龍神の雨
侘しきは 独り野にみる 濃紫 たもと濡らすは こくりゅうの露 (和泉)
プロローグ
昔々、あるところに、とても綺麗な池があり、ヒトリの龍神様が棲んでおられました。しかし、池は余りに深い山奥にあったので、誰もそこに龍神様がいらっしゃることを知りませんでした。千年の時を、訪ねる者もなく、龍神様はたった一人で過ごされました。ある日、なんだかとても寂しくなった龍神様はこう考えました。
「そうだ、池の周りに花を咲かせよう。そうすれば、虫や鳥が愉しめるし、ヒトもくるやもしれぬ」
龍神様は御自分の眼をひとつ取り、池の縁に埋めました。やがて龍神様のお髭によく似た草が生え、夏になると薄紫の可憐な花が池の周りに咲き乱れました。秋になると、花は、龍神様の眼の色と同じ群青色の実をつけました。
──そして千年後。
秋の収穫を祝っているのだろうか。祭りの囃子が風に乗って山奥の龍神池に微かに届く。静かに澄んだ池の周りの草叢で、ひとりの少女が群青色の実を手に一杯摘んでいた。それを見た子供達が少女に声をかけた。
「おまえ、そんなモンそんなに採って、どーするんだよ。ソレ食えねーぞ」
「だってとても綺麗なんだもの。お部屋に飾るの」
「変なやつ~、行こーぜ。加奈なんかほっといて、早くお祭りに行こう」
子供達が去り、池の縁にひとり残された少女が実を陽に翳した。
「きれい……空と水を集めたみたい。でももっとずっと青い……」
池の中ほどにある岩に静かに坐る龍神の影は、少女の目には映っていたのだろうか。
1
昭和中期。ある暑い夏の日のこと、煉が独り山道を登っていた。
「あ〜、ちょっと休憩」
冷たい谷川の水で汗を拭い、雲ひとつ無い空を見上げて溜息をつく。
「まさかこんな山奥とはね。焰がついて来るのを嫌がるわけだ」
俺はクーラーとアイスキャンデーの無いところには行かぬ、と言った狐の夏バテした顔を思い浮かべる。
「まぁ別にあいつは俺の式神ってわけじゃないから仕方ないけどね。でも一人旅ってのはつまんないなぁ」
煉が再び溜息をついた。そもそも今回の件はどうも気が乗らない。たとえ口の悪い狐でも、いれば少しは気も紛れたのに。
西から東へ、海から山へ。煉は常に国中を旅して歩く。旅の途中で偶然出会った鬼を祓う事はあるが、しかし頼まれてわざわざ退魔に向かうことは滅多にない。今回の件はどうしても断れない筋からの依頼なのだ。だから嫌々山を登っている。
「これはこれは、ようこそいらっしゃいました」
ようやく村に着いた煉を、初老の村長が拝まんばかりにして自宅に迎い入れた。
「本当にもう、ワタクシ共ではお手上げで、村の長として首を吊ろうかと思っていた矢先に煉殿の御高名をお聞きしまして……」
「あー、はいはい。まぁおおまかな話は聞いてるけどさ、一応細かい所を幾つか確認したいんだけど」
迷惑顔の煉の手を握り締め、涙ながらに村長が語ったところを要約すると、つまるところ、水害に悩まされる山間の村に棲む龍神の祓いの依頼だった。村長曰く、龍神は古くからこの地を守ってきたが、先日龍神の起こした大雨によって村が新しく開墾した田畠は古い田と共に流され大損害を蒙った。その上、雨を降り止ませるかわりに龍神が人身御供として村長の娘を求めた。ここで龍神の言いなりになっても今後村の命運を餌にどんな要求が出されるかもわからず、また人身御供に出される娘も憐れ、どうか理不尽な龍神を討って欲しいと頼まれ、煉がぽりぽりと頭を掻いた。
「まぁ、とりあえず龍神と話をしてみるよ」
村長に龍神池の場所を聞き、煉が溜息と共に立ち上がった。
山奥の池は静かに澄み、辺りには可憐な薄紫の花が咲き乱れていた。池の中ほどにある岩に、人型をとった龍神が独り静かに座していた。
