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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
41/123

忘れ草(前編)

忘れ草 何をか種と思ひしは つれなき人の心なりけり (古今集・素性法師)


     ❀


 誰かが言った。記憶はヒトそのものだと。喜び、怒り、哀しみ、生きて歩んだ道程の記憶の全てが、ヒトを形造る。


 ならば記憶を失った時、ヒトはナニ者になるのだろうか。



     1


 

 何故か、年を取ると昔の記憶ばかりがつい昨日の事のように鮮明に思い出される。公園のベンチに腰掛けて編み物をしていたあき子は、テンテンと近くで子供がボールをつく音に合わせて、知らず知らずのうちに鼻歌を口ずさんでいた。これはわたしが幼い頃、姉が教えてくれた唄だったか。

 根雪が解ける頃、出稼ぎから帰って来た父がお土産に買ってきてくれたあの紅いゴム毬はとてもよく弾んだ。でも弾みすぎて、ちょっと手元が狂った拍子に川に転がり落ちてしまった。ぷかぷかと冷たい雪解け水に流される紅い鞠を追いかけて泣きながら水際を走っていると、アホかー、と怒鳴りながら兄が走ってきて川に飛び込み鞠を捕まえてくれた。アホウが、川のそばで鞠遊びなんかすんなや、と言って、ぽたぽたと水を滴らせた兄はあき子の頭にぽかりとゲンコツを落とした。口が悪く手も早く、すぐ怒る兄。でも弟妹の面倒見はよく、ここぞというところでいつもヒーローのように現れ、怒鳴り散らしつつ窮地を救ってくれる。弟妹は皆、そんな兄を恐れ慕っていた。

 もうすぐ兄の七回忌になる。時が経つのは早い。


 ふと空を見上げた拍子に、毛糸玉が膝から転がり落ちた。慌ててベンチから立ち上がり、ころころと逃げてゆく毛糸玉を追いかけた。と、小道を歩いて来た少年が足下のそれを爪先で踏んで止めた。

「あらあら、ごめんなさいね。ありがとう」

 解けた毛糸を巻き戻しながら歩み寄ってきた少年にあき子が礼を言った。

「真夏にマフラーなんか編んで、物好きだな」

 あき子に毛糸玉を手渡しながら少年がぶっきらぼうに言った。

「年を取るとね、時間が過ぎるのがあっという間なのよ。目も悪くなって、マフラーひとつでも今から編み出してようよう冬に間に合うのよ」

 それに渡す相手がいつ現れるかもわからないしね、と言ってあき子が微笑んだ。

「渡す相手って、どうせ孫かなんかだろ?」 鮮やかな臙脂色の毛糸を見て少年が言うと、あき子が目を細めて手の中の柔らかな毛糸玉を撫でた。

「私の孫は高校生で、おばあちゃんが編んだマフラーより彼女の手作りが欲しい年頃なのよ。これはね、この公園に時々遊びに来る、あなたくらいの年の男の子のために編んでいるの。こんなおばあさんの編んだマフラーなんていらないかもしれないけど、でも前に手編みのセーターを褒めてくれたからねぇ。もしかして喜んでくれるかと思って」

 艶やかな黒髪の少年の人懐っこい笑顔を思い出し、あき子がふと微笑んだ。「本当はセーターを編んであげたかったんだけど、あなた達くらいの年の子はあっというまに大きくなっちゃうからねぇ。寒くなる前にまた来るとは言っていたけど、最後に煉くんに会ってからもう何カ月にもなるしねぇ」

 つまらなそうに辺りを見回していた少年が不意にはっとしてあき子を振り返った。

「……婆さん、あんた煉の知り合いなのか?」

「まぁ、あなた、煉くんのお友達なの? 世の中は狭いわねぇ」

 確かにこの少年は煉と同じ年頃だ。学校のクラスメイトだろうか。真面目な顔で机を並べる少年達を想像してあき子が顔を綻ばせた。そんなあき子を少年が無表情に見返した。

「友達じゃないよ」

「え?」

「俺と煉は友達なんかじゃない。奴はある意味有名人で、確かにあいつの事を知っている奴は多い。だけどあいつに本当の友達なんかいないのさ」少年が口の端を歪めるようにして嗤った。「煉は一見人当たりもいいし、表向きは誰とでも仲良くなれる。だけどあいつは決して己の腹の内を晒しはしない。そんな奴に友達が出来るわけないだろう?」

