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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
32/123

月草(前編)

ずっと昔、桐刄と煉が初めて出会った頃の話です。

 (あした)咲き (ゆうべ)は消ぬる月草(つきくさ)の 消ぬべき恋も我れはするかも

(万葉集)


【 プロローグ 】


 深い霧を身に(まと)う。優美な曲線を描く煙管(キセル)から吐く息が霧となり、その柔らかな渦が樹々の間を揺蕩(たゆた)う。霧の中、総てモノの形は定まらず、音はくぐもり、色は霞み、時は流れを緩める。霧で曖昧となる此の世と彼の世の境。

 霧は結界であり、桐刄の棲む世界であった。

 桐刄は静謐(せいひつ)を好み、霧の揺蕩う流れが乱されるのを嫌った。ヒトとは餌にすぎず、それは桐刄の心を動かすモノではなかった。


 ふ、と風が吹き、地を這う濃い霧の流れが渦巻いた。桐刄が眼を開けた。


 てきしゅ~てきしゅ~、と叫ぶ甲高い声が霧の流れを乱した。


「敵襲?」

 桐刄が首を傾げた。不穏な言葉とは裏腹にそれを叫ぶ声は妙に嬉しげにはしゃいでいる。桐刄が立ち上がり、声のした方に歩いてゆこうとした。と、霧の中から数匹の小鬼と物の怪達が飛び出してきた。危うく桐刄にぶつかりそうになった小鬼が、桐刄を見ると慌てて平伏した。

「こ、これは桐刄様! 大変失礼つかまつりました」

「どうしたの?夜霧、一体なんの騒ぎ……」


 不意に小鬼の飛び出してきた霧の中に異物の気配を感じて桐刄が振り返った。


 びしゃっ、と顔に何かが当たった。


「あわわわわ……」

 泥にまみれた桐刄の顔を見た小鬼が腰を抜かした。無言でぞろりと霧を(まと)って立つ桐刄の前に、泥団子を手にした数匹の小鬼とひとりの少年が飛び出してきた。小鬼達は皆、泥に汚れた桐刄を見た途端にその場に凍りついたように動かなくなった。ただひとり、少年だけがぽかんと桐刄を見上げ、次の瞬間、満面の笑顔で勝鬨をあげた。

「敵の御大将討ち取ったり~」

 きゃはははは、と笑いながらぴょんぴょん跳びはねる闖入者(ちんにゅうしゃ)を桐刄が無言で見つめた。

 長い沈黙のあと、桐刄が少年を指差し小鬼を振り返った。

「…………夜霧、コレナニ?」

「は、ヒトの子であります」

「そんなことは見ればわかる。何故こんなモノが僕の結界の中にいるのかを訊いているんだよ」

「は、それが、その、勝手に入ってきたようで……」

 そんなはずはない。桐刄の創る霧は瘴気を帯び、それゆえ多くの鬼や物の怪を惹きつける。普通の人間ならそこに足を踏み入れようとは思わない。何となく嫌だ、恐いと感じるのだ。霧の中にいるのは偶然迷い込んでしまった不運な者、そして桐刄が餌として捕らえた者のみだ。

 桐刄が首を傾げると自分の周りを跳びはねる少年の首根っこを掴んで顔の前に持ち上げた。少年が黒目がちの大きな瞳をぱちくりさせる。

「君、迷子なの?」

「ううん、違うよ」

「ここで何しているの?」

「妖怪大戦争~」

 きゃはははは、と少年が笑った。5-6才といったところか。少年に鬼を怖がる様子はない。鬼とヒトの見分けがつかないのだろうか。可哀相に、少し足りない子なのかもしれぬ。桐刄が溜息をつくと少年を地面に降ろした。

「朝霧、この子を里に連れて帰っておやり」

「え~、やだ、もっと遊ぶー」

 小鬼に手を引かれた少年が不満気に頬を膨らませた。

「だめだよ」少年に背を向けた桐刄は素っ気無い。「……僕は子供が嫌いだからね」


 ……ヒトの子の体温とはあんなにも高いものだったか。少年を触った手に仄かな熱が残り、その熱が、霧に眠る記憶を掻き乱した。



   1


 十七〜八年前。


 朝霧の中、人里離れた深い山道を目付きの悪い男と十にも満たない程の少女が歩いていた。

「さっさと歩け!明日までに次の村に行かんと取引きに間に合わん」 足を引きずり遅れがちの少女を苛ついた声で急かした男が値踏みするように少女を見るとふんと鼻を鳴らした。

