蝙蝠(五)
16
月の光も届かぬ灰色の壁に抱かれ、うつらうつらと死の淵に微睡む。
重い足音が近づいては離れ、鉄格子が開き、また閉められ、耳障りな金属音と共に皿が出し入れされる。俺はその全てから心を閉ざし、唯、うつらうつらと微睡み続ける。
「こいつ、もう半年以上餌を喰ってませんよ?」どこか遠くで焦燥を帯びた声が囁く。「放っといたら死んじまうんじゃないですか?」
構うことはない、と低く落ち着いた声が答える。死にたいなら、死なせてやればいいだろう。
俺は死にたいのだろうか。よくわからない。俺の内に僅かに残った心らしきモノは、灰色の石のように硬く、微かなぬくもりさえも失い、この身の奥深くに沈み、死にたいとか、生きたいとか、そんな感情すら唯々遠い。
「俺、もう嫌なんですよ」焦燥が嘆きに変わり、喉を詰まらせる。「こいつをみてると苦しくて、気が狂いそうになるんです」
それならお前が助けてやればいい、と冷たい声が突き放す。主人を裏切って、邸の連中全員を敵に回してでも、こいつを自由にしてやればいい。その覚悟が無いなら、ここを出て行けばいい。
「アサカさんはなんで平気でいられるんですか」若い声が怒りに震える。「あなたにはひとの心が無いんだ」
シュウアクな、と呟き、掠れた声が静かに笑った。
目を瞑ろうと、逃げ出そうと、ヒトの醜悪な秘密は消え去りはしない。それならば俺は、死ぬまでその秘密と共に生きる。醜悪なニンゲンの一人として、ここで、コイツと共に腐りながら生きて、死ぬ。
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鬼はヒトになれないから鬼なのではない。ヒトを愛することを知らないから鬼なのだと言ったきり、柊は口を噤んでしまった。そんな柊にかけるべき言葉も分からず黙り込んだ和馬の肩に、煉がそっと手を置いた。
「もう遅いし、今日は家に帰った方がいい。送ってくよ」
煉にうながされるまま立ち上がり、公園を出る間際に一度だけ柊を振り返る。じっと俯いたまま身じろぎひとつしない彼の影は宵闇にとけ込み、白い髪だけがぼんやりと淡くひかりを零し、それはまるで雪明かりのように綺麗で、冷たく、遠かった。
寂しい、と不意に思った。行き先もわからぬまま虚ろな世界に漂うようなどうしようもない寂しさに、指先に刺すような痛みが走る。思わず立ち止まった和馬の手を煉が握った。その手の熱に我に返る。
「大丈夫だよ」と囁き、煉が黒目勝ちの眼を細めた。「アイツもキミも、キミ達自身が思っているほど独りぼっちじゃない」
小さな子供のように煉に手を引かれて歩き出すと、心細さが少しだけ薄らぐような気がした。
「ねえ、煉くん。ヒイラギを助け出したのって、煉くんなんだよね?」
「うん、まあね。助けたっていうか、檻から連れて出ただけだけど」
「煉くんは、どうやってヒイラギのこととか知ったの?」
イキジビキ、と柊が言っていたことをふと思い出す。鬼神鳥獣の生き字引。凡ゆるモノを知る、ヒトでありながらヒトならざる少年。
「別に知ろうと思って知ったとかじゃなくてさ、知り合いの寺伝手に頼まれただけなんだけどね」
「誰に?」
ふと、そうと見なければ気付かないほどの微笑が煉の口許を掠めた。
「……長い銀髪がとても綺麗な老婦人。そのひとの実家で働いていた男が、死ぬ前に彼女へ手紙を書いたんだって」
愛想の無い白い便箋と、そこに書きつけられた無骨な字を思い返すかのように、煉が眼を細める。
「『彼は貴女を待っています――』」