 困ったように自分の口許をみつめるあき子を見て、少年が僅かに目を細めた。

「知ってるかい、婆さん。煉は自分の兄貴を探しているんだ」

「まぁ、お兄さんは家出でもされたの?」

「違うよ、アイツの兄貴は随分前に死んだのさ」

 考え込むように黙り込んだあき子を少年がじっと見つめる。

「とても仲の良い兄弟だったらしい。煉の母親ってのは奴が赤ん坊の頃に死んじまってさ、年の離れた兄貴が煉を育てたんだ。だけどその兄貴も若くで死んだ。煉はその死が受け入れられなくて、だから死んだ兄貴が生まれ変わり、いつか此の世に現れる、って信じているんだ。いつ、何処で、どんな形で生まれてくるとも分からないのに、それどころか魂の転生なんてそんなことが本当に可能かどうかすら分からないのに、それでもずっと兄貴を探して旅をしている」

「そんなこと、全然知らなかったわ……」 あき子が呆然と呟いた。「だって煉くんはいつも朗らかで、無邪気で、まさかそんなことを考えているなんて……」

「気が付かなくても仕方無いさ。あいつは決してヒトに、それも赤の他人に己の心の内なんて見せないからね」と言って少年が嗤った。

「風の噂に兄貴に似た人間を見たと聞けば、たとえそれがどんなに信憑性の薄いものであろうと、あいつは必ずひとつひとつ確かめていく。噂話すら得られない時でも、あいつは決して足を休めはしない。ある時は山奥の過疎の村をひとつづつ訪ね歩き、またある時は街の人混みを彷徨う。俺はあいつが雨の中、傘もささず、何時間もただひたすら道ゆく無数の人間を見つめ続けているのをみたことがある」


 街路樹にもたれ、目の前を通り過ぎてゆく無数のひとを見つめる少年のしっとりと濡れた黒髪。髪から滴る雫。濡れたアスファルトに街のひかりが滲み、タイヤが泥を跳ねあげ走り去る。絶え間ない雨音と街のざわめきが織りなす沈黙。

 誰も振り向かない。誰も立ち止まらない。誰しもが、ただ通り過ぎてゆく。

 雨に冷えたその指先に、少年は何を想うのか。


「あいつを知っている奴等は皆思っている。あいつはいつか壊れる、って」


 あき子が煉と初めて出会ったのは、公園のこのベンチだった。あの日はなんだかやけに早く目が覚めてしまい、しかし物音を立てて家族を起こしてしまうのも憚られ、散歩でもしてこようとそっと家を出た。二月の空気は冷たかったが、雪国育ちのあき子には清々しく気持ちが良かった。

 木立の奥から聴こえる楽しげな鳥の囀りにふとあき子が足を止めた。早朝の誰もいない公園のベンチで、黒髪の少年が沢山の小鳥に囲まれていた。それはまるで朝霧に霞む一枚の絵のようで、とても不思議な光景だった。肩や膝に乗った小鳥達に微笑みを浮かべていた少年がふと顔を上げた。あき子に気付いた少年が何か囁くと、鳥達が一斉に飛び立った。ベンチに近付いてきたあき子に少年がオハヨウ、と言って微笑んだ。

 なんて暖かく柔らかに微笑む子だろうと思った。


 あの微笑みを濡らす雨の冷たさを想い、胸の奥が痛んだ。


「婆さん、あんたがあいつを助けてやりたいなら手を貸してやってもいいぜ?」 じっとあき子を見つめていた少年が不意に言った。「……俺も奴にはだいぶ借りがあるからな」

 本当に?!と言ってあき子が身を乗り出した。「教えてちょうだい。煉くんのために私に何か出来ることがあるなら、なんでもするわ!」

「じゃあ、ちょっと目を瞑ってじっとしてて。イイって言うまで開けるなよ」 あき子が目を閉じた。不意に胸の内が冷たい手で触られたようにひやりとした。しかし言われた通りじっと我慢していると、少年が、もういいよ、と言った。あき子が目を開けると、少年が指先に摘まんだ一粒の種を見せた。