「お前は泥臭い田舎育ちのわりに顔立ちは悪くない。あと2-3人仕入れて売ればしばらくは遊んで暮らせる……」 俯いた少女が石に躓いて転び、途端に男が鬼のような形相で悪態をついた。

「この愚図が!急げというのがわからんのかっ」 怯えて縮こまった少女をみて歪んだ加虐欲を抑えられなくなったのか、男が手にした木の枝で少女の背中を打擲(ちょうちゃく)した。身を縮こませるだけで声ひとつ上げない少女の顔に男が唾を吐いた。

「かわいくねぇ餓鬼だ。悲鳴ひとつあげやしねぇ。売りもんじゃなけりゃあもっと痛めつけてやるのに」

 ふと男が顔を上げ、周囲の霧が濃くなっていることに気付き舌打ちした。

「霧が濃くなってきやがったな。足元が見えなくなる前に峠を越えにゃあならん。さっさと立ちやがれ!」

 少女を再び打とうとして振り上げた腕が見えない影に掴まれたかのように急に動かなくなった。

「な、なんだ……」

 慌てて辺りを見回すが、霧がさらに濃くなり視界が利かない。

 かこん、かこん、と何処からともなく硬い蹄の音が響いてきた。訝しげに辺りを見回す男の背後の霧が揺らぎ、漆黒の和牛に乗った若者が現れた。ふ、と手にした煙管から煙を吐くと、若者が煙の行方を目で追いつつ呟いた。

「……僕は子供が嫌いなんだ。すぐに死んでしまって、餌としては余りに効率が悪いからね」

「な、何言ってやがる、妙な格好しやがって……」

「そして僕は死体が嫌いだ。汚いから」

 若者の背後の霧の中からぞろぞろと様々な姿形の鬼が現れた。驚いて目を見張る男に若者がにたりと嗤った。

「……だから、簡単に死んでしまう子供を打つ者が、僕は一番嫌いなんだ」

 群れをなして集まった鬼共が人買いに向かって一斉に牙を剥いた。ひいいっ、と情けない悲鳴を上げると人買いが転がるようにして一目散に逃げ出した。


「桐刄様、あの男、どういたしましょう」

 鬼に訊ねられた桐刄が興味なさげに肩を竦めた。

「放っておきなよ。餌は今のところ間に合っているし、アレは余りにも不味そうだ。品性や知性のかけらも無い上に加虐趣味のある人間なんて喰べて、腹を下してもつまらないからね」

 鬼達が霧の中に姿を消すと、桐刄があとに残された少女をちらりと一瞥した。

「……君はもう自由だよ。早く家に帰るといい」

 俯いて動かぬ少女に桐刄が首を傾げた。少女に近付き、その小さな足が潰れたまめで血だらけになっているのを見て溜息をついた。

「夜霧」

 桐刄が背後の霧に声をかけると、ふわりと暗い影のような霧を纏った小鬼が現れた。

「手当してあげて」

 桐刄が少女を指差し、小鬼が頷くと自分は霧の中に歩み去った。



   2


 桐刄の結界の中でも一際霧が深く立ち込める処には、無数のヒトの影がある。此処は霧の国、つまり桐刄の餌場だった。濃い霧に抱かれた人々は、皆一様に虚ろな表情で、ただ静かに柔らかな草の上に座ったり横になったりしている。

 動かぬヒトの間でただ一匹、朝焼けの空のような薄紅の霧を纏った小鬼が忙しげに立ち働いていた。小鬼はヒトの身体を硬く絞った布で拭き、竹筒から蜜を混ぜた水を飲ませ、寝ている者には藁をかぶせてやる。くるくるとよく働く小鬼に桐刄が声をかけた。

