表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
113/123

目隠し鬼(終)

        24



 おーにさーん こーちらー

 てーのなーる ほーうえー


 ヒロ、と高く澄んだ声が俺を呼ぶ。

 ヒロはとろくさいな、と呆れたように溜息をつき、小さく柔らかな手が転んだ俺の膝を払う。俺はとろくさくなんかない、なんったってクラス対抗リレーではアンカーをまかされてるんだからな、俺がトロいんじゃなくて、おまえらがすばしっこすぎるんだろうと口を尖らせた俺を見て、澄んだ声が愉しげに笑う。

 おまえ、そんなこと言ってたら、いつまでたっても鬼のままだぞ。

 硝子の風鈴のように風に舞う笑い声を掴もうと、俺は闇雲に手を伸ばす――



 目を覚ますと、そこは白い壁と白い天井と白いカーテンに囲まれた部屋だった。

「あ、気が付いた? 気分はどう?」

 センでもアカネでもない。見知らぬ少年が顔を覗き込んできた。ここはどこだとか、みんなはどこにいるのかとか、おまえは誰だとか訊こうとしたが、全身が軋むように痛くて、呻き声ひとつ上げることが出来ない。不意にぬるりと濡れた感触が指先に甦り、途端に首を絞められたように苦しくなって、空っぽの胃から胃液がせり上がった。

「落ち着いて。大丈夫だから、ゆっくり息を吸って、吐いて」

 ぽんぽんと背中をさすってくれる手のリズムに、ようやく呼吸の仕方を思い出す。

「あんまり動かないほうがいいよ? けっこーひどい怪我しちゃったみたいだからね。幸い頭は打たなかったみたいだけど……あ、ちょっと口開けてみてくれる?」

 朦朧としたまま僅かに開けた口の中に、小さな赤い実が押し込まれた。驚いて吐き出そうとすると、少年が素早く口を押さえた。

「大丈夫だよ、クコの実って漢方とかにも使われるし、毒じゃないから」

 甘酸っぱい香りがふわりと舌に広がる。

「俺、こーゆーのって苦手なんだけど、でもキミの友だちに頼まれちゃったからね」

 クコの花言葉は『忘却』……。そう囁いて微笑む少年の黒髪が艶やかに光る。

「……キミの眼はよく視え過ぎる」

 温かな手がそっと眼を覆った。突如訪れた暗闇とどこからともなく響く潮騒のような心音に、揺蕩(たゆた)うように意識が遠のく。

「もう眠るといい」

 暗い海の底から、誰かが囁く。

「……二度と、夢なんてみることなく」



        ❀



 おーにさーん こーちらー

 てーのなーる ほーうえー


 ヒロ、と高く澄んだ声が俺を呼ぶ。

 ヒロはとろくさいな、と呆れたように溜息をつき、小さく柔らかな手が転んだ俺の膝を払う。俺はとろくさくなんかない、なんったって今じゃ陸上部のエースなんだからな、俺がトロいんじゃなくて、おまえらがすばしっこすぎるんだろうと言おうとしたのに、なぜか息が詰まり、涙がこぼれた。そんな俺を見て、澄んだ声が愉しげに笑う。

 おまえ、そんなこと言ってるから、いつまでたっても鬼のままなんだぞ。

 硝子の風鈴のように風に舞う笑い声を掴もうと、俺は闇雲に手を伸ばす――



「あんた、まじ無茶苦茶だよ」

 肩が抜けそうな勢いで腕を引っ張られて目を開ければ、心底呆れ果てたと言いたげな少年に見下ろされていた。

「ハイジャンプのエースだかなんだか知らないけど、掴んだ枝が折れたら意味ないんだからね? 枝を伝って反対側に行こうとか考えたんだろうけど、俺がいなかったら、あんた今の完全に死んでたよ?」

