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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
116/123

蝙蝠(三)

      10



 気味が悪い、と彼は言った。


 冷ややかな眼で瞬きひとつせず俺を見つめ、気味が悪いと吐き捨てるように言ったのだ。


安積(アサカ)さん、何してるんですか。餌やりが終わったなら、早く出ましょうよ」

 濡れた手を拭きつつ、若い男が俺を見つめる男に背後から声を掛けた。

「俺、実はちょっとここ苦手なんですよ。暗くて陰気だし、あと……うまく言えないけど、なんとなく気が咎めるっていうか……」

「気が咎める?」

「いや、だって、鬼って言っても、見た目はあんまりヒトと変わらないじゃないですか」

 若い男はちらりとこちらを見遣り、しかし俺と目が合うと慌てて顔を背けて咳払いした。

「……お前、こいつの世話を始めて何年になる?」

「えっと、安積さんのお祖父さんが亡くなった時に替わりを引き継ぎましたから、もう三年くらいになりますかね」

「俺は十七の時に祖父に連れられてこの屋敷に来てから、二十年近くこいつを見てきた」

「はあ……、あの、やっぱりそれだけ長い間仕事としてやってれば、慣れてくるもんですか?」

「……背が伸びてきている」

 アサカと呼ばれた男が鉄格子越しに腕を伸ばし、俺の髪を乱暴に掴んで引き寄せた。

「恐らくもうお前と比べても遜色ないくらいに」

「は? まぁ鬼だって成長すれば背くらい伸びるんじゃないですか?」

「こいつは何十年も昔からずっと子供の姿だったんだ。なのにここ二、三年で急に変わってきた」


 気味が悪い。そう再び呟くと、彼は俺を掴んでいた手を離した。彼の指に切れた髪が絡まっていて、俺は唯、その半透明な蜘蛛の糸のようなモノをぼんやりと見つめた。


      ✿


「カズマ、おまえここで何してんだよ」

「なにって……」

 柊に睨まれ、ダンボール箱を抱えた和馬が俯いた。柊の忌々しげな舌打ちに和馬が萎縮するのを見ても、煉は肩を竦めるだけで何も言ってくれない。

「もう来んなって言っただろーが」

「……そうだけど、でも……」

「でももクソもねぇんだよ。煉の話を聞いてなかったのかよ? オレとおまえは違う。なにもかも、全て違うんだ」

 オレは鬼で、おまえはヒトだ。

 誰かに言い聞かせるようにそう吐き捨て、柊が踵を返す。

「ま、待って……!」

 立ち去ろうとした柊の腕を、思わず掴んでしまった。その蒼白い肌に触れた瞬間、指先にぴりりと静電気のような痛みが走った。振り返った柊の形相を見て、咄嗟に殴られるかと思い、身が竦む。けれども柊は無言のまま、和馬に掴まれた腕を硬く強張らせているだけだった。

「……ヒイラギは、ぼくのこと……嫌い?」

 ぴりり、と再び指先に電気が走る。

「ぼくがヒトだから、嫌いなの?」


      ✿


「アサカはオレが嫌いなの?」


 何故、そんな事を訊いてみようと思ったのか。ふと口を()いた俺の言葉に、男がゆっくりと振り返った。温度の無い眼がじっと俺を見つめる。


「……オレが鬼だから、嫌いなの?」


 鬼でなければ良かったのか。

 ヒトならば良かったのか。

 ヒトであれば、唯、ヒトでさえあれば、俺は愛されたのか――


      ✿


「……チガウ」

 不意に呻くように柊が呟いた。

「……そうじゃない。オレは、おまえが嫌いなんじゃなくて、そうじゃなくて、でもおまえはヒトで、オレはヒトじゃなくて、だから、どんなに望んでも、オレは、違って……!」

 激しい痛みを堪えるかのように柊が頭を抱え、うずくまった。

「柊?! どうしたの?!」

「オレに……オレに触るなッ」

 思いも寄らないほどの力で振り払われ、腕に抱いていたダンボール箱が弾け飛んだ。

「あっ!」

 壊れた箱から小さな鳥が転がり出た。余程驚いたのか、鳴き声も立てずに必死の表情で羽ばたき、しかしどんなに必死になっても数メートルも飛べず、落ちた先の地面でもがいている。慌てて捕まえようとする和馬の手を逃れ、小鳥が道路に飛び出した。