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彼は貴女を待っています。
この手紙が貴女に届く時、私はすでに此の世にはおらず、彼の存在を知る者もいなくなります。それでも彼は孤り、ここで貴女を待ち続けているでしょう。私を含めてひとは醜悪で、それは貴女も例外ではない。けれども宵の空と、そこに音も無く舞う蝙蝠の影に郷愁を覚える心はあるのです。だから、彼を貴女という呪縛から解き放って欲しい。ひとは誰も、醜悪に生まれ、醜悪に生きたからといって、醜悪に死なねばならぬわけではないのだから――
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「えっと、ちょっと待って。誰がそんな手紙を……て言うか、その煉くんを呼び出した女のひとって、もしかして……」
「俺が会ったひとは、歳の上にもう長い間病に臥せっていたらしくってさ、誰もいない大きな屋敷のベッドから身を起こすことすら出来なかった。でも、若い頃はさぞかし、って思わせるような綺麗なひとだったよ」
「……そんなに長い間」和馬が唇を噛んだ。「そんなに長い間、柊はひとりぼっちだったの……?」
ひとりの少女が大人になり、恋をして、不幸を知り、家を出て、やがて年老い、病の床につくほどの長い刻を、彼は独りで過ごしてきたのか。まだ幼かった彼女と過ごした日々のことを、繰り返し、繰り返し、まるで昨日のことのように思い返しながら――
「仕方ないんだよ。ヒトと鬼では時間の流れ方が違うからね」と言って、煉が肩を竦めた。
「だけどっ」
「それに彼女だって、柊のことを忘れたわけじゃなかったと思うよ? 忘れたくても、忘れられなかったんだ」
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「……結婚して幾久しく、あの家を出てからもずっと、片時も忘れることは出来ませんでした」
白い月明かりの下、窓際の寝台に横たわったそのひとは、唯静かに懺悔した。
「けれども会いに行くどころか、人伝に彼の安否を尋ねることすら憚られ……」
咳き込んだ彼女の肩に、煉が無言でショールを掛ける。
「おそろしかったのですよ。恋人の死を嘆くあまり、彼を傷つけた自分の罪深さと……醜悪さに向き合うことが」
彼の命を搾取しようとするヒトを憎み、けれども己もその一人でしかなかった。
「アサカはそれに気づいてたのでしょう。けれども彼は、面と向かってわたくしを責めることはありませんでした。わたくしは子供の頃、氷の作り物のように無表情な彼を嫌っておりました。その下に隠されたアサカの心を知ろうともせず、自分だけが苦しんでいると思っていたのです」
ひととは愚かで、傲慢ですね。そう呟くと彼女は寂しげに微笑み、そして再び咳込んだ。
「牢の鍵は手紙に同封してありました。幸か不幸か、先の当主であった私の兄は彼の存在に無関心でしたから、その息子など彼の存在すら知らないのでしょう」
差し出された古い真鍮の鍵を受け取ろうとはせず、煉が首を傾げた。
「それさ、あんたが自分で使うって選択肢はないの?」
無言で手の中の鍵を見つめていた老婦人が、やがて静かに微笑んだ。
「わたくしが彼に初めて出会ったのは、薄暗い牢の片隅でした。冷たい灰色の床にうずくまっていた彼は、まるでこの世のものではないかのように存在が薄くて、今にも消え入りそうで、けれども肩まで伸びた髪だけが、雪のように白くて、真っさらで……」
ほろほろと、闇に燐光を零す髪にそっと触れたあの日。雪色のそれは、春風のように仄かにあたたかく、淡く、指先にとけた。
