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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
112/123

目隠し鬼(十)

        22



 列車を降りて一歩外に出た途端、生温かい湿り気を帯びた風が全身に吹きつけた。頭上を見上げれば、蒼い空を白い雲が凄い速さで流れていく。羽が欲しい、と不意に思った。この荒ぶる風に乗り、望むところへ一瞬にして自分を運んでくれるような、そんな羽が欲しい。けれども羽を持たないヒトは、地を這う虫のように歩いていくしかないのだ。ねっとりと重い空気が泥のように全身にまとわりつく。その枷の重さに押し潰されそうになりながら、それでもこの先に求めるモノがあると己に言い聞かせ、進みつづけるしかない――

 そんな裕貴(ヒト)を嘲笑うかのように、ごう、と山が哭いた。

 あれは神隠しの山なのだと裕貴に教えたのは、祖父だったか。殊更に急峻というわけでもないのに、朝夕の霧が深く、磁場が悪いのか、電波も届かず方位磁針も利かず、一旦迷えば自力で出ることは難しい。

「富士の樹海みたいだね」と直貴が言っていたことを思い出す。「ヒロ兄なんか、絶対に生きて帰ってこれないね」

 そして直貴はまるで何かの嫌がらせのように、樹海に眠る無数の白骨死体や自殺者の話を裕貴に聞かせた。わかったからもう勘弁してくれと裕貴が降参するまで、延々と。思えばあれは、後先を考えない兄への弟なりの警告だったのかも知れない。

 それでもあの日、裕貴は山へ向かったのだ。


 あれは丁度今日のように、風の強い日だった。



        ❀



 ヒロ、お別れだ。


 縁側に立った少年の夕焼け色の髪が、燃え立つように風に乱れる。

「本当はセンに止められとるんじゃけど、でもおれはサヨナラも言わずにいなくなるのは嫌じゃった。ヒロにマモリガミサマのこと言ったんはおれじゃけえ、もう約束やぶりも慣れたもんじゃ」

 紅い目を細めるようにして少年は笑った。

「お別れって……どこに行くんだ?」

「わからん」

 ひょいと肩を竦め、少年が背後にそびえる山を振り返る。

「今日は風がひどいけぇの、もうすぐマモリガミサマの樹が倒れるで、そうしたらおれらぁはみんな、ここと違うどこかへいく。どこかはわからんが、でもきっと、樹や花や獣やヒトがいつか逝くところとおんなじじゃ」

 だからきっと、いつかまた逢える。そう言って少年は笑った。その肩に、不意に薄い羽の影が視えた。硝子のように透明な羽が夕陽に煌き、そして次の瞬間、荒ぶる風がそれを捥いだ。

「い、イヤだッ」

 思わず後ずさりして瞑った瞼の裏で、羽を捥がれた少年が地に堕ちる。耳鳴りがして、ずくずくと眼の奥が痛む。脳を滅茶苦茶に揺さぶられるようなそのあまりの痛みに俺は地面にしゃがみ込み、堪えようもなく幾度も嘔吐(えず)いた。

「俺は、俺はいつかなんか信じない! いつかじゃなくて、今じゃなきゃイヤだ! 今、お前たちと一緒にいたいんだ……ッ」


 エメラルドグリーンの模様が木洩れ陽に躍る。

 茜色の風に燃えるような髪が靡く。

 涼やかな夜風に蒼い光がほろほろと零れる。


 おまえの目はよく見えすぎると遠い記憶の底で誰かが嗤い、そして夜空に降る星のように繰り返す残像の中、幾度も自分の無力を噛み締める。記憶にないくらい遠い昔から、俺は知っていた。悪夢(ウソ)はいつだって現実(ホントウ)になることを。自分に視え過ぎたのは、妖やら物の怪やらの類ではないことを。


 レイは死んだケイも死んだカワヒラは凍りつきコウはもうとべない。

「イヤダイヤダイヤダイヤダ」

 なだめるように差し出された腕を振り払い、狂ったように地面を叩き、呻いた。


 センはとうめいなえきたいをこぼしコータはきにつぶされアカネのはねはもげる。

「イヤダイヤダイヤダイヤダ」

 なぜだろう。なぜこんなことになったのだろう。知っていたはずなのに。この結末おわりを、この運命さだめを、自分は知っていた。知っていて何もできない。


「イヤダイヤダイヤダイヤダ」

 風が荒ぶり、ごうごうと山が哭く。絶え間無いその哭き声が俺の大切なモノを奪い、俺は為すすべもなく失われていくモノをみている。俺はいつも、ただみている。悲しむふりをして、こんなのはいやだと口先では抗い、なにもできない己の無力を呪いながら、だけど誰にもみえない心の奥底ではあきらめて、俺はいつもいつもいつもいつもイツモタダミテイルダケデ、ソシテアノ子ハオレノ大切ナアノ子ハアオイアオイ花ニナル―― 


