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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
107/123

目隠し鬼(五)

      9



 ヒロ、と唄うような抑揚で俺の名を呼び、振り返った少女が微笑んだ。

「ヒトって矛盾しているの」

 茜色から菫色へ、刻一刻と変わる夕風に長い髪が靡く。

「『永遠』って言葉が好きなくせに、決して手に掴むことのできない儚さを愛でるのよ」


 あれは、祖母に頼まれて夕飯の豆腐と醤油を買いに行った帰り道のことだったか。ひと気のない橋の中程に立つ見知らぬ少女の姿に、裕貴は思わず足を止めた。

 薄いワンピースが透明な翅のように風に揺れる。沈む夕陽にきらきらと輝く川面を見つめる少女の横顔はどこか寂しげで、抜けるように白い肌と細い手足が見る者を不安にさせるほどに儚げで、唯ひたすらに綺麗だった。


 わたしたちは儚い、と囁く甘い吐息に、指先が痺れた。

「わたしたちは誰も、永遠におなじで在りつづけることは叶わない。時の流れと共に、全てのモノは変わりつづける」

 でも大丈夫よ、と少女が目を細めた。

「ヒロが変わってしまっても、わたしたちは皆きっと、そんなあなたを愛しつづけるから――」



      ❀



 ……最近よく夢をみる。遠い記憶の断片のようなその夢は仄かに懐かしく、夏の夕暮れのようにどこか切なく、目覚めるたびに胸の奥に微かな苦みを残した。

 犬のようにぶるりと頭を振って夢の残り香を追い払い、ひとつ伸びをする。漫画喫茶から帰るなりベッドに倒れこみ、起きたらすでに夕方だった。むっとした熱気がこもる部屋のどこにもおかっぱ頭は見当たらない。もしや現れた時のようにひょいと消えてくれたのでは……という甘い期待を裏切り、艶やかなおかっぱ頭はリビングルームのソファーにちょこんと腰掛け、喰い入るように裕貴のパソコンを見詰めていた。

「そんな真剣な顔して、ナニ観てんの……? ってなんだよソレ?!」

 青いナメクジに無数の脚が生えたような不気味な生き物が(うごめ)く動画に思わず息を呑む。

「うむ、コヤツはカギムシというイキモノなのだ。ナオが教えてくれた」

「……鉤虫。唯一現生する有爪動物で、熱帯地に分布。生きた化石と呼ばれ、脚先には名前の由来となるカギ爪を持つ」

 ダイニングテーブルに広げた参考書から顔も上げぬまま、直貴がボソボソと解説する。実の兄を家から閉め出すほど怒っていた癖に、わざわざりんに動画を見せるとは一体どういう風の吹き回しか。

「ヒロよ、おどろくにはまだ早いぞ。ここからがコヤツの凄まじいところなのだ」

 ケーキでも食べたのだろうか。生クリームで汚れた唇をグイッと拭い、開き切った瞳孔でりんが画面を指差した。その微かに震える指先で、獲物を見つけたらしいカギムシがのそりと半身を起こす。頭の先端にあるイボのような器官がヒクヒクと動いたかと思うと、透明な粘液がしなる鞭のように噴き出し、獲物に襲いかかった。ねばつく粘液に絡みとられ、必死にもがく虫。声にならぬ悲鳴が聞こえるようだ。そんな憐れな獲物に舌舐めずりするようにゆっくりと近付いてくる毒々しく青いカギムシ……。

「こ、こんなキモイもん俺のパソコンで観てんじゃねーよッ」

 あまりのおぞましさに悲鳴を上げて後退る。

「ったく、まじ勘弁してくれよ! ってかナオもこんなもん子供にみせるとか、嫌がらせにしても趣味悪過ぎだろ?!」

「……趣味が悪いとか、ヒロ兄にだけは言われたくない」

「あぁ? 俺のどこが趣味悪いんだよ? 俺は昨日漫画喫茶でコイツにナウシカを借りてやったんだぞ?」

「うむ、確かにあの『おうむ殿』とやらはなかなかの迫力の持ち主だったな。このカギムシなる輩が日ノ本を侵略してきた際には、ぜひともおうむ殿に相談せねばならぬな。ヒロ、おうむ殿はこの近所にお住まいか?」

