目隠し鬼(六)
12
時折、いつも一緒に遊んでいる子供達の姿が一斉に消えることがあった。そんな日はひどくつまらなくて、自分だけのけ者にされたように寂しくて、不貞腐れたような心持ちになった。翌日何事もなかったかのように庭に集まってきた子供達に、昨日はどこに行っていたのかと詰問するような口調で訊ねると、彼らは眉毛を八の字に曲げて頭をぼりぼりと掻いた。
「そんなに怒らんでも、ちいとばかし山に行ってただけじゃが」
次は俺も連れて行けと言うと、子供達はひどく困った様子で顔を見合わせて口籠った。煮え切らない彼らの態度がなんだか悔しくて、思わず苛立った時だった。
「ヒロはだめだ」
ひどく不機嫌な声が辺りに響き渡った。驚いて空を見上げると、高い杉の木の枝に腰掛けた小柄な少年と目が合った。まるで木洩れ陽で描いたかのように、少年の目元はエメラルドグリーンの不思議な模様で縁取られている。
「まぁそうカリカリするなや、セン。そんなふうに頭ごなしに言うたら、ヒロだってびっくりするじゃろうが」
相撲好きの少年がとりなすように言うと、センと呼ばれた少年はふんと鼻を鳴らし、俺をジロリと睨んだ。
「いくら駄々をこねても無駄だ。おまえを山に連れて行くわけにはいかん」
ハリのある澄んだ声でそう言い放つと、少年はプイとそっぽを向いて木から飛び降り、あっという間にどこかへ行ってしまった。
❀
夏休みだというのに特にやることもなく、家でごろごろしているうちに瞬く間に十日ほどが過ぎた。裕貴の何がそんなに気に入ったのか、おかっぱ頭は風呂とトイレ以外は金魚のフンのように裕貴の後をついてまわっているが、それも慣れればどうということもない。りんは基本的に無口で、放っておけばクーラーの前に取り付けた風鈴を何時間でもぼうっと眺めていたりする。ただコイツの菓子代だけは馬鹿にならず、こんなに暇ならバイトでも始めようかと思う反面、勝手に家に転がり込んできた人外の食欲を満たすためにこっちが汗水垂らして働くというのもなにやら癪だった。
あの日結局、顧問に渡されることなくクシャクシャに折り畳まれた紙切れは、屑入れに放り込まれることもなく、参考書や雑誌が乱雑に積まれた机の片隅に捨て置かれたまま、静かに存在感を放っている。その無言の圧力に耐えかねて、裕貴は暑さも真っ盛りのある午後、野球帽を掴んで逃げるように家を出た。
「お、久々の外出か」
所在無さげに冷蔵庫の中身を物色していたりんが、慌てて草履をつっかけ、いそいそと自転車の荷台にまたがる。
「こんびにか? まんがきっさか? りんはからおけでも良いぞ」
「金ねーよ」
「なんと、ヒロは手元不如意か。ナオに借りればよいではないか?」
「弟に小遣いせびる兄貴がどこにいるんだよ。そもそもあいつに金なんか貸りたら、すげえ利子取られそうでこえーし」
「ならばヒロもナオに倣って株とやらを始めればよいではないか?」
「か、カブ?!」
うんとこしょー、どっこいしょー、という掛け声と共に大きなカブを引っ張るおじいさんとおばあさんの姿が一瞬目に浮かぶ。
「ふむ。利率は低いがりすくの少ない優良株でじっくりと稼ぎ、万が一失っても我慢できるくらいの金額ではいりすく・はいりたーんな株をこまめに売り買いするんだと。通帳とやらの数字に丸が増えるのを眺めて楽しむのがやつの趣味らしいぞ。ヒトの嗜好をどうこう言うつもりはないが、しかしアレもなかなか変わっておるの。さすがヒロの弟、血は争えんの」
「そこでナニをドウしたら俺とあいつの血の繋がりを感じられるのか、まじでわかんねーわ」
不意に響いた鋭い笛の音に、思わずペダルを漕ぐ足を止めた。
……無意識とは恐ろしい。一体いつの間にここまで来てしまったのか。素早く周囲を見回して誰もいないことを確かめ、しかし念のために野球帽を深く被りなおす。そうして木の陰からグラウンドを覗きつつ、これじゃどこからどう見ても単なる不審者だよな、と我ながら苦笑が漏れた。
