。

 眼に視えぬ巨大な獣が延々と泣き荒ぶようなその音に耐え切れず、耳を塞ごうとした時だった。少年が不意に顔を上げ、暗い夜空を仰ぎ見た。あいつを取り巻く空気がゆらりと光って揺らぎ、次の瞬間、その全身が燃え上がる炎に包まれた。

 弔いの炎は紅くはなかった。

 それは、蒼白く、透明で、その澄んだ焔の向こう側で世界が(まぼろし)のように揺れて煌めいた。

 ごうごうと哭く炎に煽られ、地に積もった雪が吹雪のように空に舞う。凍える炎が地を舐め、天を焦がし、その凄まじさに天空に棲まう神々までもが息を潜め、そして少年の腕の中、羽の一枚すら残すことなく鴉は消えた。


 ヒトは悲しい時に泣くわけではないことを、俺はこの時に知った。

 蒼白に凍てついた横顔で微動だにせず暗い空を見つめていたあいつは、最後まで一滴の涙も零さなかった。


 炎が消え、辺りに静寂が戻った時、俺は少年の肩を駆け登った。

「おい、次は何処に行く?」

 振り返ったあいつは少し驚いたようにあの黒々と濡れた眼を見張り、やがて眼を細めると、口許を幽かに綻ばせた。



 ……俺は知っている。

 俺が死んでも、煉は泣かない。


(To be continued)

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