「忘れ草の種だよ」と少年が言った。「ヒトは誰でも、胸の内に忘れ草の種を持っている。これはあんたの種だ」少年が種をあき子の手の平に落とした。

「これはとても特別な種なんだ。もしあんたがこの種を育て、花を咲かせることが出来れば、煉は探しビトに逢うことができる、って言ったら?」

「育てるだけでいいの?それだけで煉くんがお兄さんを探すお手伝いができるの?」こう見えても庭仕事は得意だ。草花を育てるのには自信がある。しかしあき子が勢い込んで目を輝かせると、安請け合いはしない方がいい、と少年が言った。

「種を育てるのは、婆さん、あんたの記憶さ」

「記憶?」

「つまりね、種が育つにつれ、あんたは色んな事を忘れていくんだ。幼い頃の記憶、家族のこと、楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったことすら忘れてゆく」少年の眼が暗いひかりを帯びた。「ねぇ、あんたに出来る? 赤の他人の幸せのために、あんたの中の大切な思い出を犠牲にできる?」無言で手の中の仄かにひかる種を見つめるあき子に、少年が微かに嗤った。

「今すぐに答えを出す必要はないよ」

 あんたが覚悟を決めた瞬間からその種は育ち始める。そう言うと、少年はベンチから立ち上がった。



     2


 タッタッタッと規則正しい足音に振り返ると、背後から走ってきた若者と目が合った。

「あら、ハジメ、ジョギング?」 若者がむっつりとした顔で頷き、しかし歩調を緩めてあき子と並んだ。孫のハジメは高校三年生。無口で愛想がないのは別に怒っているわけではなく、まぁ軽い反抗期というか、年頃の若い男の子などこんなものなのだろう。

「こんな暑いのによくマラソンなんかするわ。熱中症にでもなったらどうするの」

 まだ朝の10時にもならないというのにびっしょりと汗ダクのハジメの顔を見てあき子が呆れたように笑った。ハジメは元陸上部で、つい最近まであき子もよく県大会などに応援に行った。と言っても、別にそれで大学に推薦入学できるほどの才能はなく、今はヒーヒー言いながら毎日塾の夏期講習に通っている。暑いのにご苦労なことだ。ハジメが無言であき子の荷物を奪い自分の肩にかけた。

「まぁ、親切ねぇ。ありがとう」ハジメが恥ずかしげに目を伏せた。

「あんた、喧嘩ばっかりしてないで、たまにはお母さんにも優しくしてあげなさいよ?」

 にこにこと微笑むあき子の隣を歩きながら、ハジメが口を尖らかせた。最近嫁と孫は進路や受験の事で何やら衝突しているらしく、口を開けば大喧嘩、黙っていても無言の攻防が続いていて、家の空気がギスギスしてかなわない。

「……だってウザいんだもん。俺の志望校が気に食わないからってさ」

 まぁねぇ、あんたの人生だからねぇ、と言ってあき子が微笑んだ。

「でもねぇ、おばあちゃんは学も無いし、難しい事なんかよく分からないけどねぇ。お母さんや先生はあの人達なりにハジメの事を一生懸命考えてくれてるんだろうから、一度くらいちゃんと話を聞いてあげないとあかんよ?」

「……そんな事言ったってさ、向こうはこっちの話なんか聞く気ねぇもん。俺だってやりたい事くらいあるのにさ」

「ハジメが自分で考えて本当にやりたい事なら、誰にも遠慮することないやないの」あき子がにこにこと笑った。「お母さんの話を聞いてあげた上で、『話はわかりました、でも俺はこうしたいです』って言えばいいのよ。でも、怒った顔で言ったらあかんよ?にこにこ笑って言うのよ?」

「それで反対されても、おばあちゃんは俺の味方だよね?」

「まぁ、味方がいないと自分のやりたい事もよう出来ないの?」顔を赤らめて俯いたハジメを見てあき子が笑い声を上げた。

「心配しなくても、おばあちゃんはいつだってハジメの味方よ」でもお母さんの攻撃の矢面に立つのだけは堪忍ね、と言ってあき子が片目を瞑ってみせた。


 ハジメとあき子に血縁関係はない。あき子と夫は子に恵まれず、ハジメの父の崇志は養子だった。もっとも崇志は夫の妹の子なので、ハジメは夫の血を引いている。


 律子の陣痛が始まった時、あき子は崇志や律子本人以上に狼狽えた。律子が呻く度にオロオロとして涙目でハンカチを握り締めるあき子に、律子の母も呆れていた。

「そんなに心配しないで下さいよ、お義母さん。案ずるより産むが易しって言うじゃないですか」と産む本人にまで言われてしまい、それでも胸が痛くなるほどドキドキして本当に気絶しそうだった。