確かに神や守りは、一歩間違えばヒトに仇なす魔に成り得るけれど……。龍神の艶やかに流れる黒髪と端正な横顔に煉が首を傾げた。なんか、村で聞いた話にギャップ感じるな。
煉が池の縁に近付いても微動だにしない龍神に、とりあえず声をかけてみる。
「どーも。コンニチワ」
目も開けぬ龍神の姿に煉が軽く溜息をついた。あー、ヒト嫌いのヒッキー型か。ヒトでも神でも、やりにくいんだよね、こーゆータイプ。
「あのさー、村のヒト達がね、あんたが人身御供を要求してきたって言ってるんだけど、本当?」
煉の言葉に龍神がゆっくりと目を開けた。深い濃紺の瞳が、水際に立つ煉を映す。
「……それは願いを叶える代償として、ヒトが自ら言い出した事」
「なーんだ。じゃあさ、人身御供やめにしない? 何か他のものにしようよ」
「……それは出来ない」
「えー、なんでさ? あんたが言い出したことじゃないんでしょ? 第一、飛行機どころか宇宙船が空飛ぶ時代にさ、人柱なんてちょっと古いと思うんだよね。神々も時代遅れは流行んないんだよ。やっぱさ、古い悪習は捨てて、こう熟練サーファーのように時代の波に乗っていかないと」
龍神が無表情に煉を見つめる。
「……これは私とあの者達との間に交わされた約束事。ヒトはよく約束を破る。だが私はそういう訳にはいかない」
「神だから?」
無言の龍神に煉がハァと溜息をついた。
「頑固だな~、そーゆーこと言ってると、神は神でも祟り神になっちゃうよ? 元はと言えばあんたが季節外れの大雨降らせたのがいけないんだからさ」
「……小さき者よ。物事の真偽は己の眼で確かめ決めるが良い」
そう言ったきり、龍神は煉が何を言おうと完全に無視することにしたらしい。無口な神々は実に扱い辛い。仕方が無い。龍神池を後にして、村の被害状況を見て廻ることにした。
村が山を切り開いて開墾した田畠は無惨に流され荒れ果てていた。
「物事の真偽って言ったってねぇ、これはどう見ても大雨大水洪水被害でしょうが」
崩れた堰の上に立ち、大川の急流を眺める。
……小さく貧しい山奥の農村。日当たりの悪い山陰に造られた小さく歪な棚田に、煉が僅かに目を細めた。急成長しているこの国の流れに取り残されたような、こんな村は、この先一体どうなっていくのだろうか。
村へ帰る道すがら、岩陰や頭上の樹々に、様々な精霊や物の怪を目にした。試しに声をかけてみたが、皆ひどく怯えたように隠れてしまう。
「アレ? 嫌われちゃった。俺の退魔の噂でも流れてんのかな? みんなやけによそよそしいなぁ。 やっぱ焰を連れてこなかったのは失敗だったかな」
首を傾げつつ、深い緑に包まれた山々を見つめる。
「深い山々。豊かな自然……でもなんだろう。何かが歪で、嫌な感じがする……」
考えながら歩いていると、不意に声をかけられた。
「みかけん顔じゃし。どこん子じゃ?」
顔を上げると、道端に座り込んだ老婆が不審気に自分を見つめている。我に返った煉が、慌てて屈託無い笑みを浮かべた。
「村長に頼まれて、村の祓いに来たんだ」
「祓いとな?」老婆が不意に憎々しげに顔を歪めた。「あんの業突く張りめが。子供なんぞ巻き込みおってからに……」
老婆が煉に向かって、しっしっと追い払う様な仕草をした。
「こん村には祓いが必要なモンなどおらんし。わかったら、さっさと去ね」
そんな老婆の言葉に煉が不思議そうに首を傾げた。
「でも、龍神のせいで田畠を流されちゃったんでしょ?」
「アレは龍神様のせいと違うし。業突く張り共が余計なことしよったせいじゃし」
「え? それってどーゆー意味──」
聞き返そうとした煉に老婆が突如気色ばんだ。
「それともババか? こんババ祓うんか?」
黄色い歯を剥いて詰め寄ってくる老婆に煉が慌てた。