「危ないッ」

 思わず悲鳴をあげて駆け寄ろうとした瞬間、横殴りに突き飛ばされた。勢い余って転んだ和馬の目の前を、盛大にクラクションを鳴らしながら車が走り去る。

「この馬鹿ガキッ、クルマ来てんのにイキナリ飛び出そうとするとか、てめえ馬鹿かよッ?! ナニ考えてんだよッ?! クルマってヤツは下手すりゃ鬼よりアブねーんだぞッ! ってかコレなんだよ?!」


 顔を真っ赤にして喚き散らす鬼の手の中で、薄黄色の羽毛が小さな溜息と共にぽわりと膨らんだ。


 

      11



 俺はどんな顔をしているのかと尋ねると、彼女はひどく驚いたように幾度か瞬きした。


「どんな顔って、どういう意味?」

「……きみに……ヒトに似ているのかな、って思って」

「ひいらぎは自分の顔を見たことがないの?」

 俺が頷くと、彼女は僅かに首を傾げて考え込んだ。

「わたしとは似てないわ」

「そう……」

 それが寂しいとか、残念であるとか、あの頃の俺はそんな言葉を持ち合わせてはいなかった。俺が足元の冷たい床を見つめて俯くと、彼女はおかしそうにクスクスと笑った。

「だって、ひいらぎは男の子ですもの。わたしと同じなはずがないでしょう?」

「……じゃあ、こんな感じ?」

 俺が開いた本の頁を指差すと、彼女は声を上げて笑った。

「ひいらぎは犬にも似てないわ」

 いいものをもってきてあげる。そう言って彼女は外へ駆け出し、余程急いだのか、しばらくすると息を切らせて戻ってきた。鉄格子の隙間越しに差し入れられたモノに俺が首を傾げると、「鏡よ」と彼女は言った。

「かがみ?」

「そう、それならひいらぎも自分の顔が見れるでしょう?」

 ひんやりと冷たく光る銀色の中に己の真実が映しだされる。鏡を持つ指先が震えた。俺は長い間迷った末、息を止めて恐る恐る銀色のそれを覗き込み、その中に棲むモノと生まれて初めて対面した。

 ソレは全体的に蒼白く、つるりとしていて、目玉がふたつあり、真ん中に鼻と口がひとつづつあった。俺が口を開けると、鏡の中のソレも口を開けた。そこには白くて薄い歯が並んでいるだけで、本の中の生き物たちのような牙もない。


 ヒトと、彼女とあまり違わない。


 そのことに安堵した。



      ✿



「カ、ワ、ラ、ヒ、ワ」

 公園のベンチにあぐらをかき、前のめりになった柊が図鑑の頁を指で辿りつつ、一文字ずつ確かめるように声に出して読む。

「ひくい、やまや、もりにすみ、まちの、こうえんや、かわらでも……でも……」

「観察」

「か、ん、さ、つ、できます。カンサツってなんだ?」

「見るってこと」

「ふうん、おまえ、カワラヒワって言うのか。じゃあ名前はヒワだな」

 自分の肩先にちょこんと座った薄黄色の鳥の頭をちょんと指でつつき、柊が笑う。その屈託無い笑顔に和馬も自然と顔が綻ぶ。

「カワラヒワは、ひまわりの、たねが、こ、こ……こうぶつ、です。そうか、じゃあ早速そのヒマワリの種ってヤツを探しにいかないといけねぇな」

「うーん、ヒマワリが咲いているところなんて、この辺にあったかなぁ」

「ヒマワリの種くらいペットショップに行けばあるんじゃないの?」

 和馬の隣でのんびりとジュースを飲んでいた煉が助け舟を出す。

「それにしても柊ってば、いつの間にか結構読めるようになってるじゃん」

「おう、カズマのお陰でひらがなとカタカナならバッチリだぜ」

 得意げに胸を張る柊を見て、「ふん、つまり五歳児程度の知能はついたってワケか」などと狐が憎まれ口を叩く。怒って焰を追い回そうとする柊を和馬が慌ててなだめ、煉が笑う。全てが嘘のように穏やかだった。



 あの日、小鳥を手に抱いたまま顔を真っ赤にして喚き散らす柊に向かって、「そいつの世話係は柊ね」と煉が言い放った。

「な、な、なんでオレがそんなことしなきゃいけねーんだよッ?!」

「だって見てたでしょ? そいつ、怪我してて飛べないからさ、放っといたら死んじゃうじゃん」

「だからって、なんでオレが……ッ」

「だって柊が一番ヒマそうじゃん。和馬は学校と塾があるし、俺だってこう見えて結構色々と忙しいんだよね」

「イ・ヤ・ダ」忌々しげな舌打ちと共に柊がそっぽを向く。「オレはヒトもケモノも嫌いだ。飛べねぇ鳥の世話なんか、そんなメンドくせぇこと誰がするか」

「あのねー」

 柊のにべも無い態度に対して煉が何か言いかけたところに、「まぁまぁ」と狐が割って入った。

「イヤダと言ってる奴に無理にやらせることもないだろう。しかし飛べない鳥が生きていけるほど此の世は甘くない。ノラ猫なんぞに嬲り殺されても哀れだ。仕方ない、ココは俺がひと思いに……」