「朝霧、君ひとりかい? 夕霧はどうしたの?」

「女がひとり、かなり弱っておりましたので人里に返しに行きました。夕刻までには戻って参りましょう」

「そう、ご苦労様。すぐに夜霧も戻ってくると思うけど、一段落したら君も少し遊んでおいで」

 桐刄の言葉に小鬼が嬉しげに頭を下げた。


   ❀ ❀ ❀


「どう? 終わった?」

 少女の様子を見に戻ってきた桐刄が夜霧に声をかけた。

「足の他にも背中や腕に打身や擦り傷がありましたので、薬を塗っておきました」

「そう、ご苦労様」

 桐刄が布の巻かれた少女の足にちらりと目を遣った。

「これでもう歩けるでしょ? お立ち。君の家の近くまで送っていってあげるから」

「これはこれは、桐刄様御自らとは、破格の扱いですなぁ」

 驚く小鬼に桐刄が肩を竦めた。

「ここで死なれても困るからね。この山は静かで気に入っているんだ。結界が汚れるのだけはごめん蒙りたい。さぁ、行こう」

 しかし差し伸べられた手を取らず、少女が俯いた。

「どうしたの?」

「……ないの」 少女が消えいるような声で呟いた。「……帰るところがないの……」


 桐刄が目を細め、じっと少女を視た。


   ✿


 呑んだくれで働かない父親。病気で寝たきりの母親。薬代も払えず、食べ物のない家でじっと膝を抱える幼い弟妹。売られていった姉。しかしその金は酒代に消え、やがて母親は儚くなった。自分を売るのは構わない。だがその金で、せめてひとくちの食べ物が弟妹の口に入るようにと、父親に懸命に頼んだ。願いは聞き入れられたのだろうか。それを知る術はない。


 残っても地獄、売られても地獄、逃げても地獄。幼くとも知っている。地獄とは死んだモノがいく処と云う教え、アレは嘘。


   ✿


 桐刄が溜息をついた。

「夜霧、何処でもいい、一番近い人里まで連れて行っておあげ」

 桐刄の言葉に夜霧が首を傾げた。「しかしですな、人買いに買われたモノが人里などに行っては、また捕まるだけでは?」

「それがどうしたの? 僕には関係無い」

「しかし桐刄様はあの男からこの娘を助けたのでは?」

「なんで僕がそんな事をしなくてはいけないの? 僕は単に結界内で他人に勝手な真似をされるのが嫌いなだけだよ」 桐刄が俯く少女にちらりと目を遣った。「帰る家が無くても、君がここにいる事は出来ない。ここは僕の餌場だからね」

 素っ気なく霧の中に立ち去る桐刄の後姿と膝を抱え込んだ少女を夜霧が困った顔で見比べた。



   3


 霧に包まれた夕闇の中、三匹の小鬼がひそひそと話している。


「喰わんか?」

「喰わんのう」

「餌が気に入らんのか」

「ヒトの子は何を喰うんじゃ?」

「桐刄様は子供嫌いじゃで、わしはヒトの子の事はよう知らん」

「それはワシ等とて同じじゃ」

「困ったのう」


「何が困ったの?」

 背後から突如かけられた声に小鬼達がびくりと跳びはねた。恐る恐る振り返ると、腕を組んだ桐刄が実に不機嫌な顔で小鬼達を見下ろしている。

「夜霧、僕は君にこの子を人里に連れてゆくよう言ったよね」

 夜霧が俯いて縮こまった。小鬼の躰を取り巻く暗い色合いの霧が弱々しげに瞬き霞む。茜色に染まった霧を纏った小鬼がこほんと咳払いした。

「桐刄様、畏れながら申し上げます。ワタクシの見ましたところ、一番近い人里でも足を怪我した幼子には余りに遠く、無理に連れてゆけば脆いヒトの子のこと、途中で行き倒れて桐刄様の結界を穢すことになるやも知れぬと思いまして、それでは本末転倒、結界を護らんがため、わざわざ人買いの如き下賤の者を自ら追い払った桐刄様の御意志にも背くかと思い、それでは桐刄様を慕いお仕えする我等といたしましても余りに残念……」