「え、はい? って、ばあさん、ちょ、どーしちゃったの?」
「うまいこと言いよってもババは騙されんし。死んでも嫌じゃし。御先祖様の眠りよる土地捨てて一体今更どこに──」
「ばぁさん! そげなところでナニ話しとるんじゃ?!」
道の向こうから現れた青年が老婆に駆け寄ると、煉に疑い深げな目を向けた。
「見かけん顔だな。どこんガキじゃ?」
「村長が呼んだ祓い師だと」
老婆の言葉にはっとした青年が、不意に表情を和らげ、煉に向かって愛想笑いをした。
「そうか、それはそれは、こげな惚けたばぁさんの相手などさせてしもうて、すまんこってす。若いとは聞いとりましたが、まさかこんな若いとは思わんかって」
「いや、別にいいんだけど……」
「この婆さんときたら、すっかり呆けちまって、つまらん作り話ばっかりしちまって。では、村長さんにくれぐれもよろしゅう。ほら、ばあさん、家帰るぞ」
「耕太、お前は騙されとる」
「耕太は俺のオヤジ。俺は孫の清だよ」
ぶつぶつと文句を言って渋る老婆の背を押して何やら慌てたように去って行く青年を、煉が首を傾げて見送った。
2
夕方、村に帰って来た煉を待ち兼ねたように村長が出迎えた。
「如何でしたかな? 龍神とは話がつきましたか?」
「ん~、人身御供の件、気を変えるつもりはないって」
村長が忌々しげに舌打ちした。
「あいつめ、こちらが下手に出ていればいい気になって……だから先に申し上げたのです。もうアレはこの地を護る神などではない、村を守るためには祓う以外ないと」
「でも、人身御供の話って、そっちが先に言い出したんでしょ? やっぱさ、約束は約束じゃない?」
煉が皿に盛られた菓子をぽりぽりと食べながら肩を竦めて見せると、村長が拳を握りしめ肩を震わせた。
「それは…… 仕方のない事だったのです。ご覧になったでしょう? 造ったばかりの堰でも止められぬ程の大水で流された田畠を……あのままでは村ごと流されるところだったのですよ?」
「それにしても、人身御供なんて、よくそんな前時代的なもの思いついたね。ちょっと調べてみたけど、この村には別に人柱立てた歴史なんてなかったのに。オマケに自分の娘を差し出すとかさ~」
ちょっとあり得なくない?と煉が首をかしげると、村長が居住まいを正して煉の目を見返した。
「……何をお疑いになってるのかわかりませんが、村のためを想うは村長としての務め。強いて言えば、あの龍神が我が娘に並々ならぬ興味を持っていたことを知っていたので、咄嗟に娘の名を出してしまったのです。私に親としての葛藤が無かったわけではありません」
「ふ~ん、別に何も疑っちゃいないけどね。ちょっと変わってるね、ってだけ」
煉が足を投げ出し、天井を見上げた。ヒトはよく約束を破る、と呟いた龍神の濃紺の瞳を想う。ヒトはよく約束を破る。そしてヒトはよく嘘をつく。
「神様ってさ、ヒトと違って、一度約束した事はそう簡単には反故に出来ないんだよ。咄嗟でも何でも、変な事言うべきじゃなかったね。ところでさ、娘さんとちょっと話がしたいんだけど」
「娘……ですか」村長が僅かに口籠ると、困った顔で顎を撫でた。「……申し訳ありませんが、娘は恐怖の余り病にふしておりまして……龍神の名など聞いただけで怖気をふるい、気の触れたようになってしまい、話などとてもとても……」
「ふ〜ん。まぁ、なら別にいいけど」
席を立った煉を見て村長が慌てた。
「あの、夕餉の支度などさせておりますが……?」
「あぁ、そりゃどうも。でも良かったら、夕飯の前に蔵とか見せてもらえないかな?」
「蔵……ですか?」
「うん、古くて汚い刀とかあったら借りたいんだけど。龍神を倒すとなると、こっちも色々と準備しないとね」
「で、では、祓いをお引き受け下さるのですね?!」