「ざけんじゃねーッ」

 舌舐めずりしつつ、あんぐりと大口を開けた狐から小鳥を奪い返したその瞬間から、小鳥の世話係は柊と決まった。以来、薄黄色の小鳥は白い鬼の左肩から片時も離れようとはしない。



「ヒマワリの種の殻ってのは、やっぱ取ってやったほうが喰いやすいよな」

 真剣な眼差しで僅かに口を尖らせ、柊がぎこちない手つきで殻を剥き、それを期待に満ちた表情でヒワが見つめる。

「ちょ、慌てんなって! まだ半分しか取れてねぇだろうが! ったく世話のやけるヤローだな、チィチィとか一丁前に文句言ってんじゃねぇよ」

 小鳥と言い争う柊の姿はのどかで、微笑ましくて、だから余計に煉から聞いた彼の生い立ちに胸が痛んだ。

「……ヒイラギ、ごめんね」

 思わずぽろりと口から零れた言葉に、柊が訝しげに眼を細めた。

「その……ヒワの世話とかやってもらっちゃって……」

「別におまえが謝ることないだろ。コイツをあのバカギツネに喰わせるわけにはいかねぇんだから」

「うん……そうだけど、でも、あと……」

 自分のナニカが彼を傷つけた。それは和馬が怪我をした時の一件で無意識にとった態度かも知れないし、自分が『ヒトだから』嫌いなのかと訊いたことかも知れない。何故あんな事を言ってしまったのだろう。柊が受けた仕打ちを考えれば、彼がヒトを憎むなんて当然のことなのに、それでも自分が隣にいることを許してくれる彼に対して、そんな問いを口にすることにどんな意味があると言うのだろう。

「なんだよ、言いたいことがあるならサッサと言え」

 柊にジロリと睨まれ、和馬が僅かに俯いた。

「あの……もしかしら、ぼくの言ったことで、ヒイラギのことを傷つけちゃったかな、って思って……」

 消え入るような声で和馬が答えると、柊はふんと鼻を鳴らし、「バカガキが、勘違いすんな」と言って和馬の頭を小突いた。

「おまえの言葉で傷つくほど、オレには中身がねぇ」

 口調は乱暴なのに、和馬に向けられた眼差しは透明で優しくて、なんだか涙が零れそうになった。



      12



『昔々、小さいけれども豊かな国に、ひとりのお姫様が産まれました』


 彼女に初めて出逢ってから、どれほどの月日が経ったのか。彼女の美しい髪は長く、腰は細くくびれ、その笑顔は色褪せるどころかますます鮮やかになっていく。彼女は俺の世界の中心で、光で、全てだった。


『お姫様は優しく美しく、国中の人々に愛されて育ちました』


 けれどもいつの頃からか、彼女の訪れは間遠になっていった。彼女の訪れがひと月に一度から二月に一度、そして三月に一度と少なくなるにつれて、俺の知らない外の世界で彼女に何かあったのではないかと、俺は独り不安に苛まれ、幾夜もの眠れぬ夜を過ごした。


『ただひとり、暗い森に棲む魔女だけが、彼女の華やかな笑顔を妬み、憎く思うようになりました』


 久し振りに訪れた彼女に「大丈夫?」と俺が尋ねると、彼女はいつも少し困ったように微笑み、「なにも心配はいらないわ」と言った。そして訪れが遅れたことを、『約束』が果たされないままでいることを幾度も詫びた。


『お姫様が十六歳になった夜、お城の夜会に突如現れた魔女は彼女を連れ去り、誰も知らない森の奥に隠してしまいました』


 彼女はなぜ何も言ってくれないのだろう。俺の知らぬ外の世界には、一体何がいるのだろう。それは火を噴く竜かも知れないし、全てを破壊する嵐か竜巻か、もっと恐ろしいモノなのかも知れない。昔、彼女が読んでくれた本の挿絵が脳裏に蘇る。彼女はそこに描かれていたどの姫君よりも遥かに美しいから、そのせいで危険に晒されているのかも知れない。けれども俺はここに囚われたまま、彼女を救うことができない。


