終わりと始まり 〜 其の弐・空蝉
うつせみの世は常なしと知るものを 秋風寒み偲ひつるかも (万葉集)
1
今は昔、ある冬の日のこと。外ではしんしんと雪が降り積もり、囲炉裏の火が暖かく爆ぜる板の間で、村の子供達の輪がオオババを囲んでいた。きちんと正座した泪の隣にぺたりと座った煉は、まだほんの五〜六歳だった。その頃の煉は、自分を見る周りの者の眼が妙にひんやりとしている事に気付く程には大人で、しかしその小さな胸の内に燻る想いを言葉にして誰かに伝えるには余りに幼かった。
「どれ、今日は面使いの始まりの話をしようかね」
オオババがゆっくりと子供達を見廻すと、低く掠れた声で話し始めた。
今は昔、大和の国に、空蝉と呼ばれる鬼がいた。
空蝉は虚無。虚無はヒトを憎み、此の世の全てを喰わんと欲していた──
「なんで?」煉の声が静まり返った部屋に響いた。「なんで空蝉はヒトがキライだったの?」
「さあ、なんでだろうねぇ」オオババが優しく頷く。「煉はなんでだと思う?」
オオババの言葉に煉がじっと考え込む。
「……ヒトと喧嘩して、うまく仲直り出来なかったのかな?」
それを聞いた数人の子供達が馬鹿にしたように笑った。
「馬鹿だな、煉。空蝉は鬼だからだよ。鬼は生まれた時からヒトが嫌いなんだ。理由なんてない」
「そんなことないよ……」
困ったような、少し泣きそうな顔をした弟の肩を、泪がそっと抱き寄せた。
「煉」オオババがじっと煉を見ると穏やかに微笑んだ。
「ヒトと鬼とは相入れぬ。それは誰にもどうしようもない、此の世の理なんだよ」
煉が無言で俯き、唇を噛んだ。
「……話を続けようかね」
大和の国から遙か遠く、北の最果ての地に、火之神に愛された緋桐という若者がいた。雪と氷に閉ざされた地にありながら、緋桐の炎は咲き誇る紅い花のように熱く、その火を生きて二度見る鬼はいなかった。
風の噂に聞いた空蝉の所業にひどく心を痛めた緋桐は、空蝉を倒し、人々を守らんと旅に出た。長い旅の末、荒れ果て打ち捨てられた地で緋桐と鬼は出会い、そして闘った。
緋桐の焰は空蝉の半身を焼き、空蝉はその躰を失った。躰を失った空蝉は影となり、今もなお、滾る怨みを晴らさんと現身を求めて闇を彷徨い続ける。
緋桐も空蝉との闘いで片腕を失い、その力は半減した。緋桐は国を巡り、退魔の力を持つ者を集め、面を与えた。討つべき鬼の前に立った時、心の闇につけいられぬように。鬼を討ち、ヒトを守らんがために。
こうして緋桐は面使いの祖となり、鬼と面使いの闘いが始まった──
「忘れてはいけないよ」
オオババが子供達ひとりひとりの目を見て、低い声で穏やかに話しかける。
「お前達は何の為に生まれ、何故面を与えられたのか。守るべきものは何なのか。決して間違ってはいけないよ」
最後にオオババは、ひとり俯きオオババの顔を見ようとしない煉を、じっと見つめた。
2
オオババの家を出た煉と泪は、雪の中を無言で歩いていた。深く積もった雪に抱かれ、静まり返った景色の中、踏まれた新雪が足下でキュッキュッと鳴く。しょんぼりと項垂れて歩く幼い弟の横顔に、泪がちらりと目をやった。
ぴしゃり、と不意に煉の顔に小さな雪つぶてが当たった。煉が驚いて顔を上げると、けらけらと甲高い笑い声をあげながら、幾つもの小さな黒い影が転がるように藪の中を逃げてゆく。
「兄者、ちょっと山の方に行ってきてもいい?」
藪の中の影達を見て見ぬ振りをしつつ、泪が頷いた。
「陽が落ちるのが早いからな、夕餉までには帰ってこい」