「幸か不幸かうちの近所に腐海はない。だがまぁ安心しろ。こんなキモイ虫が日本侵略とかありえねぇからさ」

「……カギムシはマニアの間では最近人気急上昇中だよ。頼めば隣町のペットショップでも手に入るよ」

「なんと! 隣町といえばすぐそこではないか。カギムシめ、侮れんやつだ……!」

「ナオ、てめぇ余計なことばっかり言うなって! りんもちょっと落ち着けよ」

 カギムシによる日本侵略の恐怖に蒼ざめるオカッパ頭をまぁまぁと宥める。そうしつつも、いざとなったら家にカギムシが襲撃してきたとか言えばコイツを追い出すことが可能なのでは……などとチラリと頭の隅で考えてしまった裕貴を責めることなど、一体誰に出来ようか。

「これが落ち着いてなんぞいられるか! ヤツが来たらりんはあのねばねばでぐるぐる巻きにされて喰われてしまうのだぞ! コウゲキはサイダイのボウギョナリ! ヤられる前に()ってやる! ナオ、ヒロ、おくれをとるな!」

「なにが殺ってやる、だよ?! おまえ、糖分の取りすぎでコーフンしてんじゃないだろうな?!」

 何やら突然ソファーの上で仁王立ちになりフォークを振り回し始めた童女の手から、慌てて凶器を奪う。

「ったく、そんなキモイもん観てたら、夜中にトイレ行けなくなるぞ? 寝ションベンとかされたらコッチがメーワクなんだからな」

 食い散らかされた菓子の残骸にウンザリとしつつ、リビングルームの棚の奥からアニメのDVDを引っ張り出す。

「俺様の秘蔵ハヤオコレクションを貸してやるから、これを観ておまえはナオと二人で情緒とニンゲン性ってもんを養っとけ」

「……ヒロは一緒にみないのか?」

「俺はちょっと行くとこがあるんだよ」

「どこにいくんだ?」

「どこって別に……面白いとこじゃねーよ」

「どこにいくんだ?」

 黙って立ち上がった裕貴のシャツの裾を小さな手が握る。

「……どこにいくんだ?」

「うるせーな、学校だよッ」

 寝不足が祟ったか。思わずイラッとして裕貴が声を荒げると、おかっぱ頭が紅いおちょぼ口をへの字に曲げた。

「……そういちいち睨むなって。部活の顧問のとこにちょっと顔出してくるだけだからさ、すぐ帰ってくるから、ついてくんじゃねぇぞ」

 恨みがましげな糸目に透明な雫が盛り上がる前に慌てて玄関を出て、自転車に跨った。



      10



 ねっとりと暑苦しい夏の夕暮れの空気のせいか。軽さとスピードが自慢の筈のロードバイクがやけに重く、ペダルを漕ぐ脚が鈍く痛んだ。

「……ってか、さすがに運動不足だよな、やっぱ」

 ペダルが重いのは、ポケットに突っ込まれた一枚の紙切れのせいかも知れない。このクシャクシャに折り畳まれた紙を渡したら、顧問は何と言うだろうか。引き留められるだろうか。黙って受け取ってくれるだろうか。諦めたように肩をすくめるのか。まだ若いのだからと、取って付けたような笑みを浮かべるのだろうか。下手に慰められるよりは、ダメな奴だと蔑むような眼で見られる方がまだマシかも知れない。

 ……そう。誰かが罵ってくれれば、自分はきっと、自由になる。自由になって、解き放たれて、罪悪感に悩まされることなく、全てを忘れることができる――

 赤信号で隣に止まった車のサイドミラーをふと何気無く覗いた瞬間、驚きで心臓が止まりかけた。

「おまっ! 一体何やってんだよ?! アブねーだろうがッ」

 背後霊よろしく裕貴の背中にぶら下がったおかっぱ頭が、悪びれる様子もなくツンとあごをそらす。

「りんも学校にいく」

「学校に行くって、今は夏休みなんだよ! ちょっと部活の顧問のところに行くだけだって言っただろ?!」

「りんもいく」

「……おまえ、マジでなんなんだよ?」

 一体何が悲しくて目付きの悪い童女なんぞにストーカーされねばならぬのか。脱力気味な溜息と共に自転車を降り、背中に張り付いていたおかっぱ頭をサドルに座らせる。ハンドルを押して元来た道を引き返す裕貴を見て、りんが首を傾げた。