コンマ一秒速く走るために、一ミリ高く飛ぶために、その先にあるはずの世界を掴むために、かつての仲間が無心に汗を流す。絶え間なく降りしきる蝉時雨が自分と彼等の世界を隔てる。つい最近まで自分もそこにいたことが嘘のように彼等の姿が遠くて、ヒリヒリと火傷したように胸の内が痛み、けれども縛られたように身体が動かず、目を背けることも出来ず、それは、とても、とても――
「寂しくなんかない」
思わず瞑った眼の奥で、少女が傲然と言い放った。綺麗に切り揃えられた前髪の陰で、勝気な瞳がひかる。
「あいつらはあたしの大切な仲間だけど、でもそれとこれは違う。あたしは山になんか行かない」
あれは誰だったのだろう。月の無い夜、足元を照らす明かりひとつない暗い田んぼの畦道で、藍色の着物を着た彼女の横顔だけがほろほろと零れるような燐光を放ち、闇に浮いて見えた。
「あたしたち一族は、最期の瞬間まで生命の火を燃やし続け、そして死ぬ。なにかを犠牲にしてまで此の世に在り続け、燻るように生き永らえようとは思わない。たとえ明日死んでも、後悔なんてしない。死んで未練が残るような、そんなつまらない生き方はしてこなかった。だからあたしは山になんか行かないし、それを寂しいなんて思わない」
それがあたしたち一族の矜持だから。そう言い切って笑う彼女に、そんなのは嫌だと言いかけて、俺は唇を噛んだ。彼女にそんなことを言えば、オトコらしくないと呆れられるかも知れない。明日死んでも後悔しないなんて、そんな生き方は自分にはできない。けれども今この瞬間、俺にとって最も切実なのは、彼女が、みんなが、ある日突然俺の前から消えてしまうかも知れないということ――
「ヒロはもう飛ばんのか?」
鈴のように澄んでよく通る声に我に返った。暑さにヤられたのだろうか。白昼夢でもみたかのように頭がクラクラして、隣に立つりんの横顔に見知らぬ少女の面影が重なり、チラチラと瞬き、消えた。
「飛ばない豚はただの豚だ」
無表情にグランドを眺めていたりんがボソリと呟いた。どこかで聞いたことのあるその台詞に妙に痛いところを突かれ、思わず息を呑んだ裕貴をりんが上目遣いにチラリと見遣った。
「紅い飛行機に乗った豚のセリフだ。しかしりんは羽のある豚に会ったことはついぞない。わけのわからんことを言う豚だ」
「え? いや、まぁ……」
「それはきっと、羽の有る無しじゃなくて、生き方の問題だと思うよ」
背後からかけられた声に、飛び上がるほど驚く。
「飛ぶことを選ぶか、飛ばないことを選ぶか。『飛ぶ』というのは単なる喩えで、大切なのは自ら生き方を選ぶこと。その選択が、良くも悪くも自分が何者であるかを決める」
狐を肩に乗せた少年が艶やかな黒髪をかきあげ、夏の日差しに眼を細めるようにして微笑んだ。
13
ヒロ、と誰かが俺を呼んだ。
白いワンピースがカゲロウの羽のように頼りなくゆらゆらと揺れ、音も無く昏い水に沈む。一瞬の間をおいて、それがあの子だと気付いた。助けを求めて幾度も叫ぼうとしたが、喉が詰まったように声が出ない。懸命に手を伸ばしたが、夕闇に鈍くひかる水はひどく深く、冷たく、沈んでゆく白い指先を掴むことは出来なかった。
ヒロ、と誰かが俺の体を揺さぶる。
泣きながら夕暮れの縁側で目覚めると、小柄な少年が自分を見下ろしていた。目元のエメラルドグリーンの模様が夕闇にぼんやりと浮かび上がる。
「夢をみたな」と少年が呟いた。
あんなのはホントウじゃない、ただの悪い夢なのだと俺がしゃくりあげながら訴えると、少年は硬い表情で口許を引き締め、俺から目を逸らせた。
俺たちはいつかみんないなくなる、と少年は言った。
「強いモノも、弱いモノも、すべてのモノはいつか空に還る。そうやって命は巡りつづける。それは誰にも変えることのできない此の世の理なんだ」
少年の声は、寂しげで、けれどもどこか凛として、茜色の空に不思議なほどよく響いた。けれども俺は、そんな少年の声に耳を塞ぎ、昏い夢の残り香を振り払おうと、唯ひたすら首を横に振りつづけた。
……その数日後、水から引き上げられた動かぬ白い腕を見たのは、あれも悪い夢の続きだったのだろうか。
