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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第二章 〜 煉
11/123

狗神 (後編)

     8


 人々が去り、日も暮れた。静まりかえった岩穴の暗闇の中、煉が狼の肩にもたれ、その深い毛皮に顔をうずめていた。何者かの気配にふと煉が顔を上げると、淡い夜霧を身にまとった桐刄が静かに佇んでいた。しばらく煉を見つめていた桐刄が、おもむろに口を開いた。

「お別れを言いにきたよ。次に僕が此処を通るとき、君はもういないかもしれないからね」

 無表情に自分を見つめ返す煉に、桐刄が(かす)かに嗤った。

「……血の盟約を結んだんだってね」

 細い煙管の煙と共に、桐刄が深い溜息を吐く。

「煉。君のやっていること、それは単なる独り善がりだよ」

「……助かる命をなんで助けちゃいけないの?」

「自分を犠牲にして? そんなのは助けるとは言わない。いいかい、生命とは、干魃における椀の水のようなものさ。水をふたつの椀に分けることは出来ても、絶対量を増やすことは出来ない。君がひとりで水を飲めば一日生きられるものを、わざわざ分けて飲み、ふたりとも半日で死ぬ。その行為は全く無為(むい)で、何も生み出しはしない」

「でも、俺は、独りで一日生きるより誰かと一緒に半日生きる方がいいよ」

 煉の大きな瞳が真っ直ぐに桐刄をみつめる。

「……ふたりなら、嬉しいとか楽しいとか感じる心は倍になるから」

 桐刄が(ひそ)めた眉根に微かな苛立ちをみせた。

「それこそ独り善がりだよ。その狗が君に助けてくれと言ったの? 君と共に生きたいと、喜びを分かち合いたいと言ったの? 全て君の勝手な思い入れではないの?」

 俯いた煉に桐刄が静かな眼差しを向けた。

「煉。君の生命が君だけのもので、君の自由にしても良いと思うなら、それは酷く我儘で、自分勝手だ」

「……わかってる」煉が顔を上げると桐刄を見つめ返した。「でも、どうしようもないんだ。目が合った瞬間からこいつはもう俺の世界の一部で、俺はこいつを守る為に何かせずにはいられない。独り善がりでも我儘でも、俺は俺の為に、俺の世界を守る為に、アカに生きて欲しい」

「煉、君は君の世界を守るため、君の横に立つ者の世界を壊す。泪が怒るのも無理はない」

 煉に背を向け歩み去りながら、桐刄が暗い声で呟いた。

「……君は愚かだ。でもきっと、君はいつか大切なナニカを(うしな)うまで、自分の愚かさを知ることはないのだろうね」



     9


 夕闇の中、煉がしょんぼりと項垂(うなだ)れ、考え込んでいると、ばさばさと荒っぽい羽音をたてて、薬草を咥えた鴉が岩穴に入って来た。煉が驚きに目を見張った。

「鴉……」

「狗神の具合はどうだ?」

「……鴉は怒ってないの?」

 おずおずと訊ねる煉に向かって、ふん、と鴉が鼻を鳴らす。

「お前は大馬鹿さ。だが賢いようでは煉ではない」

「でも兄者と桐刄は……」

「自惚れるな。俺は奴等とは違う。俺の世界は、お前の一匹や二匹死んだくらいで壊れるほど脆弱ではない」

 自分を見つめる煉から顔を背けるようにして、鴉が羽繕いを始めた。


     ❀


 ……熱が下がらない。 悪化し再び膿みはじめた傷を洗い、すり潰した薬草を塗りながら煉が狼の苦しげな熱い息を窺った。だらりと力無く垂れた舌の前にそっと薬湯を差し出した。