「学校とやらにはいかんのか?」

「……なんか気分じゃなくなった。今日はもう家に帰って寝る」

「なんと、そうは言っても今日は一日中寝ておったではないか。ヒロは少し寝すぎではないか?」

「……疲れてんだよ」おまえのせいでな、と言う一言を必死で飲み込む。

「そろそろ夕飯の時刻だの」

 裕貴のわざとらしい溜息などどこ吹く風といった様子で、辺りに漂う煮物の匂いにりんが小さな鼻をヒクヒクと蠢かせた。

「あんだけ菓子食っといて、まだ腹空いてんのかよ?」

「なんだ、ヒロだけけーきを食い損ねたのを根に持っているのか? しかたない。家に帰ったら、ヒロのハヤオこれくしょんとやらを一緒にみてやってもいいぞ」

「おまえってなんでイチイチ上から目線なわけ?」

「それともめんなし鬼がいいか?」

「めんなし鬼?」


 おーにさーん こーちらー

 てーのなーる ほーうえー


 高く澄んだ声が夕風に響く。思わず息を呑んだ裕貴を見て、りんがクスクスと笑った。

「知っているか、ヒロ。めんなし鬼の目は、鬼に喰われた。だから他の子を捕まえてその目を喰うまでは、めんなし鬼は目が見えんのだ」


 おまえの目ぇはよく見えすぎる。


 誰かの吐息のような生温かい風がぬるりと首すじを舐めた。何やらぞっとして辺りを見回したが、茜雲を見上げてふんふんと機嫌良さげに鼻唄を歌うりんがいるだけだった。

「ヒロ、おまえ、ヤスヒコの見舞いには行かんのか?」

「……おまえ、いきなり話題が変わるな」

「ヤスヒコはヒロの家族だろうが。いきなりということはない」

 りんの理屈はよく分からないが、まぁ人外的存在らしいから仕方無いのだろう。妙な生温かさの残る首すじを腕で拭い、裕貴が肩を竦めた。

「じいちゃんの事はまぁ、母さんが付き切りで病院にいるわけだし、俺なんかが行ったって役に立たないしさ。じいちゃんだって気を遣うだけだろ?」

「冷たいヤツだな」

「は? 冷たいって、俺、別にじいちゃんと特に親しいわけじゃないし。ってか子供の頃はよく田舎に遊びに行ってたけど、中学くらいからはずっと疎遠で、そもそもじいちゃんに可愛がられた記憶ってのがないし……」

「馬鹿なヤツだ」

 紅い口を尖らせ、吐き捨てるようにりんが言った。

「ヤスヒコはいつもおまえの身を案じていたというのに、ヒロは恩知らずだの」

「恩知らずってなんだよ? ってかさ、そもそもおまえってなんで俺のじいちゃんの事情にいちいち詳しいわけ? ほら、なんつーの? あの、じいちゃんの……趣味のコトとかさ」

「ヤスヒコのことなら、あれの母親が嫁にきた頃から知っている」

「あれの母親って、つまり俺のひいばあちゃんってこと?」

 不意に閃く。コイツ、もしや祖父の家に憑いた座敷ワラシ的なモノなのではあるまいか。思い返せば、コイツが部屋に現れたのは田舎から帰ってきた日の夜だった。つまりあの家に棲んでいた座敷童が、何かの拍子に自分に憑いて来てしまったのだと考えれば、色々と納得がいく。座敷童と言えば確か、憑いた家に繁栄をもたらすとかナントカ……。

「……あ、れんだ」

「え?」

 りんが何事か呟くと、不意にぴょんとサドルから飛び降り、いきなり車道の真ん中へ駆け出した。

「ば……ッ! アブネッ」

 自転車を投げ捨てるようにして咄嗟に車道に飛び込み、りんを小脇に抱えて向い側の歩行者道へ転がり込む。危機一髪。盛大にクラクションを鳴らしつつ小型トラックが走り去る。

「おまっ、なに考えてんだよ?!」

 道端に膝をついたまま声を荒げる裕貴を、りんがきょとんとした顔で見上げた。パッと見た感じではりんに怪我はないようだが、裕貴の方はりんをかばって転がった拍子に肩を打ったらしく、腕が痺れている。後先考えずに思わず助けてしまったが、コイツが来てから良いことなんてひとつもない。幸福を呼ぶ座敷童というより、疫病神の類いかも知れない。

「うわー、まさに危機一髪って感じだったねぇ。ってかさ、あの場面であれだけ身体が動くって、あんた見た目によらず、意外にスゴイ反射神経してるね」

 聞き覚えのある声に顔を上げると、昨夜の少年が感心したように裕貴を見下ろしていた。



      11



 腕が痺れて自転車が押せないと訴えると(嘘だけど)、煉と名乗る少年は不承不承といった態でりんと裕貴を家まで送ってくれた。

「せっかくここまで来たんだしさ、夕飯食っていけよ。姉貴も帰って来たみたいだしさ、うちの姉貴って口は悪いけど料理は結構上手いんだ。まぁ遠慮するなって」

 逃してなるものかと少年の腕をむんずと掴み、無理矢理家に上げる。直貴は煉を見ても僅かに肩を竦めただけで顔色ひとつ変えなかったが、裕貴の友人というにはあまりに歳の違う少年を見た姉は、「あら」と少し驚いたように首を傾げた。