❀
鋭い笛の音に負けじと、誰かが大声で指示を出す。踏み切りのタイミングが良くない。足が当たったのか、バーが落ちる。ホースの水飛沫と、投げられたタオルの白さが目に沁みる。
退部届を出すか、部に戻るか、さっさとケジメをつけるべきだと頭では分かっているが、この暑さのせいか、どうにも億劫で身体が動かない。その癖、ふと気がつくと木陰に隠れるようにしてぼんやりとグラウンドを眺めている。裕貴が練習を見に来ていることなどチームメイト達はとっくに気付いているだろうが、今の所は見て見ぬ振りをして、そっとしておいてくれている。そんな彼らの優しさに甘えてはいけないと思うものの、とにかく身体が怠くて、何かを考えることすら億劫だった。そんな裕貴の気分を反映したのか、それとも単に夏バテか、りんも最近食欲が落ちている。
「元気ないじゃん。なんか背中に哀愁……っていうか加齢臭漂ってるけど、夏バテ?」
生意気な声に振り返ると、猫のように眦が切れ上がった眼を細めるようにして、煉が笑っていた。
「なんか最近蒸し暑いせいか、眠りが浅いっつうか、夢見が悪いっつうか……寝ても寝ても疲れが取れなくってさ」
「ふうん」
コンビニの袋から少しぬるくなったコーラを取り出し、隣に座った煉に手渡してやる。どうも、と軽く礼を言ってプルタブを開ける少年の横顔は、僅かに汗ばんでいる程度で夏バテとは縁が無さそうだった。
「なに? ヒトの顔ジロジロ見て」
「え、いや、なんつーか、お前を見てると懐かしい感じがするんだよな。よく憶えてないんだけど、ガキの頃さ、お前とよく似た感じの友達と遊んだ気がする。顔とかじゃなくて、その、雰囲気とかがさ」
喉を仰け反らすようにしてコーラを飲みつつ、煉がチラリと横目で裕貴を見遣った。
「でもそいつらが本当にニンゲンだったのか、それともりんみたいなモノだったのかもよくわかんねぇし、探そうにも名前も憶えてないんだ。いつの間にか一緒に遊ばなくなって、でもそれになんかキッカケがあったのかすら思い出せないんだよな」
「……子供の頃の記憶なんてそんなもんだよ。夢と現実がごちゃ混ぜになって、なにが真実だったかなんて、今となっては知るすべも無い」
そんなことよりさ、と言って、煉がグラウンドを指差した。
「あんたってハイジャンプでは結構有名らしいじゃん。こんなとこで寝っ転がってるヒマがあったら、ちょっとあのバー跳んでみせてよ」
「簡単に言ってくれるね」苦笑と共に見上げた空は青く、果てし無く遠い。「俺は……飛ばないんじゃなくって、飛べねえんだよ」
ハイジャンプというものを知ったあの日から、数え切れないほど幾度もあの空に向かって手を伸ばしてきた。己という小さな存在が、果てしない蒼色に吸い込まれ、ひとつになる。人々の歓声もチームメイト達の声援も、自分の心音すら遠のき、時間が止まる。それは本当に瞬きするほどの一瞬のことで、裕貴はいつもその瞬間が永遠に続けばいいのにと思っていた。
「怪我が痛むのか?」
りんが小首を傾げ、気遣うようにそっと裕貴の膝に手を触れた。
「いや、そうじゃなくって……」
心配気に自分を見上げるおかっぱ頭から戸惑うように目を逸らせた裕貴を、煉が無言で見つめる。煉は子供の癖に妙に老成していて、相手を見透かすような視線はひどく居心地が悪く、なのになぜか不意に、全てを吐き出したいという衝動に駆られた。
「……他校のヤツでさ、中坊の頃からハイジャンプで有名なヤツがいて。ライバルっつーの? 最近はずっとそいつと俺の記録争いが続いてたんだ。でもそいつ、すっげー嫌なヤツでさ。プライドが高くて、イヤミで、『跳べない人間に価値はない』とか本気で言っちゃうようなヤツで、俺とは絶対ソリが合わないタイプで、大会でそいつの顔を見るたびにイライラしてた。中学の後輩がそいつと同じ高校に入ったんだけど、多分俺の後輩って知られたせいですっげえイヤガラセされたらしくって、結局陸上やめちまってさ。