「……彼はきっと、あの頃のままに、変わることなく綺麗なのでしょう」
「裏切り者の自分に彼と会う資格はないと思ってるの? 自分の醜悪さが彼を穢すとでも言うの? まさか、醜く年老いた自分の姿を見られたくないってわけじゃないよね?」
何を言われても、老婦人は疲れ切ったように瞼を瞑り、口許に微かな笑みを浮かべるだけだった。重い天鵞絨のカーテンを開き、月を見上げた煉が小さく嘆息した。
「あのさ、最後にひとつだけ聞きたいんだけど。あんたにとって、その鬼の存在って結局なんだったの?」
「彼はわたくしの大切な……とても大切なお友達でした」
「それだけ?」振り返った煉が何かを探るように眼を細める。「それ以上でも、それ以下でもなく?」
「……それ以上でも、それ以下でもなく」切れ切れの言葉に、言葉にならない想いが掠れて消える。「とても、とても大切な、この世で唯一の、かけがえのない……」
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「……そんなに大切に思っていたなら、なんでヒイラギを傷つけたの?」怒りか、哀しみか。腹の底に、どろりと濁った感情が沸く。「口先だけならなんとでも言えるんじゃないの?」
「うん、そうだね」握りしめられた和馬の拳をチラリと見遣り、煉が僅かに口角を上げた。「でも仕方ないんだよ。ヒトはシュウアクな生き物だからね。ヒトは醜いからこそ美しいモノに憧れ、それを羨み、嫉み、憎しみ、そして愛しむんだよ」
「違うッ! いくらシュウアクでも、もし本当にヒイラギのことを大切に思ってたら、ヒイラギのことをトモダチだと思ってたなら、誰のためでもヒイラギの命をアテにすることなんて出来ないはずだよッ」
「ねえ、和馬。和馬はもしも自分の大切なひと……例えば和馬のお母さんが突然の事故に遭ったとしても、絶対に柊に頼らないって言える?」
ドクリ、と胸が変な打ち方をした。思わず言葉に詰まった和馬を煉の静かな眼が捉える。
「なすすべもなく死のうとしている大切なひとを目の前にして、ひとつだけ助かる方法があるってわかってても、『その方法は間違ってるから、お母さんが死んでも仕方がないね』って言える? 柊の一族の秘密を知った時に、一瞬でもその力を羨ましく思わなかった? 『あの時、柊さえいてくれたら……』みたいな感じでさ?」
そんなわけはない、と言おうとしたのに声が出なかった。この少年は、自分の何をどこまで知っているのだろう。どくどくとこめかみが脈打ち、白い布に包まれたひとの姿が瞼の裏を過る。無残に歪み、壊れ、二度と和馬を撫でることの無い、大きな掌……。
「俺には無理だよ」
唇を噛んで俯いた和馬の手に、煉がそっと触れた。その温かさに、心の何処かが緩んで涙が零れそうになった。
「俺にも大切なひとがいた。もしそのひとにもう一度逢えるなら、そしてそのひとを二度と失わないためなら、俺は何を犠牲にしても構わないと思っている。そうやって俺はいつか、此の世の全てを壊すのかも知れない」
だからさ、と言って肩を竦めた煉が、何かを諦めたように笑う。
「俺には誰かを責めることなんて出来ないんだ。そんな資格ないからさ」
誰も、誰かを責めることは出来ない。柊の力を欲しない者などいない。それはきっと真実だ。けれども宵風に揺れる艶やかな黒髪を目にした時、不意に背中に寒気が走った。
……和馬の前に立つこの少年は、大切な誰かを守るためなら、何を犠牲にしても構わないと思っているのではない。彼は、すでにナニカを犠牲にしたのではないか……?