 獣じみた悲鳴が山の哭き声を掻き消し、俺は止めようとするアカネを振り切って、山へ向かって駆け出した。




        23



「ヒロキッ」

 不意に背後から腕を掴まれ、勢い余って転倒した。我に返って辺りを見回せば、そこは林道から外れた暗い山中だった。無我夢中でケモノ道でも走ってきたのか、手足は擦り傷だらけだ。

「ヒロキ」

 再び呼ばれて顔を上げれば、肩に狐を座らせた少年があきれた顔で裕貴を見下ろしていた。

「あんた朝っぱらからこんなとこで何やってるの?」

「なにって……」

 この少年は自分を尾けてきたのだろうか。一体なぜそんなことをするのか。考えようとした途端に治まりかけていた頭痛がぶり返した。

「山に……」

 ずくずくと眼の奥が疼く。

「……マモリガミサマを……」

「あのね、今更山に来たって無駄だよ。ここには何もない」

 そんな筈は無い。赤毛の少年が言ったではないか。山には『マモリガミサマ』がいるのだと。彼らを、りんを守ってくれる筈のモノが、ここにある。伊介という男が作り、センが守ってきたモノがある筈なのだ。

「違うね」

 まるでこちらの心を読んだかのように少年が素っ気無く首を横に振った。

「センが言ってたでしょ? 強いモノも、弱いモノも、すべてのモノはいつか消えていく。それを止めることは誰にもできないし、ましてここにはあんたの願いを叶えてくれるようなモノはない」

「……煉、なんでおまえがセンを知ってんだよ?」

 眼の奥に疼く痛みを堪えて、黒髪の少年を睨みつける。しかし少年はどこ吹く風といったふうに肩を竦めた。

「俺はいろんなヒトのいろんなコトを知っている。あんたが過去にここへ来たことも、それを止めようとしたモノ達がいたことも、そして忘れたはずの過去に囚われて、あんたが再びここに来たことも」

 あのね、ヒロ、と諭すように話しかけてくる少年の落ち着いた口調が憎らしい。

「過去を変えることは誰にもできないんだよ」

「……りんはまだ生きてる。あいつは過去なんかじゃねえ」

「りんは助からない」

 裕貴を見つめる深い淵のような眼が、ふと哀しげに揺らめいた。

「助かることを、あのこは望んではいない」

「ふ、ふざけんなッ」

「……ふざけてるのはヒロ兄でしょ」

 背後からの声に振り返れば、裕貴の行く手を塞ぐかのように、顔を真っ青にした弟が立っていた。ここまで兄を追って煉と共に走ってきたのだろうか、完全に息が上がっている。

「ナオ、おまえ、どうして……?」

「……馬鹿兄貴のお守り」

 膝に手をつき、直貴がゼエゼエと苦しそうに喉を鳴らした。

「……ダメだよ。ヒロ兄は山に……ここに来ちゃダメだ」

「ちょ、おまえ大丈夫かよ? ってか、山のこととかおまえには関係ないだろ?!」

「……うん。そうだね。ボクには関係ない。ボクはいつだって関係ない。ヒロ兄が何をしようと、どうなろうと、ボクの知ったことじゃない」

「それならッ」

「……それでもヒロ兄を山に行かせるわけにはいかないんだ。おじいちゃんと約束したから」

「はあ? じいちゃんと約束って、そりゃ一体ナンの話だよ?」

「ねえ、ヒロ兄」

 汗で額に張り付いた髪を掻き上げ、隠しようのない苛立ちと悔しさをその目に浮かべて直貴が裕貴を睨んだ。

「ヒロ兄は特別にとても良く見える目を持っているのかも知れないけど、でも、他の誰かがいつもヒロ兄を見ているって知ってた?」

「……え?」

「ヒロ兄はいいよね。自由で、気儘で、何も考えずに好き勝手ばかりしている癖にいつもみんなの中心にいる。ヒトだろうが人外だろうが、みんな自然とヒロ兄の周りに集まってくるんだ。でもそんなヒロ兄のことを、おじいちゃんはいつも心配していた。おじいちゃんの心配がわかるから、ボクはいつだって視えてても見えないふりをしてた」