村長が喜びを隠しきれない様子で立ち上がった。
「だって、娘さんを死なせるわけにはいかないでしょ」
「まことに有難いことです。刀なら幾振りか蔵にありますので、早速人を遣って持ってこさせましょう」
「あ、別にいいよ。場所教えてくれたら自分で行くから」
部屋の襖を開けた煉が不意に振り返った。
「あぁ、もうひとつ質問。祓いの報酬なんだけど……」
「それはもう、先日申し上げたとおりのものを用意してありますのでご心配無く。それで足りないようなら……」
「そうじゃなくってさ、いっぱいくれるのは嬉しいんだけど、こーゆー祓いの相場からするとかなり……っていうかすごく多いんだよね。この村って災害にあったばっかりだし、小さい村だし、あんまりお金に余裕ないんじゃないかと思って。なんでこんなに払うの?ってか大丈夫?」
「金は……村の将来を考えて、皆で出すことを決めました。足りない分は実の娘のことでもありますし、私の懐から出しました。報酬の相場ですが……」
村長が僅かに言い淀むと、ひとつ咳払いした。
「……実は煉殿より以前にも幾人かの退魔師に祓いを頼んでおりまして。まぁその退魔師達には荷が過ぎると断られたのですが、その折に聞きました。龍神とは、ただ倒すだけでは足りず、事と次第によっては後々に禍根を残すこともあると」
村長の言葉に煉が目を細め、にやりと笑った。
「……知ってるんだ、龍の夢見のこと」
「はい。その夢見なるものを食い止めるのは、生半可な退魔師では無理だと聞いて……」
「それで知り合いを通じて俺に依頼が来たんだ。なるほどね、夢見止めの分も含んでるなら、ま、相場だね」
頭を下げる村長を後に、煉が部屋を出た。
❀
村長に案内されて入った薄暗い蔵の奥で、煉がひとり刀剣を選んでいた。刃の綺麗なモノには眼もくれず、なるべく古そうなモノを探しつつ、村長の言葉を思い返す。
「龍の夢見か……」
鞘から抜いた刀身を月明かりに透かす。
「龍神は死の直前に最期の夢を見る。吉夢凶夢にかかわらず、その夢見は必ず現身に返る。夢見を砕くのは龍神を倒すよりも難しい……」
酷く錆の浮いた刀をみつけ、軽く振ってみる。
「理不尽でも約束は約束、それを破られた上に祓われるんじゃ、龍神が村の壊滅を夢見ても仕方が無い。村長の心配もまぁ妥当だね」
蔵から出た煉が、屋敷の奥から聞こえてくる女のすすり泣く声に耳を澄ませると溜息をついた。
「水を司る龍神ねぇ。水系は苦手なんだよなぁ。オマケになんかしっくりこないけど、まぁやるっきゃないか」
3
翌日。布に包んだ刀を手にした煉が、再び龍神池にやって来た。池の中の岩に座った龍神が静かに空を見上げると、みるみるうちに陽が翳り、ぱらぱらと雨が降りだした。
「どーも。最終告知に来ました」
無表情に自分を見る龍神に煉が溜息をついた。
「あのさー、実は俺、あんまりアンタと争いたくないんだよね。なんか今回の件は気分が乗らなくってさ。そもそもアンタさ、なんでイキナリ大洪水なんか起こしちゃったわけ? 過去にそんな事一度も無かったのに。今までずっと村のヒトと上手くやってきてたんじゃないの? もしかして、なんか気に入らない事があったんじゃないの?」
「……神ともあろうモノが、ヒトの子に己の行いを説明する謂れはない」
無表情な龍神の一言に煉がゲンナリした顔をする。
「これだから神仏相手の仕事は嫌なんだよ。あんた等ってば無駄にプライド高すぎて会話が成立しないんだもん。常識も通じないことが殆どだしさ」
煉を見つめていた龍神がふと目を逸らした。
「……ひとつ尋ねたい」
「いいよ、なに?」
「娘は……加奈は息災か?」
「加奈って、村長の娘さん? あのヒトなら、屋敷の奥に引きこもって毎晩泣いてるよ。ま、ウラ若き乙女がイキナリ人柱とか言われちゃったらねぇ」