「馬鹿は死なないと治らんのだろう。三度目の正直ということもある、試しに落としてやれ」

 狐がふんと小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、その背後で弟が何やら泣きながら喚き散らしている。しかし崖から吹き上げる風が強くて、向こう側にいる弟の声はひどく聞きづらい。そう、向こう側(・・・・)にいる……。不意に我に返った。息を呑んで振り返った目の前に、朽ちた巨木があった。

 あの日、天に届きそうなほど高いと思った梢は今ではすっかり枯れ果て、風雪を刻んだ幹は裂け、根は土から浮き上がっている。幹の中程で折れ、見る影もなく朽ち果てた樹をただ呆然と見上げた。腐った根元に潰れかけたウロを見つけ、裕貴は痛む足を引き摺り、よろめくようにそれに近づいた。ゆっくりと跪き、死んだ動物の口のようにぽっかりと空いた暗い穴に手を差し伸べる。けれどもそこには何かを砕いたような無数の欠片と湿った土があるばかりで、なにもなかった。いや、もしも落胆や絶望といったモノにカタチがあるのなら、それはきっと裕貴の手に触れた土のようにざらりと冷たく、暗く湿った臭いがするのだろう。

「……だから言ったんだよ。もうここにはナニもないって」

 そっと肩に置かれた手の温かさに、あの日、病室で瞼を覆った手の温かさが蘇る。

「……煉。あれはおまえだったのか」

 裕貴に睨まれ、少年が少し困ったように微笑んだ。

「……おまえ、俺に何をしたんだ?」

「俺はあんたのトモダチにどうしてもって頼まれて、あんたの『視る力』と『記憶』を封じようとした。でも俺ってそーゆー術系って苦手でさ、あんたの『終わりを夢に視る力』とトモダチの記憶はなんとか封じたんだけど、妖自体を視る力は残っちゃったんだ。それもボロが出て、なんかトモダチ関係の記憶も中途半端に戻ってきちゃったみたいだけどね」

「俺の友だちって……?」

「セン」

 ヒトとヒトでないモノは友だちにはなれないと呟く、悲しげな微笑みが眼に浮かぶ。ヒトとヒトでないモノは、友だちになってはならない。

「……煉、おまえ、本当は初めからすべて知っていたんだな。ただの通りすがりとか言って偶然を装って、でも本当は、りんのことも、センのことも、俺自身のことも……俺だけが知らなかった」