17
ひいらぎ、と誰かが俺の名を呼んだ。
「ねえ、起きなよ」
最後にヒトの姿を見てから、一体どれ程の月日が経ったのか。幾度も肩を揺さぶられ、俺は夢うつつに瞼を開いた。ぼんやりと掠れた視界に、見たことのない小さなヒトの影がちらちらと瞬く。
「キミさ、ここで何してるの?」
遠い昔、同じ事を訊かれた気がする。遠く、遥かに過ぎ去った日々。それともあれは、つい昨日のことだったか。うとうとと微睡みに沈もうとした途端、冷たい水がピシャリと顔にかかった。驚いて眼を見開いた俺の顔を、黒々とした瞳が覗き込む。その瞳は、彼女のモノともアサカのモノとも違っていて、唯ひたすらに静かで、深く、底が見えなかった。
「キミ、もしかして死にたいの?」
……わからない。俺は生きるということの意味も、死ぬということの意味も知らなかったから。そんな俺を少年は長い間無言で見つめていた。そして、生きたまま腐る、と呟き、微笑んだ。
「キミは鬼だ。食べなくったって苦しいだけで、いくら待っても死ねないよ」
行こう、と差し出された手を俺はぼんやりと見つめた。
「……行くって……どこに……?」
「ここじゃない、どこか」
彼の言葉の意味が解らなかった。俺に行くところなど無いと言うと、「どこにも行くところがなくたって、別にここにいる必要もないからね」と答えて少年は笑った。彼が笑うと、長い睫毛に縁取られた瞳がクルクルと愉しげに揺れる。その笑顔は俺が今まで出会った誰よりもいきいきとしていた。
「……おまえは鬼か?」と掠れた声で訊ねると、少年は眦の切れ上がった眼を僅かに細め、「さあね」とうそぶき、ニヤリと口の片端を歪めた。
「鬼でもなく、ヒトでもないのか。ヒトでもあり、鬼でもあるのか」
俺の腕をぐいと掴み、少年が開け放たれた鉄格子に向かって立ち上がる。
「俺が何者だろうと、あんたが何者であろうと関係ない。あんたは自由だ」
「……自由って、なんだ……?」
さあ、と言って、少年が優しげに小首を傾げた。艶やかな黒髪が月明かりに濡れてきらめく。
「自由の定義なんて俺にもわかんないけどさ、でも多分、心が縛られていないってことなんじゃないかな」
何にも縛られることなく、過去にも未来にも囚われることなく、生きる。
「でもね、本当は、心底自由なイキモノなんて此の世にはいないんだ」
大きく両手を広げ、少年が深呼吸する。
「だからさ、自分が何者だとか、自由の意味だとか、そんなこと気にすることに意味なんてない。俺はとりあえず気の向くまま、自分が行きたいところに行けれさえすればいい」
そう言い放ち、少年は愉しげに笑った。
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……今日も柊はいない。
避けられているのだろうか。最近なかなか柊に会うことが出来ない。ひと気の無い公園のベンチに座り、買ったばかりの缶ジュースを一口飲む。一番当たり障りの無さそうなリンゴジュースを選んだのに、冷たいそれが切れた唇に沁みて、和馬は思わず顔をしかめた。溜息と共に飲むのを諦め、氷がわりに冷えた缶を腫れた頬に当てる。
事の起こりはクラスメイトの一言だった。
「あれぇ〜、カズマくんってばどうしちゃったのォ? オレよりか点数低いとか、最近チョーシ悪いじゃーん」
返却されたばかりのテスト用紙を肩越しに覗き込み、鼻先で笑ったクラスメイトをジロリと睨み、無言で帰り仕度をする。一体和馬の何が気に入らないのか、彼が以前から和馬を目の敵にしているのは知っていたが、相手にするつもりはない。と言うよりも、最近の和馬は柊のことで頭が一杯で、クラスメイトの子供っぽい悪意や仲間内のいざこざに構っていられるほどの余裕がなかったのだ。しかし相手はそれが気に喰わなかったのだろう。