「アカ、喉渇いてない? 水飲む?」

答えぬ狗神の首をそっと撫でた。

「……アカ、お腹空いてるでしょ。俺の血飲む?」

 狗神が頭をあげると紅く光る眼でじっと煉を見た。

「……お前は何故俺をアカと呼ぶんだ?」

「だって赤毛だし、眼も夕焼けみたいな茜色だよ?」

「……俺の毛は赤いか?」

「え?」

 煉が不思議そうに首を傾げると、隣で羽繕いしていた鴉が顔を上げた。

「狗は赤色が見えんらしいからな。灰色か茶褐色とでも思っておったんだろ」

 狼が目を瞑った。

「……あの娘は、俺をシロと呼んだ」


     ❀


『シロ、おいで』

 呼ばれ、急いで駆け寄ってきた仔狼を少女が抱きしめる。

『シロは雪みたいに白くて、真綿のように柔らかくって、お日様の匂いがするね』

 優しく温かな息が耳をくすぐる。少女の柔らかな腕は、仔狼の世界の全てだった。


     ❀


「俺はあの子に幸せになって欲しかった。微笑むあの子の側に、ただいたかっただけだ。だが、若旦那と呼ばれていたあの男は、それすら許さず俺を屋敷から追い出した」

 鴉が溜息をつくと頭を振った。

「ヒトの中には、酷薄で、自分より弱いモノを痛めつけることに歪んだ喜びを見つける者がいる。お前達は運が悪かったのさ」

「あの子のそばに居られなくなってからも、屋敷の外から俺はいつもあの子を見守っていた。あの子は笑っていても、何故かいつも悲しい匂いがした。それに血の臭いが混じった時、俺の中で気が狂うほどの怒りが煮えたぎった。俺は、彼女の血の臭いを染みつかせたあの男の腕を咬みちぎった」

「馬鹿な奴だ」と鴉が吐き捨てるように言った。「たとえ手足を捥がれようと、ヒトの残虐な心は無くなりはせん。火に油を注ぐだけさ」

「確かに奴は俺を酷く恐れ、憎み、しかし少女を打つことをやめようとはしなかった。誰も、奴の父親や母親でさえも、奴を止めることは出来なかった。俺は奴を止めようとした」


     ❀


『来たぞっ!』

『山狗めが、また性懲りもなく現れよったか』

『お前の首には若旦那様の賞金がかかっとるんじゃ!』

『逃がすなっ』

 狼を狩るために男が集めた無頼漢共に、紅い眼の白い狼が襲いかかる。疾風の如く素早く、鋭い牙を風に唸らせる狼を止めることの出来る人間など、ひとりもいなかった。


 突如響いた悲鳴に狼が振り返った。若旦那と呼ばれる片腕の男が縄で縛った少女に刃物を突きつけていた。

「お前、狗のくせにヒトの言葉がわかるんだってなぁ」男がにやりと嗤った。「お前がほんのちょっと大人しくさえすれば、またコイツと一緒に暮らせるようにしてやるぜ?」


「今だっ、殺っちまえっ!」

 少女の姿に一瞬立ち竦んだ狼を棍棒の嵐が襲う。酷く側頭部を殴られ、景色が揺らいだ。周囲の音が遠ざかり、ぼんやりと暗くなった眼に、刀を振りかざした男の影が映った。シロっ、と何処か遠くで自分を呼ぶ泣き声がした。


 泣くな、と思った。

 泣くな。今行くから。いつも側にいるから。

 だから、どうか、泣かないでくれ。


 男が刀を振り下ろそうとしたその瞬間、自分に駆け寄る少女とその背後で嗤う隻腕の男の姿が狼の目に映った。

「馬鹿女と糞狗が、あの世で仲良く暮らしな」


 目の前の景色が真っ赤に染まり、生温かくカナ臭い味が口一杯に広がった。次の瞬間、身を翻した狼が悪鬼のように牙を剝き、目の前の男に飛びかかった。断末魔の叫びをあげる間もなく血飛沫と共に倒れた男を踏み、隻腕の男に襲いかかった。恐怖に顔を引きつらした男の頸に咬みつき、その身体を振り回す。くしゃりと骨が脆く砕けた音がして、胴から千切れた男の頭が蹴鞠のように飛んだ。