 君のそばにいたい。

 君を守りたい。


 俺は生きてきて初めて、(じゆう)を欲した。



      ✿



「……コイツ、あとどれくらいで飛べるようになるのかなぁ」

 読んでいた本をパタリと閉じてベンチに寝転んだ柊が、自分の指先で遊ぶ小鳥の翼をそっと撫でた。

「怪我が完治するのは四週間から六週間くらいって、煉くんが言ってたけど。でもいきなり飛べるようになるわけじゃなくて、最初は飛ぶためのリハビリが必要なんだって。それにしても煉くんって、本当になんでもよく知ってるよね」

「アイツは鬼神鳥獣のイキジビキってヤツらしいからな」

「生き字引?」

「ああ、オレはよく知らねぇけど、前にどっかで出会った鬼が言ってた」

「ふうん。煉くんってさ、歳なんかぼくとあんまり変わらないのに、なんでそんなに物知りなんだろう?」

「……おまえ、それ本気で言ってるのか?」

 なぜか驚き呆れたように半身を起こし、柊がまじまじと和馬を見た。

「どこをどう見たら、アイツがお前と変わらねぇ歳に見えるんだよ?」

「え? だって、煉くんってどう見たって小学生くらいでしょ? ぼくの学校では見掛けたことないから、違う地区の学校かなって思ってたんだけど」

「煉がヒトの学校に行くわけないだろ? ヒトじゃねぇんだからさ」

「は? ヒトじゃないって……どういう意味?」

「いや、ヒトじゃねぇってのはちょっと違うかも知れねえ。ヤツはヒトとして産まれたはずだから、そしたらたとえ千年生きても結局はヒトなのか? よくわかんねぇな」

  柊は何やらブツブツ言いつつ考え込んでいたが、和馬と目が合うと急に居ずまいを正した。

「煉がヒトなのか、そうでないのか、オレにはわからねぇ。でもそんなこと、アイツには絶対に言うなよ? アイツは作り笑顔がうまくて、本心なんて誰にも見せねぇけどよ、でももしかしたらアイツだってそのへんのこと気にしてるかも知れねぇからな」

 ……柊は優しい。ぶっきらぼうで、口調はキツイけれど、彼はきっと誰よりも優しく、そして他者を傷つけることを何よりも恐れているのだろう。改めて、そんな彼のことが好きだと思った。彼とずっと一緒にいたいと、不意に強く思った。

「ねぇ、ヒイラギ。ヒイラギは本が好きだよね。図書館にはすごく沢山の本があって、毎日一冊ずつ読んでも読み切れないくらいあるから、だから――」

 ――そこに無数の物語がある限り、君とぼくはきっとずっと一緒にいられる。そう言おうとした和馬を遮るように、柊がポツリと呟いた。

「コイツが飛べるようになったら、オレはここを出て行く」

「え?! なんで……」

「おまえとこれ以上一緒にいたくないんだ。煉のことは知らねぇけど、どちらにしろ俺はヒトじゃねぇからな」


 (ワリ)イな。そう言って和馬に向けられた静かな微笑みが、田舎で見た白い鳥の面影に重なり、滲んで霞んだ。



      13



 餌の入った器にたかる蠅のくぐもった羽音が、湿った檻の空気を微かに揺らす。ふと思う。あのどろりと赤く濁った餌は、そもそも何で出来ているのだろうか。

 耳障りな金属音と共に鉄格子が開き、背の高い男が檻に入ってきた。男は手の付けられていない器にちらりと目を遣ると、無言のままそれを片付けた。

「……待つだけ無駄だ」と不意に男が呟いた。それが自分に向けられた言葉だとしばらく経ってから気づき、俺は俯いていた顔を上げた。随分と長い間動かないでいたせいか、首すじが酷く強張っていて、湿った古い本の頁のようにピリピリと引き攣れる。

「いつまで待っても彼女は来ない」と再び男が言った。

「……彼女にとってお前の存在は、此の世でたったひとつ、己の自由にならないモノだから」

 硬く骨ばった男の背中を見ているうちに、躰の内からふつふつと虚ろな嗤いが込み上げてきた。

「アサカはオレが嫌いなの?」

 俺の言葉に、男はゆっくりと振り返った。温度の無い眼がじっと俺を見つめる。

「オレが鬼だから、嫌いなの?」

 耳が痛くなるような静寂の中、男は長い間、瞬きひとつせずに俺を見つめ、やがて「違う」と低い声で呟いた。

「俺がお前達を嫌うのは、お前達が何もしようとはしないからだ。奪われ、踏みにじられ、殺されるとわかっていても戦おうとすらせず、生きることも死ぬことも自ら選ぼうとはしない」