「ンだよテメー、無視してんじゃねーよッ」
肩に掛けたカバンを乱暴に掴まれた拍子によろめいて、カバンの中身が床に散乱した。イラッとしたが我慢して、散らばったノートや鉛筆を拾おうと床に屈み込む。和馬は特に内気というわけではないが、どちらかと言えば争いごとが苦手だったし、自分でも穏やかな性格だと思っていた。そんな和馬を見て、怯えているとでも勘違いしたのだろうか。
「おまえさぁ、気持ちワルイんだよ、オトナの前では『趣味は読書デス』とか言ってイイ子ぶっちゃって、図書館とか通ってさ」
そうそう、と彼に追従するように数人の男子生徒がニヤニヤと笑う。
「でもウチの母ちゃんが言ってたぜ? カズマくんが図書館に通うのはボシカテーで本を買うお金がないからかしら、カワイソウネって」
「金も無いのに塾に行って、それで成績落ちてたらどーしようもねーじゃん。カーチャン泣くんじゃねぇの? おまえニンゲン失格だな」
……馬鹿の相手をしたら馬鹿が感染る。そう自分に言い聞かせ、落ちた本に伸ばした和馬の手を、汚れた上履きが踏んだ。
「おまえさぁ、勉強が忙しいから俺らと遊べないとか言ってんの、ウソだろう?」
カッとして相手を睨みあげた和馬を、少年が勝ち誇ったような顔で見下ろす。
「オレ、知ってんだぜ。おまえ、公園でホームレスと遊んでるんだろう?」
ドクリ、と心臓が嫌な打ち方をした。ゴクリと唾を飲み込み、「なんの話?」と低い声で聞き返す。
「しらばっくれんなよ。おまえのマンションの近くの公園に住んでる高校生くらいのホームレスだよ。若いくせに髪が真っ白なヤツ」
「……ヒイラギはホームレスじゃない」
「ウソつけ。オレ、アイツが滑り台の下で寝てるの見たぜ」
「まじ?! カズマ、そんな変なヤツと遊んでんの?!」
「おまえ見たことねーの? 髪とか真っ白でさ、スッゲー顔色悪いの。ってかアイツぜってー病気持ちだろ?」
「うわあ、そんなヤツを遊ぶとか、気持ちワリイ! ってかホームレスとかクサそー」
「知ってる? ソイツ、鳥飼ってるんだぜ」
「マジで? ペットを飼うとか、ホームレスのくせに生意気だな」
「あ、イイこと思いついた」ネズミをいたぶる猫のように少年がニヤニヤと笑う。「オレの兄貴、エアガン持ってんだよ。エアガンって言ってもスズメくらいなら簡単に殺せるから、それでソイツの鳥を狩ってやったら面白いんじゃね――」
ブツッと頭の中で電源が切れたような音がして、次の瞬間、和馬は目の前の少年に殴り掛かっていた。不意を突かれて床に転がった相手に馬乗りになり、滅茶苦茶に殴りつける。怒りのあまり吐き気がした。床に転がった少年の顔に赤い色が滲むように広がり、その鮮やかな色に眼の奥がズクズクと痛む。しかし喧嘩慣れしていない和馬が優勢だったのはほんの僅かな間だけだった。
幾人もの手に押さえつけられた和馬を、息を切らせながらようやく起き上がった少年が憤怒の表情で殴る。けれども何度殴られても、和馬は呻き声ひとつ上げなかった。切れた唇をゆっくりと舐め、和馬が少年をひたと見つめた。
「……殺してやる」
オマエヲ殺シテヤル。オマエノ親モ兄弟モ友達モ、オマエニカカワルヤツハ、ヒイラギヲキズツケルヤツハ皆、殺シテヤル。
少年が息を呑み、怯えたように後退った。誰かが呼びに行ったのだろうか。廊下を走ってくる教師の姿を目にした途端、和馬は弾かれたように教室を飛び出した。
「……カズマ?」
呼ばれて顔を上げると、小鳥を頭に乗せた柊が不思議そうに首を傾げていた。
