月草(後編)
うつりゆく 色をば知らず言の葉の 名さえあだなる つゆ草の花 (山家集・西行)
❀ ❀ ❀ Intermission ❀ ❀ ❀
何故だろう。久し振りにヒトの子を見たせいか、ここ数日は昔の事ばかり思い出している。乱れた霧を落ち着けようと、桐刄が巻物を手に古木の根元に座った。
不意になにかの気配を感じて頭上を見上げた。先日出会った少年と目が合った。
「…………何をしているの?」
木の枝に逆さにぶら下がっている少年に桐刄が訊ねた。
「世の中をみているの」 少年がしれっと答える。「こうやってみているとね、普段は気がつかないモノがみえたりするの。ずっとやってると少し頭がぼんやりしてくるけど」
それは頭に血がのぼっているだけだろう。少しどころか、かなり足りない子らしい。桐刄が溜息をつくと、少年がにやりと笑った。
「でもね、案外逆さにみたモノの方が、本物だったりするんだよ」
ひとつ深呼吸して気を落ち着かせると、桐刄が巻物を紐解いた。少年が興味深げに上から覗き込んでくる。
「なに読んでるの?」
「和歌集。ヒトのものとはいえ、霧を詠んだ歌には鑑賞の価値のあるモノが多いからね」
「自己陶酔型なんだ?」
「……耽美主義と言って欲しいな」
少年を無視して紐解いた巻物を読む。ふとひとつの歌が目に留まった。
《 ながつきの しぐれの雨の 山霧の いぶせき我が胸 誰を見ばやまむ 》
何故か。胸に微かな痛みが走った。僕の、この山霧にけぶる想いは誰に逢えば晴れるのだろうか……
「ハラヘッタ 栗ヲ拾イニ 山イコウ 魚ヲ釣ッテ 餅ヤコウ」
思わず手にした歌集を落とした。逆さの少年がにやりと笑って得意気に桐刄を見た。
「どう? 俺の歌。才能感じちゃった?」
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5
「桐刄様~!」
桐刄が新しく手に入れた和歌集に目を通しているところに夜霧が転がるようにして駆け寄ってきた。
「向こうの山で旅の物の怪に聞き申した。明日、闇ノ市がたちまする!」
夜霧の言葉に朝霧と夕霧が目を輝かせる。
「ふうん」
興味なさげに和歌集を読む桐刄を三匹の小鬼が並んでじっとみつめた。
「……行きたいの?」
小鬼達が首も千切れんばかりの勢いで一斉に頷いた。
闇ノ市は異界にたつ鬼の市だ。そこでは鬼達が欲しがる様々な物が売り買いされる。桐刄に特に欲しいものはないが、この小鬼達はいつもよく働いてくれる。たまの息抜き、慰め、及び労働に対する正当な報酬も大切であろう。しかし闇ノ市にはタチの悪い物の怪もいる。小鬼達だけで行かせるのは少々心許無い。仕方が無い。
「いいよ。連れて行ってあげよう」
桐刄の言葉に小鬼達が歓声を上げた。
「露草ちゃんも行こうな」夜霧が小躍りしながら露草の手をとった。
「いや、それは駄目だよ」桐刄が急いで言った。「闇ノ市は異界にあるんだよ。異界の空気は瘴気が濃過ぎてヒトの身には毒だからね」
「そうか、残念だの」
「お土産買ってくるからの」
「大丈夫か? ひとりで留守番できるか?」
口々に少女を気にかける小鬼達の頭を、露草が優しく撫でてやる。
「大丈夫。みんなゆっくり楽しんできてね」
❀ ❀ ❀
鬼の闇ノ市に出るものは豪華な絹衣や金銀真珠ばかりではない。生まれなかった赤子の目玉。仙人の臍。狗神の牙。ヒト喰い鮫のなめし皮。歌姫の喉に舞姫の足。名のある者の髑髏どころか、小さな檻に囚われたヒトの魂まで売り買いされる。
はしゃぎながら市を見てまわる小鬼について歩いていた桐刄が、ふと異界の草木を売る店先で足を止めた。店主の鬼が愛想笑いしながら桐刄に近付いてきた。
「これはこれは、桐刄様。なにか面白い草花などお探しでしょうか。鬼甘草、鬼ドコロ、良い実をつける鬼マタタビなどもございますが」