何を考えているのか、龍神が池の周りに咲き乱れる薄紫の花をじっと見つめた。
「あんたさ、村長の娘と知り合いなの? なんか色々言われちゃってたよ? 神のくせに興味津々だったとかなんとか」
無言の龍神に煉が肩を竦めた。
「あんたと争いたくないとは言ったけど、でも俺もヒトに禍いをもたらすモノを見逃すわけにはいかないんだ。娘を諦めてここを出て行く気はない?」
不意に雨脚が強くなり、龍神が視線を煉に戻した。
「人柱など要らぬ。だが私はこの地の守護神であり、此処を離れるわけにはゆかぬ」
龍神の言葉と共に雨脚がますます強くなり、空を稲妻が走る。煙るような雨の中、煉が不安を押し殺すように龍神を睨んだ。
……なんだろう。このすごく嫌な感じ。何かを見落としている気がする。
「……守護神って言ったってさ、アンタと村人の信頼関係もうガタガタじゃん」
「私は千年よりもっと昔、ここにヒトがくる遥か以前よりこの地を護ってきた。人の子の都合でこの地を見捨てるわけにはいかぬ」
龍神が煉の暗い顔を見つめ、微かに嗤った。
「神はヒトを護るために在るとでも思うたか? お前はそれほど愚かではあるまい」
「……知ってるよ。でもヒトは……必要とあれば神でさえも殺す。だから、ヒトでないモノ達は、生き残る為にはヒトと上手く折り合いをつけていくしかないんだ」
煉が唇を噛んだ。よりにもよって、なんで俺がこんなこと言わなくちゃいけないんだ。こんな、イヤな、俺が一番嫌いなことを。
そんな煉を、龍神が哀しげな眼で優しく見つめた。
「……小さきモノよ。心にも無いことを口にして、己を傷つけることはない」
激しい雨が池を波立たせ、煉の頬を横殴りにする。煉が歯を喰いしばると顔を上げ、正面から龍神を睨んだ。
「じゃあこれで最期だよ。ここを出て行く気はないんだね」
「……ない」
懐から出した面を被る。空を走る稲妻に、紅く鮮やかな面の模様が浮かび上がった。
「……火焔の面使いとは珍しい。が、水相手では余りに不利であろう。大丈夫か?」
「こっちも伊達に退魔で食っちゃいないからさ」
煉が苦笑いすると刀を鞘から抜き、その錆の浮いた切先を池の水に沈めた。
「……水の嫌う錆の穢れか」
龍神が僅かに眉をひそめた。雨に濡れた刀の錆が池の水を赤く染めてゆく。血のようだ、と煉は思った。水を染める錆は、まるで腐った血のように不吉だ──
不意に赤く染まった水面に火が走り、龍神の坐る岩を激しい炎が取り巻いた。龍神がその眩しさに目を細めた瞬間、炎を纏った刀を手にした煉が龍神に飛びかかった。
龍の多くは闘神だ。当然反撃があるものと身構えていたのに、龍神は静かに座したまま微動だにしなかった。何故相手が動かないのか……一瞬の戸惑いに、動きの鈍った刀の切先をすいっと避けた龍神が煉の腕を摑んだ。
「……何故迷う?」龍神が焦る煉を見て静かに微笑んだ。「面を被っても、お前の闇は隠せない」
龍神の濃紺の瞳が面越しに煉の目をじっと見つめる。
「お前の闇は『迷い』──だが今、ここに迷うべきことなどないはず」
龍神が煉の持つ刀に眼をやると、落ち着いた表情で頷いた。
「少々古いが良い刀だ。お前の焔と併せれば、確かに私を貫くこともできようか」
龍神が煉の持つ刀を自ら喉に突き刺した。
「な……!」煉が驚きに目を見開いた。「なにやってやがんだテメーっ、馬鹿ッ、離しやがれッ!」
龍神が微かに目を開けて微笑んだのをみた瞬間、背筋に寒気が走った。
「……お前、最初っから戦う気なんてなかったのか。 戦わず、力の全てを夢見に使う気だったのか……!」
龍神の腕を振りほどこうともがく煉の中に、刀を通じて否応もなく龍神の記憶が流れ込んできた。
❀