「ヒイラギ」慌てて微笑もうとしたが、頬が引き攣れたように痛んだ。「えっと、なんかちょっと久しぶりだね。ヒイラギってば、最近あんまり公園にいないから」
「おう、煉の口利きでさ、ペットショップで掃除の手伝いとかしてんだ。手伝う代わりにヒワにヒマワリの種をくれるって言うからさ」
バイト代がヒマワリの種というのはどうなのだろうと思ったが、得意そうな柊の顔を見て、「へえ……すごいね」と相槌を打っておく。いつもとあまり変わらない彼の態度に、少しほっとした。
「おまえさ、今日はジュクの日じゃねぇの?」
「うん……そうだけど、でも今日は休むことにしたんだ」
ふうん、と言って首を傾げた柊がまじまじと和馬の顔を見て、ふと眉をひそめた。
「おまえ、口のとこどうしたんだ?」
なんでもない、と言って眼を逸らそうとした和馬の顔を両手で挟んで無理やり上げさせると、柊が口を尖らせた。
「ってかおまえ、久々に見たらなんか全体的に顔が歪んでねぇか?」
あまりの言いように思わず吹き出してしまう。
「えっと、ちょっとクラスメイトと喧嘩しちゃって」
「バカだなぁ、おまえ。弱いくせに一丁前にケンカとかしてんじゃねぇよ」
一方的に和馬を弱いと決めつけると、柊が慌てて立ち上がった。
「ちょっとここでヒワと待ってろよ、すぐ戻ってくるから、動くんじゃねぇぞ」
和馬に有無を言わさず小鳥を手渡すと、柊は走ってどこかへ行き、数分もするとまた走って戻ってきた。
「こーゆーのは煉のヤローが得意なんだけどな。沁みてもガマンしろよ」
真剣な表情で眉根を寄せた柊が濡れたハンカチで和馬の傷を拭き、続いて雑草のようなモノを指先ですり潰すと、その汁を恐る恐る傷口に近づけてきた。
「えっと、ちょ、ちょっと待って?! それなに?!」
「……前に、おまえが転んでケガしたことあっただろ? その話をしたら、煉のヤローが教えてくれたんだ。血止めと化膿止めの薬草だってよ」
そんな怪しげな草なんか使って傷口が悪化したらどうしようかとは思ったが、しかし自分の為に柊が懸命になっているのが嬉しくて、くすぐったいような気持ちで覚悟を決めて眼を瞑った。
柊のひんやりと冷たい指先が腫れた頬にそっと触れる。壊れものを扱うように慎重に、丁寧に、息を詰めて、柊は青臭い薬草を和馬に塗った。そうして幾度も触れられているうちに、くすぐったいような楽しい気持ちは消えて、だんだんと息が苦しくなってきた。
ヒリヒリと痛む。
柊のひんやりと冷たい指が触れるたびに、胸の内がヒリヒリと痛む。
「なんだよ、あと少しだから、そんな情けねぇ顔するなって」
ヒリヒリと痛む。
柔らかに細められた眼と、けぶるような睫毛の先に踊るひかりを見るたびに、胸の内がヒリヒリと痛む。
「おまえさ、ケンカしても、トモダチとはちゃんと仲直りしろよ」
「……別にいいよ」
「よくねぇだろ。って言っても、オレはトモダチとかいないから、よくわかんねぇけどさ」
「……違うよ。アイツらは友達なんかじゃない。あんなに馬鹿で、外道で、知りもしないくせにぼくのトモダチのことを悪く言うヤツなんて、友達じゃないからね」
「……チドメグサ、ヨモギ、アロエ」
「え?」
「煉が教えてくれた草の名前だ。どこに生えてるか、あとでおまえにも教えてやるよ。そしたらおまえのケンカ相手にも教えてやれ」
相手を殴って傷付いた和馬の拳をそっと撫で、柊が微笑んだ。その優しさが切なくて、後ろめたくて、胸の内がヒリヒリと痛む。
……柊。
教えて欲しい。もしもヒトが君の優しさの欠片でも持ち合わせていたなら、ヒトと鬼は友達になれたのだろうか。
(to be continued)