黙って店を見渡す桐刄に店主が大きくぼってりとした植物を勧めた。
「これなど如何でしょう。魔界のシビト喰いですが、よく躾けられておりますんで、与えた餌以外には手を出しませぬ。コレ一匹あれば、桐刄様のお嫌いな死体の始末も実にお手軽に……」
シビト喰いが不意にゲップした。その臭いに桐刄が眉を顰めるのを見て、店主が慌ててシビト喰いの鉢を店の奥に隠す。
「露草はある?」と桐刄が店主に訊ねた。
「露草…? あぁ、月草のことでございますね。少々お待ちを」
店主が首を傾げながら店の奥の棚をごそごそと掻き回した。
「あぁ、ありました、ありました。少々ですが今朝方摘んだモノならございます。昨夜の月で花開いたモノを染めモノに使おうかと思いまして。御存知の通り幽界の月の光で育った月草の青は人界のモノとは違って色褪せませぬのでな。風流な御仁など、桐刄様のように時折りお求めになる方がいらっしゃる」
店主に金を払うと薄絹に包まれた露草の花を桐刄が袂に入れ、再び小鬼達を追って市を歩き出した。
❀ ❀ ❀
桐刄が幽界の露草を買い求めていた丁度その頃。
少女が山の上から眼下の里を眺めていた。桐刄は異界の市へ発つ前に、自分がいなくても囚われた人々が目を覚ますことの無いよう餌場の周りの霧を濃くしていった。しかし桐刄がいなくなった途端、餌場以外の場所ではあっという間に霧が薄くなった。久しぶりに見る蒼い空。眼下に広がる長閑な里の風景。でもあそこに帰りたいとは思わない。小鬼達は可愛かったし、なにより、深い霧に抱かれている時、少女は自分が守られていることを感じた。そして桐刄は……。
少女が髪に飾られた薄紫の桐の花をそっと撫でた。これは桐刄がいつも自分の漆黒の髪に挿している花だ。異界に発つ前に、桐刄が少女の髪に挿してくれた。御守りだよ、と桐刄が言った。この辺りの物の怪共が君に手を出すとは思えないけど、でも念の為、と言って微笑んだ。 そう、私はヒトを喰う鬼に守られている。
がさり、という背後の音に少女が振り返った。霧の気配の消えた山道に、人買いの男が立っていた。
6
必死に逃げようとした。捕まってなるものか。売られてなるものか。此処から引き離されたくはない。しかし必死な気持ちとは裏腹に、恐怖で足がもつれ、あっという間に男の腕に捕らえられた。
露草が自分を掴む男の腕に噛みついた。怒り狂った男に殴られ、倒れた拍子に髪に挿していた桐の花が地面に落ちた。切れた口から滴る血が薄紫の花を汚した。綺麗な花。桐刄の花。慌てて花を拾おうとした露草の手を男が花ごと踏みにじった。露草が怒りに燃えた眼で男を睨みあげた。
「アァッ?! なんだその眼は?!」
男が再び露草を殴ろうと手を上げた瞬間、男の背後から伸びた腕がその頸を掴んだ。
「……汚したね」
振り向いた男の眼を、霧を纏った鬼の冷えびえとした眼差しが捉えた。
「言っただろう? 僕は汚いモノが嫌いだと」
桐刄が男の首を掴んだ腕でその身体を持ち上げ、ぎりぎりと締め付ける。
「……お前は汚い。目障りだ」
桐刄の指が男の首にめり込み、次の瞬間握り潰された首が千切れて落ちた。血潮をあげながら土に転がった生首に鬼達が嬉しげに群がる。糸の切れた人形の様に崩れ落ちた男の身体を踏んで桐刄が少女に近づいた。
「露草、一人にしてごめんね。でももう大丈夫だよ」
大きく目を見開いた露草が一歩後退りした。
「どうしたの?」
桐刄が手を差し伸べた途端、露草が悲鳴をあげて背後の霧の中に逃げ込んだ。
べっとりと血に濡れた己の手をしばらく見つめていた桐刄が、はっと顔を上げると慌てて少女を追いかけた。
「露草!そっちは駄目だっ、崖がある……!」
❀ ❀ ❀
音ですら霞む濃い霧の中、桐刄が切り立った崖の端で少女の姿を探していた。霧は桐刄の体の一部のようなものだ。どんなに深い霧であろうと、いや、霧が深ければ深いほど、桐刄にはその中のモノがよく視える。しかし何故か、なにかが邪魔してどうしても露草の気配を探ることが出来なかった。