龍神の追憶の中、龍神池の前に村長をはじめとする数人の村の重役達がひれ伏している。村長の口にした願いに、龍神が首を傾げた。
「……もっと雨を降らせて欲しいだと……? しかし今年はすでに充分のはず……」
「畏れながら、新しく田畠を開墾いたしました。そこに水を引き入れるためには川の水嵩が少し足りず──」
「だが、これ以上水嵩が増せば、古くからある田畠が水浸しになろう」
「それは大丈夫でございます。新しく堰を作りました。川の水が増しても、元からある田畠には水はいかず、新しい田畠のみを潤せます」
村長が龍神を見上げると薄笑いを浮かべた。
「誠に図々しい願いとは承知しております。しかし切迫した村の財政を立て直すためにはどうしても龍神様のお力をお借りしないわけには……また、代わりと申しては大変失礼ですが、我が娘の加奈を龍神様に差し上げたく……」
龍神が微かに眉を顰めて村長を見た。
「……その話、娘は知っておるのか」
「勿論でございます。龍神様のもとへなら、娘も喜んで参りましょうぞ──」
雨に増水した河が堰を切って田畠に流れ込む。
(何故だ…… あの程度で壊れるような堰を何故作った……)
河の水を堰き止めようと、龍神が龍の姿で急流に揉まれる。鋭くとがった岩に身を切られ、血を流す龍神の耳に村人達の嗤い声が響く。
「見ろ、龍の奴め、必死に川を止めようとしておる」
「無理だ無理だ。雨を降らすことができても川の水を天に還す事はできん」
「この地に龍など必要ない。今の世にはカミなど邪魔になるばかり」
「おまえなど、このまま海まで流されてしまえ!」
❀
龍神が力尽きたように煉の腕を離し、水に落ちた。煉は身体が凍りついたように動けなかった。そんな煉の目前で、龍神が漆黒の龍の姿となり、大きな珠を守るように抱え込む。その夢見の珠の大きさに、煉が思わず息を呑んだ。
面をかなぐり捨てると両腕に力を込め、焔を練りだす。煉を威嚇するように黒龍が吼える。空気を震わせるその声に、煉が目を瞑った。
……龍神の怒りは深い。こんな大きい夢見、見たことがない。これが現身に帰れば村は死滅する。自業自得だ、と思う。何故俺がそんな奴等を守らなくちゃいけないんだ? でも、きっと、反対したヒトだっていたはずだ。なら何故こんな事になった? 黙って見ていたのは罪にはならないのか? 村には子供だっている。助けるしかない。本当に? 俺にはどうしようもない。だめだ、俺は何を迷っているんだ……?!
ありったけの力を両手に込めながら、煉が思わず叫んだ。
「なんで?! なんで村人達はあんな事をしたんだ?! 洪水はアンタのせいなんかじゃなかったのに……!」
不意に龍と目が合った。片目の龍の瞳は唯ひたすら碧く、淵の水のように冷たく、そして深く澄んでいた。そこにあるのは怒りでも哀しみでもなかった。そこにあるのは──
煉が身を乗り出すようにして龍の抱える珠に映る影を覗き込んだ。次の瞬間、腕の中の焔をコントロールしきれなくなり、同時に龍の夢見が光と共に弾けた。
4
所々焼け焦げてぼろぼろになった煉が足を引きずりながら村に帰ると、家の前で村長が役人らしいスーツを着た数人の男を揉手しながら送り出していた。道の端に立ってそれを眺める煉に村長が気付く様子はない。
「村の反対派は概ね説得いたしましたし、一番の難関だった龍神の始末も今日明日にもつきそうなので、御心配なく……」
頭を下げる村長に、スーツ姿の男達が興味なさげに軽く頷いた。
「では村の移転の為の補償金は後日こちらの口座に振り込みますので、ご確認の後、ご連絡下さい」
車に乗り込む男達の話し声に、煉が振り返った。
「ったく、ダムを作るのに何が龍神の祟りだ」
「補償金の値上げだかなんだか知らないが、田舎者の戯言に付き合わされるこっちの身にもなって欲しいよ」