 震える拳を血が滲むほど硬く握り締め、直貴が幾度も荒い息を吐く。根暗な癖に兄よりよほど出来が良く、いつも冷静で大人びているはずの弟の尋常でない様子に、さすがの裕貴も思わず口ごもった。

「……ボクは別にあんなモノ達と遊びたいなどと思ったわけじゃない。羨ましくなんてない。羨ましいわけがない。そう自分に言い聞かせて、それでも目が離せない」

 だから余計に許せない。祖父の心痛に気づきさえしない兄も、その兄の背中をただ見ているだけの自分も。

「ヒロ兄のことなんて、ボクは本当はどうでもいい。だけどボクはおじいちゃんと約束したんだ。これ以上ヒロ兄に馬鹿な真似はさせないって、もう二度と山には行かせないって」

 ヒロ兄なんて大嫌いだ。裕貴から目を逸らせ、直貴が吐き捨てるように言った。

「……ナオ」

 弟の肩がびくりと強張るのを見て、伸ばしかけた手を止めた。

「ごめん、な」

 自分と目を合わせようとしない弟に向かって、慎重に言葉を紡ぐ。

「俺、昔のこととかほとんど憶えてないんだ。最近急に幾つか思い出したこととかはあるんだけど、でもバラバラなジグソーパズルのピースみたいな記憶で、肝心なとこが欠けてるんだ。だから、おまえがここまで怒ってる理由が、多分過去に山で俺がしでかしたことに関係あるんだろうなってとこまでは想像つくんだけど、でもそれ以上は本当は良くわかってなくて……ごめん」

「……謝ってくれなくていいから。このまま黙って家に帰ってくれさえすればいいから」

「あのさ、おまえは夜に夢とかみる?」

「……は?」

「普通の夢じゃなくて、すげえリアルに誰かが死ぬ夢」

 直貴が驚いたように幾度か瞬きし、無言で首を横に振った。

「俺、昔さ、道端で知らねー爺さんに、『おまえの目はよく見え過ぎる』的なことを言われたことがあるんだけどさ、その時は言われてる意味がわからなかったんだ。そもそも自分が遊んでるやつらが人外だなんてその頃は思ってもみなかったし。で、最近になってそのことを思い出した時に、初めはアヤカシとかを視る眼のことを言われたのかと思ったんだ。でも違った。俺のそういう力は、多分おまえとそんなに変わらない。俺に視え過ぎたのは、アヤカシやらモノノケやらの類じゃなくって……」

 ……自分には、彼らの死が視え過ぎた。

「俺には来るべき『明日(みらい)』を視る力があったのに、ガキの頃の俺はそれを嘆くばかりで、『明日』を変えようとはしなかった。そのせいで俺は多くのモノを失って、でも自分がナニを失ったかすら憶えていない」

 悪夢(ウソ)はいつだって現実(ホントウ)になる。だけどなにもできなかったわけではない。なにもしようとしなかった。きっとそれが真実(ホントウ)

「何も憶えていなくても、俺は後悔し続けている。そんなあやふやな記憶の中でただ一つだけ確かなのは、この先に俺の友だちを守ってくれるはずだったナニカがあるってこと。俺はきっと過去にも一度そこに行こうとして、辿り着けなかったんだと思う。でも俺は、今度こそそこに辿り着いてみせる。今度こそ後悔しないために、あいつを……りんを守ってみせる」

「あのさ、アツくなってるところ横槍入れて悪いんだけど、この先って行き止まりだから」

 煉が肩を竦めて裕貴の背後を指差した。言われてよくよく見てみれば、確かに数十メートル先で地面が割れて、細く切り立った崖になっている。近くに橋がある様子もなく、廻り道しようにもそもそも道がない。

「何度も言うようだけど、ここにはあんたの探しているモノはない。さらに物理的にもここで行き止まり。崖の向こう側まで十二〜三メートルってとこかな。走り幅跳びの世界記録保持者でもちょっと届かないんじゃない?」

「そうだな。ってか俺って走り幅跳びはセンスなくって、てんでダメなんだよな。距離より高さ目指して生きてきたもんで」

 ははっと笑って裕貴が空を見上げた。白い雲が飛ぶように流れ、ごうと山が哭く。

「……飛ぶか、飛ばないか」

「え?」と首を傾げた煉に、裕貴が笑いかけた。

「おまえ、言ってただろ? 飛ぶか、飛ばないか。良くも悪くもその選択が、自分が何者であるかを決めるって」

 あの日、少年だった自分は飛ぶことを選んだのか、飛ばないことを選んだのか。憶えてはいない。けれども、すべてを忘れても飛ぶことに執着し続けたことが、きっと答えなのだろう。