 不意に湧き上がった悲しみに胸が潰れそうに痛み、嗚咽が漏れた。

「……俺が……」

 薄い羽の透明なきらめきと、樹々の翡翠を映すエメラルドグリーンの模様が繰り返し、繰り返し瞼の裏を過る。

「俺がアカネの羽を捥ぎ、センを殺した。俺が……」

「それは違うぞ」

 風鈴の音のように涼やかな声が裕貴を遮った。

「センとアカネがああなったのは、あいつらがそうなることを望んだからだ」

「り、りん……!」

「ヒロはとろくさいの」

 綺麗に切り揃えられたおかっぱ頭を愛らしく傾げ、小さく柔らかな手が土に汚れた裕貴の膝を優しく払う。

「言うただろうが? おまえ、こんなんだからいつまでたっても鬼のままなんだぞ」


 おーにさーん こーちらー

 てーのなーる ほーうえー


 懐かしげに目を細め、紅いおちょぼ口がわらべ唄を口遊(くちずさ)む。

「おぼえているか、ヒロ。めんなし鬼の目は、鬼に喰われた。だから他の子を捕まえてその目を喰うまでは、めんなし鬼は目が見えんのだ」

 だから鬼は、子を求めて彷徨いつづける。失ったモノを取り戻そうと、暗闇の中を手探りで、彷徨い、迷い、惑いつづける。

「ヒロはとろくさいからの」と言って、少女が銀の鈴を転がすように笑う。「りんはもう待ちくたびれた」

「待ちくたびれたって……おまえそんなフラフラしてる癖に一体どこに行くつもりだよ?!」

 立ち上がった少女の手首を裕貴が慌てて掴み、その細さに虚を衝かれたように息を呑んだ。

「ふむ、そろそろ仲間たちのところに戻ろうかと思っての」

「……嘘つくなよ、りん。おまえ、病気だって煉から聞いたんだからな。そもそも仲間って言ったって……残っているのはおまえで最後だろ?」

 もう逃がしてなるものかと抱きしめたりんの躰は、本当に中身が入っているのか心配になるほど薄く、軽い。

「頼むから、どこかに行っちまうとか、そんなさみしいこと言うな。おまえの病気を治す方法は俺が絶対に見つけてやる。約束するから、おまえは俺が守ってやるから、マモリガミサマだかなんだか知らないけど、伊介とひいじいちゃんに出来たことなら、きっと俺にだって……!」

 いきなり腕の中でおかっぱ頭が跳ねた。石頭がガツンと顎に当たり、思いっきり舌を噛む。

「な、な、なにしやがんだテメー?!」

「よけいなおせわだばかやろー」

「ハァッ?!」

「れん、このドアホウに言うてやれ。自惚れるのもいいかげんにしろとな」

 涙目で顎をおさえて呻く裕貴を指差し、りんが忌々しげに舌打ちした。そんな二人を交互に眺め、煉が大きな溜息と共にくしゃくしゃと髪を掻きむしる。

「あー、ええっとさ、ヒロキはセンからタカオミ、つまりあんたのひいじいさんの話を聞いたでしょ?」

「ひいじいちゃんがセンに頼まれて人形を直したってやつだろ? だから俺もりんのマモリガミサマってやつをなんとかして直そうって話してんのに、頭突きとかマジ意味わかんねー」

「あのさ、センはタカオミが死んだのは自分のせいだって言ってなかった?」

「言ってたけど……でもそんなの考えすぎだろ? 確かにひいじいちゃんも運が悪かったけどさ、でも単なる不幸な偶然に周りがいちいち責任感じてどーするんだよ」

「偶然じゃない」

 ふっと溜息をつき、煉が朽ちた樹を見上げた。

運命さだめを変えてまでなにかを守るためには、(にえ)、つまり代償が要る。変えようとするモノゴトの道筋が大きければ大きいほど、それに見合う大きな贄が要るんだ。あんたのひいじいさんは鬼や妖を視る力を持っていたけど、それ以外はただのヒトだった。だから妖を守る代償として、命を失った。きっとそれは伊介ってヒトも同じだったんだと思う。伊介は人形を作ることで命を落とし、タカオミは壊れかけたソレを直すことで贄を払わされた。センはタカオミが死んで初めてそのことに気がついたんだ」

「アヤカシを守るための贄が、ヒトの命……?」

「俺、センには一度しか会ったことないけど、でもセンってコレ系のモノとしてはちょっとびっくりするくらい生真面目で融通が利かないタイプだったでしょ? だからきっと余計に自分の迂闊さを呪い、悔やみ、苦しみ、失ったヒトの命を悲しみ続けたんじゃないかな。でもタカオミの死を悲しみ、それに責任を感じていたのはセンだけじゃない」

 紅い口を尖がらせ、頬をぷっくりと膨らませたりんを見つめ、煉が少し疲れたように、悲しげに微笑んだ。

「センがあんたのひいじいさんに頼んで直してもらった人形って、りんのマモリガミだったんだよ」


 わかるか、ヒロ。白地に青い花の散る着物を羽のように風にはためかせ、おかっぱ頭が少し疲れたように笑った。

「りんの明日(みらい)は、おまえが生まれるよりずっと前から決まっていた。もう誰にも変えられない。逝くじゅんばんは、りんが一番最初で、一番最後だ」


 イヤダ、と言おうとしたのに、喉が詰まって声が出なかった。それはきっと、想像してしまったからだろう。そうとは知らずに奪った命を贄に、生き続け、逝く命を見守り続け、残され続ける。その哀しみの中、彼女は待ち続けてきたのだろう。己の番がくるのを。目隠し鬼(ヒロキ)がもう一度、彼女を見つけるのを。唯ひたすら、待ち続けた。