あぁ、そうか……。煉が眼を瞑った。
ヒトはよく約束を破る。そしてヒトは微笑みながら嘘をつく。
車を見送り、家に入ろうとした村長が道端に立つ煉に気付き、少し慌てて駆け寄ってきた。
「これはこれは、煉殿! その姿、如何しましたか?」
土埃をあげて走り去る車を無言で見つめる煉に、村長が気遣わしげな顔で話しかける。
「どうか家に上がって怪我の手当を……」
煉が疲れた顔で村長を振り返った。
「怪我はどうでもいいんだけどさ、服くれない?」
家に上がり、言葉少なく服を着替える煉に、村長がおどおどとした上目遣いで話しかける。
「それで、あの、龍神の方は……」
「……龍神は死んだよ」
素っ気無い煉の一言に村長が満面の笑みを浮かべた。
「それはそれは──」
突如廊下に悲鳴が響いた。
「嘘っ!龍神様は死んだりしないっ!」
二十歳前後の娘が部屋に駆け込むと、崩れるようにして煉にすがりついた。火傷を負った腕を掴まれ、煉が僅かに眉をひそめ、それを見た村長が忌々しげに舌打ちすると、家の奥に向かって人を呼んだ。
「これ、はしたない。誰か、早く加奈を連れて行きなさい!ったく恥晒しな、龍なんぞに憑かれおって……」
──なるほどね。村長と娘を見比べて、納得がいった顔で煉が溜息をついた。
龍神がいなくなれば水源を護るモノがなくなりダムが作りやすい。オマケに龍好きの娘のこともあって一石二鳥ってわけか。やってくれるね。
「お願い、違うって言って。神様は死なないって……」
娘が煉の服の端を掴んで嘆願する。必死の表情で自分を見つめる娘の白い指をそっとほどくと、ごめんね、と煉が言った。
「残念だけど、この世に永遠のモノなんてないんだ。神でさえも、必要がなくなればその存在は消え去るんだよ」
煉が哀しげに微笑むと、涙に濡れた娘の頬を指先でそっと拭いた。
「ヒトは貪欲で自分勝手だ。ヒトは此の世のすべてを欲し、そして自分達に不必要なモノは神でさえも殺す。あんたの父親と村人達に騙され殺された龍神のようにね」
そう、龍神は必要があって殺されたわけじゃない。ヒトにとって必要がなくなったから殺された。
村長がふてぶてしい顔で首を傾げた。
「なにを仰るやら。私にはなんの事かさっぱりですな」
「あんた達のやろうとしていることが、正しいか間違っているかなんて俺にはわからない。ダムがヒトの生活の安定と発展に繋がるっていうのなら、そうなのかもしれない」
面を肩にかけ、立ち上がった煉が冷たく村長を一瞥した。
「……でも俺を騙して利用したことは許さない」
「あの、お代の方はどのようにお渡しすれば……」
部屋を出て行きかけた煉が立ち止まると村長を振り返り、にっこりと笑った。
「イラナイ。失敗したから」
「は……?」
「龍の夢見、壊せなかったから」
恐怖に引き攣った村長の顔に煉が薄く嗤った。
「もし機会があったら、今度是非教えて欲しいな。神殺しに見合う程の補償金ってどれくらいなのか」
村長のけたたましい喚き声を後に、煉が冷たい表情で家を出た。
怯えるがいい、と呟く。怯えるがいい。己の創った悪夢に永遠に……。
5
村を出た煉が龍神池で足を止め、腕の傷を池の水に漬けた。
「いってーーッ」
先程の雨が嘘のように晴れ上がった空を眺めながら、煉が、はぁ、と大きな溜息をついた。
「あ~あ、流石にあそこまで膨らませた力を内部爆発させると、ダメージでかいな。おまけに自傷行為だと傷の治りが遅いんだよね。でも俺、じーさんや兄者と違って、結界張るの下手だからな~。身体張って止めるしかなかったもんな~」
しばらくぼんやりと腕を冷やしていた煉が、不意に背後を振り返った。木陰にひっそりと立つ人影に、煉が穏やかに声をかけた。