言い訳するわけじゃないけど、でもそのせいもあって、春の大会でヤツの顔色が妙に悪いのを見た時、俺、『ざまあみやがれ』って思ったんだ。案の定ヤツが散々な結果を出すのを見て、体調管理に失敗するなんて二流もいいとこだな、ってわざと聞こえるように言って、みんなで嘲笑った。すげえ気分が良かった。その大会で、俺は大会新記録で優勝した」
皮肉な笑みに口を歪め、裕貴が眼を瞑った。
「そいつさ、大会の前日に、飼ってた犬が交通事故で死んだんだって」
……吐き気がする。あの日、自分が浮かべていたであろう得意げな笑みを想像するたびに、腹の内で醜い虫が自分を嗤う。
「あいつが嫌なヤローだってことに変わりはない。でもあいつは死んだ飼い犬のために一晩中泣いて、ボロボロのまま黙って試合に出てくるようなヤツだったんだ。なのに俺は知らなかったとは言え、そんなあいつを見て『ざまあみやがれ』って思った。ライバルが自滅したのを見て、本気で喜んだ。そう気付いた途端に跳べなくなった」
「つまり自己嫌悪で跳べなくなったんだ?」
煉がつまらなそうに肩を竦めた。
「そんなに気にすることないんじゃないの? 事情を知らなかったわけだしさ、嫌いな奴の成功を妬み、失敗を嗤う。ニンゲンならそれくらいの感情、当たり前だよ」
「煉、おまえってガキの癖に冷めてるのな」
ははっと小さく笑って裕貴が空を見上げた。
「俺もさ、こんなことで落ち込むなんてらしくないって自分で自分に言い聞かせたり、ぐずぐず考えるくらいならあいつに一言謝るべきじゃないかとか、これでも色々考えたんだよ。でも駄目なんだ。そんな自己満足としか言えないような謝罪で自分の気が晴れるとは思えないし、そもそもあいつだって、俺に謝られたって気分悪いだけだろうしさ」
幾度も考えた。自分は一体いつからこんな厭な人間に成り下がったのだろう。他者の悲しみに気づこうとせず、隠された心を土足で踏みにじる。大袈裟だ、と人は笑う。知らなかったのだから仕方がない、と口先ばかりの慰めを言う。けれども本当にそうだろうか。知らなければ許されるのか。知らなければ、知ろうとさえしなければ、責任はないのか。罪に問われることはないのか。
「で、今まで生きてきて一番ってくらい真剣に考えて、ひとつだけわかったことがある。俺が跳べなくなったのは、自己嫌悪のせいなんかじゃない。あいつのことは単なるキッカケで、俺は自分が何の為に飛ぼうとしていたのかが分からなくなったんだ」
頭上に広がるあの澄んだ青色の向こうに、自分は何を求めていたのだろう。今まで一体何の為に、ひとの心すら忘れるほどに無我夢中になってきたのだろう。無機質なバーが視界を遮り、その向う側に在る筈のものが見えない。
「飛ぶ理由が無いから、俺は跳べない。ただそれだけのことだった。それでも一応エースとしての責任とかチームの事とか考えて勝手に焦って、馬鹿みたいに無理な練習までしてさ、そりゃあ怪我もするよな。疲労骨折とか、らしくねぇだろ? そのせいで益々チームに迷惑かけてさぁ」
もうマジで立つ瀬もねーよ、と笑い、ごろりと草むらに寝転がる。
ヒトは誰もずっとおなじではいられない、と囁いた少女の白いワンピースが不意に瞼の裏を過った。ヒロが変わってしまっても、わたしたちは、そんなあなたを愛しつづける――
「……そうか。ヒロはもう飛ばんのか」
足元の小石をこつりと蹴って、りんが呟いた。
「コウが寂しがるの。それでも、センの言うた通りになったの。『ヒロはばかの癖に考えようとするから、いつか自滅する』とセンはよく言うてた」
何を訳のわからないことを、と言いかけた瞬間、ずきりと目の奥に痛みが走った。
「りん……コウって……センって誰だ?」
「おまえ、コウとセンを忘れたのか? 薄情な奴だな」
「え、いや、忘れたわけじゃなくて、そうじゃなくて……」
なぜだろう。いくら思い出そうとしても、浮かぶのはボンヤリと不鮮明な面影ばかりで、はっきりとした事は何一つ思い出せない。
おまえの目ぇはよく見えすぎる。
遠い記憶の底で、誰かが嗤った。
(To be continued)