 身振り手振りを交えて熱演する小鬼に桐刄がうんざりとした目を向けた。

「夕霧、相変わらず君はよく喋るね。で、どうするつもりなの、コレ」

「お許しが頂けるなら、怪我が治るまでここに置いておき、その後人里に連れてゆこうかと……」

「君達が勝手に面倒みるなら別にいいよ。僕の邪魔にさえならないのなら」

 小鬼達が嬉しげに頭を下げた。立ち去ろうとした桐刄に夜霧がおずおずと声をかけた。

「あの、桐刄様、ひとつだけお聞きしたいことが……」

「なに?」

「ヒトの子とは、何を喰うのでしょう? 色々と与えてみましたが、どれも気に入らぬようで……」

 桐刄が少女の前に並べられたモノに目を遣った。イモリの串刺し、蛙の卵、干した野ネズミ、生のドングリ、毒々しい色の茸等々。

「ふむ……」 桐刄が腕を組んで考え込んだ。「以前、(まむし)を火で炙って食べている旅人を見たことがあったな。滋養がつくんだって」

「蝮ですか、それなら簡単にその辺で……」

  蝮と聞いた途端に少女が青ざめるのを見て、朝霧がぼそりと呟いた。「……どうも違うようですな」

 桐刄が溜息をついた。

「僕もよくわからないけど、歯も弱そうだし、水蜜と柔らかい果実でもあげてごらん。それからね、ヒトは壊れやすいから、喰わせるなら毒のない茸の方がいいよ」



 数日後。

 霧の国の住人の世話をする朝霧にやけに元気がなかった。溜息をつきながらヒトの身体を拭く手も休みがちだ。通りかかった桐刄が首を傾げた。

「朝霧、なんか疲れてるね。夜霧と夕霧はどうしたの?」

「夕霧はヒトに呑ませる蜜を集めに行きました。隣の山まで行くと言っておりましたので、帰りは昼前になりましょう」

「夜霧は?」

 桐刄の問いに、朝霧が僅かに言い淀んだ。

「……ヒトンコが餌を喰わず、昨夜から熱も出てきたようなので、介抱しておりまする」

「ヒトンコ? ウドンコ病の一種?」

「人買いの連れてきた娘です。名前がわからんのでヒトん子と呼んでおりまする」

「あぁ、あの子って、まだいたの?」

 朝霧がしょんぼりと項垂れた。

「申し訳ありませぬ。何も喰わず、口も利かず、段々に弱ってきているようで……。桐刄様のお望みとあらば、穢れとなる前に夜霧夕霧と共に山から運び出しまする」

 今にも泣き出しそうな小鬼をみて桐刄が小さく溜息をついた。


   ❀


「困ったのう、頭が熱くて痛くはないか?」

 横になって動かぬ少女に藁をかぶせると夜霧が小さな手で少女の額をぴたぴたと触った。小鬼の手は霧をまとってひんやりと冷たい。

「冷やしても冷やしても、すぐ熱くなるのう……」

「夜霧」

 不意に背後から声をかけられ、小鬼が飛び上がった。

「こ、こ、これは桐刄様……」

 慌てる小鬼に桐刄が優しく頷いてやった。

「夜霧、ここはいいから、朝霧がひとりで大変そうだから行って手伝っておあげ」


 小鬼に代わり、桐刄が少女の横に座った。小鬼達が集めたのだろうか。少女の周りには甘く熟れた果実や焼き魚が山と積まれているが、食べた様子は無い。

「どうして食べないの? 」

 少女は俯いたまま返事をしない。

「小鬼達が心配しているよ。ヒトも鬼も、喰わずには生きてゆけない。君は生きたくはないの?」

 少女が不意に顔を上げると冴え冴えとした瞳で桐刄をみつめた。

 熱に潤んだ瞳で恐れげもなく鬼を見つめる少女にふと興味が湧いた。

「君、名前は?」

「……」

 名前を尋ねられた途端に僅かに翳った少女の視線を桐刄が素早く捉えた。


   ✿


 少女の心に亡き母の声が響く。

『おタエ、忘れてはいけんよ。貧しい家に生まれたもんにはこの世は辛い事ばかりかもしれんが、それでも、わたしらはただ堪え忍んで生きてゆくしかないんだよ……』

 私は堪え忍んでまで生きたくはない。身を粉にして働き、楽しみも知らぬまま病に倒れ、最期まで苦しみ続けた母のように死にたくはない。そんな生き様も死に様もごめんだ。生が選べぬなら、せめて死は選んでみせる。だから、私は、堪えるための名などイラナイ。


   ✿


 少女の眼に視入っていた桐刄が顔を上げるとしばらく無言で霧に霞む山々を眺めた。霧に抱かれた世界は深閑とし、しかしその静寂の中、霧は生きているかの如く絶えず形を変え動き続ける。桐刄が呟いた。

「……生を選べぬ者は死も選べない。逆に死を選ぶ強さがあるなら生を選ぶこともできると思うよ」

 桐刄が不意に少女を振り返ると艶やかに微笑んだ。

「名前が無いなら僕があげよう」

 桐刄が足元の濃紺の花を一輪摘むと少女の髪に挿した。「……露草(つゆくさ)