 ヒロ、と歌うように囁き、温度の無い指先が頬にそっと触れる。

「たのしかった。おまえとナオに逢えてうれしかった。りんは、たくさんたくさんもらった」


 裕貴の輪郭カタチを記憶にとどめるかのように指が額をなぞり、頬を撫で、そして離れた。

「でももう鬼ごっこはおしまいだ。おまえはもう、誰も探さなくていい」


 甘い花の香りが辺りに満ちる。

「ヒロ、もう二度と夢なんかみるな」


 ひらひらと楽しげに舞う袖に、青い空が透けて滲む。

「りんの夢なんかみるな」


「りんッ」

 振り返った少女の微笑みが風に揺らいだ。

「りんッ」

 少女を掴もうと伸ばした指先が空を掴む。裕貴の腕の中で、少女の影は深い藍色に霞み、風に散った。


 あとには何も残らなかった。







        エピローグ



 ひと気の無い駅に降り立ち、頭上に広がる蒼い空を見上げる。金色に色づいた稲穂の間を、爽やかな風が吹き抜けていった。

 通い慣れた道をゆっくりと辿り、古びた家の前に立つ。玄関の引き戸を開けようとした裕貴がふとその手を止め、家の横手から内庭に入り、庭木の後ろで足を止めた。縁側の座椅子に腰掛け、祖父が本を読んでいる。はらり、はらりと頁が捲られる静かな音が懐かしく、心地良く、なのになぜか不意に涙が零れそうになった。



 ――あの日。アカネと共に崖から落ち、センの犠牲に命を助けられ、そのすべての記憶を煉に封じられたあの日、二度目に病院で目覚めた裕貴の前に立っていたのは、祖父だった。一晩で急に幾つも歳をとったようにやつれた顔で、祖父は裕貴を見つめていた。そして祖父は、もう来るな、と言った。裕貴を包むシーツよりも白い顔で枕元に立ち、厳しく、それでいてひどく悲しげな眼で裕貴を見下ろして、もうお前はウチには来るな、と言ったのだ。

 イヤだと叫んでも、ごめんなさいと泣いて謝っても、祖父は唯ひたすら無言のまま、首を横に振るばかりだった。なぜ何も言ってくれないのか。なぜ何の説明もないまま裕貴を突き放すのか。自分は()()()()()()()()()()()()()()なのに、なぜわかってくれようとしないのか。その理不尽さが悔しくて、いくら謝っても許してくれない頑固さが恨めしくて、折れた足が痛くて、失ってしまったナニカが悲しくて、あまりに多くの感情がグチャグチャに混じり合って、自分でもワケが分からなくなって、やがて裕貴は言いようのない怒りを祖父に対して抱いた。

 本当はわかっていた。祖父の言いつけに背いた自分が悪いのだと。誰を恨むべきことでもないのだと。けれどもわかっていたからこそ、苦しくて、悲しくて、愚かな子供はその遣り場のない怒りを祖父に向けたのだ。そして怪我も治りほとぼりが冷めた頃、田舎に行かないかと両親に誘われても、なんだかんだと理由をつけて祖父に会うのを避けた。来るなと言われたから行かないのではない。自分が行きたくないから行かないのだと。なぜ忘れていたのだろう。自分はそんまつまらない意地を張り、祖父との関わりを拒み、そして時は経ち、怒りはいつしか無関心へと変わっていった。おかっぱ頭の少女が、ひょっこり現れたあの夜まで。



 裕貴の気配に気づいたのだろうか。祖父がふと本から顔を上げた。そして庭木の陰に隠れるようにして自分を眺める裕貴の姿に、僅かに眉をしかめた。そんな祖父を見て、裕貴が慌てて縁側に駆け寄る。