不意に背後の霧の中に現れた不穏な気配に桐刄が振り返った。少女を片腕に抱いた歳の頃十七〜八の、すらりとした女が桐刄を見つめていた。
「霧の妖魔か…… 」と女が呟いた。女の腕の中で気を失っている露草に怪我はなさそうだと見てとり、桐刄がふと表情を和らげた。
「貴様、何故この少女を追っていた?獲って喰う気か」
桐刄が無言で女を睨み、周囲の霧が威嚇するように濃くなった。と、女が袂から白い面を出して被った。女の濡れたような黒髪がざわりと揺らぐ。女がすっと手を上げようとした瞬間、濃い霧が激しく渦を巻き瞬く間に桐刄の姿が掻き消えた。
やがて女の周囲から霧が引き始め、時と共にすっかり霧が晴れて頭上に蒼い空が広がった。
鬼の袂からこぼれたのであろうか。少女を抱く女の足下に、濃紺の露草の花が散っていた。
❀ ❀ ❀
「これはこれは、急な引越しですなぁ」
「面使いが出たのでは仕方あるまい。桐刄様は無為な争いは好まぬからな」
「夜霧、露草ちゃんはどこへ行った?」
「知らんぞ」
「どうせまた花摘みだろうが、置いてけぼりにならんよう、はよう呼んできたれ」
無言で小鬼達の会話を聞いていた桐刄が振り返り、「露草は行ってしまったよ」 と言った。
「はて、何処へ?」と夕霧が首を傾げる。
「……僕は知らないし、知る必要もない。まぁ、ヒトの元に帰ったのは確かだよ」
「それはそれは、なにやら残念ですなぁ」
「所詮ヒトはヒト。鬼の中で生きるのは無理だったのじゃろ。ワシとて残念じゃが、露草ちゃんがシアワセならよしとするしかあるまい」
「そんでもワシはもうちいと遊びたかったのう」と夜霧が残念そうに溜息をついた。
7
「桐刄様っ、大変でござりますっ!!!」
露草がいなくなり、半年程経ったある日。深い霧のなか、ひとり和歌集を読んでいた桐刄のもとへ朝霧が転がるようにして駆けてきた。
「ウイキョウと名乗る面使いの女が夜霧・夕霧を捕らえ、返して欲しくば桐刄様と話をさせろと申しておりまするっ!!!」
霧の中から現れた桐刄を見ると、二匹の小鬼がぴーぴーと泣きながら駆け寄りその袂に逃げ込んだ。木の根元に腰掛けて霧に霞む山々を眺めていた女が落ち着いた様子で桐刄を振り返った。
「お前を探していた」と言って穏やかに微笑む茴香を桐刄が無言で睨んだ。「安心しろ、お前を祓いに来たわけではない」
「……霧の中でお前が追っていた少女だが、子供のいない裕福な老夫婦が引き取った。実の子のように大切にされている」 それを聞いた途端に桐刄がせせら嗤った。
「面使いとは変わっているね。それとも変わっているのは君だけかい? ヒトの子の些事など鬼が聞いて面白がるとでも思ったのか?」
茴香が嗤う桐刄をじっと見つめた。
「……ヒトであろうと物の怪であろうと、なにかを大切に想う心に変わりはあるまい」
桐刄が無言で踵を返した。霧のなかに立ち去ろうとする桐刄に構わず茴香が先を続ける。
「あの少女、名を訊ねたら、露草と名乗った」
桐刄が立ち止まった。
「面使いや妖魔でもあるまいに、露草とはおかしな名だが、自分の名は露草だと言って譲らなかった」茴香が桐刄を見つめた。「……お前がくれてやった名であろう?」
桐刄が霧に霞む人里を見下ろした。長い沈黙の後、桐刄が呟くように尋ねた。
「……寂しいとはなんだ?」
「寂しいとは、在るべきものが無く、心が満たされないということ」
茴香の言葉に桐刄が嗤った。「ヒトって、本当に可笑しいね」
「『在るべきモノ』など此の世にはひとつとして無い。そんな在りもしないモノを求めて心を煩わせるなんて、本当にくだらない」
茴香が静かな眼差しで桐刄を見つめ、やがてその口許に幽かな微笑みを浮かべた。