 生きながら腐る、と彼は吐き捨てるように言った。

「鬼だろうが人だろうが、俺はそんな奴が嫌いだ」


 ヒトを可哀相なイキモノと呼んだアザミの声が不意に蘇った。ヒトはわたし達に愛されないことを恐れているのだと言った彼女の微笑みが、記憶の底でゆらゆらと揺蕩う。


「違う……」


 アサカは違う。この男は、俺に愛されないことを恐れてはいない。けれども俺は、蝙蝠(おれたち)は本当は皆、酷く恐れているのではないか。

 ヒトを愛することを。

 その意味を知ることを――


「……ねぇ、出してよ」

 冷たい鉄格子を握る手に血が滲み、痛みが走る。胸の内から迸る狂おしいような何かに喉を詰まらせ、鉄格子を揺さぶり、頭を打ち付け、立ち去ろうとする背中に向かって叫んだ。

「オレをここから出してよ!」


 重い金属音が響き、錠前が外された。



      ✿



 薄暗い夕暮れ時、俯いてコツリ、コツリとスニーカーの爪先で小石を蹴りつつ、母の待つマンションへ帰る。小石が歩道から出たら、世界は破滅する。もう三度くらい破滅しているはずだけれど、辺りに特に変わった様子はない。今日はもう遅いから、あまり遅くに行くとオウマガトキがどうのこうのと柊が怒るから、公園には寄らない。柊に会いたくないわけじゃあなくて、ただ、今日はとても遅くて、なんだか酷く疲れていて、小石が守る世界は破滅する寸前で、肩に掛けたカバンがやけに重いから――

「どうしたの? 元気ないね」

 聞き慣れた声に顔を上げると、煉が街路樹にもたれてアイスキャンデーを舐めていた。



 柊に、これ以上一緒にいたくないと言われたと和馬が話すと、煉は小さく溜息を吐いて空を見上げた。もうとっくに陽は落ちて、東の空に一番星がちらちらと瞬いている。

白鳥(しらとり)は哀しからずや空の青、海のあをにも染まずただよふ……」

 誰かの歌を口遊み、煉が眼を僅かに細めるようにして微笑んだ。

「柊はね、ヒトになりたかったんだよ」

「えっ?! ヒトになりたいって、でも、ヒトはヒイラギの一族を……」

「うん、そうなんだけど。でも生まれた時から暗い地下の檻に囚われて独りで生きてきた柊には、口で言うほど『一族』だとか、『ヒト』や『鬼』だとかって意識がなかったんだと思う。それどころか柊には長い間、自我というモノすらなかった」

 生きもせず、死にもせず、望みも感情も無いままに、唯暗闇に揺蕩うように在るだけのモノ。

「そんな柊に、本を読んでくれる女の子が現れた。柊が囚われていた屋敷の主人の孫かなんかで、とても綺麗な子だったらしい。幼馴染っていうのとはちょっと違うかもしれないけれど、でも彼女の存在は柊に『自分』という個の存在を意識する切っ掛けを与えた。そしてまるで彼女の成長に合わせるように、柊も成長した。鬼ってなんかの拍子に脱皮するみたいに急に成長することがあるんだけど、柊の場合は彼女と『同じ』でありたいっていう無意識の願望の現れだったんじゃないかな。彼女とずっと一緒にいたかったから……」


『同じ』であれば良かったのか。

 ヒトならば良かったのか。

 ヒトであれば、唯、ヒトでさえあれば、彼女と共に在ることを許されたのか――


「……それで、その女の子と柊はどうなったの?」

 煉が肩を竦めると、食べ終わったアイスキャンデーの棒をパキリとふたつに折り、道端のゴミ箱に向かって放った。

「さっきの『しらとりは哀しからずや』って歌ね、若山牧水の歌なんだ。空の青にも海の青にも染まることのない白い鳥の姿が哀しいってこと」

 恨み、憎しみ、嫉み、そして絶望。此の世に溢れるどんな色にも染まることのない清らかさが、その透明さが、哀しい。そう言って、煉が微笑んだ。

「清らかってのは儚いってことだ。儚さなんてのは言いかえれば弱さと変わらん。弱さは醜い」

 金色の瞳を揺らめかせ、パシリ、と苛立ったように狐が地面を尻尾で打った。

「清らかに死のうとするヤツよりも、汚泥にまみれてでも生き抜こうとするモノのほうが遥かにマシだ」

「俺には焰が言いたいこともわかるし、カズマがアイツのことを好きだって思う気持ちもわかる。でも誰に何て言われようと、柊は柊として生きていくしかないんだ。カズマと一緒にいたくないって言うアイツの本当の気持ちが知りたいなら、この話の続きはアイツに直接聞くしかないよ」



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