「うん!」
途端に元気になって藪の中に飛び込み、あっという間に山へ向かって駆け去る弟を、泪が複雑な表情で見送った。
❀
森の奥。物の怪達が造ったカマクラの中に、煉と大小の鬼達がすし詰めになって座っていた。
「煉、餅焼こうぞ」
「火だしてけれ」
「いいよ~」
物の怪の輪の中心に積まれた薪に煉が手をかざすと、ぽっ、と軽い音と共に小さな火がつき、直ぐに赤々と燃え始めた。物の怪達が嬉しげに、餅やらドングリやら思い思いのモノを火に放り込む。
「煉の火はぬくくて気持ちいいのう」
煉に雪つぶてを当てた小さな鬼が煉の膝にもたれ、うっとりと目を細めた。
『……雪と氷に閉ざされた地にありながら、緋桐の炎は咲き誇る紅い花のように熱く、その火を生きて二度見る鬼はいなかった……』
しんしんと降る雪の音に似て、オオババの低く掠れた声が煉の胸の内を静かに凍らす。
「冬は寒くて好かん」
「お前は禿げとるからの」
「禿げてなどおらん。毛が他のモンよりほんの少し薄いだけじゃ」
「煉のジーサマもこの前同じ事を言っておったぞ。煉のジーサマはつるっぱげじゃ」 鬼が憤慨して牙を剥いた。煉が寒がりの鬼の背中をそっと撫でてやる。
「今度綿の入ったちゃんちゃんこ作ってきてやるよ」と煉が言うと、鬼が嬉しげにきゅいきゅいと喉を鳴らした。
「ふん、お前は泪に似ず、実に無駄に器用だな」と鴉が笑った。
「兄者は忙しいから……」
「泪は修行のやり過ぎだ。そのうち身体を壊すぞ」と小鬼が首を傾げる。
「ふん、仕方無いのさ。奴は誰に似たのか、あの家で唯ひとり異様に生真面目だからな」
「その点煉は安心じゃ」
鬼達が愉しげにきゅうきゅうと笑う。煉の指をそっと握る小鬼の手は柔らかく、温かい。
「あと幾つ寝ると春になる?」
「春姫様が川の氷溶かしたら春になる」
「煉、川の水が温もったら魚獲って喰おうな」
「煉、春になったら美味しい山菜の採れるところ教えてやるぞ」
『……ヒトと鬼とは相入れぬ。それは誰にもどうしようもない、此の世の理なんだよ……』
「どうした? 煉。今日はやけに大人しいな」
無言で火を見つめる煉の艶やかな黒髪を、鴉が嘴の先でそっと梳かした。
「……ねぇ、ヒトと鬼はなんで友達になれないの?」
物の怪達が一斉に動きを止め、沈黙した。鴉がふんと鼻を鳴らす。
「近親憎悪ってやつだろう。ヒトは鬼の姿に自分自身を視るのが嫌なのさ」
奥に独り静かに座っていた年老いた物の怪がふと顔を上げた。
「……ヒトは鬼を恐れ、鬼はヒトを恐れる。無駄に恐れることはない。恐れは憎しみを呼ぶ」
だがな、と物の怪が掠れた声で呟く。
「……時によっては、離れていたほうが、お互いのためになる事もある……」
3
音もなく雪が降り積もる夕暮れ、泪が煉を探して山に入ってきた。ばさりと頭上の梢から落ちる雪に顔を上げると、枝にとまった鴉が声をかけてきた。
「煉ならこの先のカマクラの中だぞ」
「鴉……」
飛び立とうと翼を羽ばたかせた鴉を見て、泪が言いにくそうに口ごもった。
「……鴉、お前もヒトが嫌いか?」
鴉が黒く底光りする眼でじろりと泪を見やった。
「泪、お前は此の世の全ての人間を好いておるのか?」
無言で俯いた泪を見て、鴉がふんと鼻を鳴らすと荒々しい羽音と共に枝から飛び立った。
「俺はヒトなど好いてはおらぬ。だが煉とお前は嫌いではない」
冬の夕暮れの淡い光の中、飛び去る鴉の影を泪が眩しげに目を細めて見送った。
(END of 『Exuvia』)