「自転車で転んだところを助けて貰った」と説明すると、「それって普通は逆でしょ? あんたも陸上なんてやってたわりには、昔から鈍いところあるわよね」などと聞き捨てならないことを言いつつも、姉はいそいそと少年の分の皿を食卓に並べた。しかし少年の隣に立つりんに気付く様子は全くなかった。




「煉、おまえってさ、りんと知り合いなんだよな?」

 食事を終えた姉が二階に上がったのを見計らい、早速本題に入る。

「いや別に? 特に面識はないけど、俺って有名人だからね。あの子が俺のことを知ってても別に不思議はないんじゃない?」

 有名人、という事は、やはりこの少年はニンゲンということだろうか。ルックス的には小生意気なだけで確かにその辺の小学生と変わりないが、しかしそれを言うならりんだってやや目付きが悪いくらいで、それ以外はわりと普通だ。ソファーにちょこんと座って真剣にアニメを観る姿は微笑ましいとさえ言える。

「じゃあズバリ聞くけど、りんの正体って何?」

「りんは……」

 何か言いかけた煉が、ふと口を噤んだ。

「……あんたはそれを聞いてどうするの?」

「どうするって、そりゃりんの正体によるだろ? 座敷童的なモノならまだしも、疫病神とかだったらやっぱ出てって貰わないとさ」

「りんは座敷童でも疫病神でもないよ。良くも悪くも、あの子はそんなに力のあるモノじゃないから、心配する必要はない」

「心配ないって言われてもなぁ。まぁ、ユミ姉にはりんは視えてないみたいだけどさ」

「……ユミ姉は視えない。でも気配くらいは感じてると思う。だから、ユミ姉は昔からあの家が苦手なんだ」

 それまで無言で食器を洗っていた直貴が不意に振り返った。

「あの家って?」

「……田舎の……おじいちゃん達の家」

 祖父の家を片付けに行ったあの夜、何かに異様に怯えて部屋に飛び込んできた姉を思い出す。

「……あの家には、その、りんちゃんみたいな感じのモノが沢山いたから」

「ナオ、おまえってあの家に人外的なもんが蔓延(はびこ)ってるって知ってて田舎に行ってたのかよ? スゲーな。ってか、ニンゲンと人外の区別ってどうやってつけてんの?」

「それは……多分、僕の霊感がヒロ兄ほど良くはないから……」

「え? そうなん? でも視えてるんだろ?」

「……うん。でも、ヒロ兄はこちら側のモノとあちら側のモノの区別がつかないくらいハッキリ視えてるんじゃないかな。僕には、あちら側のモノは輪郭が少しだけぼやけて視えるんだ。あと……」

「あと?」

「……多分、同じモノを見ていても、僕の眼に映るモノと、ヒロ兄の眼に映るモノでは、形が違っているんじゃないかと思う」

「は? どういう意味?」

「うん……あのさ、ヒロ兄には、りんちゃんって何に見える?」

「何って、普通の子供だろ? 青い花柄の浴衣姿で、オカッパ頭で、七〜八歳の、年の割には妙に目付きの悪いチビだな。お前にはどう見えるわけ?」

「……僕には、りんちゃんは黒っぽくみえる」

 直貴が僅かに言い淀んだ。

「……黒っぽい羽があって……」

「羽? おお、それって天使の羽根的なヤツ?」

「ううん。そうじゃなくて……もっと薄くて、でも硬そうな脈があって……細くて節のある脚があって……あと長い触覚と……」

「しょ、触覚?!」

 黒い羽と脚、触覚とくれば行き着く先は唯一つ。思わずゴクリと喉を鳴らす。

「お前……まさか」

「……うん。僕には、りんちゃんは巨大なゴ……虫にみえる」

 りんが初めて部屋に現れたあの日、ドアを開けた直貴がドン引きしていた理由が今明らかになった。巨大な黒いゴ……虫が自室の暗闇の中でボリボリと菓子を貪る姿を想像して、一瞬気が遠くなる。そんな裕貴を見て、煉がニヤニヤと笑った。

「煉……おまえにはりんはどう見える?」

「俺? 俺にはあの子は蕾にみえる」

「つぼみ? つぼみって、花の蕾?」

「うん、そう」

 テレビに夢中のおかっぱ頭を見つめ、ふと優しげに眼を細めた煉が頷いた。

「……秋風と共に咲いて、そして時を待たずに散ってしまう青い花の蕾だよ」

 



(To be continued)

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