【 エピローグ 】
きゃはははは。
けたたましい笑い声に桐刄が我に返った。
霧の中から飛び出した小さな影が桐刄につまずいて地面に転がった。ころころと転がりながら笑い続ける少年に桐刄が溜息をつく。
「……また君か。今度は何をしているの?」
「追っかけ鬼」
霧の中から少年を追って小鬼達が飛び出してきた。全く騒がしいことこの上ない。少し脅かしてやろうと思った。桐刄がふ、と吐いた煙管の煙が異形の鬼となり、少年に向かって牙を剥いた。
「……ヒトの子が鬼と追っかけ鬼なんかしてはいけないよ。捕まったら喰べられてしまうからね」
怯えるかと思いきや、少年が不敵な顔でにやりと笑った。
「俺なんか喰べたら火傷するよ」
再び駆け出そうとした少年を桐刄が不意に背後から腕を伸ばして捕まえると、両足を持って逆さに少年を振った。
「うわっ、なにすんだよっ」
慌てて暴れた少年の懐から木面が落ちた。桐刄が手を離してやると、少年が急いで面を拾い、隠すように懐に突っ込む。
「なるほどね。鬼を恐れないのは君が面使いだからか」
不満気に口を尖らせた少年を桐刄がじっと見る。
「どうして面使いの子が鬼と遊んでいるの?」
「……別にそんなのどーでもいいでしょ」
「よくないね。ヒトが鬼の餌なら、面使いと鬼は仇同士だよ」
少年がキッと桐刄を睨んだ。
「俺は別にあんたのことをカタキだなんて思ったことないし、あんたにそんなことを思われる筋合いもない。俺は俺が遊びたい奴と遊び、守りたいモノを守る。ヒトだとか鬼だとか、俺にはどうでもいい」
……おかしな事を口走る子供だ。しかし、その己を信じて疑わぬ口調と強い眼差しに、不意にあの面使いの女の面影が重なった。
「茴香という面使いを知っているかい?」
「……俺の母さんだよ」
「そうか」なるほど、道理で似ているわけだ。おかしなところも。「茴香は今……」
「死んだ」
鋭く短い少年の言葉に胸を突かれた。
ヒトとはなんと脆く儚い生き物なのだろう。強い霊力を持ったあの女ですら、あまりに簡単に此の世から消えてゆく。しかし凛としたあの女の眼差しは少年に受け継がれ、そこに確かに息づく。ヒトは、こうして己をナニカに託してゆくのだろうか。愛しく、大切なナニカに。でも自分は……。
無言で考え込んだ桐刄を少年がじっとみつめた。黒く濡れた大きな瞳にあの少女を想い出す。少年が首を傾げた。
「どうしたの?」
「……どうもしないよ」
桐刄が少年から目を逸らした。
もしもう一度聞かれたら、自分は何と答えるのだろうか。
「ねぇ…」少年が心配そうに桐刄の顔を覗き込んだ。
訊かないでくれ、と思った。自分は他人の心を視るのは得意だが、己の心を覗くのは好まない。
情け容赦もなく少年の大きな瞳が桐刄を覗き込む。思わず目を瞑った。訊かないでくれ。僕は、僕ハ寂シクナンカ……
「お腹空いてるの?」
「…………は?」
「そうだ! 俺、いいもの持ってるよ!」少年が腰につけていた小さな包みを開いた。「向こうの村でね、お婆さんがおやつに草団子をくれたんだ。半分こしよう」
僕はヒトの食べ物は好まない。その一言が何故か口から出ず、かわりに手渡された草色の小さな団子を千切って口に入れた。青臭いヨモギの薫りと甘みがふわりと口に広がった。
小鬼達に草団子を分けてやる少年の横顔を見つめた。
「君、名前は?」
「煉」
れーんー。何処か遠くで少年を呼ぶ声がした。
「あっ、兄者が呼んでる!」
少年が慌てて団子を飲み込むと喉につかえたのか、立って胸を叩き、咳き込みながら駆け出した。
今そこにいたかと思えばもう行ってしまう。慌ただしいことこの上ない。
不意に少年が桐刄を振り返ると笑顔で手を振った。
「またねー」
山にこだまする少年の笑い声を聴きながら、不意に、その輝くような命の炎が永遠に消えなければいいと願った。
(END)