「たとえ此の世のすべてが霧に霞んでも、露草は霧に濡れてなお鮮やかに美しい」



   4


 何故出てゆけと言わなかったのか。


 ヒトの子はたやすく病に罹るが治るのも早い。濃紺の露草を髪に挿した少女はみるみるうちに元気になったが、しかし人里に帰ろうとはしなかった。桐刄が何も言わないのをいいことに、小鬼達は誰も少女を里に戻そうとは言い出さず、暇さえあれば少女と遊んでいた。暗黙の了解のうちか、霧に棲む他の物の怪達も少女に手を出すことはなかった。



 楽しげな笑い声に桐刄がふと足を止めた。露草が青い紐を小鬼達の角に結んでいる。露草の髪も青い蝶々のような紐で結われていた。桐刄に気付いた夜霧が、紐をひらひらさせながら嬉しげに駆け寄ってきた。

「桐刄様。みてくだされ。露草ちゃんとお揃いであります」

「綺麗な青色だね」

「露草の花で染めもうした」

「ああ、それなら雨には気をつけるんだよ」 水気を好む霧の小鬼達に桐刄が優しく注意した。「露草の青は綺麗だけど、水に濡れると色が褪せてしまうからね」


 《月草に 衣はすらむ 朝露に 濡れてののちは 移ろひぬとも》


 ふと口ずさんだ歌に少女が首を傾げるのを見て、桐刄が微笑んだ。

月草(つきくさ)とは露草のことだよ。月草で衣を染めても朝露に濡れれば色褪せてしまう。月草の青色はヒトの心のように移ろいやすい」

「そんなことない」

 不意に少女がひたと桐刄を見つめた。

「ヒトの心はそんな簡単に変わったりしない。もし月草とヒトの心が同じだと思うなら、桐刄はヒトの心を本当には知らない」


   ❀ ❀ ❀


 ヒトの心を視る鬼に向かってヒトの心を知らぬと言った少女に呆れはしたものの、何故か怒る気にはなれなかった。餌場で小鬼達が世話する無数の人間を眺めながらふと思う。自分は此処にいるヒトの欲するモノを知っている。しかしヒトが何故それを欲するかは知らぬ。別に構わないと思う。ヒトと鬼は違う。分かち合うことも解り合うことも必要ではない。


 霧の中の僅かな気配に桐刄が振り返った。少女が大きな目を見張って、そこかしこに虚ろに佇む無数の人々を見ていた。

「此処に来てはいけないと言わなかったっけ?」

「……ごめんなさい」

「花を探していたの?」

 しょんぼりと項垂れる露草に桐刄が溜息をついた。

「花なら向こうの原にあると思うよ。後で小鬼達に連れて行って貰うといい」

「このヒト達、どうしてここにいるの? ここで何をしてるの?」

「このヒト達は僕の餌なんだよ」

 露草が僅かに息を呑み、体を硬くした。

「神隠しって知っている?」と桐刄に訊かれ、露草が黙って頷いた。

「里ではきっとこのヒト達は神隠しにあったことになってると思うよ。ある日突然いなくなり、何日かすると何事もなかったかのように、ただ少しだけ弱って帰ってくる。そしていなくなっていた間の記憶は無い。僕はヒトの心を視て、ヒトが望む幻を創り、その心を捉える。ここにいるヒトは長い夢をみているようなものさ」

「このヒト達、死んじゃうの……?」

「死にはしないよ。そうなる前に里に帰すから。僕は生きているヒトの精気しか喰えないから、死んでしまっては意味がない。それに僕は死体が嫌いだからね」


 桐刄が夢に浸る人間達を見まわした。

 幾多もの幸せな夢。在りもしない幻を求めるヒト。ヒトの移ろいゆく心に幻を編みつづける深い霧。霧は夢の如く、ただ揺蕩い、そこに在りながら決して摑むことは出来ない。すべては夢まぼろし……。


「どうしたの?」と不意に露草が訊ねた。

「どうもしないよ」

 露草が大きな目でじっと桐刄を見つめた。

「……寂しいの?」

 少女の言葉に桐刄が微笑んだ。

「不思議なことを言うね。僕は寂しいという感情がどういうモノかすらわからない」

 ふ、と煙管の煙を吐いて艶美な鬼が嗤う。


「……僕は鬼だから」


(To Be Continued)

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