 無事に産まれたハジメを、律子と崇志は最初にあき子に抱かせてくれた。

「でも、そんな、律子さんのお母様を差し置いて……」それに私はこんな小さな赤ン坊を抱いたこともないし、と言ってあき子が後退りすると、だからですよ、と律子の母が笑った。

「うちは律子の上に二人もいて、孫はこの子で4人目です。赤ン坊なんてとっくに抱き飽きてますよ。だから、この子はあき子さんが抱いてやって下さいな」

 私はこんなにイイ人達に囲まれて、なんて恵まれているのかしら。チンクシャの猿の出来損ないのような赤ン坊を律子から手渡され、あき子は感謝と喜びでぽろぽろと涙を零した。


  ❀


「……ハジメ」

 脱ぎ散らかされた孫のランニングシューズを揃えていたあき子が顔を上げると階段を見上げた。二階の自室に入りかけていた孫が階段の上から顔を覗かせた。

「頑張りんさいよ」と言って、あき子が微笑んだ。「いつも心を自由に、自分が一番いいと思うことをしなさい。おばあちゃんはいつだってハジメの味方やからね」


 不意にぴしりと微かな音がして、手の中の種が割れた。一瞬にして、赤ん坊の産毛のように柔らかな毛に覆われた白くひかる根が伸び、何匹もの細い蛇のように掌をのたうち、指に絡みついた。

「……ばあちゃん、どうしたの?」

 身じろぎひとつせず自分の手を見つめるあき子を不審に思ったのか、階段から降りてきたハジメが不思議そうに声をかけた。ややしてから顔を上げたあき子が、ぼんやりとハジメの顔を見つめ、ふと目を逸らし、そのまま無言で玄関横の自室に入っていった。後に残されたハジメが何か言いかけてやめると、首を傾げながら二階に上がっていった。



     3


 朝起きた時から何と無く体がだるく、気分が億劫だった。しかし玄関の隅に置きっ放しにされていた手提げ袋の中の編みかけのマフラーを見た途端にあの少年の言葉を思い出した。あの少年は公園にいると言った。あの少年に会わなければ、会って話を聞かなければ。自宅の玄関を出たところで顔に幼さの残る青年がストレッチしていた。

「おはよう、ばあちゃん。公園行くなら途中まで一緒に行こうか」と言いながら青年があき子の荷物に手を伸ばした。

「やめてっ」あき子が不意に叫んだ。「これは煉くんのよ!触らんといて!」

 あき子が荷物を守るかのように胸に抱きしめると、青年が驚いたように目を見開いた。

「ど、どうしたの?おばあちゃん……」

 騒ぎを聞きつけ、庭で洗濯物を干していた律子が顔を覗かせた。

「なぁに?すごい声出しちゃって、どうしたの?」

「いや、どうしたって言うか、ばあちゃんが公園行くみたいだから途中まで荷物持ってあげようとしたんだけど」

 青年の困惑した顔を見ているうちに、あき子もなんだか困ってしまって、そして妙に悲しくなった。きっとこの青年に悪気はなかったのだろう。突然大事な荷物に手を出されて驚いたとはいえ、怒鳴ったりして悪いことをした。あき子が頭を下げると青年に微笑みかけた。

「まぁ、ご親切にすみません。でもご心配には及びませんので」

 にこにこと頭を下げながら家を出てゆくあき子を律子とハジメがやや呆然として見送った。


 早朝の公園には誰もいなかった。ベンチに腰掛けると手提げ袋から編みかけのマフラーを取り出した。深くしっとりとした臙脂色の毛糸を見ているうちに少し心が落ち着いてきた。あの少年は来ると言ったのだから、待っていればそのうちに現れるだろう。それまでマフラーでも編んでいよう。幸い、白い根の絡みついた左手は動かそうと思えば動かせないわけではない。