「じいちゃん、どう? リハビリは進んでる?」

「うむ。まぁぼちぼちと言ったところだな」

 膝に置かれた本を閉じ、祖父が咳払いする。

「幸い頭のほうはまだしっかりしているが、しかしまぁ足腰が立たんようになって、それをきっかけに呆けてもお前達が困るかと思ってな」

「毎朝経済新聞の隅々まで目を通してるじいちゃんがボケるとか、ありえないって。じいちゃんはしっかりしててすごいってヘルパーさんが感心してたって、母さんも言ってたし。でもさ、リハビリは頑張ってもらったほうがいいかな」

 にやりと笑って裕貴が本に挟まれた雑誌の切り抜きを指差した。

「だってさ、来月の終わりには東日本の学生選手権があるじゃん? で、十二月には天皇杯。俺的にはどっちでもいいんだけど、でもレスリングの試合観に行くのに孫におぶわれて行くとか絶対にイヤだって言ったのはじいちゃんだからね。それにしてもさぁ、まさか古書を愛するインドア派のじいちゃんの隠れた趣味がレスリングだったとはね。畳の下にギッチギチに敷き詰められた雑誌を見たときは、サスガにびびったよ」

「……インドア派であることとスポーツ観戦を楽しむことに、関係なんぞないだろう。そもそもレスリングは身体能力だけでなく、相手の先を読む頭脳が大切だ。何も考えずにむやみやたらと飛び跳ねているだけのお前と一緒にするな」

「うわー、ひでえ言われよう」

 裕貴が声を上げて屈託なく笑い、祖父がふんと鼻を鳴らした。

「それでお前、高飛びの方はどうなっとるんだ? こんなにしょっちゅうここに来て、ちゃんと練習しとるのか?」

「しょっちゅうって言ったって、俺が来るのなんかせいぜい月に二度くらいじゃん。あとはちゃんとやってるよ。だいぶ長い間練習休んじゃったからさ、基礎体力の向上と、それからせっかくだからこの機会にプロのトレーナーについてもらって、基本を見直してる」

 より綺麗に、より高く飛ぶために。あと一センチ、一ミリでもいいから、あの空に近づくために。いつかこの指先を、明日に届かせるために。

「……あれはどうなったんだ? ほら、お前と喧嘩したライバルだかなんだかがいただろう」

「ああ、喧嘩っていうか、アレは一方的に俺が悪かったんだけど」

 校門の前で待ち伏せしていた裕貴を見た時の、あの驚き呆れた顔を思い出すたびに思わず頬が緩む。

「謝ろうと思ってわざわざあいつの学校行ったらさ、もうなんか顔見た途端にすっげー勢いで罵倒されまくった。『練習怠けてこんなところをウロついてるとか、ハイジャンなめてんのか馬鹿野郎!』だってさ。ってかテメーみたいなハンパな大馬鹿は一度死んでこいとまで言われたわ」

 ふむ、と祖父が重々しく頷いた。

「それはお前には勿体無い、良い友人だな」

「いや、友だちってのとはちょっと違うと思うんだけど……でもまぁある意味そうなのかなー。向こうは嫌がりそうだけど」

「直貴はどうしている?」

「毎日毎日受験勉強って、相変わらず本に鼻先を埋めてるよ。でも多分受験ってのは言い訳で、ナオは本気で勉強が好きなんだと思う。俺と同じ遺伝子で構築されているとは思えねーくらいアタマいいもんな、あいつ」

「……直貴とは、上手くやっているのか?」

「うん。だってあいつ、俺のこと大好きじゃん。隠れブラコンって言うと本気で辞書とか投げつけてくるから言わないけどさ」

 ははは、と笑って裕貴が空を見上げた。朽ちた樹に向かって崖を飛んだあの日、無事に帰ってきた裕貴にむしゃぶりつき、支離滅裂なことを喚きながら裕貴の胸をこぶしで殴り続けた弟の泣き顔を想う。自分はああやって、知らず知らずのうちに多くのヒトとモノを泣かせてきたのだろう。多くのヒトとモノに見守られ、愛されてきたのだろう。