 腰を抜かして動けない者も、悲鳴をあげて必死に逃げようとする者も、その場にいた全ての人間の肉を引き裂き、骨を噛み砕いた。


 一切のモノが動かなくなるまで殺戮は続いた。


 累々と重なった骸の山に冷たい雨が降る。ただ一匹、身じろぎひとつせず立ち竦む影にも雨は降りそそぐ。冷たい雨と返り血が、影を深紅に染めあげてゆく。影が月もない暗い空を見上げるとその喉を震わせた。低く、高く、地を這い闇を震わせる遠吠えに応えるモノはいない。

 血煙で霞んだ眼には、積み重なった屍の下の小さな手は映らなかった。


     ❀


「──こうして俺は狗神となった」


 気がつくと、俺は独り、ずっとあの子を探していた。何もわからず、何も思い出せなかった。目を瞑れば、独りぼっちで震えながら俺を待つ少女の姿だけが瞼の奥に浮かぶ。この薄汚れた暗い世界で、俺は、あの子を守り、救い、自由にしてやりたかった。

 身を焦がす暗い怒りと怨みに縛られたまま、永い時を独り彷徨い続けた──


 狗神が静かな眼差しを煉に向けた。

「俺の前に立ったお前の姿を見て、ようやく全てを思い出した。俺が守ろうとした少女も、俺の前に立ち、俺を守って死んだ」


「あの子はもうどこにもいない……」

 狼の暗い吐息が夜の闇に溶け、消えた。


「……お願いだよ、食べないと死んじゃうよ」

 俯いた煉が掠れた声で囁いた。倦み疲れたように闇を見つめていた赤い狼がゆっくりと振り返り、煉の濡れた頬をそっと舐めた。

「……最早成すべき事も無く、お前を喰ってまで此の世に在りたいとは思わぬ」


 長い秋の夜が白々と明け始めた時、ふと頭をもたげた狼が囁いた。

「……煉、ひとつ頼みがある」



     10


 煉が谷底から水を汲んだ桶を運び、大きな盥に湯を沸かす。そしてその湯で懸命に狗神の躰を洗う。しかし幾度洗い流しても、赤黒い水は流れ続け、毛の色が変わることはない。煉が再び谷底へ水を汲みに降りた。集まった物の怪達が水運びを手伝う。狗神の躰を洗うのを手伝おうとした小鬼を煉がそっと止めた。

「ありがとう、でもダメだよ。とても古いヒトの血だから。深い恨みや怒りが残ってて、君達には毒だから」

 三度(みたび)水を汲みに行こうと桶を担いで顔を上げると、泪が木陰に立っていた。

「……そんな水ではいくら洗っても無駄だよ」

 泪がむっつりした顔で近付くと、指の一振りで盥になみなみと水を張った。煉の炎で温められた泪の水で洗われて、やがて狗神の躰に透明な輝きが少しづつ戻ってきた。


「煉、もうこれ以上は無理だと思うよ」

 日が暮れかけた頃、泪が煉に声をかけた。狗神の毛皮は見違える程色が薄くなったが、しかし雪の白さには程遠い。

「もうちょっとだけ……」

 狗神の躰を布で擦ろうとした煉の手を泪がそっと抑えた。古い血の毒に当てられたのか、煉の両腕は赤く腫れ、爛れて血が滲んでいた。

「泪の言う通りだよ」

 夕霧の中から桐刄が姿を現した。

「ソレは永い刻を深い怨嗟と共に生きてきたんだ。如何に泪の水をもってしても、全てを洗い流すことは出来ない」

 でもね、と言って桐刄が優しく微笑んだ。

「でも、とても綺麗になったと思うよ」



   エピローグ


 岩山の頂で、沈む夕陽を見つめる狼が掠れた声で俺に問うた。

「……死んだモノは何処にいくのだ?」


 わからない、と俺は答えた。でもきっと、と俺は言った。

 でもきっと、ヒトも獣も鬼も、逝きつく処は同じだよ。


 そうか、と呟き狼が霞んだ眼で己の躯を見た。

「あの子は、俺を見分けることができると思うか……?」

 震えそうになる唇を噛み締め、狼の肩に顔をうずめると、俺はその耳許にそっと囁いた。

「……大丈夫だよ、シロ」


 地平線に陽が沈み、ふたつの動かぬ影に夜の帳が下りる。


(END)

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