「……婆さん」

 夢中で編み棒を動かしていると、不意に近くから声をかけられた。びくりとして顔を上げると、すぐ目の前に昨日の少年が立っていた。

「まぁ驚いた。あなたって気配がないのねぇ」

 少年が僅かに口の端を歪めるようにして笑うと、あき子の隣に腰掛けた。

「……種が割れたね」少年があき子の左手をじっと見つめて言った。

「そうなの。昨日、家に帰ったら突然にねぇ。家の者に見せても気味悪がられそうだし、お湯なんかかけたら根っこが痛むかと思って心配で、昨日はお風呂にも入れなかったんだけど。これ、どうすればいいのかしら」

「そのまま、どうする必要もないよ。その草はお湯くらいで枯れたりしない。それに他人に見られる心配をする必要もないよ。あんた以外の人間にはそれは視えないから」

「まぁ、そんな不思議なことってあるかしら?」

「言っただろ、これはとても特別な種だって」少年がうっすらと笑った。「それを育てるも枯らすもあんた次第さ」

「……あの、それで、煉くんはどうなったの?」

「煉か」少年が口許の笑いを消して雲ひとつない空を見上げた。今日も暑くなりそうだ。

「あんたが種を育て始めたお陰で、奴の元に古い知り合いからひとつ有力な情報が寄せられた。奴の兄貴によく似た人間を北の方の小さな町で見たってね。煉は今朝早く、北に向かって旅立った」

 まぁ、と言ってあき子が頬を紅潮させた。「そしたら煉くんはもうすぐお兄さんに会えるのね?!」

「いいや」と言って少年が素気なく首を横に振った。「奴の知り合いは『北の方』としか言わなかった。呆けたような年寄りだからね、町の名前なんて憶えちゃいなかったんだよ」

「まぁ……それなら煉くんはどうするの?」

「決まってるじゃないか。『北の方の小さな町』を虱潰しに探して歩くんだよ。他に情報が入ることを天に祈りながらね」少年が不意に声を上げて笑った。「あぁ、天に祈りながら、ってのは正しくないな。あいつは決して神に祈ったりなんかしない。神頼みってのは奴の性分じゃないし、そもそも奴は神だけじゃない、此の世のダレにも、ナニにも、期待なんかしない」

「でも、そんなの……」あき子が唇を噛んだ。「そんなことしていたら、いつまでかかるか分からないやないの」そうだね、と言って少年が肩をすくめた。

「ま、あいつは慣れているからな。何年かかろうと、根気と辛抱強さだけは誰にも負けないのさ。今までだってずっとそうして来たんだ」

「でも、もっと早くにお兄さんを見つけ出すことは出来ないの?」

「あんたが助けてやればいい」少年がにやりと笑った。「言っただろう?あんたの手の中の種が育てば育つほど、煉は探しビトに近付くって」

 忘れ草を育てるのは私の記憶。あき子が指に絡みつく細い蛇のような白い根を見つめた。根が出たということは、つまり私は何かを忘れたのだろうか。でも一体何を忘れたのかすら分からない。分からないくらいだから大したモノではなかったに違いない。

「それを咲かすも枯らすもあんた次第」

 歌うような不思議な抑揚で少年があき子の耳許で囁くと、ふいっと立ち上がった。

「もう行ってしまうの?」

「また来るよ」

「ねぇ、待って」歩き出した少年をあき子が呼び止めた。「ごめんなさいね、でもわたし、まだあなたの名前をまだ聞いてなかったわ」

「俺の名前なんか聞いたって意味ないよ。どうせ直ぐに忘れちまうんだからさ」

「あら、そんなことないわ」とあき子が慌てて言った。「あなたはとても親切にしてくれてるんですもの、忘れたりしないし、それに名前って大切でしょう?名は体を表すって言うくらいやからねぇ」

「……朧月」しばらく黙ってあき子を見つめていた少年が低い声で言った。

「おぼろづき……?」あき子が首を傾げるとにっこりと微笑んだ。「不思議な、素敵な名前やねぇ」

 にこにこと自分を見るあき子から視線を外すと、どうせ忘れちまうよ、と少年が低い声で呟いた。


(To Be Cotinued)

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