「ねぇ、じいちゃん。りんっていう女のコ、知ってる?」

「りん?」

「色が白くて、おかっぱ頭で、コケシみたいな一重まぶたで、青い花柄の着物で……紅いおちょぼ口をいつも生意気そうに尖がらせてるんだ」

「友達か?」

「……うん」


 儚くも凛と美しかった蜉蝣(レイ)

 力自慢で穏やかな甲虫(コータ)

 青い空を愛した飛蝗(コウ)

 淡い光を零すように笑う(ケイ)

 (あで)やかに生きることを望んだ揚羽蝶(カワヒラコ)

 夕焼け色の髪を風になびかせる蜻蛉(アカネ)

 明日を想い歌を紡いだ日暮の(セン)

 そして歌を愛した小さな鈴虫(りん)


 みんな、大切な友だちだった。

 もう、二度と会えない。


「……一度だけ」と、不意に祖父が呟いた。

「一度だけ、縁側で青い着物を着た子供を見たことがある。お前を身籠った由希子が里帰りしている時だったんだが、その子は昼寝をしている由希子を障子の陰から覗いて、とても嬉しそうに笑っていた。声を掛けようとしたら、煙のように消えてしまったが」

 深い皺の刻まれた己の両手を長い間見つめていた祖父が、やがてひとつ嘆息した。

「儂の父親、つまりお前の曾祖父さんは、若い頃からよく独り言を言うので有名だった。村では変わり者扱いされていたんだが、儂にはいつもそれが、目に見えない誰かと話しているように思えてならなかった。とても楽しそうに、愛おしそうに……裕貴、お前と同じだ」


 あの日、土砂降りの山へ父親が登ったのは父親の決断であり、その死は誰の責任でもなく、誰を恨むべきものでもない。けれども目に見えない何者かとの繋がりが父親の判断を狂わせたのではないだろうかと思うと、同じ力を持って生まれてきた孫の先行きが危ぶまれ、恐ろしかった。だから孫を遠ざけた。


「……恨んでいるか」

「まさか」

 祖父の年老いた手にそっと自分の手を重ね、裕貴が微笑んだ。

「じいちゃんさ、よく井戸で冷やしたスイカを切ってくれたじゃん? それも畑で採れた一番大きいやつを一度に三つとか切ったりして、家には俺とナオしかいないのにそんなに沢山切ってどうするんだって、よくばあちゃんに叱られてさ」

 ムッと押し黙ったまま祖母の小言に耐えていた祖父の不機嫌な顔を思い出し、裕貴がクスクスと笑った。

「だけどあれって本当は、俺の『友だち』のために切ってくれてたんだろ?」

 切っても切っても、あっという間に無くなった甘いスイカ。縁側を走り去る軽い足音。風鈴の音に紛れる笑い声。

「たとえ目に見えなくても、あいつらがそこにいることをじいちゃんは知っていて、そしてその存在を認めていた。そんなじいちゃんのこと、あいつらは大好きだったんだよ」

「……そうか」

「うん。そう。だから、ありがとう、じいちゃん」

 照れを隠すように幾度も咳払いを繰り返す祖父を笑いながら眺めていた裕貴が、ふと何気なく庭に目をやり、小さく息を呑んだ。

「じいちゃん……! あれ、あの花って……?」

「ああ、早咲きのリンドウだろう」

 裕貴の指差す先を見て、祖父が優しげに目を細めた。

「ばあさんが昔、よく育てていたんだがな。ばあさんがいなくなってからはすっかり見なくなっとったんだが、根が残っていたのか、それとも風で種でも飛んできたのか」

 空の色を集めて染めたかのように鮮やかな藍色の花弁が、一陣の風に揺れ、りんと鳴った。



 りん、と花が鳴り。

 りん、りんと鳴る花の音に、秋の風が澄み。

 りん、りんと鳴る花があの子を呼び続け、そして俺はそこに無い影を求め、揺れる花影に目を凝らす。




(END)

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。申し訳ありませんが、リアルの事情により、数ヶ月から半年ほど休載させて頂きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