「俺はきっと、ハイジャンプがしたかったわけじゃなくて、羽が欲しかったんだ」

 ゆっくりと深呼吸を繰り返し、息を整える。瞑った瞼の裏を、遥かな空が、白い入道雲が、豊かな山並みが、おぼろげな子供達の影が過る。

「あの枝。あれって、高さにして三メートル半……四メートルはないよな?」

 崖の向こう側から大きく伸びた樹の枝を指差す。

「……は?」

 意味がわからないとでも言うように崖の上に張り出した枝と兄を見比べる弟の肩に、ぽんと手を置いた。

「ナオ、馬鹿な兄貴でごめんな? でも陸上部エースのジャンプ力なめんなよ」

「……え? ちょ、ちょっと待て……ッ」

 伸ばされた腕をかいくぐり、籠から放たれた鳥のように空へ向かって強く踏み切る。


 羽が欲しい。

 誰かを守るための羽が。

 自由を手に入れるための羽が。

 まだ決まっていない明日へ届く羽が――


        

        ❀

        

     

 おーにさーん こーちらー

 てーのなーる ほーうえー


 どこからともなく聞こえてくる唄声に誘われるように暗い山中を彷徨う。そして俺はついに、切り立った崖の端に辿りついた。崖の向こう側にある朽ちかけた大樹が目指すモノなのだろうと、誰に言われるまでもなく直感した。鳥のように羽があれば向こう側までひとっ飛びなのにと悔しい思いをしながら、飛ぶのが無理ならこの崖をどうにかして降りて、そして反対側を猿のように登ってやろうと足場を探しているうちに、不意にバランスを崩した。

「アホウッ」

 危機一髪、崖の端から伸びた手に首根っこを掴まれ、引きずり上げられた。

「アホウが、ヒトの子がこんなもん降りれるわけないじゃろうが?!」

 息を切らして喚く少年の夕焼け色の目の縁がかすかに濡れていることに気づき、ごめんと小さな声で謝った。

「……でも俺、向こう側の、あの樹のところまで行きたい」

「無理じゃ。あそこはまわりをぜんぶ崖で囲まれとうけえの、ヒトは近づけん」

「無理でも行く」

「だめじゃ」

「ダメでも行く。止めても無駄だよ。みんながあそこにいるなら、俺は絶対に行く。行って、俺もマモリガミサマってやつを守ってやる」

「ヒロ、おめえはほんとうに無理ばっかり言うの」

 アカネが困ったように溜息を吐いた。

「だって決めたんだ。俺はおまえ達とずっと一緒にいたいから、そのためなら何だってしてやるって。コータもセンもアカネも、もう誰もいなくなったりなんかさせない」


 だって俺たち、友だちだから。


 赤毛の少年は、長い間ただ無言で俺の口許を見つめていた。やがて意を決したように大きくひとつ頷くと、「俺と手ぇつなげ」と言って手を差し出した。

「心配せんでも、ぜったいに離さん」

 約束する、そう言って笑った少年の背に、陽に透けるような羽が生えた。


 少年は約束を守った。彼は決して手を離したりはしなかった。けれども俺の躰は、生身のヒトの躰は彼の羽が支えるにはあまりに重すぎたのだろう。崖下から吹き上げる強い風は俺を支えようと必死にもがく彼の美しい羽を容赦なく切り裂いた。視界がぐらりと揺れて、続く落下感に胃の中のモノがせり上がる。遠くで甲高い悲鳴が聞こえて、上下が分からないくらい風にもみくちゃにされ、なすすべもなく硬い岩に叩きつけられることを覚悟した瞬間、誰かに強く抱き締められた。激しい衝撃に続いて、躰の下でボキリとかグチャリとかいった感じの、酷く厭な音がした。めまいを堪えて身体を起こそうと岩に触れた指先が、ぬるりと滑った。

 ……どこかで誰かが嗤っている。内臓を吐くほど嘔吐(えず)き、喉を詰まらせながら、狂ったように嗤いつづけている。



 アカネノ羽ハ風ニモガレ、センハ透明ナ液体ヲ零シ、ソシテ俺ハ嗤イツヅケル。


 



(To be continued)

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