「……来ると思ってたよ」
煉に近づき池の端に座った加奈が、池の周りに咲き乱れる薄紫の花をそっと撫でた。
「この花ね、リュウノヒゲっていうのよ。夏の終わりに、とても綺麗な碧い実をつけるの。子供の頃から、その実が大好きで、よくここに来たの」
……あのヒトに最初に気づいたのは、いつの頃だったのか。あのヒトは、唯静かにその岩に座っていた。子供心に彼が人間ではないことに気付いたけれど、でも怖くはなかった。そっと見上げた瞳は、大好きな実と同じ、とてもとても深い碧色だったから。
花が散って、実が落ちてしまっても、私はここに来た。在るはずのない実を探すふりをして。巡る季節の中、あのヒトはいつも変わらず、独りで、ただ静かに何かをみつめていた。
あのヒトの声を聴いたのはたった一度だけ。洪水の前日、静かな風の囁きのような声で、あのヒトは言った。
『……雨が降る。今日はもうお帰り……』
その時、初めて気づいた。
私があのヒトを見ていたように、あのヒトも私を見ていたことに。
「もう二度と逢えない……」
「……あんたを待ってたのはさ、コレ渡したくって」
煉がポケットからリュウノヒゲの実によく似た小さな碧い珠を出し、加奈に手渡した。
「この村はもうすぐ水の底に沈む。あんたはこれを持って、ここを出て行くんだ」
「龍神様の祟り?」
「……違うよ」
座るモノのいない岩を見つめ、煉が首を横に振った。
珠が弾ける寸前に見た龍の夢見は、あれは祟りの夢見などではなかった。
『何を待っているかもわからぬまま、遙かな刻を、私は独り待ち続けた。水辺に揺らいだ小さな影に、待っていたものが来たことを知った。少女はただそこに在るだけで、私を暖めた。そして、私は倖せという言葉を知った。私は、私の全てをもって夢に見る。私を暖めるその微笑みの絶えぬ未来を……』
「……小さき面使いよ。そのような眼で私をみるな」
傷だらけの煉に、消えかけた龍は穏やかに話しかけた。
「私はヒトの存在を憎いと思ったことは一度として無い。ただ、私にはヒトの考えていることが解らぬ。解りあえぬモノと共に生きてゆくのは難しい。私はきっと、お前の言う “時代遅れの神々” なのだろう」
龍神の静かな眼差しが空を映す。
「此の世に変わらぬモノなど無く、ヒトの心も時と共に移ろい、ただ私はその流れに取り残されただけ。だが叶うものなら信じたい。私の中に在る、この暖かな想いだけは、時の流れにも色褪せることなく──」
霞のように空に消えた龍の跡には、小さな碧い珠が残された。
「私はこれからどうすれば、何処に行けばいいの?」
加奈の声に我に返った煉が、肩を竦めて立ち上がった。
「何処でも、あんたの好きなところへ行き、好きなように生きればいい。 あんたがどこに行こうと、あんたの倖せは約束されているから」
煉が両手を広げ、湿った山の空気を深く吸った。
「龍神、あいつさ、ここに千年以上棲んでたんだって。お前は箱入り娘か引き籠りか、って言いたくなるよね。ま、 だからさ、ソレを持ってここを出て、いろんなモノを見せてやったらきっと喜ぶと思うよ」
煉が不意にニヤリと笑った。
「その珠、あいつの目玉だからさ、ウブな神様にあんまし刺激の強いモノみせちゃだめだよ」
村の出口へ向かって歩き出した煉がふと足元の花に目を留めた。
「ねぇ、リュウノヒゲの花言葉、知ってる?」
首をかしげた加奈を振り返ると、煉が優しく微笑んだ。
「“変わらぬ想い”」
陽の光に珠を翳してみた。澄んだ空の色を集め、珠が蒼く輝く。
(END)
龍髭 (リュウノヒゲ・ジャノヒゲ) ー 別名 黒龍。キジカクシ科(ユり科)の常緑宿根草。7~8月に淡紫色の花を咲かせ、果実は球形で光沢のあるコバルトブルー。花言葉は “変わらぬ想い”。




